きみのとなり
 玄関の鍵を開ける音に、卓上の紙を睨んでいた顔を上げる。
 お仕事の、テナントの壁面に描くイラスト案が、ちょっと行き詰まっていたので、帰って来た旦那様に慰めて貰おうと、玄関までお出迎え。
 今日は何やら会議があるとかで遅くなると言っていたけれど、まさか二十二時過ぎの帰宅になるとは思っていなかったので、ちょっと寂しかったのもある。双子ちゃんの世話を一人でしたりとか、頑張ったんだよ、って褒めてもらおうっていうのも、ある。
「お帰りー」
 自分でも、随分気の抜けた声が出てるな、とか思いつつ、若の背に、おかえりという当たり前の幸せに、何となく笑う。
 鍵を閉めてチェーンロックをかけた若が、無言でくるりと私を振り向いた。
 あれ? ただいまって言わないのかな。珍しい。機嫌悪いのかな。具合悪いのかな。
 不思議に思って若を見上げると。
「――ぇ、え?」
 彼、いきなり人のパジャマのボタンを外し始めました。
 何考えてるんでしょう、若さん。この人、靴も脱いでないんですけど。
 玄関と、廊下の段差の所為で前髪に隠れた若の表情はよく見えなくて、黙々と、着々と外されるボタンに今更焦る。ここ、玄関なのに。
 若、何か、ヘン。
「ぇ、ちょっ――ストッ……ぷ?」
 寝る前にブラジャーなんてしませんから、かなり際どい恰好にされた。襲われてる気分。
 困惑して、若に静止をかけようとすると、それよりも早く、胸に唇を落とされた。強く吸い付かれて、赤くキスマークが残ったそこを、若の指は撫でる。
 そして、ぎゅう、と抱きしめられた。
 ちょっと身じろぐと、溜息のように、若は深く息を吐いて、少しだけ私を抱きしめる腕に力を込めた。
 どうやら、慰めが必要なのは私じゃなくて若のよう。
 何かあったのかな。
 若、真面目だから、凹むときはどどーんって凹むし……
 確かに前向きだけど、でも、落ち込んでるときは誰だって辛いよね。前向きだから傷つかないわけでも、前向きだから哀しくないわけでも、前向きだから凹まないわけでもない。
 でも、私の大好きな若は、そういうマイナスの感情を処理するのが上手くて早くて、いつも前を見ていて、頑張っていて。だから。
 きゅ、って抱きしめ返してポンポン、って背中を撫でる。
 辛い時位、私を頼っていいよ。いつ若が凹んでも、私はこうやって抱きしめ返せるよ。
 若は肺の奥の奥のお腹の底から溜息を一つ吐いて、最後にぎゅっと強く私を抱きしめると、腕を離した。
 それから、私にいつもと変わらない視線をくれて。
「ただいま」
 律儀に挨拶した若の頭を手を伸ばして撫でてみる。
 あ、嫌がられた。

 ◇◆◇

 ハンガーに若のジャケットを掛けてから、シャツとスラックスのままで、ネクタイだけ外してソファに座ってテレビを見ている若の横に腰を下ろす。
 テレビを見るときと、パソコンで作業するとき以外はほとんど掛けない若の眼鏡を、えいや、と手を伸ばしてむしり取る。
 若がものすごく嫌そうに私を見た。
 でも、怯まないんだから。
 眼鏡を挟まない直接の視線で、私は若の目を見つめる。
「今日、何かあった?」
 若から奪った眼鏡のテンプルを(若菜ちゃんが眼鏡を壊したときに眼鏡屋さんに名称を教えてもらわなかったら知らなかったと思う)折ってローテーブルに置きながら、聞く。
 言いたくなかったら、答えないでいいけど、でも、少しでも気持ちが楽になるなら、話して欲しいなって。喋った方が気が楽になることも、きっとあっるから。
 若、マイナスの言葉とか、後ろ向きな言葉とか、愚痴とか嫌いだけど、でも、最後には前向きに纏めちゃえば、全然平気だよ。
