大事なもの
「おとうさんは龍星くんばっかりひいきしてる!」
 鼻息荒く、若菜がスネていた。
 手は腰に置き、少しふんぞり返っている。
 床に直接座っている若と、丁度目が合う位置なので、若から見ると腹を突き出しているように見えなくもない。
 最近若菜は“ひいき”という単語をよく使う。少し前に、若に「ひーきってなーに?」と聞き、丁寧に言葉の意味を教えてもらい、言葉の意味を覚えてから彼女の中ではひいきブームがきているらしかった。使用方法を間違える事も多々あるが、そのうち使いながら覚えていくだろう。
 龍星はと言えば若の隣で小学一年生算数ドリルをローテーブルで解いている。
 三歳になった双子はこうも性格が違うものかと言うほど、同じ環境で育った割には全く似ていない。
 お受験で下剋上する気満々な龍星と、香奈の家事を全部自分でやると無茶な宣言をし皿を割り怪我をしてもへこたれずにとにかく遊びに全力投球の若菜と。
 古武術をやらせれば、大人のように加減ができず、しかもまたお互いがお互いをライバル視しているものだから、鼻血の出る稽古は当たり前だった。暴力の苦手な香奈はそれを見て、なんで仲良くできないのと叱ったりもしたが、若からすれば、それが普通の姉弟の関係であるような気がしていた。特に歳が近ければ、負けたくないという気持ちも強くなるだろうと、若は思う。しかし、骨折したりするのは困るので、過剰な暴力には厳しく叱ることもよくあった。
 そうして、若は龍星の勉強を見てやっていたのだが、知育玩具で遊んでいた若菜龍星の真新しい算数ドリルを目にして、龍星ばかりズルイと言い出したのが話の始まりだった。
 若菜は勉強はあまり好きではなく、知育玩具での玩具遊びは好きだが、ドリルを買ったところで全く解きもしないので、買い与えることがなくなっていた。
 若菜にとっては龍星にはドリルを買うのに、なぜ自分には何か買ってくれないのかと拗ねるに充分な理由になっているらしい。
 若は、またかんしゃくが始まった、と苦笑したい心持ちで、不機嫌そうな娘の顔を見て、諦観の境地へ足を踏み入れる。
 それから龍星へ顔を向け、次の問題を解くように指示してから龍星の隣に座ったまま、再度立っている若菜へ顔を向けた。
「ひいきしてない」
「してる!」
 即座に若菜は細い首をぶんぶんと振った。なんとなく、頭がもげてしまいそうだと若は思った。
「じゃあ、今度、若菜に算数のドリルを買ってあげよう」
「いや!」
 若の言葉にわかりやすく地団駄を踏む若菜。防音素材のカーペットマットに吸収され、足音はわずかにしか響かず、あまり意味はなかった。
 香奈は調理で手が離せないらしく、現状に何のフォローもない。ただ少し申し訳なさそうな顔をカウンターからのぞかせただけだった。
 確かに、龍星の欲しい物を買っている。
 確かに、若菜の欲しい物は買っていない。
 けれど、若菜の満足がいくまで玩具を買ってやるのも、それは甘やかしすぎだろう。
若菜を放っておいたのはお父さんが悪かった。でも、龍星は勉強しているんだ。我慢してくれ」
「おとうさんは、あたしと龍星くんどっちがだいじなの?!」
 子供が大泣きするとき特有の、若菜の金切り声に若は反射的に目を歪めた。
 女の子は大人びているとは言うが、まるで男女関係の修羅場的な発言をされ、若は娘の成長に困ったなと視線を落とす。
 勉強を免罪符にした己の言葉の程度の低さの為にカウンターパンチをくらった気分だった。
 それから紡いだ言葉は、どうやら娘のお気に召さなかったらしい。
若菜龍星も、みんな大事だ」
「ダメ!」
 なにが、と口を開く余裕もなく、小さな唇から言葉が紡がれる。
