大人の付き合いというヤツでどうしても逃げられなかった忘年会。 二次会前に強引に帰るつもりだったのに無理矢理に引き止められて終電に乗りそこね、大枚はたいてタクシーに乗り、やっと家へ戻れた。 煌々と明りの点いたリビングに入るなり、私を待っていてくれた若の顔を見るなり。 「しごとしたくない……」 ただいま、と言う前に、私がそう言ったので、若もおかえり、と言ってくれなかった。 鼻をすする私を、目を眇めて若が見てた。 「何言ってるんだ」 呆れた顔で私の言葉に返す若に、なんか、本当に泣きそうになりつつ私は訴える。 「もぉやだ。もぉいや。もぉやだぁ。しごときらい!」 喚く。 自分でも、このキレ方は若菜ちゃんにそっくりだと思った。 若もそう思ってることだろう。 でも、やなんだもん。 もーやだ。 いや。 「落ち着け。若菜と龍星が起きるだろう」 ソファに座っていた若が、私の大声をたしなめながら、ゆっくり立ち上がった。 涙でちょっとぼやけた視界のまま、立ち上がった若を見上げてると、若は私に近付いてきて、私の後頭部のまるみを包むみたいに手を置いて、強く引き寄せた。 半分転びそうになりながら私の顔は若のシャツにつっこんだ。 鼻の頭が硬い胸に当たって痛かったけど、若の体温があったかくて。若の匂いが心地よくて。 それだけでほっとする。 涙出てきた。 ああ、なんで。 なんで、こんなに好きなんだろう。 若が傍にいるだけで、嫌な事も辛い事も消えていく。溶けていく。 ぎゅ、っと抱きついたら頭をぽんぽんと撫でてくれた。 「香奈、もし、本当に仕事が嫌なら、辞めろ。少し休んだらどうだ」 え? それって会社やめろってこと? え? ちょ、ちょっと…… 私が何で落ち込んでるかを聞く前にそこまで提案されるとびっくりなんですが、若さん。 急な話の進みっぷりに驚いて、若の胸に埋めていた顔を上げて若を見上げると、多分、目が涙で濡れていた所為。若が軽く目蓋にキスを落とした。 反射的に目を瞑ると、涙でちょっとだけ睫毛が濡れるのがわかった。 「前から考えていたんだ。俺も、今ならそれなりに収入がある。香奈が無理に働かなくても裕福とまではいかないだろうが、普通の生活はできる。若菜や龍星の為にも、母親は家にいた方がいいんじゃないか?」 若、そんな事考えてたんだ。 呆然と若を見上げてると、動物が反射的に目を閉じるような、強めの力で頭を撫でてくれて、私も思わず目をつむってしまった。 急に真面目な話をされて、どうやって答えようか考えてると、先に若が口を開いた。 「もちろん、香奈が仕事を続けたいのなら、反対しない。それでも俺は、母親は家にいた方がいいと思うんだ」 初めて会った時と変わらない若の瞳。 今は心配そうに揺れてる。 そっか。 そうだよね。 私の帰りをやきもきして待っていたんだよね。 それで、私ってば帰ってきた途端に泣き言を言い出したしね。 心配もするよね。 「いえはすきだよ」 ぁ、ちょっとだけ飲まされたお酒の所為で発音が怪しい。お酒飲んだことばれるかな。怒られたらやだな。前に飲むなって言われたし。 「でも、ほかにもいっぱいすきなものがあるの」 確かに、ママもパパも働いていて、私は寂しかった。 お兄ちゃんがいても、パパやママとは違うから、やっぱり寂しかった。夜暗くなるまで学童保育にいるのは、友達がいて面白かったけど、やっぱり少し寂しかった。 でも、働いてるママは活き活きしてて、楽しそうで、頑張ってて、私から見ても素敵だった。 お家の中で、家事だけをして、家族を愛して生きていくのも、悪くないなって思うけど。こんなふー会社でのやな事なんかなくて、近所づきあいに緊張しながら、周りのママさんたちと穏やかに笑っているのも、素敵だけど。 若だけに負担をかけるのもいやだし、ママみたいに素敵に仕事したい。 それに、今の仕事は、今日みたいにやだなって思うこともあるけど、イヤなことばっかりじゃないから。もうちょっと、頑張ってみたい。 頑張ったら、頑張ったことが、私の糧になっていくって思うから。 後の事はわからないけど、今は、まだ、やめたくない。 ああ、私、結構、仕事も、会社のひとも、しごとでであっていくひとのことも、すきなんじゃん。 「香奈の好きにしたらいい」 なでなで、というよりも、ごしごし、というように頭を撫でられた。 「うん、ありがとぅ……」 私は若にぎゅっと抱きついて頷く。 