 そう言う気持を篭めて、若の目を見つめた。
 返答まで、少しの間があった。
「――チビ共は?」
「寝てる」
 もう、二十三時に近いから、それは当たり前なんだけど。
 若は、他の事を言おうとして、でも、言い辛くて全然別の言葉を口にしたんじゃないかなって思った。
「そうか」
 私の答えを聞くと、溜息を一つ吐いた若は、人差し指で、ちょいちょいって。
 呼ばれた通りに近づくと、また抱きしめられた。
「明日、仕事休む」
「ぅん?」
 抱きしめ返して、若の胸に埋まってしまった為に、篭った声で聞き返す。
 若が学校を休むなんて珍しい。
 新人教員は、覚えなきゃな事も慣れなきゃな事も山ほどあって、大変そうなのに。
「高校時代にお世話になった先生が亡くなった」
 ああ、こんなに帰りが遅かったのは、お通夜に顔を出していたんだ。
 納得すると同時に、私は、若の言葉に何も返せなくて、ただ、ぎゅっと抱きついた。
 だって、若は、すごく哀しそうだったから。
 私の、若が悲しまないで欲しいって望みは、なんだか物凄くエゴイスティックな気がして、言えなかった。
 若は片手で私を抱きしめて、もう片手で頭を撫でて髪の毛を梳いてくれる。
 そうしながら、若は少しだけ可笑しそうな声で笑った。
「最後に会ったのは何年も前なのに、結構、きついもんだな…」
 乾いた笑い、というのはこういう事を言うのだろう。
 本当は、笑ってはいけない場面なのに。
 私は何だか、訳もわからず泣きそうになる。若の先生なんて、知らないのに。悲しそうな若が笑っているというそれだけで泣きそうになる。
 でも、それを堪えて、ただ、若を抱きしめる。
 二人分の体重を一点に受けたソファが僅かに軋む。
 せめて、若が私を抱きしめている間、私の髪を撫でてくれている間、私も若を抱きしめようと決意して、若の心臓の音をシャツ越しに聞きながら、頬に温かい若の体温を感じながら、若に私の体温を分ける。
 温かい。
 私と、若が、今ここにいるから、抱き合っているから、だから温かい。
 寄り添っているから、温かい。一緒にいるから、あったかい。生きてるからあったかいんだって思うと、体温さえ愛しく感じてしまう。
 長い間、二人とも、そんなお互いの暖かさを感じながら何も喋らないでいた。
 暫らくしてから、若をちらりと見上げると、ゆっくりと若の腕が離れていった。
「何か飲む?」
 私は若に抱きついたまま顔だけ上げて尋ねると、若は軽く顎を引いて頷いて。
 ゆっくりと立ち上がりながら、離れ際に若のほっぺたにちゅってキスをしてから、キッチンへ向う。
 冷蔵庫からミルク取り出して、小鍋で温めて、砂糖とラム酒をほんの少しずつ。
 マグカップに注いでソファに腰掛ける若の元へと持っていく。
 若は、ゆっくりとマグカップを受け取って、ありがとう、とぽつりと言った。
 私は、どういたしまして、って答えて、その横に座って、ラム酒の替わりのシナモンスティックで自分のホットミルクをかき混ぜる。
 ぐるぐると、カップの中でミルクが渦を巻いた。
 まだ、ミルクを一口も含まないで、若は
香奈
「ん」
「俺、今、結構ショック受けてて」
「うん」
「その事に、驚いてる」
「んん?」
「意外だった。先生が亡くなって、自分がこんなに哀しく思う、なんて。何年も会ってなかったし。なんか、死ぬとか、そういうこと、あんまり考えてなかった」
「うん」
「考えてようが、考えていまいが、死ぬんだな。当たり前だけど」
 そこまで言って、若は少しぬるくなったラム酒入りのミルクをちびちびと飲んだ。
