BabyWars 2nd
『双子なの』

 香奈が悪戯を告白するように言った。
 思わず香奈を抱く腕に力が入る。
 反射的に唾液を飲み込む。
「驚くに決まってるだろ」
 勝手に掠れた声で、抱き締めている香奈の肩に額を乗せながら言う。
 香奈は、俺を驚かせたことに“してやったり”と言うような満足そうな声で「やっぱり?」と言い、笑った。
 そして、俺の首に回されていた香奈の小さな手が、俺の肩に乗せられる。
 膝立ちの香奈を床に座ったまま見上げていると自然と苦笑が浮かんだ。
 経済的にも社会的にも精神的にも肉体的にも未熟な俺達が育てるには負担が大きすぎると、先の事を考えると頭が痛くならないでもない。と言うか、こめかみに近い場所が実際に痛い。
 心臓も正常な脈拍を思い出せないらしく馬鹿みたいな速度で血液を押し出してくる。
 俺達はまだ学生で、成人もしていなければ一人前には程遠い。
 香奈にも肉体的、精神的に苦労させるだろう事は頭では理解している。

 それでも、
 香奈と別れるとか
 子供を殺すとか
 そういう事を頭の中の知識が提案しても、選ぶ気にはならなかった。
 絶対に苦労する。
 絶対に堕胎させるべきだ。
 出産なんて、現実的に考えて有得ない。
 それでも、
 産ませたいと思った。
 迷わなかった。

 それが事実で、それが現実だ。

「仕方ないな……」
 心底溜息を吐く。
 香奈は笑って“どうにかなるよ”と子供にするように俺の頭を撫で、そして俺の額に軽く唇を押し当てた。
「家族に手伝ってもらわないと、お互い学校に通えないな。卒業くらいはしたいだろ?」
 お互いの両親に頭を下げることと、今後、援助をして貰いたい旨を、なるべく早く伝えなくてはならない。
 氷帝の生徒で貧乏なヤツは特待生以外いないので、実家は金銭的に貧乏ではない。
 けれど、俺達個人としては、二人のバイトの収入をあわせてやっと院生の初任給より多いかといった所。
 学校に通いながら二人だけで子供を育てるなんて不可能だ。
「卒業したいね。就職有利にするためにも。――若のご両親に息子さんをくださいって言わなきゃ!」
「それは俺の台詞だ」
 妙に興奮気味の香奈に苦笑してみせると、甘えるように胸に顔を埋めてきた。
 けれど、どう考えても背骨が痛い体勢だと思って手を離してやると、香奈は床に座り込み、抱きついてくる。その香奈の背をあやすように撫でた。

 まずは、香奈の両親へ報告してから俺の両親へ報告しよう。後で実家へ電話をかけなくては。
 幸い、香奈も明日から夏休みだ。バイトも、俺の方しかない。
 きっと母は嘆くだろう。けれど“香奈ちゃんがお嫁に来てくれればいいのに”とよく言っていたし、すでに香奈の腹には子供がいるのだから協力してくれるとは思う。そもそも、母は十六で父の元へ嫁いだのだから、年齢的な部分は気にしないだろう。
 問題は父と祖父だ。
 殴られる事を覚悟で話し合いに挑まなければならない。香奈の体調のことも考えると、父との話し合いには同席させない方が得策か。
 などと考えていると、能天気な嬉しそうな声が聞こえた。
 いつの間にか俺の腕の中で体勢を変えていたらしく、背を俺の胸に寄りかからせて座っている。
 香奈の手に拉致された俺の両手は香奈の腹に当てさせられていた。
 まだ膨らみは目立たない。というか、解らない。普段どおりの柔らかい香奈の腹だ。
 けれど、この下に香奈と俺の子供がいるのかと思うと、なんだか不思議だった。少しも嫌だなどという気持ちはないし、不思議な事にまだ産まれてもいないけれど、愛着のようなものが湧いている。手放したくないと思うようなこの感じはなんだろうか。

