| 日吉家リビングのローテーブルでは若菜と彰吾がエドエンバリーの絵本を見ながら、動物を描いている。簡単な形の組み合わせで動物の描き方がわかりやすく記されている絵本は、香奈が買ったもので、四歳になる若菜はこの本がとても気に入っている。 先日、彰吾と一緒になって家を荒らしまわった若菜は、若に叱られてから大人しく遊ぶようになった。気持ち程度の差で、だが。 若菜と彰吾は馬が合うらしく、今のように一緒に居ることも多い。 龍星は、同じかくなら絵ではなく漢字を書きたいらしく漢字ドリルを隣でやっていた。 しかし、 「やぁーだー! 若菜がうさぎさんかくの!」 「描けばいいだろ!」 「しょーご君ピンクとったらやだ!」 「うさぎはピンクじゃねぇよ!」 「カエルだってぴんくじゃないもん!」 最近、亀と蛙の違いを理解し始めたにしては偉そうな物言いをする若菜。ちなみについ先日、竹林でアマガエルを発見した若菜は“かめぇー! ”と全力で間違えながら綺麗な緑色のくりくりとした瞳をもつアマガエルの乗った両手を香奈に差し出し、香奈は悲鳴を堪えて“アマガエルさんだよ”と笑ったという出来事がある。 「順番で書けばいいのに……」 ぼそり、と呟いた龍星は、それでも、混ざる気はないらしく若の指定しているHBの鉛筆をかりかりと動かしていた。 そんなことには目もくれず、ぎゃーぎゃー言い合う若菜と彰吾。――しかし、彰吾がとうとう折れた。 「……わかったよ。使えばいいだろ!」 しぶしぶと彰吾がピンク色のペンを若菜へ差し出す。 不承不承な彰吾とは対照的に若菜は嬉しそうに受け取った。 「ありがとー彰吾くん好きー♪」 さっきの半泣きはどこへやら、にっこりと笑った若菜が彰吾に、いわゆる”ほっぺにちゅー”。 ソファで子供達の様子を微笑ましげに洗濯物を畳む香奈と、その横で帰宅直後からダイニングテーブルで宿題の採点をしている若と。 若は、家族でいる時間を増やそうと、自宅へ仕事を持ち帰る事が多い。 香奈も自宅作業が少なくはないので若菜と龍星は両親の働く背中をよく見ている。また、香奈も若も両親の働く背中をよく見ていたので、余り好まない人も多いだろうが、二人は仕事を自宅に持ち込むことに特に違和感はないようだった。仕事をしているときは邪魔をしてはいけないと言う事を子供たちはそれなりに理解しているようで、余り邪魔をしてくることはない。 双子は最近、一緒に遊んでいる事も多く、祖父母――若と香奈にとっては両親――に預ける回数もほんの少しだが減ってきた。 二人とも働いていると、自然と家事も育児もシェアするのが当たり前になっている。 手が足りなければ、特に香奈は、無理をせずに親やナーサリーへ子供を預ける。その分一緒にいられる時は、子供達が邪魔だからナーサリーや祖父母に預けたのだと思われないようにと、ある意味切羽詰っているほどの愛情表現をしていた。祖父母には、初孫という事で双子はかなり可愛がられている。 「若菜はどこで覚えるんだ、ああいうのを……」 涼しげな瞳を眇めて、彰吾と若菜を眺める若に香奈はくすくすと笑い表情の読めない若を横目で見る。 「さぁ?」 これから、跡部邸でパーティがあるらしく、準備中だけという理由で彰吾を預かっていた。あと一時間もすれば準備を終えた景吾が迎えに来るだろう。 「仲良しさんで可愛いよね」 「まぁ……な」 生返事に、香奈は少し首を傾げて、若菜たちを見やってから、横の若を見、明るい声で話し始めた。 「この間ね、外ですごい咆える犬がいたんだけど、龍星くんってば、私と若菜ちゃんを守ろうとするんだよ。もーすっごく可愛いの! それとね、ちょっと意地悪な子に意地悪なこと言われたんだけど、龍星くんも若菜ちゃんもお互い庇い合うんだよ。いつも家では喧嘩ばっかりだけど、もうちゃんとキョウダイなの」 若からの返答はない。 彼の採点の手が止まっていることを確認し、香奈はなおも話しかける。 「わかしー? 聞いてないよねー?」 「ああ」 あまりにもあまりな生返事に、香奈は思わず噴出してしまった。 「若菜ちゃーん。お父さ――」「遊んでるのに邪魔するな……いや、なんでもない。