 私も、なんとなく、シナモンの香りが漂うミルクをちびちび飲む。
 お互い、マグカップを片手で持って、で、何か、もう片手で相手の手を握り合ったりとか。
 アニマルセラピーってあるけど、寂しいときとか不安的なときとか、誰かの体温で、ほっとするのは、なんでだろうね。
 カップが空になって、それをローテーブルに置くと、ことん、というその音が、やけに室内に響いた。
 隣を見ると、若もカップを煽って、私に手渡した。
 二人分のマグカップを流しへ運んで、水桶につけて、また若の隣に座る。
 若の肩に頭をのせると、若の大きな手が私の頭を撫でてくれる。
 撫でられるのが、とても気持ちいい。
 ……私が独りで和んでどうするの。
 でも、あんまりにも優しく頭を撫でてくれるものだから、私はそっと目を瞑った。
 そうして、ふと仕事が終わっていなかった事を思い出す。
 でも、製作を開始するのは什器搬入前の内装工事終了直後で一週間後だから、今夜一晩くらいは、若のために費やしても問題はないと結論。
 ほとんど、構図は決まっているし、線画を見せた時に発注者からはほぼオーケーを貰っているし。うん。
 だから、気づいたら何時の間にかソファに押し倒されてても気にしない事にする。
 だから、折角留め直したパジャマのボタンがまた外されても気にしない事にする。
 だから、さっき付けてもらったキスマークに唇を重ねられても気にしない事にする。
 だから、その赤い痕を更に濃くするように吸い上げられても気にしない事にする。
「ねえ?」
 そうっと若の頭を抱きしめながら声をかける。
 若は何も答えずに、ただ、胸元に何度も軽いキスを。
「赤くなりやすくなっちゃってるんだよ?」
 ここ、と、赤い痕を指差してみせる。
 若は、くつりと喉を鳴らして笑った。
「知ってる」
 ――そうですか。
 知ってていつも同じところに痕を残すんですかあなたは。
 呆れるような気持ちで、天井を睨む。
「どうせ、俺にしか見えない」
 低い声で言われて、後頭部の首付け根から頭の中心の方までぞくぞくする。
 勝手に心臓がドキドキし始めた。
 もうずっとずっと一緒なのに、私たちの間には若菜ちゃんも龍星くんもいるのに。
 それでも、ああ、こんなに、こんなにも、ときめいてしまう、なんて。
 恥ずかしくて、悔しくて、でも、嬉しい、なんて。
 今の私は若の悲しみを案じる気持ちは殆どなくなってしまっていて、それが恥ずかしい。
 ごめんね、若。
 ごめんなさい、若の先生。
 女って、複雑なようで、でも単純なんです。
 好きな人の傍にいるだけで、自動的に幸せになってしまうんです。
龍星くんと、若菜ちゃんも知ってるけどね」
「チビは範疇外だ」
 何の範疇外なんだろうと思ったけど、流石に聞けず。
 若はそれ以上何もせずにただ私を抱きしめていた。
 それがどうしようもなく、切なくて、哀しくて、私も、若を抱きしめ返した。

 ◇◆◇

 きちんとアイロンの掛かったシャツに袖を通している若。
 泣きだしそうな曇天に、私は何故だか無意識に明るめの声を出していた。
 本日は自宅で仕事な私は、パジャマにも近いロンTとデニムという恰好で、まだ眠そうな若菜ちゃんを抱きながら若に声をかける。
「若、黒いネクタイ、テーブルに出したから」
「ああ」
 私を見もせずに黙々と支度を進める若。
 本当はネクタイを締めてあげたかったんだけど、若菜ちゃんが、なんだか抱っこしてあげてないと愚図りそうな雰囲気だったので我慢する。
 出かける前くらい、せめて煩わせたくなかった。