龍星くんと若菜がかいじゅうにたべられちゃったら、おとうさんはどっちを助けるの?!」
 そういえば、この間、若菜と若とが一緒に見た教育テレビは恐竜ものだった。若はまだ、そんな事を思い出す余裕があった。
 おそらく“食べられそうになっていたら”と娘は言いたいのだろう。そういえば、中学の頃に究極の選択とか言うアホな質問が流行っていたなと思い出しながら娘の発言に小さく息を吐く。
 あの頃は、貧乏だけれど絶世の美女か目を背けたくなるほどのブスだけれど金持ちの二択への答えを要求され、己は躊躇わず無回答を選んだのだが、今回はそうもいかなそうだ。
「ふた 「両方はなしだからね!」 ……」
 先に釘を刺された。
 ふと、龍星を見ると、龍星もその問いへの答えが気になるようで、じっと若を見つめていた。
 ペンを握っている手をぎゅっと握り締めて。
 それをいじらしいともいたましいとも感じながら、若は溜息を噛み殺した。
「どっちか絶対に食べられちゃうんだからね!」
 若菜ははやくはやくと答えをせがんでくる。追い詰められるとはこういう事を言うのだろうか。
 久々に心底困った。若は小さく溜息を吐いて、一度深く目を閉じる。
「――もし、若菜を助けたとしよう」
 次いで、紡がれた、その言葉に、龍星が少し俯いた。
 若は龍星の頭に手を置いて、軽く撫でてやってから若菜を見て言葉の先を紡ぐ。説く内容は大体頭の中で纏まったが、若菜を理解させられる単語を選べるかは自信がなかった。けれど、そのうち娘を誤魔化せるに良い言葉が思いつけるだろうと考えながら口を開く。
「そうしたら、二度と龍星には逢えない」
 出来るだけ理解しやすいようにゆっくりとはっきりと発音する。
 目的の言葉を聞きだした若菜は、けれど変な顔をしている。
 若がこれから自分の望まない言葉を口にすることを何となく、意識の深い所では理解しているのだろう。
 さて、どうやってこの我が侭な娘を、平易な言葉を使って説き伏せようかと若は頭の中で色々と考えていたが、表面上は真面目な顔で双子に相対していた。
 下手な事を言えば先ほどのようなことになるだろう。そう思うと少しばかり緊張のようなものが走り、それが可笑しかった。
若菜だけを助けたら、もう二度と龍星とは話せない。龍星と一緒に寝ることも出来ないし、龍星と遊ぶことも出来ない。龍星をぎゅうすることもできない」
 父親の口から紡がれた言葉に龍星は、俯けていた顔を上げ、不思議そうに若をじっと見ていた。単純に選ばれなかったという悲しさから、父親が何か違うことを言っていると気づいたらしかった。
 けれど、若は若菜の歪んでいく顔を見ていたため、その事には気付かず、更に言葉を吐く。

「俺もママも怪獣に食べられてしまった龍星の事を、いつも考えてしまう。とても悲しくて、ずっと泣いてしまう」
 怪獣、という単語を舌に乗せる時、若は少しだけ笑いそうになったが、意識して頬を引き締める。
「……やだ! 龍星くんいなくても悲しくないもん!」
 感情に任せて出た若菜の言葉は、けれど、それが嘘だと若にもわかる。
 家では喧嘩の多い二人だが、すでにキョウダイになっている双子は、お互いを思いやる事さえしてみせ、特に若菜は若が龍星をひどく叱っていると“怒らないで。お父さん龍星くんおこらないで”と泣き出したりもするのだから。
「でも、お父さんは龍星がいなかったら、悲しい。泣いてしまう。若菜が側にいても、龍星がいなくなったことが寂しくて、ずっと泣いてしまう」
「泣いたらやだ! おとうさんのいじわる!」
 半分泣きながら嫌々と首を振る若菜の小さな手を握り、己の元へ引き寄せた。
「お父さんも、若菜龍星のどっちがいなくなっても嫌だ。二人とも大事だ。
 若菜はお父さんとママ、どっちを選ぶ?
