BabyWars last
 ママがかなりこだわっただけあって、シンプルだけれど私の身体にとてもあったラインの、スワロフスキービーズのキラキラ光る素敵なウェディングドレス。
 ブーケは白い薔薇と青い紫陽花とをメインにすごく綺麗にかっこよくまとめられている。
 何もかも、私にはもったいないくらいだ。

 マザーグースの一節を思い出しながら首元に手を伸ばす。
 サムシング・オールドはママにもらった古いネックレス。
 サムシング・ニューは若に買ってもらった新しいピアス。
 サムシング・ボロウは跡部先輩の奥様から借りたリボン。
 サムシング・ブルーはガーターに青い小さなステッチを。
 六ペンス銀貨は、もう製造中止になっているのに「女はこういうの好きだろ?」と跡部先輩がわざわざもってきてくれた。そのコインを両手で温めるように包む。
 そうやって手で触れながら一つ一つ確認し終わると、溜息がこぼれそうになった。それを、唇を噛んで阻止する。口紅を塗りなおさないといけないなんて、そんなことを思った。

 私はがらにもなく、とてつもなく緊張している。

 周りの人達は、私が幸せ絶頂で有頂天……だと思ってるらしい。
 いや、そう見えるように頑張ってるのだけれど……
 けど。
 籍を入れた時にも少しだけあった。履き慣れた靴の裏に何かがへばりついているような違和感が、強くなってる。
 幸せなのだ。
 幸せなのに。
 違和感の元なんて全然わからなくて、幸せだし嬉しいはずなのになんでこんな気持ちになるんだろうって、悲しくなってくる。
 若のお嫁さんになることに不満なんてないし、家族がこんなに手助けしてくれる中で不安だってないし、むしろ嬉しくて仕方がないくらいのはずなのに、嬉しいのに、なんで、こんな気持ちになるの。

 泣きそうになって、さっきから若菜ちゃんたちをかまっているママを呼んだ。
 ママは本当に嬉しそうに笑って、どうしたの? と言うように首をかしげた。
 その笑顔を見たら安心して、ちゃんと笑えた。
 かわいい? って笑いながら聞くと、ママはめちゃくちゃ、と若菜ちゃんの頬を撫でながら言った。

 幸せなのに。
 何で違和感を感じるんだろう。
 幸せだからこそなのかな。
 よくわからない。
 何でだろう。
 何でこんな気持ちになるんだろう。

 ダメだ。
 口に出したら怖くなる。

「ママ、私、幸せ」
 ブイサインを作って、笑う。
 不安でも、笑顔は作れる。
 笑っていると、不安が薄くなるような気がする。
 だから、笑う。
 こんなに幸せなんだから、こんなに祝福されているのだから、違和感を感じる必要なんてない。
「大丈夫」
 ママが言った。
 何に対してのことかはわからないけど「うん」ってうなずいた。

