怪獣vs俺様mini
 天使のような、可愛らしい顔をした男の子が一人。
 日吉家で大暴れしていた。

 名前 跡部 彰吾
 読み あとべ しょうご

「しょーごくんずるいー!」
「ずるくねぇよ!」
若菜のほうがしょーごくんよりおねえちゃんなんだよ!」
 クッション爆撃の中、龍星が一人でもくもくと小三・算数ドリルを解いている。
 しかし、その顔には、明らかに「うるさい……」と書いてあった。

 日吉 若菜(四歳)
          ヴァーサス
               跡部 彰吾(三歳)

 外野、日吉 龍星 四歳

 とりあえず、現状は惨状。
 香奈が飾った花瓶は水と花とを撒き散らして倒れ、電話はサイドボードから床へ落ち外れた受話器が“ツー……ツー……”と不満を示し、ドアの前張り板に若菜の蹴りで穴が開き、フローリングに散らばったクレヨンの上をだしだし歩くので足の裏も床もクレヨンだらけ、二人に投げられたクッションはいたる所で物にぶつかっている。
 若菜が思いっきり投げたクッションが、龍星の後頭部に当たった。
 ――ぷっちん

「やめろよ!!」

 四歳児、龍星、キレました。
 歳の近い彼を兄のように慕っている彰吾が目を瞠って固まります。
 若菜にいたっては大声にビックリした瞬間に泣き出しました。
 近くのスーパーに買出しに行っていた香奈が一〇分後に帰って来た時には室内は破壊を極め、彰吾と龍星は、砕け散って床にこびりついているクレヨンを汚れた手で一つ一つ抓んで片付け、若菜は騒音注意報が鳴り止まない。

 香奈は、とりあえず、いきなり怒鳴りはしなかった。
 まずは、片付けていた龍星と彰吾を褒めた後、どうしてこういう経緯になったのかを聞いた。
 彼らなりに理由はあるはずと、一所懸命に理解しようとしたけれど、とりあえず、全く意味不明で理解不能だった。
 なんとなく、龍星が勉強をしていたらしいことだけはわかる。
 仕方がないので、反省している彰吾には「もう、しないでね」と困った笑顔で頭を撫でてやってから「龍星くん、ごめんね。大変だったでしょ」とその頭を撫で「でも、龍星くんは、彰吾くんよりもお兄ちゃんだから、ダメなことしてたら、ダメだよって教えてあげようね」と頷く龍星の頭を再度撫でた。
 大変に物分りの良い二人に、掃除の続行を命じると、香奈は難関に立ち向かった。

 若菜 。

 日吉家長女の彼女は二歳の時点で“怪獣”の異名をとっていた。
 とりあえず、怪獣並の「ぎゃあああああああ」と泣き声を上げ続けている娘に向って手を伸ばし、抱きしめて背を撫でてやる。昔からだが、若菜は「ひぃーん」とか「ふぇーん」とは泣かない。いつでも思い切りよく喉を震わせる。
 泣く以外に何かを言っているようだが、内容的には龍星が嫌いだとか怖いとか悪いとか、若菜は悪くないとか、とりあえず彰吾が、とか、責任転嫁バリバリの内容だったので香奈は溜息が零れそうになった。
 さらには、ひっくひっくと喉を鳴らしながら「まますきー」と泣き落とし。
 まま、好きだから怒らないで、という所なのだろう。
 同じように育てたのに、若菜は妙に甘えん坊で、甘え方が上手い。

 可愛い、と思う気持ちが五分、九割五分は、どうやって若菜にミスを認めさせ、してはいけない事だと認識させるか。
 いや、香奈に怒られると思っている時点で、悪いことをしていると、何となくはわかっているのだ。
 それに、遊びたくて遊んだのに、叱るというのも、子供からしてみれば酷く理不尽だろう。
 遊び方を教えるのが良いのかも知れない。いや、そんなことをしても自分の好きな遊びをしてしまうだろう。
 さて、何と切り出そうか――

若菜ちゃん」
 それだけの言葉に、びく、っと可哀相な位震える小さな身体。
「一緒に、お掃除しよっか?」
 今は何と説得しても無駄。
 若菜を抱き上げながら、子供の手では荒れてしまうだろう洗剤と、雑巾を掃除道具の閉まってあるクロゼットから取り出した。どうせ、洗剤を使うのは香奈だ。
 片手で洗剤と雑巾を手に、片手で四歳児を抱くのは、華奢な香奈には少し辛かった。

「ない」
 流石に泣き疲れたのか、ふわふわとした頬を香奈の胸に埋めて弱々しく――それでも、反抗。
若菜ちゃんも、彰吾君と、龍星君と、一緒に遊んだんだよね?」
 ずり落ちそうになる娘の重みに、とりあえず、香奈は一度膝を付いた。
 若菜は首を振る。何もやっていないと訴え、しゃくりあげながら「まますきー。すきー」と連呼する。
 いじらしくて可愛いけれど、ここは無罪放免にすることは出来ない。
龍星くんと、彰吾くんがお掃除してるのに、若菜ちゃんがしてないと、お父さん、若菜ちゃんがお掃除サボってるなって思うかもしれないよ?」