若菜は彰吾くんと遊んでいなさい」 手で、彰吾の方を示すと、香奈と若のそばまで歩いてきた若菜は「はぁぁぁぁい」と妙に長く大きな声で答え、また彰吾の隣で絵を描きだした。 そのやりとりと、若の対応に苦笑した香奈は手を止めずに洗濯物タワーを建設していく。 若もちらりと香奈を睨んでから、採点を開始した。 それから十分ほど経つと若菜がととと、っと駆けてきて、洗濯物タワーを豪快に倒しつつ香奈の服を引っ張った。倒された洗濯物の山に香奈は少しばかり哀しそうな顔をした。 「ママ、アイスー!」 「ママはアイスじゃありません」 香奈は冷たく言って、ぷいと顔をそらしながら手では倒れた洗濯物を正した。畳みなおす気はないらしく、ただ、乱れを軽く正しただけだ。子供が二人もいれば洗濯物の量もかなり多いので、小さなコトは気にしていられない。 「違うの。ママ、若菜アイス!」 ぐいぐい、と遠慮なくひっぱるので香奈は服が伸びないように苦心して若菜を抱き寄せた。 「若菜ちゃん、彰吾くん、これからパーティなの」 「彰吾くんじゃなくて若菜にアイス!」 それでもぐいぐいと香奈の服を引っ張る若菜。安い上に可愛いお気に入りのニットを守るべく、若菜の小さな手を握って何とか服から放させる。 「あのね、彰吾くん、パーティでご飯を食べるの。ご飯の前だから彰吾君はアイス食べられないの」 「違うの! 若菜! アイス!」 主張をする時は無駄に元気な娘の声に香奈は少しだけ笑ってしまう。 「彰吾くんはアイス食べられないのに、若菜ちゃんだけアイス食べるの?」 「うん!」 「若菜ちゃん、アイスは彰吾君がパーティに行ってから食べようよ」 「やだ! 若菜アイス食べたい!」 「いいこだから我慢しよ? 若菜ちゃんもあとでご飯だよ。今日はカボチャのスープもあるよ」 「やだー!! やだやだやだやだやだああ!」 ぎゃんぎゃんきんきん喚く若菜に、それでも香奈が絶対に引かないという態度だったため、今度は若に泣きついた。 「おとーさん! ママいじわる! 若菜アイス!」 すでに単語を並べ立てているだけだ。 若は、採点していた宿題から顔を上げて、若菜の頭をぽん、と一つ撫でてから「アイスは夜ごはんを食べてからだ」と、取り合わなかった。 「若菜はいい子だから我慢できるだろ?」 説き伏せるように続けた若の言葉に、若菜は首を真横にぶんぶん振った。 「若菜わるいこだからアイス食べる!」 その言い草に、香奈が小さく笑う。 「ウチには悪い子にあげるアイスはない」 小さく溜息を吐きながら若は言うが、龍星なら気付くそれも、若菜は気付かず諦めずめげずに要求してくる。 「なんで? 若菜アイス食べたい!」 要求が通らない事に泣きそうになる若菜の助け舟は彰吾だった。 「俺、平気です」 子供特有の高い声でそんなことを言う。 「若菜にアイスあげていいです」 三歳児。彼は三歳児なのだが、跡部家の教育がいいのだろうか。三歳と言えば会話も出来ない子供もいるというのに。 けれど、夕飯前にワンカップの、もしくはスクープで掬い取った分のアイスを食べさせれば、若菜は絶対に夕食を食べない。 そして、夕食後少ししてから、腹が減ったとまた甘味をせがんでくるのだ。 「彰吾くん、好き! ほらね! 彰吾くんいいって!」 鬼の首でも取ったように言い放つ若菜に、香奈は苦笑する。香奈は若をちらりと見てから、ゆっくり立ち上がった。 「じゃあ、三人で分けっこね。若菜ちゃん、彰吾君にありがとうって」 若菜は香奈の言葉に頷き、礼とともに今度は幼い彼の唇にちゅーしたのだった。 一瞬、若が固まるのがわかった香奈が、それを見なかった事にしてキッチンへと向かい冷凍庫をあけ、一番カロリーの少ないアイスを選び出すとプラスチックの器にナイフで三等分に切ったカップアイスを乗せた。 その頃、リビングでは若による若の為の若菜への説教が始まっていた。 「若菜」 「なぁにー?」 「若菜は誰と“ちゅー”するんだ?」 「彰吾くんとー、おとーさんとー、ママとー、いーちゃん(おじ“いちゃん”)とー、あーちゃん(おば“あちゃん”)とー、龍星くん!」 「そうか……“ちゅー”は大事なものだから、あまり色んな人にしないようにしなさい」 「なんでー?」 