 早く若に逢いたい。
 若に会って、私は大丈夫だって事を確認したい。

香奈ー? リョーマ君と赤也君来たぞー」
 コンコン、とノックしてパパが控え室に入ってくる。視線が合って、笑って頷く。
 パパの後ろから赤也がひょこりと顔を出した。
「ちぃーっす。切原赤也ッス。おっ、綺麗じゃん香奈!」
 さすがに赤也もこの間会った時のような豹柄のパーカーに濃い紫のティーシャツとかではなくて、ちょっとラフだけれど政治界の革命児とか、そんな感じの一応パーティにも出れそうなギリギリのライン上な格好だった。
「ふーん、まあまあなんじゃないの? 馬子にも衣装って言うし」
 リョマは、きちんと正装をしていたけれど、襟元は大分ゆるめていて、髪もポールスミスとかそのあたりのモード系な感じに撫でつけてあった。桜乃ちゃんがやったのかな。
「いらっしゃい。今日は千石さんもいるのですよ。二次会は中学テニス黄金期のメンバー勢ぞろいだから覚悟しておいてね」
 白いドレスの裾を摘まんで、見せ付けるように二人の前でくるくる回ってみせた。遠心力でスカートがふわっと広がって回る。大量の白い生地が使われていることがよくわかった。
 そんな私を見て、赤也が一瞬変な顔をする。
 けれど、すぐにいつもの調子に戻った。
「あーやっぱ、あの時に香奈をモノにしておけばよかったっ」
 ちっ、と舌打して指を鳴らし、わざとらしくオーバーアクションで悔しそうにする赤也。
 その発言に私は思わず突っ込む。
「ちょ、それ聞き捨てならない! あの時ってどの時?!」
 赤也に向って手を伸ばすと、赤也は笑いながら逃げ出した。ドレスで赤也を追い掛け回す私に、パパとママがそんなのを無視して双子を抱いたり触ったりしている。あ、“ママは仕方ないわねー”って言われた。
 でも、こんなふうに馬鹿やってたら不安が飛んでいった。
 赤也はこういうところ目敏いから、多分、わざと気を使ってふざけてくれたんだと思う。ありがとう赤也……と思っても口には出さないけど!
 呆れた視線で私達を見ていたリョマが溜息を吐いた。
「二人共、まだまだだね」
 馬鹿にした口調のリョマに、かちん。
「「うっさい一年生!」」
 そして、あの時のように私と赤也の声が重なる。
 私の指は、そのタイミングで赤也の服をつかまえた。振り返った赤也と目が合って、馬鹿みたいに大笑い。
「かわんねーな、香奈は」
「そう? これでも結構変わったって言われるよ――赤也とリョマは伸びたよね」
 身長、と付け足して、赤也を掴んでいた手を離して、赤也の頭のてっぺんまで手を伸ばしてみる。うん、伸びた。一八〇センチ弱くらいはありそう。ニョキニョキ伸びるよね、男の子って。若もそういえば、いまだにニョキニョキしている。まだ十代だし、そういうものなのかもしれないけど。顔の距離が遠くなるのは悲しいから、そろそろ成長を止めて欲しいと思うのは我がままでしょうか。
香奈は縮んだよね」
「縮むかっ」
 まるで私が本当に身長が縮んでいるように、一足す一は二だと言うように、当たり前のことのようにリョマに言われてさすがの私も少しむっとする。
「だって、ほら?」
 リョマが私の傍へ歩み寄ってくる。
 そしてリョマは私の頭の辺りで手を水平にした。
 その手は丁度、リョーマの顎の下辺り。それは頭一つ分私の方が低いという証明になってしまった。
 昔は私が見下ろしていたのに!
 昔のリョマは私やリョガの後をてててっとついて回っていたのに!
 リョガにそそのかされてオレンジを皮ごと齧ってふたりで“にがい……”とうめきあった時は私の方が高かったのに!
 そんなリョマもいまや大学一年、すっかり逞しくなっている。悔しくて睨み上げると、リョマは可愛くない笑みで私の視線に応えた。その表情が少しだけ若に似ていて、ちょっとときめいてしまった。あぶない。

「ほらほら、みんなふざけてないで、式場に行っててよ。俺はバージンロードを歩く香奈をエスコートするんだから」
 パパはこんな時でもちょっとふざけた感じでみんなを促す。
「今更バージ、ン、ぐ……ッ!」
 ちょ、それ、ものすごく失礼なんですけど!
 思わず赤也を蹴り飛ばそうとしたら、先にパパが赤也の肩に腕をかけてスリーパーホールド。あれ? チョークスリーパー? パパとお兄ちゃんがよくふざけてやってたけど、いまいちどっちがどっちかわからない。
「あーかーやーくーん? いくら君でもオジサンそれ以上言うと怒っちゃうぞぅ」
 パパは、若には少しだけ遠慮するのに、赤也とかリョマだと遠慮なくかまいまくる。けど、今日は本当にちょっとカチンと来た様子で笑いながら技をかける手に、いつもより力が入っていた。
 そりゃそうだよね。結婚式当日に娘が今更バージンとかいわれたら怒るよね。赤也もさすがにちょっと顔色が悪くなってるし、反省したのかな――って、本当に苦しいのかも。
 うん、調子に乗った赤也が悪い。
「ちょ、おじさ……! それ、マジ、くび締ま――ッ!」
 その後、赤也の裏拳がパパの額に決まって痛み分けをした。

 そんなふうにドタバタしながらリョマ達は会場に向った。
 控え室にはパパと私だけ。
 まどかちゃんは朝一番に挨拶に来てくれてから、受付をしてくれた。
 赤也は本当は式には出席しないはずだったのだけれどママが“席は空いてるから”と出るように強く勧めていたので、多分、私の親族側の席に座っているんだろうな。
 若のお母さんは朝一番でこっちの控え室に来てくれて、嬉しかったなあ。