 “お父さん”、これに若菜は反応した。
 若菜の初恋は――ありがちながら実父の日吉若なので(ちなみに龍星は若の兄嫁に恐ろしく懐いている)聞き流せない単語なのだろう。
 けれど、四歳児。
 やっぱりやらないと主張。
 しかし、香奈としても、掃除くらいさせないと、他の二人にも示しが付かない。
 ごめんね、大人は卑怯で、と思いつつ、香奈は言った。

「じゃあ、若菜ちゃんは遊んでお部屋を汚したのにお片付けもしない悪い子になっちゃうよ」
若菜いいこ!」
 再度、滝涙で大鳴き。
 近所迷惑にならないように、さりげなく口を押さえるように抱きしめる。
「そうだね。若菜ちゃんはいいこだから、お掃除しよ?」
「ないっ!」

 どうするべきか、叩くべきか、大声で怒鳴るべきか――それとも、ああ、また、卑怯な戦法でゴメン、と香奈が思ったとか思わないとか。

「ママ、毎日お掃除してるのに……こんなに汚れちゃって悲しいな……若菜ちゃんはお掃除手伝ってくれないし……仕方ないから、掃除してくれてる龍星くんと彰吾くんにだけ、苺ババロアをご褒美であげようかな……」

 と、食べ物とママ悲しい作戦で行った瞬間に、がちゃり、とドアの開く音。
 一拍の間があった後に、ひどく冷えた声が降った。
「――若菜龍星、この部屋はどういう事だ?」

 さっさと、香奈の説得で折れておけばよい、という事を若菜が学ぶのはあと六年後。

 それは、それは、若菜は思い切り叱られた。
 それでも自分は悪くないとぎゃあぎゃあ泣き喚き「おとうさんすきぃー!」と泣きながら訴えた。
 若は、さすがに香奈よりもその泣き落としにグラっときたようだったが、罰として尻を叩くと言ったあたりで若菜が泣きながら折れた。
 若に嫌われたくない一心で若菜は掃除を頑張った。

 掃除が終わった後、鞭の時間が終わり飴の時間になる。香奈の手作りの苺のババロアを食べる三人の子供は先ほどの大騒ぎがなかったことのように機嫌が良さそうだった。
 しかし、掃除やら遊びやら泣きやらで疲労していたらしい三人は、ババロアを食し終えると、ソファでまったりとし始め、三分後には全員睡眠。
 香奈は微笑ましげに笑いながらタオルケットを三人にかけてやる。
 そして、床に腰を下ろして、ソファの上に並ぶ三人の寝顔を眺めた。
「寝てると天使なのになぁ……疲れた……このー……がきんちょさんめ」
 つんつん、と若菜の頬を指でつつく。
 よほど熟睡しているのか身じろぎもせず、くーくーと寝息を立てている。
 それにしても子供の泣き声、大声は声が高い分耳が痛い。香奈は、まだ、耳の奥でキーンとなっているような気がし、思わず耳の穴に小指を入れてみた。

「でも、さっすが跡部先輩の子だよね。すごい。天使みたい。可愛い」
 若を振り返って、同意を求めるように微笑む。
 レモネードと梅昆布茶を両手に、若は肩を竦めて返した。
 それから香奈の頬に、レモネードの入ったカップを軽く押し付ける。香奈は両手で受け取りながら、ありがとう、と一言返す。
 立ったまま、子供達を見下ろしていた若は、湯のみを片手にテーブルの椅子を引き、書類作成に勤しみ始める。まだ、担当クラスは無いが、一学年の数学を担当しているので、仕事は少なくないことを香奈は知っている。
 しばらく、リビングは寝息と、筆記用具のカリカリという音と、時折もれる香奈の笑声だけという、静かなものだった。

「もう一人、欲しいな」

 突然紡がれた香奈の言葉に、若が虚を突かれて不快そうに返す。視線は紙面から離さない。
「馬鹿いうな」
「でも、出来ちゃったらどうする?」
 悪戯っぽく告げられる言葉に、若は思わず視線を上げ、香奈を見つめる。
 ――否、睨む。
「……お前、まさか……」
「大丈夫。ちゃんと飲んでるよ。睨まないで。ごめん。ごめんね?」
 ソファのサイドボードにカップを置き、両手を顔の前で合わせて、若の不機嫌の度を窺うような香奈の視線に、若は目を眇めて返す。
 若の酷く冷たい視線に、香奈は苦笑と溜息を同時に漏らすという高度な芸当をした後、眠る三人へと視線を移し、レモネードを煽った。
 ゆっくりと立ち上がると肩を回しながらキッチンへと。
「夕飯、用意しなくちゃ……彰吾くん、食べていくのかな?」
「さあ……跡部さんがいつになるか」
 作業をしている若に、香奈が背後から軽く声をかける。
「じゃあ、一応作っておくね。あまったら、若食べちゃってよ」
 無言を肯定と受け取った香奈は米を研ぎ始める。
 色々とあって疲れたからか、欠伸を噛み殺しながら、香奈は調理を始めた。

