| 最近、香奈は忙しそうだ。 店舗や店内の内装を扱っているデザイン会社の方は事情を説明して有給を使いまくっているようで、今年は長期の旅行には行けそうもない。 そもそもは、イラストレーターのコンテストで優秀賞にも審査員特別賞にもかすらなかった事が始まりだ。かすらなかったのだが、その時の審査員の一人が香奈をいたく気に入り、都心の駅前に新たにオープンする大型ショッピングビルの壁面イラストを香奈に頼んだのだ。 俺は、写実画や日本画ならばともかくとして、イラストの類には強くないので、残念ながら香奈の絵の価値はわからない。けれど、幾度も幾度も現場に出かけ、メールやら電話やらでの膨大なやりとりの量を見ていると絵を描くという事はただ直感勝負ではないのだと知った。勿論、金額や待遇、日数などの打ち合わせも合っただろうが、それよりも、向こうの望むイラストを考えるのは苦労しただようだった。 何度もデザインを変え、色を変え、線を太くし、細くし、つけたし、削除し、パソコン作業といえどもそれは酷く大変だったようだ。はたから見ていると絵を描くというよりも、まるで何かを設計しているようにも見えた。 時折、香奈が、憔悴しきった顔で弱音を呟いていた時は慰めるよりも先に、自分でも驚くほど励ましてしまったが、そうやって念入りに打ち合わせ、出来上がったグラフィックを小さな手で一ヶ月ちかくかけて壁面へ書き続けていた時は、本当にイラストレーターという存在なのだなと妙に実感した。ビルの工事中で五月蝿かっただろうに、集中力だけはあるらしい。 壁面イラストの評判は上々のようだった。 そして、その壁面イラストをたまたま見たらしい、新人アーティストにデビューシングルのジャケットを頼まれた。アーティストのデビューには、かなりの金がかかるらしく、無名の香奈はかなりイラスト料を値切られ、著作権も持っていかれたようだったが――いくらそのデビューシングルが売れても、香奈には最初のイラスト料以外は一銭も入らない。それが普通らしい――そのデビューシングルが予想外に売れたものだから、一気に忙しくなった。 小さな喫茶店の壁面から、今まで通りに雑誌のこまごましたイラスト、和洋児童書籍の挿絵、興業のパンフレット、最近は契約したインターネットに週一でイラスト&コラムの連載もしているようで、はたから見ていても実に忙しそうだ。 今まで、暇な時にちまちまと描いていただけの香奈は、いまだに仕事のペースがつかめないらしく、もどかしそうにしている。もともと、フリーでやっていたので交渉から契約から全手続きを香奈自らやっているのも、負担になっているんだろう。 子供達が眠ると、香奈は俺に「ごめん」と言い置いて、我が家では仕事部屋と称されるビニールシートと新聞紙が畳の上に敷かれた和室に篭る。 今は、展示会用の百号のキャンバスを持ち込んで何か塗っていた。画具の独特の香りが、和室の畳の 油絵の具ではない、独特の絵の具の香りが染み付いた和室を、子供達は禁断の場所だとでも思っているらしく、勝手に入ったりはしなかったが、ただ一度、若菜が悪戯をした事はある。 それで、香奈が本気で泣いて俺に縋ったのを見てから、その後に香奈が電話で謝り倒しているのを見てから、若菜は仕事部屋には入らなくなった。叱るよりよほど有効だったようだが、勿論、香奈を宥めてから、若菜に注意はした。あの時の部屋の修復費用ときたら家族四人の一ヶ月の食費をゆうに上回る。香奈の仕事が、延ばしてもらった締め切りにギリギリで間に合ったのだけが救いだ。 イラストにかかった絵の具代ならば、依頼人に請求する事もできるだろうが、若菜がカンバスの上に絵の具を並べてその上を転がった為に消費された絵の具代など、畳に小さな両手で絵の具を刷り込みまくった畳の張替え代など、カラフルな手形と人形で彩られた襖の張替え代など、誰も払ってはくれない。 若菜がそのときに着ていた服も、お義母さんがわざわざ手作りしてくれたワンピースだったのだけれど、それも勿論、再起不能だった。 