「お金貯めないとね。赤ちゃんのことも調べなきゃ。名前も考えないと……わー楽しみ!」
 まるでこれからの苦労を考えていない能天気とも取れる香奈の台詞に、落ち着かせるように言葉を被せる。
「明日、バイト休んで親に挨拶に行こう。俺が就職するまで、色々世話になるだろうしな」
 香奈の腹を撫でてやりつつ、香奈は健康保険組合に加入しているだろうかとか、出産費用は二倍なのだろうかとか、俺は、色々と考えてはどんどん頭が痛くなってきた。
 絶対に香奈は何も考えていないだろう。
「ねえねえ。じゃあさ、若、結婚してくれる?」
 この状況で結婚の事を今更聞いてくる辺り、香奈も女なんだなと思う。
「ああ」
「やったっ! じゃあ、結婚式してもいい? 赤ちゃんが産まれた後がいいなあ」
「好きにしろ」
「若、なんか頭痛そうだね」
「痛いからな」
 そう、頭は痛い。
 これからのことを考えれば痛くなって当然だろう。父親になるとか、まだ覚悟しか出来ていない。家族の説得もある。金銭的な問題もある。学校だって、院とは言わないまでもせめて大学くらいは卒業したい。
 それでも、ここに、俺の両掌の下に、香奈と俺の子がいると、そう理解すれば、そんなことは大した問題じゃない。
 きっと、俺にすぐに言わなかったのは香奈なりに、色々悩んでいたからだろうと思うと、いじらしい気がしてその腹を何度も撫でる。

 言葉にはしないけれど、心の中で誓う。
 香奈、お前も、 俺たちの子供も、
 たとえ、この先どんなに困難が遭っても、どんなに反対されても、ずっと、ずっと俺が護るから。
 絶対、皆に祝福してもらえるよう、努力するから。

 ◇◆◇

 妊娠三十週を越えた香奈は酷い悪阻は感じなくなったらしいが眠そうにしていることが多い。
 レポートをまとめている俺を、ソファに座り眠そうに頭をゆらしながらも忠犬よろしく待っている香奈に「眠いなら寝ろ」と言って、その頭を撫でてやると、面倒になったのか、そのままソファにクッションを置いて横になった。そして、自分の腹を摩りながら、眠そうに間延びした声で言う。
「元気に生まれるといいねえ」
 むくむくとでかくなる腹に香奈の身体がついていけず、夜中に“お腹痛い”などと泣きだして人を驚かせたとは思えぬほど今はのんびりとしている。
 妊娠線がどうだとか、なにやら怪しげなボディクリームを真剣な形相――と、表現したくなる――で腹に塗りたくっているのは妊娠初期から今も変わらないが。
「なら無理して学校行くな。医者に“安静にさせろ”って何度注意されたと思ってるんだ」
 ちなみに、香奈に言っても無駄だと悟った医者は、俺がたまに診察についていくと香奈ではなく俺に言うようになった。初産で、しかも多胎で、更に香奈は小柄で、検査入院するほどではないが万が一を考えて大人しくしていた方が良いと、俺が何度も聞かされた。
 しかし、俺に言われても医者に言われても香奈はきちんと体調を整えているからと学校へ通っていた。妊娠は病気ではないのだからと、万が一ばかりを考えていたら歩くことすら出来ないというのが香奈の持論だった。
 それでも、やはり少しでも体調に不振なところがあれば大人しくはしていたし、他人の奇異な視線に――残念ながらと言うべきか、香奈は小柄なので歳よりも若く見られることがある。もちろん、きちんと学校側には説明してあるし、休学を認めても良いと言ってはくれたが香奈は現役卒業にこだわった――負けて、数日休んだりもしたが、おおむねは通常通り登校していた。
 香奈ができれば現役で卒業して早く働きたいと思っている事は痛いほどに理解できるので、俺としても強く言えなかった。安定期に入るまでははらはらしたものだ。
 そういえば、スポーツ選手が妊娠に気づかずに出産間際まで試合をしていたことなどを香奈は引き合いにしていたが、初産で多胎で小柄で運動音痴の香奈と比べる方が無理だ。
「ごめーん。でも、もう無理しなくても出席も単位も大丈夫だからさ! ……あ、若。若」
「なんだ?」
 おざなりに謝罪した香奈は、ひらひらと手を振って俺を呼ぶ。香奈の方へ身体を向けソファの前に座ると、むず、と手を掴まれた。
「蹴ってるー♪」
 掴んだ俺の手を自分の腹に当てさせて、やけに嬉しそうに笑う。
 自分の手のひらを押し返す確かな感触に呟く。
 はっきりとは言わないが、ここまで腹が大きくなると不思議を通り越して不気味に感じてしまう。けれど、小柄な香奈が最近は弱音も吐かずに頑張っているのだから、そんな事を言う訳にもいかない。よくここまで腹が膨らむものだと感心すると同時に大丈夫なのだろうかと不安に思うが、医者からは大丈夫だと太鼓判を押されているので、人体の神秘とやらを感じずにはいられない。

