桃の節句、ひな祭り、嫁入り?
 膝立ちで雛壇を飾り付けている香奈の背を見下ろし、名を呼ぶため口を開こうとする。それと同時に、香奈が立ち上がりながら振り返りつつ顔を上げた。
 必然、お互いの顔が近付き、吐息が触れた。
 香奈は俺がいる事にも気付いていなかったようなので酷く驚いたらしく、立ち上がりかけた状態のままで目を見開いて一瞬で耳まで赤くなった。
 それが可笑しくて、そして何となく可愛らしく感じて思わず笑ってしまう。
「キスすると思ったのか?」
「お、思ってない……!」
 冗談で聞くと、香奈は顔を赤くさせたまま俺を睨んできた。
 確かにそんな事は思っていなかったのだろうけれど、必死で否定する様子が面白かったので、香奈が言い終わるか終わらないかのうちに軽く唇を触れさせた。
 途端、更に赤くなった。

 俺と香奈は一緒に暮らし始めてほぼ六年、籍を入れて約五年半、子供が五歳に近い四歳。社会人になって四年と二年の二十四歳だ。
 今更キス一つくらいでどうにかなるような関係じゃない。

 はずなのだが。

 なるほど、不意打ちされると弱いんだな、などと観察してしまう。
 恥ずかしいやら驚くやらでどうしていいか解らないらしい香奈の様子だった。
「するなら、するって言って」
 顔を赤くさせたままでは何の迫力もない睨みを利かせた香奈が俺の頬をつねってきた。
 鬱陶しいので、その手を振り払う。
 香奈は俺の態度を気にした様子もなく、そのまま手を引くと、ゆっくりと立ち上がった。
龍星くんと若菜ちゃんは?」
 まだ、少しだけ頬が赤いものの、既にいつもの調子に戻ったようで首を傾げながら尋ねてくる。
龍星は算数ドリル」
 それに答えてやりながら子供達の様子を思い浮かべた。
若菜は知育玩具で遊んでる。……もしくは」
「投げてる?」
 その言葉に頷いて見せると、俺の同意に香奈が苦笑する。
 勉強だけが全てとは言わないが、勉強が出来た方が将来の選択肢が増えるのも確かだと俺は思っている。香奈はその辺り無頓着で俺の好きなようにすれば良いと思っている風だ。
 遊びを削ってまで勉強させようとは思わないが、遊びがイコール勉強になればいいと思って知育玩具をいくつか買った。
 ただ、若菜は思い通りに行かないと直ぐに癇癪を起こすので、玩具を投げて八つ当たりする事もしばしばある。
 知育玩具だろうが、普通の玩具だろうが、さらには隠れん坊だろうが思い通りに行かなかったら癇癪を起こすので、そのたびに説き伏せなければならない。
 そんな事を思い出しながら香奈に夕食を告げると、彼女はぱっと顔を明るくした。
「やった。若のごはん美味しいから好き」
 現金なものだと思う。
 けれど、喜んでくれるのなら、たまにはこういう日もいいだろうと思えてしまう。
 若菜にも「ママよりお父さんのご飯のほうが好き」とリクエストを受けていることであるし。
 ちなみに、これは好みの問題で特に香奈は料理が下手だという事はないのだけれど、僅か以上に優越感を感じてしまう自分がいる。

 そうしてリビングへ戻り、テーブルに皿を並べ、俺達と同じ椅子に座りたがる若菜を宥めて子供用の脚の高い椅子へと座らせて何とか食事を終える。
 食後に少し会話をしてテレビなどを見てから、そろそろ入浴する時間かと思い子供達に声をかける。
 と。
若菜おふろはいらないもん」
 また始まった。
 昔、シャンプーが目に入ってから若菜は極度の風呂嫌いだ。まあ、子供はそういうものなのかもしれないが、俺は風呂を嫌った記憶がない。
 若菜は昨日、泣訴に絶叫までつけて風呂に入らなかったので今日はこの我儘を聞くわけにはいかなかった。
 入らない入らないと連呼して駄々をこねる若菜にただ説得しても、見事なまでに人の言葉を聞きはしない。
 しかし、これには打開策があり、すでに香奈が――