 お父さんを選んだらママに会えなくなる。
 ママを選んだら、お父さんに会えなくなる。
 ママに会えないのと、お父さんに会えないのと、若菜はどっちがいい?」
 意地の悪い質問だったが、普段ならば明るく“お父さんが好き! ”と言う若菜も、答えられずに、とうとう泣き出した。
 何とか言い包められた事に安堵しながらわんわん泣いている若菜を抱いてやる。それと同時に自分の言いたい事をきちんと理解してくれたことに、親ばかながら頭の良い子だと感心してしまった。
 おそらく、感情の起伏が激しい所は母親に似たのだろうと想いながら、若は娘の背を撫でてやる。
 我がままに育てているつもりはないのだが、難しいものだと若はしみじみと実感する。
 幾分、泣き声が小さくなった頃、龍星がおずおずとドリルを若菜に差し出した。
 普段は小さなことで張り合って喧嘩ばかりだが、仲が悪いわけではない。
若菜ちゃん、一緒にやる?」
 小さく尋ねてくる龍星の言葉に、若菜はじっと、涙の溜った瞳で、龍星の手の中の算数ドリルを見ている。
 しかし、しばらくして龍星の言葉に首を横に振ると、若菜はまた泣き出した。
若菜ちゃん、泣いたらだめ」
 つられて泣きそうになった龍星が、それでも涙を堪えて若菜の頭を小さな手で撫でていた。こうやって、仲のいいところを見るとやはり双子だな、と若は感慨深くなる。
 そんな時、キッチンから声がかかった。夕食を告げる香奈の声で、泣いていた若菜と、今にも泣きそうだった龍星は、手伝いをするべく立ち上がり、二人で手を繋いでキッチンへ向う。
 人数分の箸を手にした若菜と、テーブルにランチョンマットを引く龍星
 若は、ゆるりと立ち上がり、陶の大皿に色よく盛り付けられた本日のメインディッシュらしい鰹のたたきを受け取った。
「お疲れ様」
 苦笑した香奈が、若へ労いの言葉をかけた。その言葉に、若は軽く苦笑を返す。
 若は一応、就職は決まったものの、新しく覚えることも多く、疲れた顔で帰宅しながら、けれど双子の面倒もよく見ている。そのため、香奈は己に不甲斐無さを感じるらしい。
 だからなのか、香奈は完璧とは言わないまでも、若が文句をつける気にならない程度には、育児も仕事も家事もこなしている。若としてはよくやってくれていると感謝したいほどなのだが、そういったことは香奈が落ち込んでいる時にしか言ってやらない。
 双子も遊び感覚ではあるものの香奈の手伝いをよくしており、それは若もかなり助かっている。香奈の作った“おしごとルーレット”なるものが双子にとっては面白いらしい。
 最近では、仕事や手伝いに対して面白さだけではなく、毎朝、朝食を摂るような感覚の当たり前の事になってきているようだった。言わずとも香奈が洗濯を干していたら――それが果たして本当に手助けになっているのか妨害になっているのかはさて置いて――お互いが張り合っていることもあってか一所懸命手伝おうとする。労働に対して、とても前向きに受けとめているように見えて、それに若は安堵もしている。
 そんな二人の子供はせっせと食卓を整えている。
若菜の言葉はどこから習ってくるんだ?」
 その様子を目の端で見てから、若が呆れたような困ったような調子で香奈に問う。
「うーん、若菜ちゃんは……ナーサリー行くと、色々新しい言葉を覚えて帰ってくるかなぁ――あ、龍星くん、それが終わったら、ここのコップを並べてくれるかな?」
 困ったように笑いながら香奈はカウンターに人数分のプラスチックのコップを置き、龍星へ問いかける。「はい」ときっちりと返事が返ってきた。
 若菜は現在箸置きの上に箸を置くのに奮闘中だ。
 おそらく何度かは床に箸を落として拾っていそうな感じだったが、それはもうご愛嬌ということで若も諦めている。作業している双子の邪魔にならないよう若はテーブルの中央に鰹のたたきの乗った大皿を乗せた。