「元気だね」
 明らかに一人分ではない、連打のように二人分の手だか足だかが、ぽこぽこと動いている事がよくわかる。香奈の腹の中で二人でじゃれあってでもいるのだろうか。不思議なことに微笑ましいような気持ちさえ湧く。
香奈に似たんだろ」
 経過は順調過ぎるほど順調で、酷い貧血もなく、妊娠中毒症も起こしてはいない。
 余り長時間作業していると腹が張るようだが、横になれば解消される程度で、薬もさほど使用せずに済んでいる。
 管理入院が必要な場合もあるようだが、経過は極めて良好で、一人が大きいとか、もう一人が小さいとか、そういうこともない。切迫早産などの不安も今のところ全くない。
 更に言えば、調子に乗った香奈は、学校やバイトだけではなく、気が向けば勝手に一人で散歩までしやがる始末だった。
 俺が子細に経過をチェックしているにもかかわらず、香奈はといえば「大丈夫大丈夫」と楽天的を通り越して能天気にのたまっている。
 初産で多胎妊娠であるのに、心理的ストレスはあまり無いようだった。時折不安そうな言葉を発するものの、すぐにそれを忘れたかのように明るく振る舞っている。浮き沈みはあるようだが、沈みの部分が少ないのは良いことだ。
 胎教胎教と楽しそうにクラシック音楽をリビングに流してくれとねだってくる香奈は、本当に子ども達の誕生が楽しみなようで、それを微笑ましく感じることが、好ましく思える。
「早く顔がみたいなあ、男の子かなー女の子かなー……若に似てるといいなあ」
 香奈の希望で子供の性別は産まれるまでの楽しみに取っておくことになった。どちらでも大丈夫なようにある程度のものはそろえてある――というか、香奈の家族が遠慮しても無駄なほど買ってくるのだ。ありがたいけれど、あの一家ははしゃぎすぎだと思う。
 俺は基本的に大学へ通い、留守中の香奈を、俺の祖母が面倒を見に来てくれている。
 こういう時に家族のありがたみが身に沁みると同時に諦めずに両家の家族を説得してよかったとしみじみと感じる。

 兄が庇ってくれなければ俺は確実に肋骨の数本は折れていた――肋骨の骨折は厄介だ。ギブスをはめられないし、下手に活動できる場合が多いので休養をとることもどこか後ろめたく感じるのだ――のではないかと言うほど激怒された。全員一時に香奈の懐妊を告げたわけではないが、初めてそれを伝えた時の反応はさまざまだった。祖母は泣くし、母は呆然とするし、兄は驚くし、祖父は呆れて、父はまず怒った。
 父と祖父と祖母には、話があるからと集まってもらい同時に許しを請うたのだが、その場にいた香奈は、終始、居心地の悪そうな困惑したような心配そうな申し訳なさそうな顔をしていた。兄と母が、俺の家族に謝り続ける香奈を宥めてくれた。
 産みたいという意思と学校を卒業したいという望みと援助して欲しいという願望を順番に説明していると途中で父が激怒して大変だった。確かに、都合のいいことばかりを並べ立てていると解かっていたが、だからといって援助してもらわなければ俺も香奈も社会的に生きていく力がない。それに対して悔しいという思いは強くあったけれど、俺には頭を下げる事しか出来なかった。
 祖母は俺と香奈に興奮気味に説教をして、結婚前の娘がどうとか言われ、俺が強く香奈を庇った所為で祖母とも大喧嘩をしてしまった。しかし、予想通りに母と兄が味方をしてくれたし、香奈の家族が結婚と出産と俺たちへの援助に対して前向きだったのが幸いし、なんとか話は収まった。でなければ絶縁されるのではないかという勢いだった。
 俺が父に殴られたときに、驚愕した香奈へ兄が「大丈夫大丈夫」とフォローを入れてくれたのは正直助かった。
 香奈は口論もそうだが、殴り合いなどの喧嘩は特に苦手なようで、幼い頃から力による制裁が当たり前だった俺とは、拳一発でもかなり感じ方が違うのだと中学の頃、すでに気づいていた。だからこそ説得には連れて来たくなかった。けれど、結局そんなわけにもいかず、連れて行ったときはとても不安だったのだけれど、なんとかなってよかった。絶縁やら勘当やらされれば、学校を辞めて働くつもりだったが、話して譲歩してもらえて本当に良かったと思う。
 妊娠五ヶ月目の戌の日には安産祈願に行けとせっついたのも、俺たちを強く叱った父と祖母だった。
 香奈が説得前に「絶対大丈夫だよ。だって若の家族だもん」となんの確信もなく軽く言った言葉の意味が今はわかるような気がした。俺に言うのはあれだけ躊躇ったくせに、こういう時だけは心臓に毛が生えているのではないかと思う。

