セックスレスというのは離婚の事由になる、というのを若は知っていたが、別に離婚をする気はない。 ただし、あまりにもそういう意味で、香奈が若から全力で逃げて、しかも怯えているような色まで見せるので、それが何故かと不思議には思っていた。 色々とあった思春期の、その過去を思い出してしまった時は、香奈はもっとわかり易く、言葉は悪いが病のように異常な反応をするし、だから、それではないだろうと若は当たりをつけた。 抱きしめれば上機嫌で抱き返してくるし、軽いキスならば香奈の方から求めてくる。しかし。 さて、これは何なのだろうか、と若は少し困っていた。 香奈に言うことはないが、男にとってそれは本当に食欲や睡眠欲と同じく生理的な欲求なので腹が減っているのに飯が食えず、眠いのに無理矢理起こされている状況であり、時間が経てば落ち着く場合もあるが、どうしようもない場合もある。言い方は悪いが、好きだの嫌いだのではなく腹が減っていたら飯を食いたくなるし、飢餓感までもよおせば、そもそも 香奈が望まぬのなら、若は我慢はする。その程度の理性はあるし、欲求を律することは若とって酷い苦痛というわけではない。そして、強引にすると、若にも不都合がある。 だから我慢はするが、さて、理由はなんだろうか。 と、言う訳で指折り数えて最後にしたのが大体九ヶ月から十ヶ月――面倒なので――約一年前だったという大まかな記憶を頼りに、その間、そういう意味で放って置かれた理由をどうやって聞き出すべきか若は考えていた。 香奈が応じる日を待つつもりではあったが、正直、一生このままという事になったら、困るのも事実だった。 己を律するのは幼い頃から慣れているとはいえ、それが一生続くとなると少々問題が違う。さてどうしたものか。 ◆◇◆ 職場で、バレンタインの義理のチョコレートをしこたま持たされ、なかばうんざりしながら帰宅すると、主人の帰宅を待ちわびていた犬が尾を振って帰宅を迎えるように、香奈らが玄関まで迎えにくる。少々騒がしい“お帰りなさい”の合唱を、けれど、これもいつまで続くのかと考えると、邪険には扱えない。 香奈は「お疲れ様」と言いながら、俺から紙袋を受け取ると、中のチョコレートを数え「誰からいただいたかメモしてる?」と聞いてきた。ホワイトデーの返しは香奈が適当に選び、俺に持っていくようにと手渡すので、その為の確認なんだろう。逆に香奈も会社の男共にチョコレートを配り、ホワイトデーには奥方がチョイスしたであろう菓子を持って帰ってくる。 香奈には首肯だけを返し「おとうさん! おとうさん!」とよくわからないが興奮気味によじ登ってくる若菜を抱き上げ、そのまま抱いていると手が空かないので肩車にしてから鞄を手にし、首を傾げて見上げてくる龍星の頭を撫でてからリビングに向う。若菜はよくわからないが俺の頭上で奇声を上げていた。意味はあるのだろうが、あまり言葉として耳に入ってこなかった。 ドアを開けると夕食の香りが漂ってくる。食卓の様子と、カウンターに並べられた皿と、台所から香ってくるそれに、鳥の水炊きとネギのぬたと、おそらく生野菜系の小鉢だろうと予想する。先日の、少しだけ余った鯖の味噌煮も、おそらく饗される。 そんな予想をしていると、香奈はすかさず台所へ移動して一時停止中だった調理を再開し「若、若菜ちゃんたちお風呂に入れてくれる? まだちょっとだけ時間かかるから」と声をかけてくる。丁度よく外気で体が冷えていたため「ああ」と香奈の言葉には答え、スーツをハンガーにかけて鞄を一時的にソファに置き、双子に声をかけた。 「おいで、若菜、龍星」 何故か龍星は、先日、香奈の母親から送られてきた蟹を鍋にしたときに出た甲羅を手に持って脱衣所にやって来、若菜はすでに服を脱ぎ、一人浴室内に入って湯船をいやに輝かしい瞳で見ていた。