天地を揺るがす若菜の絶叫を聞いて、それがすでに間断なく休憩なく間隙なく休息なく三十分超過で続いていることに「体力あるな……」と感心してしまった日曜の朝。鼻から吸いながら、同時に口で吐く、という芸当が出来るのはトランペット奏者だったろうか。流石、俺の子供だ。 宥めていたらしき香奈の、とうとう手をつけられなくなったというような、げんなりした顔。 俺も思わず、溜息を洩らしてしまった。 「若菜ちゃん……お洋服着ようよ……可愛いよ? お出かけしようよ」 頭からかぶせてしまえば良いだけの半袖のワンピースを手に香奈が必死に説得する。 「(前略)……いいいいいいいいいいいいいいい……(略)……やぁああああああああああああうううううううううあああああああああああああああ……(以下略)」 服を着ることの何がそんなに気に食わないのか。絶叫だ。パジャマ姿で。本当に超音波みたいな声だなと、これもまた感心する。 龍星は着替えを終えて俺の膝の上で、昆虫図鑑に夢中だ。 「 絶対に意味はわかっていないのだろうけれど、読んで貰うこと自体に意味があるようで、読み終わると、龍星はすぐさまページをめくって別の虫を指をさす。 「これ読んで……えっと……読んで、ください」 親に微妙な敬語を使う三歳児。俺の実家に行くたびに敬語に磨きがかかる。祖父と道場の影響だろう。まあ、悪い事ではないので、どうでもいいけれど。 「 それを聞いた龍星が脚をぶらぶらさせて歌い始める。 「とんぼのめがねは みずいろめがね 「あーおいおそらを とんだからー 「とーんだぁかーらー」」」 ……最後は若菜と龍星と香奈の合唱になっていた。 「「「とんぼのめがねは ぴかぴかめがね おてんとさーまを みてたからー みーてたぁかーらー」」」 ……まあ、どうでもいい。楽しそうだし。 歌いながら香奈がすばやく若菜のパジャマを脱がせている。若菜は歌に夢中だ。 「「「とんぼのめがねは あかいろめがね ゆーやけぐーもを とんだからー とーんだぁかーらー」」」 さすが母親。歌いながらも、手早く若菜に服を着せた。 なんにせよ、これでやっと出かけられる。膝の上の龍星をフローリングに降ろし、俺も立ち上がる。 着替えた若菜に、香奈が仔猫のキャラクターもののポシェットを渡すと先ほどまでの絶叫はどこへやら機嫌よさそうに肩に掛ける。誰に似たのか驚くほど単純だ。 しかし、今度は龍星が昆虫図鑑を絶対に持っていくといって聞かない。不必要だと言っても 「持って行きます」 と大きな昆虫図鑑を小さな両腕で抱える。 どうでもいいが、香奈は昆虫図鑑が嫌いなようでほとんど手を触れない。 「駄目だ。必要ない。置いていきなさい」 「いやです」 本当に、若菜といい龍星といい、思い通りに行かない。 「――龍星が一人でしっかり持っているなら、持って行ってもいい。お父さんやママに頼らないで一人で持てるか?」 「持てます」 持てるわけがない。けれど、残念ながら、龍星は俺に似て強情というか頑固というか自分でやると決めたことは譲らない性質なので(こういう部分は若菜よりもずっと扱い辛いと言える)溜息を一つ吐いて「わかった。好きにしていい」と答えてやる。 それを見た香奈が少し笑って 「ほら、龍星くん、お父さんにありがとうは?」 と言うと、龍星は言われた通りに「ありがとーございます!」と、幼い子供特有の発音と調子で謝礼をくれた。それを聞いてこぼれそうになった溜息を何とか噛殺して軽くうなずく。 それから、双子と香奈に「行くぞ」と告げて車のキーを手にした。目的地に着いたら、無理にでも昆虫図鑑は車内に置かせよう。 ◇◆◇ 子供たちがたっぷりと遊んで満足してくれた後、帰りにデパートに寄って一週間分の食材を買い込んだ。香奈が夕食を作っている間、仔犬のようにはしゃいでいる子供たちの相手をしながらどのタイミングで手を洗わせようかと考える。 帰宅早々、絵を描きはじめ、画用紙を楕円と塗りつぶした楕円で埋め尽くし、アニメの主題歌を歌っていた若菜が唐突に訊いてきた。 「あのね、あのね、なんで、おとーさんは、ママと、けっこん、したの?」 急な話題転換や突然の問いには最近慣れてきていたので少し考える素振りをしてみせる。 若菜の振った話題に、龍星もそれが気になったらしく、口には出さないものの視線を向けてくる。そういう話題が気になる年頃なんだろうと思う。 この間は二人で、お互いや俺たち両親や男女問わず友人らと結婚すると言っていた。