 香奈が、雑穀の入った混ぜごはんやら、たっぷりと野菜の入った半ばみそ味の煮物のような味噌汁と、ひじきやおひたしといった副菜をテーブルへ並べていく。若はチャイルドチェアに龍星を抱き上げて座らせてから、若菜も同じようにした。けれど、若菜は大人と同じ椅子がいいと駄々を捏ね、説得する羽目になった。その説得にまた時間がかかる。
 こうして説得と言う行為をしている自分を、若は意外だと感じる。
 きっと、叱って無理に座らせるだろうと思っていたのだが。どうしてどうして、子供の言い分を聞き、正論ではなく相手の納得できるような言葉を弄する自分の気の長さを不思議に感じてしまう。本当に聞く耳を持たない場合は、声を張ることも、それなりにあるけれど。
 香奈も、駄々を捏ねる若菜を多少窘めて着席を促したのみで叱る事もなく、ぬるい麦茶をコップに注ぎ、流しで洗物をしている。
 ただ、龍星だけが、目の前に食事があるのに食べられない状況に、ほんの少し不愉快そうだったが、それでも、大人しく若菜が着席するのを待っていた。

 戸籍上は若菜が姉で、龍星が弟なのだが、他の双子の両親と同じく、若も香奈もどちらが上かという事を意識していない。
 それに古い言い習わしでは、腹の中で上にいた子(つまり後に産まれた子)が長子で、腹の中で下にいた子(先に産まれた子)が次子という事もある。病院でも、双子が生まれた後、どちらを長子にするかと聞かれ、多少の都合はできると言われたが、若は答えに窮してしまった。その時、香奈は出産で酷く体力を消耗していたので、若が頭の中で簡単な計算をして若菜を長子とした。
 それでも、こういう場面を見ると格段に龍星の方が“おにいちゃん”っぽい。
 ただ、何となく抵抗があって「おねえちゃん」とか「おにいちゃん」といった言葉を使ったことはない。やはり双子は双子で姉弟でも兄姉でもないという意識が若の中に強くある。二人は一緒に産まれた。どちらが早かったかなどと若はあまり考えたくないような気持ちさえある。それは若が幼い頃、よく兄と比較され、そのため兄に対して強いライバル心のようなものを持っていたからかもしれない。
 そうして同じように育てたつもりでも、食卓に戸籍上姉である若菜が着席したのは、戸籍上弟である龍星の十分後だった。

 食事の後の風呂でも、若菜は駄々を捏ね、龍星はとうとう我慢できなくなったらしく喧嘩を始め、若が喧嘩両成敗を実行し、午後九時、ようやく双子は眠りに付いた。今日は双子は自室で寝るらしい。これもお互いに張り合った結果だったが、夜遅く、もしくは朝早く起きて両親のベッドにもぐりこむこともしばしばあったし、気づくと二人で一つのベッドを使っていることもよくあった。特に若菜は寝起きが悪く、目が醒めると両親を求めて大泣きもするので、時間があるときは来客用の布団を並べて家族で寝ることもある。
 そうして、若は勉強を、香奈はパソコンで仕事をし、二人がそれぞれの作業を切り上げたのが午前零時。
 若に促されて、香奈がもそもそとベッドに入り、頭まで布団に包まった。
 香奈は、布団や毛布を身体に巻きつけて頭まで潜るのが癖なのだけれど、それをされると若が掛け布団を掛けられなくなる。
 毎晩の事だが香奈から布団を剥ぎ、抗議の声を無視してベッドに横たわる。
 けれど、布団の変わりに、抱き枕として香奈に抱きしめられ、若は眉を顰めた。
香奈、足が冷たい。くっつくな」
「んー?」
 全く話を聞いていない香奈の様子に若が溜息を吐いたのも束の間。ぐい、と無理矢理に両頬を香奈の両手に挟まれた若は、首が捩れるのではないかと一瞬思ったが、すぐに香奈の手は離れる。
 そうして、若が文句を言う前に、香奈は若の額に口付けを落とし、満足そうに笑って、おやすみと就寝を告げ、瞼を下ろした。
 そう言われてしまえば若としてもおやすみと返すしかなく、少々不本意ながらも目を閉じる。
 朝になればまた同じような一日が、大事な家族に囲まれて始まることを確信できる、その幸せを噛締めながら。

※特攻天女の伊沢の話に影響受けてます。書いた後に気づきました。伊沢好きすぎる…