「地図、持った? お財布は? あ、あと、仏式だったよね? 香典の表書き御霊前でいい? 五千円包めば大丈夫だよね? 携帯はバイブにしてある?」
 色々聞いたら、困った顔で見つめられた。
 で、一言。
「うるさい」
「――う……」
 余計なお世話だったようです。私の言葉。なんだか地味に落ち込んでしまう。
そうだよね、若、哀しいのに、私が煩くしたら――
「凹むな」
 色々と考えていたら、ぽんって頭を撫でられた。
 私が気を使わせてしまっている。ああ、ほんと、だめだなぁ、私。
「ぅ、ん……ごめんね。いってらっしゃい」
「ああ、行って来る」
 玄関へ向う若の後を、若菜ちゃんを抱いて追いかけると、一人できちんと着替えをしていた龍星くんが私たちの後を付いて来る。
 靴を履いている若の背中を見ながら、片手で何とか若菜ちゃんを抱いて、片手で龍星君の手を握って、その背中に声をかける。
「ねぇ、若」
「なんだ?」
 くつべらを戻しながら、ちらりと私たちを振り向く若に、私は、笑ってみせる。
「私、ちゃんと待ってるから。龍星くんと、若菜ちゃんと一緒に、ちゃんと待ってるね」
「――あぁ。行って来る」
 若は、龍星くんと若菜ちゃんの頭を軽く撫でて、珍しく私の頬にキスをくれた。微妙に照れる。
 若は、私をじっと見ていたけれど、急に顔が近くなって、今度は唇にキスをされた。
 やっぱり、若、まだ、いつもと違う。
 それは、仕方のないことなんだろうけど。
 私にはどうしようもない事なんだろうけど。
「美味しいご飯作って、待ってるから」
 告別式までだから、夜のご飯はお家で食べるよね? 、と言う意味もこめて言うと、もう一度キスされた。
 やっぱり、若は。
 今の若は、辛くて哀しくて切なくて寂しいんだろう。
「楽しみにしてる」
 それでも、穏やかにそう言ってくれる。
 私は何度も頷いて、笑って、若を見送るんだ。
「うん、してて。いってらっしゃい」
 軽く手を振ると、若は私たちに背を向けた。
 龍星くんも「いってらっしゃい」ってちゃんと言ったけど、若菜ちゃんは口の中でむにゃむにゃ言うだけだった。
 玄関を出る前に、若は一度振り向いて。
「ごめん、もう一度」
 って、もう一度キスされた。
 何だか、泣きそうになってしまって。
「もー、これで最後だからね」
 って、冗談めかして言うと、若はちょっとだけ笑って返してくれた。
 そして、今度は本当に、会場へ向って、若は家を後にした。
 ばたん、と閉じたドア。
 その鍵をかけながら、ちゃんと、ここで待ってるからと、ドアの向こう側の若へ思う。
 若菜ちゃんを片手で抱くのが辛くなったのもあるけど、なんか、勝手に涙が出てしまったので、しゃがんだ。
 その涙は、故人へ向けてのものじゃなくて。
 若が哀しいと、もどかしくて、切ない、哀しい。
 それでも、龍星くんが心配する前にシャツの袖で涙を拭って立ち上がった。
 私が泣いてしまったら、二人に不安が移るって学んでいるから。
「今日、ママ、お仕事あるから、二人とも早くお支度してね」
 って笑うと、若菜ちゃんは本気で眠いらしくて、ぎゅうっと私の服を掴んで「よーちえん、やだー」って泣き始めてしまった。
 いつもの朝。
 龍星くんは自分の分の支度をすぐに終わらせたけれど、若菜ちゃんは最後まで愚図っていた。
 それも毎日の事。

 ねえ、若、私はちゃんとここで待ってるから。
 美味しいご飯を用意して、待ってるよ。
 今はまだ、哀しいかもしれないけれど。
 若がどこに居ても、若が哀しくても、私はいつもここであなたの帰りを待ってるよ。
 美味しいご飯を用意して。