「わー龍星くんお風呂はいるんだ! 偉いね。じゃあ、きれいきれいにしたら一緒にアイス食べようね」

 若菜の心理としては龍星ばかりが褒められるのは嫌らしいので龍星を褒めるというのは有効な手だ。これは龍星が俺たちのいう事を大抵素直に聞くからこそできることだけれど。
 しかし時折「龍星くんばっかり!」と喚きだすので、匙加減が難しい。
若菜も、風呂に入って綺麗にしたらもっと可愛くなるぞ」
 最近は“可愛い”やら“綺麗”やらといった言葉に敏感になってきた若菜に、ダメ押しをする。
 若菜は、幼いながらも悩むような素振りを見せてから、その小さな唇を開いた。
「お父さんもはいる?」
 ぎゅ、と小さな手で俺にぶら下がるようにシャツの裾を掴んで見つめてきた。
 白状すると、俺は、若菜が本当に可愛くて仕方がなかったりする。
 香奈を割とさらりと嫁がせてくれたお義父さんを尊敬してしまう。あの時の香奈の腹には龍星若菜が居たので、どうしようもないと言えばどうしようもなかったのだろうけれど。それでも。
 それでも俺は若菜香奈の歳で嫁に行くといえば、確信がある。

 必ず、 反対する。

 見上げてくる愛娘の頭を柔らかく撫でてやりながら頷いて返す。
「わかった。若菜は俺とはいるか。……龍星はママがいいな?」
 若菜を抱き上げながら問うと、龍星香奈に抱きついて元気よく頷く。二言三言かわし、香奈が洗物をするからと俺と若菜が先に入ることになった。

 湯を張りながら、さてどうしようかと頭を悩ませる。
 若菜はぬるすぎる風呂を好むため、風邪を引きやすい。
 俺はどちらかと言うと熱い方が好きだが、まあ、愛娘の為に風邪を引かない程度ならば多少ぬるくても構わない。
 問題は、そのぬるさの程度だ。

 この三月に夏場の温水プールという温度は本気で遠慮したい。

 最近は「全然熱くない。気持ちいい温度だ」と言うと三十八度くらいでも入浴するようになった。懐疑的だが。
 三十八度は、充分すぎるほどにぬるいと思うのだが、その辺りはどうなのだろうか。
 最近気付いたことは「熱いか?」と聞かずに「気持ちいいか?」と聞くこと。龍星がいれば、お互いが張り合って、どんなに熱くても入るということ。

「髪はあらわないの!」
「昨日洗わなかったから、今日は洗う」
「いーやー!」
「泣いても洗うからな」
「いやーぁぁぁぁ! うぇえええええ……」
「ほら、赤ちゃん抱っこしてやるから、おいで」
「やぅー……」

 ちなみに赤ちゃん抱っこというのは香奈がそう呼んでいるからそうなっただけで、正式名称は知らない。
 まあ、単純に『面倒だがシャンプーやシャワーが目に入りにくい抱き方』という事だ。
 さりとて四歳。ほぼ五歳。小さいとは言いがたい体格だ。いや、確かに小さいといえば小さいのだが。
 最近、香奈が長時間、例の抱き方を出来ない程度には、龍星若菜も大きくなっている。
 抱きあげ、腕に感じる重みにその成長を嬉しく思う自分に気付いて、驚いた。

 嫌がる若菜を何とか洗い、入浴を終えると当然のように裸でキッチンへ走るのでそれをひき止め寝間着を着るように指示する。
 勿論、 素直に着ない。
 何とか寝間着を着させ、アイスと連呼する愛娘の為に冷凍庫から苺のアイスクリームを取り出して饗する。
 龍星が出てくるころには、アイスクリームによる頭痛で若菜が固まっていた。
 一気に食べるからだ。

「今日はどうする? ママとお父さんと一緒に寝る?」
 風呂から上がった双子に歯を磨かせ、トイレに行かせた後香奈が問い掛ける。
「ぼ……俺は一人で寝ます」「じゃあ、若菜もひとりー!」
 双子は同じタイミングで元気よく答えた。
 三歳時は俺達の部屋においてあったベビーベッドで寝る事もままあったのだが四歳では俺達と一緒か、一人で眠れるようになってきた。
「やっぱり一緒がいい」と、俺達の寝室に顔を出す事も多いし、気付けば二人で一つのベッドに寝ていることも多いけれど。とりあえず、今日は二人とも一人で寝るつもりらしい。
 それを聞いた俺達はこれを幸いと、双子が自室へ入ると布団を被せてやり、うとうととするまで二人の背を撫で叩いてやってから「おやすみ」と告げてからリビングで仕事を始める。
 俺は来年度から氷帝学園中等部二年のクラスで担任になるため色々と忙しい。去年までは一年の数学を見ており、二年の副担任も経験したが、担任というクラスに直接関るような立場は初めてだ。三年の担任は、まだ俺には荷が重いと思われたのだろう。二年でも、若干不安はあるが、ベテランの女性教師が副担任についてくれたので、まあ、やるしかない。
 香奈はパソコンに向かいながら、背中ごしに声をかけてくる。