 香奈の家族はといえば“おめでとー結婚式は白無垢? ”とか“双子のベビーカーが必要だね”だとか“香奈が若君みたいないい男を……うまくやったねえ”だとか“おじいちゃんおばあちゃんって呼ばれるのは嫌だー”だとか“えっ俺おじちゃん?! うわ、それは引くわ……”、なるほど、香奈はこの家族の中で育ったのかと納得してしまうような能天気な反応だった。
 俺の母が後日香奈の家へ挨拶へ行き、頭を下げるのに対しても「若君の子ならきっと可愛いですよ」とお義母さんは答えていた。ある意味つわものだ。
 もちろん、ただただすんなりと承諾してくれたわけではなく、本当に親になり人間を育てていく覚悟があるのか、将来のことはどう考えているのか、悪くなった体面に心ない言葉をかけられるだろうがそれに耐えられるのか、子供が五体満足ではなくとも育てていけるのか、お互いに何かがあった場合は一人でそれをこなしていかなければならないが本当にわかっているのか、など、一つ一つを確認するように問われた。実例をともなった大人の言葉にはひどく重みがあり、気持ちが揺らいだのも確かだった。もし、一生人並みに生活できない子だったとしても、愛しさはかわらないだろうと確信が出来たけれど、ただ、それで子供が幸せなのかは、今でも多少不安が残る。

 思い出していた俺の手を、香奈の腹の中の赤ん坊が蹴る。
 最後に一度だけその腹を撫でると、ローテーブルで課題のレポートを書き始めることにする。このまま、臨月まで入院不要でいてほしいものだ。
 双子だと、早産や未熟児の危険が大きいというから。

 ◇◆◇

 予定日を三日過ぎた。
 医師は初産で多胎妊娠だということもあって慎重になっているらしく陣痛を待ちましょうと言われ陣痛促進剤を使うことも無い。へその緒が胎児の身体に絡まっているわけでもなければ、逆子でもないので、一応は最初の予定通り普通に産む話にはなっているが――早産どころか遅産になるんじゃないかとか、さっさと出せよ的な投げやりさで俺は日々を過ごしている。最初は大丈夫だろうかと気を揉んでいたが、妊娠している香奈本人がけろっとしているので医者に任せるに限る。むしろ、もう少し遅れた方が子供が早生まれにならずにすんでいいかもしれない。
 それでも、帰宅の時はなるべく足が急いてしまう。そうしてせわしなく帰宅した俺を、居間で電話を手にしていた祖母が手招きして寝室へ導いた。香奈に何かあったのかと、足早に寝室へ入り、ベッドで横になっている香奈の元へいく。

「たぶん、じんつー」
 予想に反して軽い声が聞こえた。
 だが、脂汗が額に浮いていて、何とも痛そうな、痛みを堪えているような表情だった。
 やっときたのか、と内心溜息を吐きつつ汗で頬に張り付いた髪を掃ってやる。
「間隔は?」
「なんかね、昨日からちょっと痛いかなって思ってたけど、陣痛かどうかとかよくわからなk――」
「質問に答えろ」
「んー……さっきいきなりすごい痛くなったんだけど、十分ないくらい?」
 すぐに帰ってきたセリフに面食らう。今回は、陣痛があったら直ぐに報せるように言われていた。
 荷物はほとんど用意してあるが最終確認の為に寝室を出――る寸前に足を止めて振り返り、釘を刺す。
「入院の準備してくる。絶対安静にしてろ。立つなよ。動くな」
「えー」
 俺の言葉にさも不満ですというような反論のような声を上げる香奈にピシャリと言い放つ。
「流産も死産もしたくねえだろ。大人しくしてろ」
 それで香奈が黙ったので、祖母に両家の親に連絡するように頼み、俺は手早く入院に必要な荷物を纏め、車に乗せる。車の後ろの座席を倒し、横になりやすいようにしてから、マンションの横まで車をつけた。
 ちなみに免許は十八歳になる二カ月前から教習所に通い、高校在学時に取得済みだ。親の庇護下にある俺は個別の保険証等を持っておらず、個人の身分証明書としてなるべく早く手に入れたかっただけで、都内では余り運転する必要はないが、とって置いてよかったと思う。
 更に言えば、香奈も免許を持っている。わざわざ遠い俺と同じ教習所に通っていて、取得前の時期は、メールや電話が教習所への不満と自分の運転の下手さへの愚痴ばかりで、正直まいった。取った後にも香奈は高い身分証明書だとぶつくさ言っていた。