結婚の意味を漠然としか解っていないのだろう。 さて、どうやって答えたものかと思いながら、先ほどまで画用紙を蹂躙していたクレヨンを両手に握っている娘に逆に問い返す。 「若菜はなんでだと思う?」 尋ねられた若菜は即答した。 「あのね、あのね、お魚の焼いたのが好きだから!」 おそらく香奈の得意料理の事を言っているんだろう。ちなみに、焼いているのではなく蒸したものなのだが、子供にとっては火さえ通っていれば蒸そうが焼こうが煮ようが変わりはないらしい。 愛娘を抱き上げて膝の上に乗せてやりながら苦笑を返す。まるで何かに突き刺そうとでもしているかのように握られた細身のクレヨンの、その先が少し危ない方向に向いている事を見止めると、若菜の手をやんわり握ってクレヨンの先の方向を逸らす。 「あたり?」 いつの間にか若菜の中でクイズになっていたらしく当たったかどうかを聞いてくる。額にかかっている前髪を、手のひらで上げてやりながら、露わになった丸い額や髪の生え際の産毛を見て、そんな小さなものでもとても可愛く見えてしまう自分に内心呆れる。 けれど、悪い気持ちではない。 「外れてはいないな」 この曖昧なニュアンスを、若菜が解るはずもなく、当たったと喜んでいる姿に思わず笑む。 ただ、龍星はその言いように何となく違和感を感じたらしく首を傾げて俺のシャツの裾を引いてくる。 「なんだ?」 「おとうさんはママすき?」 また唐突な質問だなと感心しながら「どう思う?」と聞き返すと「おとうさんはママのこときらいです」と返されて、何故そう思ったのかと尋ねると。 「このあいだ、おとうさんがママにばかってゆってた」 聞かれていたらしい。 背後で香奈に睨まれているような気がしたが、気のせいだと決め付ける。 香奈の言うとおり、寝てようが側にいなかろうがそういう言葉は使わない方がいいのかと今更に思いつつ「そんなことはないよ」と少し睨むような龍星の頭を撫でてやる。 「あのね、あのね、おとーさん、若菜とママ、どっちが好き?」 若菜が抱きつきながら聞いてくるので「二人とも」と返してやり、同じように聞いてくる龍星にも同じ言葉を返していると、夕食を作り終えたらしい香奈が湯気の立つ皿をテーブルに並べながら「お父さんはモテモテだね」と茶化してくるのに苦笑を向けた。 ◇◆◇ 「蜜柑を握ると甘味が増す」――そう言ったのは祖母だっただろうか、それとも母だっただろうか。兄だったかもしれない。 実際に糖度が高くなるかは、はなはだ疑わしいけれど小学生だか幼稚園だかでそれを教えられた俺は皮を剥く前に何となく、橙のその果物をおにぎりでも握るかのように握る癖がついた。 そんな事を思い出しながら、食後のデザートとして香奈が饗した蜜柑を上手く剥けない双子のために見本として、ゆっくりとそれを剥いてみせる。 握力が強いのか、わざとなのか若菜は皮をものともせず親指を突き刺して、龍星は時間がかかりつつもなんとか丁寧に剥いているようだった。 「ね、何で若ってみかん剥く前にギュってするの?」 同じ柑橘類でも色合いも見た目も味もまったく違うオロブランコ――解り辛い。スウィーティーと言った方がまだ解り易いか――に果物ナイフで切れ込みをいれて、豪快にも手でわしわしと剥いている香奈が、不思議そうに聞いてくる。 俺は若菜の手をとって、その小さな手が握りつぶしている橙色の何だかぐちゃぐちゃになった正体不明の物体の皮を剥いてやりながら、誰かに言われた言葉をそのまま香奈に伝えた。最後に事実かどうかは疑わしい、と付け加えて。 「なんだか、三つ子の魂百までって感じ。若、そういうとこ可愛いよね」 俺の話を聞いた香奈は、妙ににこにこしながら機嫌良さそうに言ってくる。 「嬉しくない」 香奈としては褒めているのだろうけれど、全く嬉しくない。渋面を作って見せると誤魔化すように「ほら、剥けたよ!」と妙に元気よく薄皮まで剥き上げた果肉を向けてくるので、若菜の手を握っている状態でそのまま齧りつく。 「……不味くはないな」 感想を伝えてやると、香奈は「そか」と頷き、双子のために残りの薄皮を剥き始めた。 それを見ながら若菜の蜜柑を、両手を果汁でベタベタにしつつもなんとか剥き終える。と、若菜はぐちゃぐちゃになった果肉に満足せずに綺麗に剥けつつある龍星のそれを奪おうとする。 それをたしなめながらもう随分な時間なのに異常に元気のある双子がこの後きちんと眠るかどうか心配になった。 斜線部引用:とんぼのめがね 額賀誠志作詞 |