 ちょうど、料理が出来るころには遅めの昼寝から、まずは彰吾が起き出して来た。
 目を擦る動作を、少しだけ窘めてから、まだ、とろんとした様子に、香奈は笑った。
 ソファに座らせると、彰吾は持ってきていたという、簡単な英語の聖書の絵本を読み始めた。

「Don’t be afraid. I am with you.ってどういう意味かわかるか?」

 わずかに頬を染めて目をキラキラとさせる彰吾。
 その視線は、“わからないだろ? 俺はわかるんだぞ! ”という、なんというか、兎に角香奈には可愛かった。
「んーん、わかんないなぁ。彰吾くん、教えてくれる?」
 仕方ないな、というスタンスで、彰吾は、テーブルに料理を並べている香奈に言った。
「恐れないで。私はあなたと一緒に居るからって意味なんだ」
「すごいね! 彰吾くん、英語読めるんだ」
 ふふん、という様子で褒められた事で嬉しげに胸を張る彰吾。
 その姿が可愛くて可愛くて、香奈はにこにことしてしまう。
 が、仕事に夢中な若が、香奈が料理を並べているのに、そのテーブルで資料を作っていた。
「わーかし。ご飯できたから。彰吾くんたちに手を洗わせて?」
 珍しく気の付かない若に、少しばかり意地の悪い声で願う香奈
「ん? ……ああ」
 若は、初めて夕食の存在に気づいたかのように目を瞬かせた。
 酷く緩慢に立ち上がりながら、作成中の書類をまとめ、プラスチックのケースに仕舞い、若にしては珍しく横着に、料理の並ぶカウンターの横に置いた。

 なんやかやで、食事が終わる頃、跡部景吾から電話が入り一〇分後には日吉家に到着とのお達し。
 彰吾に帰り支度をさせようとした所、日吉家に泊まると言い出した。
 そうこうしていると景吾が訪れ、リビングで優雅に香奈の煎れたコーヒーを啜るという風景が現れた。

「よぉ、彰吾。俺に会えなくて寂しかったか?」
「そんなわけ無いだろ」

 三歳って……ううん、人によっては二歳もそうだけど、ほんと、達者に喋るよね――、と香奈は感心しながら思った。
 いや、若菜にいたっては一歳でマシンガントークだった。何を言っているのかは誰にも解からなかったけれど。
 三輪車爆走隊・初代隊長日吉若菜は、今は、ソファに座っている香奈の膝の上にちょこんと座って眠そうな目を擦り、香奈にそれを抑えられていた。

「――それより、彰吾、お前、帰りの準備はどうした?」
「俺、今日ここに泊まる」
 間。
「――日吉たちが構わないなら俺も構わない。お前ら、明日何か予定あんのか?」
 ……今まで双子のことでとても世話になっているのに断れるわけが無い。
 明日は近場の大きな公園にでも行こうかと思っていた香奈も若もその一点で以心伝心した。

「あんまり迷惑かけるんじゃねぇぞ?」
「わかってるよさっさといけよ」
「まったく、可愛げってもんがねぇな。誰に似たんだか。――じゃ、こいつ頼む、日吉」
「さっさといけって」

 それでも、彰吾は香奈と若には一応、子供なりの礼儀を示すのだから、かなり良くできた子供だろう。

 ◇◆◇

 ――就寝、三分後。

「彰吾くん、眠れない?」
 彰吾は、香奈に抱かれていた。
 ぐすぐすと鼻を啜っている。
 泣いているのだ。
 背を撫でても泣き止まず、香奈のパジャマに彰吾の鼻水が付いた。

「おうち、帰る?」

 香奈のその一言に、躊躇いがちに彰吾は頷いた。
 子供は、どんなに生意気でも、子供なのだ。
 ふわふわとしたその癖のある髪を指で梳かして撫でながら、香奈は若に景吾に電話するように頼んだ。
 跡部邸に彰吾を送ると、これぞ美人妻! とでも言うべき景吾の嫁が、申し訳なさそうに香奈と若に頭を下げた。
 彰吾は、母に抱かれると、すぐに泣き止み、あっという間に寝息を立てた。
 やはり、実の母親には叶わない。

「そういえば」
 香奈は、若の運転する車の助手席で、今思い出しました、と言わんばかりに声を上げた。
 一瞥もせずに、若は「なんだよ」と問う。
 すでに二十二時を回っているが、道路には、まだまだ沢山の車が走っていた。
 その中を勝手知ったる裏道を使う若の横顔を眺めながら香奈は、ふふ、と笑う。
「初めて、龍星くんと、若菜ちゃんが、ママの家に泊まった時も、夜はあんな感じだったね」
 それを思い出したのか、若も少しだけ笑った。
 今では、若菜龍星二人だけで飛行機に乗ることもできる。
 もちろん、国内線限定で送迎必須だが。
 そんな香奈のとりとめもない話に、若は気が向けば言葉を返す。
 家に戻ったとき、ふと目覚めたら両親がおらず、不安に泣きじゃくる若菜と涙目の龍星に出迎えられるとは露知らず。