 エンジンを一度止め、部屋に戻り、香奈を支えて車に乗せる。「お姫様だっこー」などと下らない冗談を言っていたので余力はあるのだろう。
 世話になる予定の病院に電話をかけ連絡をいれる。忍足さんの薦めと祖母や母達の話を聞き、NICU設備のある大きな病院を選んであった。
 祖母を助手席に乗せて病院へと向かいながら自然とため息が漏れそうになる。生まれてこれほどまで安全運転を心がけた事があっただろうか。生まれてこの方ここまで焦って運転した事があっただろうか。
 逸る気持ちを無理矢理抑え、急いで、けれど丁寧に運転する。そんな経験は初めてだった。もどかしい。
 祖母は陣痛の度に痛みを堪えるために唇を噛み手を握り締める香奈に声を掛けて励ましていた。香奈は途中で薄ら笑いを浮かべていて、それが余りにも気持ち悪かった痛々しかったので「笑うな」と一喝した所「そう云うこと言わないの若」と俺が祖母に怒られた。
 しばらく誰も口を開かなかった。それが否応なしに俺を緊張させる。
「おばあちゃん」
 そんなエンジン音だけが響く香奈が祖母に話しかける。
 二人は最近とみに仲良くなったようで実の祖父母が遠い地にいる香奈は俺の祖母をおばあちゃんと親しみをこめて呼ぶようになった。しこたま叱られたくせに。
「どうしたの香奈さん。大丈夫?」
 祖母は落ち着いた声音で問い返し、その声で不安で浮き足立ってしまい落ち着くことの出来なかった俺は、どこか助けられた気がした。
「おばあちゃんがこうゆうふうに辛い思いして若のお父さん産んでくれたから、この子達が存在できたんだなあって、今、ちょっと感動したんです。もうちょっと付き合わせちゃうけどお願いします」
「可愛い曾孫の為なら何だって出来ますよ」
 祖母がやんわり笑って、ハンカチで香奈の額の汗を拭くのが、バックミラー越しに見えた。
 香奈に説教して俺と喧嘩していた時とはえらく態度が違うと思わないでもなかった。
「ん……若?」
 後部座席の香奈が詰まったような息で聞いてくる。顔を向けてやりたかったが余所見をできる状況ではなかったので言葉だけを返す。
「なんだ? 破水したとか言うなよ」
「んーん……あの、さ、立ち会う……?」
 出産に立ち会う夫というのは日本では半数程度らしく香奈は恥ずかしいから嫌だと言ったりもしていたが、とある本で立ち会った夫が感動して泣いていたという文面を見てからどっちでもいいや的な感想を口に載せていた。
 その後の立ち会いした夫婦の離婚率が高いのを見て唸り、どうしたものかと育児雑誌やら結婚雑誌やらを読み漁っていたけれど、結局、最後は俺の意志に任せる事にしたらしい。
「多分」
「じゃあ……枕もとにいて? 出て、くる、とこ……見ちゃ、だめ……だからね」
 そんな事など今の今まで考えていなかったので曖昧に返すと、香奈はやはり恥ずかしいのかなんなのかそう言ってくる。
「わかった」
 口論する気はなかったし、さほど強い意見も持っていなかったので軽く頷いて、病院の駐車場に車を止めた。

 ◇◆◇

 後から香奈に聞くと、出産の記憶はあまりない、と首を横に振っていた。
 どれだけ皆に迷惑をかけたのか
 どれだけ大変だったのか
 どれだけ出血したかとか
 どれだけ輸血の為に奔走したかとか
 (結局、お義母さんに輸血を頼んでセンターから届くまでの時間を繋いでもらった)
 あまり覚えていないらしい。
 辛うじて記憶があるのは第一子が生まれた時の事だけらしい。
 危ない状況だと医師に言われた俺の気持ちを少しは理解しろと腹が立たないでもなかったが、それよりも、今、健康に、隣で笑ってくれる事に安堵と感謝を覚える。
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