「なんでも」 「おとーさんには?」 「お父さんはいいんだよ。でも、いい子だから、お父さんと約束してくれ」 「ちゅーしちゃだめなの?」 「いっぱいしたら駄目なんだ」 「いっぱい?」 「そう、いっぱいしたら駄目だ。約束してくれるか?」 若が小指を若菜に向けると、若菜は小さな自分の小指を絡めて 「約束するー! ゆーびきーりげんまん、うそついたら、はりてんぼんすーます! ゆびきった!」 と元気よく言った。音だけで何となく歌を覚えていたのだろう。 「若菜、針千本飲ます、だ」 若のツッコミに香奈は笑ってしまいながら盆に乗せたアイスをリビングへ運び―― 「ああっ若菜ちゃん! 洗濯物ぐじゃぐじゃ……」 悲痛な香奈の声に、その事に今気付いたらしい若。 若菜は洗濯物の山の中に居たために、正しようもなく洗濯物が踏みつけられ、乱れていた。 「わかしー……?」 香奈はそれを注意しなかった若に剣呑な視線を送る。 その香奈の視線に若は一つ溜息を吐くと洗濯物に手を伸ばした。 「悪かった。俺も手伝うから」 「当たり前です。――あ、彰吾くん、龍星くん、若菜ちゃん、アイスだよー。手、洗ってきてね」 香奈の言葉に、三人は素直に洗面所へと、とてとて連れ立って歩く。 その背中を見送り、ローテーブルに三つの器を置き、紙やらドリルを一度、ダイニングテーブルに退けた。 そして。 「若」 呼ばれて、仕方なさそうに洗濯物を畳んでいた若は香奈へと視線を向ける。 香奈はそんな若の姿に小さく笑い、若の頬に手を添えて、軽いキスを贈った。 「いっぱいしちゃダメなら、若が一番気をつけないと」 「俺は大切な人にしかしない。例えば、香奈とか」 その答えに、ほんの僅かに香奈が頬を染め、それを見止めた若は軽く笑う。 そして、今度は若から香奈へ、それを返―― 「手ーあらったよー!」 若菜の元気な声がリビングのドアが開くと同時に、響いた。 ◇◆◇ 彰吾が跡部邸へ戻ってから、ほぼすぐに夕食となった。 元々、彰吾が来る前から作ってあったものなので温めるだけの簡単な食事だった。 四人掛けのテーブルで若菜と若が並び、若菜の前に香奈、若の前に龍星、という、いつもの並び。 「あのね、若菜、おっきくなったらおとーさんのお嫁さんになるの!」 にこにこと、トマト煮込みハンバーグのソースを口の周りにくっつけた若菜は笑って言った。その言葉に若は優しげに笑う。 大きな手で娘の頭を柔らかく撫でながら「そうか。じゃあ、うんと綺麗になってもらわないとな」と言ったのだった。 若菜は、その言葉に勢い良く頷いたが、若は「口にトマトがつくような食べ方は綺麗じゃない」と釘をさす事も忘れなかった。 何だか満足そうな“お父さん”の穏やかな視線に香奈は少し笑ってしまう。 「若菜ちゃんにお父さん取られちゃったら、ママ一人ぼっちになっちゃう」 少しふざけた香奈が、龍星に悲しそうにこっそり話しかけてみる。 すると龍星は、小さい手で一生懸命に箸を操っていたが、香奈の言葉にハンバーグから視線をはずし、香奈を見上げて「ママはぼくのおよめさんになればいいんです」などと言う。 それを聞いたときの香奈は満面の笑みで、その顔には“本当に可愛いなあ”というような事が書いてあった。 「そっか、ママは龍星くんのお嫁さんになればいいんだね」 「はい」 龍星も若菜も“およめさん”の意味をよくわかってはいなかったが、それでも、こんなに可愛い事を言われれば若も香奈も悪い気などするはずもなく。 しかし、いくら可愛いからといって口をあけて食べることも肘をつくことも二人は許さなかった。 特に若は茶碗に親指をかけることも、箸を舐ることも、はしで突き刺すことも許さず“将来どこへ出しても恥ずかしい事のないように”と食事中はひどく厳しい。 しかし、子供の小さな手指では、若の言うとおりにすることは容易に出来ず、若菜が癇癪を起こして箸を投げ、若に怒られ、説教タイムになりそうだったそこに、香奈が今日は駄目だったけど明日は頑張ろうね、と口を挟んで何とか二人を宥めたのだった。 若菜がおよめさんになる頃には、きっとこの若の厳しいマナー教室に感謝することだろうと思いながら香奈は幸せな気持ちで箸を進める。 |