「明日、早めに帰ってこれる?」
「難しい」
「ぅー……解った」

 言いたい事はわかる。
 明日の桃の節句を若菜と一緒に迎えて欲しいのだろう。
 落ち込んでいるような香奈の様子に、俺は半分逃げるような、慰めるような、曖昧かつ不確かな気休めを口にした。

「早く帰れるように努力はする」
「……ありがと」

 この場合、香奈に負けたのか、若菜に負けたのか。
 いや、勝ち負けではないけれど、結局俺は子供や香奈にねだられた時に弱すぎるような気がする。
 苦笑とともに溜息を吐き、俺達は、双子が結局寝付けずに騒ぎ出すまでお互いの業務をこなしていた。
 結局、その日は二人が寝付くまで本を読んでやり背中を叩いてやりして、ほとんど仕事などしないまま床につく羽目になる。
 それはそれで嫌ではない自分がいることに、気づいている。

 ◇◆◇

 仕事が終わって若菜ちゃんと龍星くんを保育園へお迎えに行った後、みんなでひな祭りの飾り付けをした。
 三段の雛壇だけど、結構大きくて、見栄えも良い。特に若菜ちゃんなんかはやっぱり女の子だからこういうのは好きみたいでとても楽しそうだ。
 龍星くんと若菜ちゃんの作った折り紙のなにか――聞いてみたところ「おじさん」とか「かわいいの」とかよくわからない返答でした――を飾る。それからぼんぼりのコンセントを挿した。
「よしっ、じゃあ、若菜ちゃん、ぼんぼりに灯りつけるからね」
「ぼんぼりぃー!」
 きゃー! と嬉しそうにその場でくるくる回る若菜ちゃん。
 対照的に、龍星くんはただ、じっと私の服の裾を掴んでぼんぼりを眺めていた。
 でも、わくわくしてるのが解る。

 ああ、もう、本当に可愛いなあ

 パパやママもこんな気持ちで私を育てていたのかな。
 凄い迷惑かけてたんだなぁ、って思うと、申し訳なくもあり、有難くもあり。
 パチン、とスイッチを押すと、ライトが点灯して、ぼんぼりに明かりが灯る。セロファンで出来た内側の切絵がくるくると回った。壁や天井に流水の中を泳ぐ金魚の模様が光って映る。
 実は、私が子供の頃に使っていた実家のものを持ってきたのだけれど、やっぱり綺麗だなーなんてしみじみ実感しちゃったりして。
 若菜ちゃんはきゃーきゃー言って大喜びで、龍星くんも、ちょっとだけほっぺたを赤くして興奮気味。
 二人の様子に思わず顔が綻んでしまいながら、ふと気付いて時計を見る。
 現在午後七時二十四分。
 普段なら若を置いて先に食事をしてしまう時間。
 でも、今日は八時まで待とう。
 だって、いつまで家族で一緒にいられるかわからないから。
 折角なら、私と若と一緒に過ごして、楽しかったなって、産まれてきてよかったなって、大きくなったときに二人に思ってもらいたい。
 色んな事があったねって、私たちがいなくなった後も。
 出来るだけ皆で、家族で過ごしたいんだ。

「さてとっ じゃあ、若菜ちゃん、龍星くん、お父さんが来る前にケーキに苺のせちゃおうか」

 すっく、と立ち上がると、やっぱり若菜ちゃんは「きゃー」と言って即席の苺の歌を歌っていて、龍星くんは、ぼんぼりの光に見蕩れていて。
 龍星くん、ともう一度呼ぶと、こくん、と頷いた。その様子にちょっと笑ってしまいながら小さな手を取る。
 リビングのテーブルにクリームだけが塗られたケーキを、三人で一緒に飾りつける。
 苺を乗せるだけだったんだけど、何だか物凄く個性的な感じになってて、思わず笑っちゃって、デジカメでケーキと若菜ちゃんと龍星くんの写真を撮ってしまった。
 親ばか、自覚あり。