そんな事を思い出しながら家事を簡単に終わらせると、襖を静かに開け、仕事部屋の中を窺う。香奈は煌々と蛍光灯が照らす室内で、真剣な瞳をしてカンバスと何かの紙を見ては筆を進めていた。 おそらく、徹夜で仕上げてしまうつもりだろう。寝ずに作業をした後、朝食を作るに違いない。 香奈は既に自分の世界に深く入り込んでいる様子なので今なら室内に踏み込んでも平気だろう。下手なタイミングで踏み込むと、集中力が途切れて情けない顔をしてくる。 放っておくと飲まず食わずで作業するので、俺としては香奈の体が心配だ。胃に負担の無いよう、ゼリー系の飲料と、元気になる気がすると香奈の気に入ってる栄養ドリンク、チョコレートのペースト、そして大量の水。 勿論、絵を描くための水ではなく、飲料用水だ。絵用の水はポリタンクに溜めてあるし、汚れた水を捨てるためのバケツまである。 とにかく、それらの飲料をまとめて画材の横へ置く。 今までは知らなかったが、香奈の集中力は、切原を思い起こさせるほど凄まじいものがあった。今、俺が部屋に入っている事にも気付いていないのだろう。 コレを勉強に使っていてくれれば、中学時代あんなに苦労する事もなかっただろうにとも思うが、好きな事にしか発揮されないものであるようだし、仕方ない。 一番の心配は水物を摂取しすぎる為、集中が切れた途端、我慢が利かず、歩けもしないでうずくまったりする事だ。 「歩いたら本気でやばいから抱っこしてトイレ連れてって」と、過去に一度だけ、やられた時はかなり叱った。恥じらいがないのもそうだが、いつか病気になる。 集中している時はほぼ全ての欲求が、ほぼ全ての感覚が、排除されているようなのだが、ふとした事で集中力を切らせてしまう事があるので、なるべくそっと部屋を出た。 それから、これは、普通は妻の役まわりなのではないかと気づき、思わず溜息がもれる。 ◇◆◇ しばらくの仕事ラッシュも終わり、会社での内装系の仕事が、再びメインになってきた頃、パソコンに向って“壁面グラフィック送信完了! ”などと満足げにいっていた香奈が、急にソファに座っていた俺の首を背後から抱いてきた。 「お疲れ」 労い、その手に軽く自分の手を重ねてから、手に持っていたプリントに再び目を落とす。香奈は俺の首に回していた手で、俺が手にしているプリントを奪いながら言葉を続けた。 作業の邪魔だ。 「ん、ありがと。あのね、前に壁面に絵を描いたお店から、駐車場側の窓面サッシュの依頼が来たの……あそこ、遠いから、送って、欲しいなぁ、とか……いい?」 なぜか、ためらいがちに言いながら、俺の手にプリントを戻してくる。 俺に頼むという事は、俺の勤務時間外を選んでいるのだろう。でなければ香奈が自分で下手な運転をするはずだ。問題は…… 「どこまで?」 「つくば市……あれ? 牛久? んー、たぶん、つくばだった」 行く場所くらい確り覚えていて欲しいと思うのはわがままではないだろう。自然と溜息がこぼれる。 「遠いな。高速バス――いや、今はエクスプレスがあるだろ」 「ん、サッシュ用のボードを受け取るのと一緒に軽く打ち合わせしたいんだよね……高速代とかガソリン代とか交通費はもちろん貰えるし。ね?」 俺の言葉を聞いた香奈は、説得の色を強くして訴える。 なぜか、俺を宥めるように、頬を何度も撫でてくるので、くすぐったさに、それを止めさせようと背後の香奈を振り返った。 「そのボード、大きいのか?」 「縦横ともに龍星くん以上のが二枚。一枚は縦は龍星くん以上、横はこれくらい。後日宅配でもいいけど、どうせなら早く作業入りたいし」 香奈は俺の両手を、自分の両手で取り、三十センチから四十センチほどの長さを空けて、これくらい、と示す。 龍星以上というのは若菜以下ということだろう。残念ながら、良く眠る若菜の方が五センチほど龍星より大きい。 示されたボードの大きさに、厚さはと尋ねると「五ミリくらいから、厚くても二・五センチだと思う」と告げてきたので、車内にボードがきちんと入るかと思考内でシミュレートする。 