若は溜息を吐きながら私の頭をまたごしごし撫でた。 「それにしても、酒飲んだのか……泣き上戸の癖に」 あ、やっぱり呂律回ってなかったですか……。 呆れたように言う若に「のまされただけですー」ってほっぺたを膨らませて反抗してみる。若はまた溜息を吐いた。せんせいこのひとひどいです。 それから、若はふっと笑って私のほっぺたを両手で包んで、押した。ぷひゅー、とほっぺたの空気が抜ける。若が顔をゆがめなかったので、私の息はお酒臭くなかったっぽいです。ほんとうに、ほんとうにちょっとしか飲んでないしね。 「で、今日は何があったんだ?」 いくら酔っ払いでも言いづらい事はあるんだけどな。 そ、そんな真っ直ぐに見ないで下さい。若は先を促さないけど、逆にそれがなんとなく居心地悪い。 …… あー えーと うぅーん もぉいいや。 言っちゃえ。 開き直って口を開いたら、思ったよりもマシンガンみたいだった。 「おんなは かわいければ しごとできなくてもいいから いいよなー、って、ゆわれた。 それと、おなじとしのこが すごくて。 あたらしい てんぽの でざいんとか かんぺきで。かっこいくて。 わたしは しごとざつだし へただし おそいし のうりょくないし だれでもできる しごとなのに それも ちゃんとできないって おもうと へこんだ」 愚痴。 だめだ、よっぱらってると。 言わなくていいことまで言っちゃう。 言ってたら涙出てきた。 こんなこと大した事ないのに。 いつもなら“言いたい人は言えばいいさ! ”って思ってるのに。 いつもなら“私は私に出来る事をやるんだ。”って思ってるのに。 なんで、こんなに落ち込んじゃうんだろう。 落ち込んじゃうのは嫌い。だって、悲しいし、苦しいから、できるだけ落ち込んでたくない。できるだけ幸せなことを考えてたい。 のに―― 若は何も言わなかった。 でも、溜息は吐いた。 このひとさっきから溜息つきすぎです。 「でも、しごとはきらいだけどすき」 「そうか」 「いいしごとできるとね、うれしいの」 「そうか。もう寝ろ、酔っ払い」 「んー、もうちょっと」 更にぎゅう、っと抱きついてすりすり。 若は、また溜息を吐いた。溜息ばっかり吐くと幸せが逃げちゃうのに。 若の身体、あったかい。きもちいい。ねむい。 「いい加減離れろ」 「こころの、えいようほきゅー、ちゅー、なんです……」 また、頭上で溜息が、聞こえ、た。 ◇◆◇ 本人曰く栄養補給中だったらしい香奈は、ことん、と落ちるように、俺に抱きついてもたれかかったまま眠ってしまった。 遅く帰ってきたと思ったら半泣きになりながら愚痴を吐き、抱き付いてきたと思ったらあっという間に眠ってしまう。どこの子供なんだ。 全く―― 俺が、それなりに、覚悟して吐いた言葉も、酔っ払いには通じなかったようだ。 いや、酔っ払っていてもいなくても、香奈は断っただろうが。 母親は家にいるもの。 妻は家庭を守るもの。 古臭い考えではあるが、俺は少なくとも、結婚において、そういう面はあると考える。 けれど、香奈の意思を捻じ曲げてまでそうしたいかと問われれば、それは否だ。 俺としては、少なくとも、家にいてくれたほうが、安心なのだが。 そんな事を考えながら温かく柔らかい香奈の身体を抱き上げてソファへ横たえ、皺になる前に服を脱がせ、パジャマを着せる。薄い化粧は、よくわからないが、とりあえず香奈の鏡台の上にあったコットンで適当に目蓋の上と唇とを拭っておく。 それから、ソファに寝ている身体を抱き上げてベッドまで運んでやる。俺は香奈の従者ではなければ、小間使いでもなんでもないのだが、俺がこうやって甘やかすから、香奈は酔っ払って着替えもせずに眠ってしまうのだろう。 けれど。 香奈に、こうやって無防備に甘えられるのが、嫌じゃない俺は、もう、どうしようもない。 少なくとも、香奈以外の女が泣こうと喚こうと騒音以外は気にならないし、女を甘やかすなんて持っての他だ。男女平等を唱えるならば、女も男と同じく甘やかすべきではない。 そうは思うけれど、香奈だけは、もう、これは、どうしようもなく、俺の例外になってしまっている。香奈と付き合っている年数が、すでに俺の人生の半分と匹敵しているほど、それだけの時間を共に過ごすことが苦痛ではないほど、香奈は俺の特別な存在だ。 これはもう、仕方がない。どうしようもない。 