そんな二人をわしわしと洗い、シャンプーに怯えて泣きじゃくる若菜に大丈夫だからと言っている間に、若菜の泣き声に触発されて泣きそうになっている龍星を見て、洗う順番を間違えたかと後悔する。 龍星を先にすれば、若菜の手前「全然平気」と言い張る龍星に張り合って、若菜も「平気」だと思い込んでくれただろうに。 けれど、泡を纏った幼子二人の髪を適当に尖らせてやるとすぐに上機嫌になった。生意気ばかり言うようになってはきたが、こういう扱いやすさはありがたい。しかし、シャボン玉作ってーのリクエストに沿わなかった俺に、若菜はまたへそを曲げた。山の天気よりも変わりやすい機嫌に、昔ほどは振り回されなくなってきたなと自己判断する。 風呂から出ると夕食の準備は完璧になされていたし、俺の弁当も、鞄から取り出して香奈が洗い上げていたようだった。 水炊きの、鍋に残った汁の雑炊で夕食を締めると、香奈と若菜が、俺と龍星に一口サイズの、いかにも子供が包みましたと言うようなラッピングの、そんなチョコレートを手渡してきた。若菜の興奮の理由がよくわかった。おそらく香奈と一緒に作ったんだろう。 昨晩は「あの人は手作りが嫌いだから買ったやつ」「この人は手作りの……」などと香奈がまめまめしくチョコレートの準備をしており、若菜もその傍をちょろちょろしていた。 俺用のものからはアルコールの香りが、龍星のものからはかなり濃厚なキャラメルの甘ったるい香りがしていた。ちなみに若菜は香奈と一緒に、俺や龍星がもらってきたチョコレートの中で食べても問題のなさそうなものを選んで食べていた。 それらを食し終え、夜更かしをしたがる子供たちを寝かせる。寝たふりを何度もしながら、親がいなくなると暴れる双子に、本を読み、背を叩いてやりして、香奈が寝かしつける。龍星は上手く眠れずに何度かぐずったが、それでも昔ほどではなく、しばらくすれば夢の世界に飛んで行ったようだった。 仕事の雑務をこなしてから――主に採点し切れなかったプリント類と、次の会議で使う資料の作成と、警備強化の為に校門に駅の改札口のようなシステムをつけるというプリントに目を通すことだった。その対応は遅い気がする――、先にベッドに寝そべり文庫を読んでいる香奈の隣に腰を下ろす。 香奈はそれと同時にベッドサイドのライトを点し、リモコンで部屋を消灯してから「今年で十年連続バレンタインデーに、若にチョコあげたんだよ」と誇らしげに笑って言ってきた。こうやって二人きりになると、香奈は少し、甘えたような、媚びるような態度になる。それが嫌な訳は全くないけれど。 香奈の言葉に、もうそんなに経つのか、と思えば、香奈が好きでたまらなかった中学の頃の自分を思い出す。自分の視線が香奈の皮膚に傷を残すのではないかと、穢れを残すのではないかと、馬鹿なことを思っていたあの頃。 隣にいる彼女の顔をじっと見下ろすと、あの頃よりずっと女性らしくふくよかに綺麗になった、けれどあの頃の面影を多分に残している、見慣れてしまった顔が、今は見つめる俺の視線に不思議そうな表情を浮かべて、俺を見ていた。 それから、香奈は、寝そべったまま首をかしげて、腰を下ろしたままの、ベッドのシーツの上に置かれた俺の手に、自分の手を乗せて来た。くすぐったいほどのわずかな触れ合いのまま、手の甲を撫でられる。 「二十年とか三十年とか、四十年とか、記録、作ろうね」 今日は機嫌がいいらしい。俺の手を取って「ね」と同意を求めてくる香奈の顔は幸せそうだった。 だから、今なら聞けるかな、と、思った。 「なんで、夜は俺を避けてるんだ?」 さらりと口から出た言葉は、けれど香奈の顔を引きつらせるのに十分な威力を持っていたようだった。 香奈は往生際悪く、視線を一度俺から外して「避けてないよ」と言った。太陽は西から昇るレベルの、跡部さんがナイジェリア人だと言うレベルの、誰も信じないほどの大嘘だった。馬鹿だ。 「香奈」 窘めるように名前を呼ぶと、香奈は困り果てた、我慢を親に強いられ、ふてくされて、泣きそうな、龍星のような顔をして「言いたくない」と、けれど確かに怒った声音で言った。 