「……後部座席は倒さなくても乗るか」 バックミラーは見えなさそうだが。サイドミラーとバックカメラでそれは補うとして。ルートも考えなければいけないなと、茨城県に続く道路を記憶から検索し始める。 「それで、日曜日だから、そのあと龍星くんと若菜ちゃん連れて、ドライブしない?」 「日曜?」 確かに、俺の休日は基本的に土日祝祭日だけれど。 「個人のお店だからね。日曜はお店オヤスミだから、その日だと嬉しいって」 香奈は先ほどボードの大きさを示した時のまま、俺の手を握り続けている。上下に振ったり、強く握ったりと、プリントが読みづらい事この上ない。 プリントを持っている右手だけ香奈の手から逃れさせ、プリントを置く。 それからローテーブルの上の面談用の時間割に父兄の第一希望時間帯を書き込んでいく。勿論、この後にまた調整する訳だが、とりあえず現在の最良を書き込んでいく。 「じゃあ、午前は仕事でそれ以降は家族サービスか」 時間割に視線を落としていると、自分を見てくれとでも言うように右頬をなでられた。 今日は妙にべたべたしてくるなと不思議に思いながら顔を上げると香奈は右手で俺の前髪を上げ、そのまま軽く押して勝手に人の喉をそらし、もう片方の左手で、耳の付け根から喉仏を辿り、そして鎖骨の辺りまで手を滑らせてくる。しっとりとした羽毛に撫でられているような感触。 俺の後頭部をソファの背凭れの縁に押し付けた香奈は、露わになっているであろう俺の額へ唇を落としてきた。額に感じる柔らかい感触と、香奈の吐息がくすぐったい。 「うん、打ち合わせも三十分あれば終わると思うよ。前に仕事したしね。長くても一時間くらいでしょ」 俺の額に唇を軽く触れさせたままに喋るのでくすぐったい事この上ない。 「それで一日専属運転手の報酬は?」 香奈は、きょとんと俺を見てきたが、しばし黙考した後に、自分の唇を俺のそれへと重ねてきた。それ以上の行為を知らないというように、ただ柔らかく触れ合うだけ。わざとらしく、意地悪げな笑みを作って見せた。 「安いキスだな」 俺の言葉に、気を害したらしい。渋面を作った香奈は自分の唇に人差し指を触れさせてから、その指で軽く俺の唇に触れる。 「安い高いの問題じゃないです。気持ちの問題です」 不出来な生徒の悪戯に説教をするような口調だ、と思う。首が辛くなったので頭を起こすと、再びソファを挟んで、香奈に抱きしめられる。 「どんな気持ちだよ」 呆れ半分、からかい半分で聞いてやると、耳元で小さな唸り声が聞こえた。 「……ばか」 香奈は、俺が思っていたよりも、愛情を籠めていたらしい。ちらりとその顔を盗み見ると、拗ねたようにそっぽを向いている。 わずかに視界に入った頬と、髪を掛けられている耳が朱に染まっていて、香奈に気付かれないように小さく笑う。こんな様子を見せられれば軽く突いてみたくなるのも事実で。 「顔赤いぞ」 そう指摘すれば、視線から隠れるように香奈が俺の真後ろへと回ってくる。 「ウルサイです。それで、オーケーでしょうか」 コツンと、香奈が自分の額を、俺の後頭部に当ててくる。 首筋にかかる吐息の熱さと俺を抱きしめる腕の温かさに、コレは相当照れているなと当たりをつければ、自然と呼気が漏れる。 「仕方ないな」 あまり弄くり回すと不機嫌になった香奈に復讐されるので、仕方なく受諾の言葉を口にすると、頚骨のあたりにキスされた。 「ありがと」 香奈の弾んだ声にどういたしましてと返して、俺は面談の時間割を考える。 作業に入った俺に、香奈はもう一度頚骨に唇を落とすと「朝ご飯の下ごしらえしてるね」と告げて、キッチンへと歩き出した。 わざわざ俺に告げるという事は、俺の作業が終わるのを待つという事だろう。終わったら声を掛けろという意味だ。仕方ないので「わかった」と、応えてやる。勝手に、日曜の香奈の仕事後に、香奈と子供たちを連れてどこへ行こうかと、自然に思案し始める思考を閉め出して、作業を続ける事にした。 キッチンからは香奈が包丁を使う音が聞こえてくる。 |