そんな、苦笑したいような気持ちでベッドの上で眠る香奈の頬を撫でる。 その頬はわずかに紅潮していて、乾いた涙の後がかさかさと指に感触を伝えた。 泣きそうな顔で、香奈はもういやだと喚いていた。 それは、酔っ払いの戯言ではあるけれど、だからこそ、多少は本心が混ざっていたのだろうと思う。 確かに、俺にも、仕事が辛い時はある。けれど、俺には香奈も、龍星も、若菜もいる。まずは、生活のために仕事をやめる事など一生できないと考えて一瞬ぞっとするものの、そこで、思い出す。確かに生活のためもあるけれど、俺は心底仕事が嫌いなわけでも、渋々やっている訳でもない。 勿論その部分もあるが、仕事によって、それなりの充足だって得ている。それは香奈も同じ事だろう。嫌なことはあるかもしれないが、何かを行う事、達成する事、報酬を得る事、新しい体験をする事、知らない誰かに出会う事、知っている誰かに感謝される事、達成できた満足感、仕事をこなす事によって手に入る技術と経験。仕事によって自分は成長するし、金銭以外にもいろいろなものを手に入れることが出来ると、少なくとも、俺は思っている。前向きだと香奈に言われるのは、こういった考え方の所為かもしれない。 そう、前向きな俺でも、仕事を、働く事を、労働を辛く思うことがある。ならば、俺よりも長く社会に身を投じている香奈は、きっと俺よりも、それは多いだろう。多少、慣れが出たとしても。 それでも、今は平和そうに寝息を立てる香奈の頬を撫でながら、小さな、桜貝のような耳元に唇を寄せて小さく囁く。 「俺がいるから」 辛くなった時は、こうやって甘えていい。 疲れた俺に、香奈がおかえりと笑いかけてくれるように、もういやだと帰ってきた香奈の側にいることくらいは、俺にも出来るから。 そんなことを思いながら香奈を見下ろすと、あまりにも安らかな顔をしているものだから、眠気に誘われて、ベッドに横たわる。そうして、二人の身体に掛け布団を掛けながら、少しだけ香奈を抱き寄せる。 抱き寄せられた香奈はもぞもぞと動き始めたが、俺の胸の中で居心地のいい場所を見つけたらしく、動きを止めると、また穏やかな寝息を繰り返す。 暖かい体温を感じる。 明日も早い。日付を超えて起きていた事など久しぶりだ。子供が産まれてからは、生活のリズムが崩れ易くなったな、とぼんやり思う。 いや、お互いが働き始めてからだろうか。 俺が大学を卒業するまでは、香奈にかなりの負担をかけていたけれど、変な一定のリズムがあった。 あの時、香奈は二年で専門学校を卒業しバイト先に就職した。ほとんど香奈の収入と両親の援助で金銭的な事はなんとかしてもらっていた。その内に兄の子が生まれるであろう俺の実家は、四世帯を飲み込むスペースの余裕はなかったので、本当に両親には世話になりっ放しだった。 あの頃、香奈は子育てと両立させていて、今思うと、自分は本当に役立たずだったと思う。 けれど、そんなことは、きっと香奈にとっては、どうでもいいことだろう。 俺は香奈が自分に何の役に立たなくても、側に居て欲しい。 役に立つ、役に立たない等、ただの付加価値で、本質は香奈自身であって、香奈が俺の側にいれば、役に立とうが立つまいが、それほど重要ではない。 何より大事なのは、香奈がいて、俺がいて、龍星がいて、若菜がいて。 そういうことだ。 香奈にとっても、それは一緒だろう。 こうやって、落ち込んでいる香奈を抱きしめることは、何の役に立っていなくても、抱きしめるそれ自体に意味があると、思う。少なくとも、俺は、酷く弱っているときに、香奈が俺を抱きしめてくれるそれだけで、辛さが和らぐ。 だから。 ゆっくりと瞼を下ろし、暖かく柔らかいその体を抱いて、目を瞑る。視界が遮断され、自然と鋭敏になった嗅覚でかすかに漂っている香奈の爽やかな甘い香水の匂いに気づく。気づいて、その香りの源である、細い首に顔を寄せながら、香奈を抱きなおす。 あの時、ままごとのように、誓った、香奈を愛するという信念を固く貫くから。 香奈が泣きたい時も、悲しい時も、辛い時も、愚痴を言いたい時も。 ここに。 香奈のすぐ側に。 いつでも、俺が居ることを忘れるな。 結局、俺は、頼られる事も、甘えられる事も、平気で受け止められるくらいには、迷惑と思わないくらいには、こうやって抱きしめてやれるくらいには、香奈の事が大切なのだから。 |