「言え」 怒られる理由はないので少々俺も不愉快になりながら、間髪いれずに畳み掛けると「ていうか、若が言ったんだし」と、ベッドの上でごそごそと俺に背を向けながら訳のわからない言葉を返された。本当に訳がわからなかったので素直に「何を」と更に詰問調で問い質す。 「やだ」コンマ数秒も開かずに即答で返してきた。 「香奈」聞き分けのない子供を叱る口調で言う。イラつく、というよりは、焦る、と言う方が感情的には近いのかもしれないと自己判断をしてから、俺の言葉に子供がするように手で耳を塞ぐ香奈に、その腕を掴んで耳から引き離し、抵抗する力を、力で押さえつけ、今度は声の色を優しくしてやり、もう一度「香奈」と呼ぶ。 強い口調と柔い声のパターンで、大抵香奈は、機嫌がよくなると言うほどではないが、少しだけオープンな態度を見せる。今日もそうだった。そして。 「本当に覚えてないの?」 泣きそうな声で、返され、違う意味で焦る。 俺は何かしたか? まったく記憶にない。九ヶ月前の、レスになる直前は、確か龍星がやっと卒乳したと香奈が嬉しそうに、そして少し寂しそうに言ってきたような気がする。そして、その時に「まだ飲ませてたのか」だか「まだ出てたのか」だかを言い、怒った香奈にクッションをぶつけられた。ませていた龍星だから尚更三歳前後で、そんなことをしていたとは意外だった。というかそんなに続けるものなのだろうか。未だによくわからない。 しかし、あの時は確かに怒っていたが、久々に面倒な喧嘩ではあったが、それが原因ではないだろう。それに、その当時だって香奈は怒りはしたものの泣きはしなかった。 思いつくものがないので、謝る気も起きず、きっとまた、くだらない事だろうと決め付けて「だから何なんだよ」と溜息交じりに問う。すると、ぼそりと言葉が返ってきた。それは到底機嫌が良いとはいえないものだった。むしろ 「――“しぼんだ”って、言ったんだよ。若は」 ……意味がわからない。 あまりに意味がわからなくて、そのまま、どうリアクションするべきか迷っていると、香奈は勢いよくベッドの上で何かの玩具のように身を跳ねさせ俺と向き合うと「ほんっとうに覚えてないんだね。最低」と、低い声で言い、そしてとうとう泣いた。 しかし、本当に意味がわからず、仕方なしに「悪い」と言うと「ず、ずっと悩んで、た――わ、私が馬鹿みたっ……」と鼻声で言われた。機嫌が良さそうだったのが、一気にここまで落ちるのだから、若菜の山の天気より変わりやすい気分は香奈ゆずりかもしれない、とそんなことを思う余裕はあった。昔から、喋っていると興奮してくるのか、喧嘩している途中に感情が高ぶりすぎて泣いていたが、俺以外の男は、きっとこれを鬱陶しいと感じるだろうな、という確信があった。俺も、鬱陶しくないわけではないが、それよりも、本当に何を言ったんだ九ヶ月前の俺は。 わけがわからない現状に、香奈を刺激しないように溜息を噛み殺していると香奈が顔をシーツに押し付けながら何ごとかを言い募ってくる。うつぶせになっているために、散らばった髪を手のひらで梳いてまとめてから、なんとなく白いうなじに手のひらを置いて、その言葉に耳を傾けた。 「み、みる、あげ、なくっ む、ね……しぼっ」 泣きすぎて上手く呼吸が出来ないらしく、かなり聞き取り辛いが、辛抱強く吐き出される言葉を分析する。 「って、言っ……だかっ、はずっ……見られ、たく、な」 が、よくわからない。 困った。 困ったが、とにかく俺の一言で何かしら傷ついたらしい。それだけは確かだ。 「悪かった」 謝罪の言葉を口にして何度も頭を撫でてやると、控えめに鼻を啜る音が聞こえてきて、香奈は手の甲でなんども目元をぬぐって涙を拭いていた。昔はこの涙に胸が熱くなるほど色々な思いを喚起させられたが、今は、その泣き方でその感情がどういう種類に分類されるのかを、まず考えるようになった。 