 そうして、三人でテーブルに料理を並べて、ああ、もう八時か、仕方ない、ご飯先に食べようか、と言おうとしたら。
 ナイスタイミングで玄関のドアが開いた音が聞こえて、若菜ちゃんがご主人様をお出迎えするわんこよろしくダッシュで玄関まで駆けて行った。
 私と龍星くんも、若菜ちゃんの後を追う。

「おとーさんおかえりぃ!」
 靴を脱いでる若の背中に抱きつく若菜ちゃん。
 若も、優しい顔をして「ただいま」と答えている。

 いつもの風景だけど、いつみても、何だか幸せで暖かい気持ちになる。

「お父さんの帰りなさい」
「お父さん、おかえり。お疲れ様」

 龍星くんと、私の言葉に、軽く頷きながら「ただいま」と返す若。
 若は、ぶら下がる若菜ちゃんを抱き上げつつ(昔は抱き癖がつくからあまり抱くな、って私には言ってたのに。最近は私が嫉妬してしまうほど若菜ちゃんを可愛がってる)龍星くんの頭をくしゃ、っと撫でる。
 そのままリビングへ向おうとするので、私はちょっとつまらなくて若の服の裾を掴む。

「若、おーかーえーりー?」

 お父さんじゃなくて、わざと名前を呼んで、私には? って気持ちでじっと見上げたら“いつまで新婚気分でいるんだ”とでも言いたそうな顔で溜息をつかれた。
 それから、私の額に掛かる髪を若菜ちゃんを抱いていない手で退かすと、おでこにちゅーしてくれました。
 私もいつもねだるわけじゃないし、ねだったら必ずしてくれる訳でもないので、なんだか嬉しくなってしまった。
 若も今日を楽しみにしてくれていたなら嬉しいな。

 それから、若に雛壇を見てもらって、皆で一緒にご飯を食べて。
 若菜ちゃんは嬉しそうにひなあられを食べたり、綺麗に飾りつけたひな壇を自慢げに若に見せたり、音程を外したうれしいひな祭りを歌ったりしてた。
 龍星くんはいつもより甘えて、私の回りから離れないけれど、たぶん男の子なのに女の子のイベントで喜んじゃいけないみたいなプライドがあるんだと思う。
 ちっちゃいのに可愛いなぁ、もう。ぎゅっと抱き締めて頭を撫でてあげると喜んでいるくせに照れてるみたいだった。
 あまり遅くならないように、お風呂に入ったり歯を磨かせたりしてから若菜ちゃんと龍星くんを寝かしつける。
 二人が眠ってからリビングに戻って、洗物をしている若に声をかける。
「ごめん、若。疲れてると思うけど、雛壇片付けるの手伝ってくれないかな?」
 って頼むと
「もう一日くらい置いておいてもいいだろう。龍星も気に入っていたみたいだしな」
 って答えられた。
 え、もしかして……

 若菜ちゃん、お父さんは若菜ちゃんの嫁入りを遅らせるつもりだよ!

 ひな壇は三月三日までに片付けないと嫁にいき遅れるって聞いた事がある。場所によっては四月三日だとかも聞いた事があるけど、でも……
 若の可愛い言葉に私が思わず笑うと、若はちょっと眉を潜めた。
 洗物を終えたらしい若の頬に背伸びしてキスしてから、もう一度お願い。
「私はずっと、若の側にいるから。だから、一緒に片付けてくれないかな?」

 間。

 仕方がないな、と言って手伝ってくれた若は本当に「仕方がない……」って感じだった。
 ジンクスや言い伝えを“迷信だ”ときっぱりと否定する(その割にはホラーとか幽霊とか好きだけどね。信じてるわけじゃないみたいだけど)くせに若菜ちゃんの事となると、それを貫けない若が可愛かったりして。
 そんな事いえないけど。
 とにかく、毎年、色んな事を家族でやっていけたらなって、思う。

 とりあえず、日付が変わるまでに雛壇を仕舞えるように、鈍々とそれを片付ける若に声をかけた。