今日はわかりやすく怒っている。そして、一年間自分を悩ませたものが俺にとってはたいしたことではないと知り、たぶん悔しがっている。悲しいのかもしれないが、その差を見つけるのは今の俺には難しい。 しかし、本当に香奈は何が地雷になるのかわからない。などと思いながら頭をなでていると「デリカシーゼロオトコ」と鼻がつまっている所為か風邪の時のような声で言われた。 「お前が気にしすぎなんだよ。小さなことを」 そう言うと、香奈は小さく鼻を啜った。次に発せられた声は、震えてはいたが普通だった。 「若が気にしなさすぎなんだよ。大きなことなのに」 ……言い返すのも面倒になって溜息をつくと、落ち着いたらしい香奈が、今度は、きちんとした日本語で語りだした。 「子供たちにおっぱいあげなくなって、しばらくしたら、若がえっちの時、に……」ここで声が震え、それを落ち着かせるようにハァ、と香奈はゆっくり息を吐いた。「私の胸がしぼんだって言ったんだよ。“つまらない”、って……」ここでまた声が震えて、今度は長めに息を詰めて泣くまいとした香奈は、ひくりと喉を痙攣させてから「だからしたくなかったの!」と強い語気で言った後、泣いてやる、と宣言してまた泣き出した。 十年付き合ってきて、それが俺の性格だと言う事に気付いてほしい。皮肉と嫌味は俺の専売特許と言ってもいい。いや、それは言いすぎだが。 どうやら、俺の言葉は香奈のコンプレックスのど真ん中をストレートに射抜きすぎたらしい。 けれど、そんな俺の言葉で九ヶ月もの間を悩み通す、その馬鹿さを愛しく思う俺は本当に――終わっている。終了だ。そして完了かもしれない。 笑いそうになる頬を意識して引き締め、もう何度目だろうか「悪かった」と言うと「最低男」とぐじぐじと返された。 「悪かった」と声が笑わないように、更にもう一度重ね「つまらなくなんてない」と続ける。それは本心だった。全く覚えていないが九ヶ月前の俺も、“つまらない”と侮蔑する意味で、悲しませる意味で言った訳ではないことは確信できる。 何故だろうか、この、喋っていると興奮してきて一人で勝手に泣き始める女を、どうして好きなのだろうか、と、思う。今まで何度も思った。考えた。しかし、この場合は“好きだ”という結果だけが大事なのであって、過程はどうでもいい。 「豊胸手術とか、色々考えたんだから! で、でも、そんなお金あったら子供たちに回したいとか、色々考えたし、毎日マッサージしたし、身体洗う時だって気をつけたし! ジェルとか塗ってもすべすべになるだけで大きくならないし……お、おっきくなったと思ったら太っただけだったりとか……ち、ちっちゃいって思われたくなくて、色々悩んで……うでたて、ふせと、か……――若のおっぱい星人!」と言われた。 どうやら、本気で悩んでいたらしい。馬鹿だ。 俺が香奈に言う、嫌味と皮肉の五割は愛情表現だろうが。おそらく。覚えていないが。 うつぶせにしていた顔を横に寝かせて、じとりとねめつけてくる香奈に、溜息をつき「俺もお前がどうして避けるのか悩んでたから相子だろ」と言うと「若のは自業自得って言う」と屹然と返された。こいつ……。 「あー……なんか……久々に思いっきり泣いた……若、冷やすもの」 俺が舌打ちを耐えていると、香奈がねめつけていた瞳を伏せてぽつりとそんなことを言う。思っていたことを吐き出して、少し落ち着いたらしき声音に、本当にころころと感情が変わるものだと感心しそうになった。 そして、確かに、冷やさねば明日はその目元が腫れるだろう。香奈の目蓋は薄い所為か、腫れると別人のような顔になる。そして、そんな顔で仕事に行かれれば、俺が殴ったとでも思われかねない。 「自分で取ってこい」 「……忍足先輩に若はおっぱい星人です、って言ってやる」 脅しのつもりらしい。そんなものだったら香奈を娶るわけがない。十年も付き合うわけがない。付き合い始めたときの香奈の胸は、絶対に樺地の胸筋にも並ぶ事が出来なかったのだから。 「お前、自分の胸を見てみろ。説得力がないと思わないか」 「……一生えっちしない。絶対」 馬鹿が可愛いのではなく、馬鹿で可愛い。あまりにあまりな拙い脅しに、頭の中でそんな言葉が思い浮かんだ。 別にその言葉に脅されたわけではないけれど、そっとベッドから下りながら、仕事関係の飲み会での、先輩既婚者らの嫁への愚痴談義の中で、自分だけが心の中で“そんなことはない”“そうではない”と反論したことを思い出す。本当に自分は彼女が好きなのだな、と自分の中で何度も思ったことを再び思う。先輩らは“結婚している意味はない”“いい女がいたら嫁と別れる”などと言っていたけれど。 どうしてだろうか、香奈しか、やはりありえない。 「若……?」 俺の無言の行動に戸惑ったように呼びかけてくるのを無視して台所の冷蔵庫から、生菓子を買ったときに、ついてきた小型の保冷剤を取り出して寝室へ戻る。 「目、閉じろ」 俺の命令に素直に顔を向けて目蓋を下ろした香奈の、そこへ冷たい塊を置いてやる。冷たさに、香奈の身体がふるりと震えて、それから保冷剤を押し留めている俺の手に、香奈の手が重ねられた。 次いでかけられた「若」と言う言葉に無言でいると「えっちしたくないわけじゃないんだよ。でも、若に……小さいって思われるのが怖い……んだと、おもう。たぶん……」また泣きそうな声で言われる。本当にコンプレックスだったようだ。昔から、何度かこんな胸でいいのかというようなことを酷く遠回しに聞いてきたが、まさか、今でもとは。 溜息を、返す。 「それが嫌だったら十年も一緒にいない」 「でも、なんかね、やなの。それに、最初の頃はえっちしてなかったから、大きさ、わからなかったでしょ」 ……いや、平らとまでは言わないが、制服の上からでも水着姿の時でも、香奈の胸がさほど大きくないことはわかっていたし、何を今更そんなに気にしているのかと、本当に唖然とすると言うか、なんと言うのだろうか。少なくとも馬鹿は当てはまるだろう。 そんな馬鹿の、胸のふくらみに目を落とす。樺地の胸筋よりは、余裕でありそうだった。 「でもまあ、あの頃よりはだいぶ大きくなったな」 「……異星人が無駄に触りましたしネ」 いまだにおっぱい星人というのを引っ張っている香奈にほとほと呆れたが「まだ他に、俺に言われて悩んでいることはあるか?」と聞くと「いっぱいありすぎて、言えない」と普通の調子で答えられた。少しは俺に気づかえと思ったが、先に気づかいのない言葉で香奈を傷つけたのは俺なので、堪える。そこは世辞でも良いから“ない”と言うか、二つ三つ例をあげるべきだろうに。 「若はある? 私に言われてヤだったこと」 けれど、答えは普通だった癖に、逆に、俺への問いは、わずかに怯えが混じっていた。俺には“いっぱいありすぎる”と答えたくせに、自分の番になるとそれか、と呆れないでもなかったが「俺は嫌だったらすぐに言う」と素直に答えてやる。まあ多少我慢している部分もあるが、別に悩みではない。 その答えに、香奈は安堵したように、ふわりと口元を綻ばせて「そか」と明るい声で答えた。ライトに照らされて光を透かす香奈の髪を指で梳きながら、やはり悪いことを言ってしまったなと思えば「つまらないなんて言って、悪かった」と、何度目か謝罪の言葉が口をついた。 すると「うん……むね、大きくなるように頑張るね」と、明後日の方向で答えられる。 こういう馬鹿な一面が、けれどまったく俺にとってマイナスにならない特殊能力の持ち主は、瞳の上の保冷剤を乗せたまま「協力してくれる?」と、幼さの抜けた、けれど滑らかな肌の、けれど華奢な腕の、けれど小さな手のひらの、けれど細い指先の、けれど薄い爪先を、俺に向ける。 「勿論」 その手を受け止めて、そう答える以外の選択肢は、この世にあるのだろうか。 |