「パパ色々ありがとうね。結納とか全然わかんなかったし、いつ婚約するかとか、色々教えてくれて助かりました。今更だけど出産費用、とか……ドレスも高かったでしょ?」
 跡部先輩に頂いた六ペンス銀貨を左の靴にしのばせながら、背中を向けながら言う言葉じゃないとは思ったけど、顔を突き合わせて言うのはなんだか恥ずかしかった。
「値段は気にしないの。香奈が幸せになってくれればそれでいいんだから。それに、俺の我がままでもあるからね。成人式には着物も買うよ。俺が着物姿見たいから」
 パパは、お金のことを話すのを嫌がるけれど、ほとんどのそれを出してくれた。恵まれている、ラッキーって思えばいいんだろうけど、私も若もなんだか申し訳ない気持ちになった。
 無計画だと罵られても仕方がないのに、パパは私達に思うようにしなさいと、その為に親がいるんだからと、その為に自分は働いているのだと、そう言ってくれた。
「パパってホンットーに親ばかだよねー」
 銀貨をしのばせた靴に足を入れると、今朝から感じている違和感が、心だけじゃなくて肉体的な物になったような気がした。
 でも、声も顔も笑っている。笑えてる。笑えてるから、きっと大丈夫。
「親ばかで結構。これはこれでいいもんだよ。幸せだし」
 深呼吸を一つして、私はパパを振り向いた。古いけれど、きちんと手入れをされている感じの可愛らしい椅子に座っていたパパが、振り向いた私を見て、立ち上がった。
「そんなもの?」
「そんなもの。」
 私の問いに、こっくりと頷くパパに私は少し笑う。
 パパは私の頭をなでようとしたけれど、綺麗にセットされている髪を見て、今は上げてあるヴェールを見て、手を止めた。
 そして、風の強い日のように目を細めた。
「不安そうだね」
「そう?」
 できるだけ、何でもないように意識して、明るい感じで答える。
 そう意識しなきゃいけないのは、多分、この違和感が“不安”という名前だってことに、気づいたから。
 パパに向って微笑みながら首を傾げると、髪の毛が首筋にふれてくすぐったかった。
 こんなに幸せなのに、若はとても私によくしてくれるのに、パパもママもお義父さんもお義母さんも祝福してくれているのに、双子ちゃんも元気でいいこなのに、私はなんで不安になるんだろう。不安な要素なんて何もないのに。なんで不安に思ってしまうんだろう。
「そう。だからいっぱい喋ってるよね」
 ああ、そうかもしれない。
 パパの言葉に、気づきたくなかったことに気づかされて、しまった。
 結婚式当日なのに、全て順調なのに、不安だなんて。
 そんなことを感じる自分が嫌だ。
 幸せな結婚式の当日に、自己嫌悪でどうしようもなくなって、床に視線を落とした。
 けれど「香奈」と名前を呼ばれて、顔を上げて、少しだけ首を傾げる。
 パパが首の後ろをちょっと乱暴に掻いてた。
香奈は俺たち家族を捨てて若君と一緒になる。
 今まで家族だと思ってた集団から出て行って、新しい家族を作る。
 捨てるって言うのは言葉が悪いけど、結婚ってそういうこと」
 パパは私の手を握って微笑む。
 長手袋ごしでも、その手は温かい。
 そして、励ますように、慰めるように、宥めるように、穏やかな声で話し出した。
香奈は、パパたちといるよりも若君といる事を選んだ。
 それはとても正常で、香奈がちゃんと育ってくれた証だと思う。
 香奈が不安になるのも正常なこと。
 香奈は産まれてから一度も、パパとママの作った家族から出たことがないから、不安になって当り前なんだよ」
 パパの声はほんの少しだけ寂しそうだった。
 でも、いつもみたいに笑ってる。
 ママに頼まれていたビデオの予約を間違ってしまった時の、誤魔化すような笑顔に少しだけ近い。
「でも、覚えてて。
 パパもママも、香奈小曾根香奈でも日吉香奈でも愛している事は変わらない。
 香奈が今の家族という集団から出て行っても、香奈の事は家族だと思ってる、香奈の事を愛してる。

 もちろん、若君も香奈を愛してくれてる。
 これから、香奈は若君と家族になって家族を作るんだよ。
 例えばパパとママが作ったような。
 香奈と若君にしか作れない家族を。

 その家族が、パパとママの作った家族よりも居心地のいいものにして欲しい。
 もちろん、辛い時や大変な時は頼ってくれていい。
 でも、この家族が一番落ち着く……そんな家族を作り上げてくれればと思うよ。
 反対に、パパとママの所に戻るのがもったいないと思うほどの家族をね。

 パパたちはもう香奈からいっぱい幸せを貰ったから。
 だから、今度は若君や龍星若菜を幸せにしてあげて。
 ちょっと照れるけど、産まれて来てくれてありがとう。
 パパはいつでも味方だから」

 言い終わると、パパは私の手を何度か握り直した。
 笑顔のパパに、私は何か言わなくちゃと思うのに、何て言ったらいいか解らなくて。
 ただ「うん」と頷くことしかできなかった。
 特にカッコいいわけでもない私のパパが、この時ばかりは大人なんだなって何か、今頃……本当に今頃、実感した。
 昔、私にとって、パパはヒーローだったけど、大きくなってから、そんな事は思わなくなってた。けど、やっぱりパパは顔はそんなにかっこよくないけど(若のがかっこいい)永遠に私のヒーローだと思った。
 恥ずかしいのか、照れてるのか、パパは私の手を離すと顔を逸らした。そんな姿を、自分の親なのに可愛いなって思う。

 そうしているうちに控え室のドアがノックされる。
 いよいよ、私は、パパとママの作った家族から旅立つのだ。
 家族を捨てて、家族を作る為に。
「パパ、ありがとう」
 不安を払うためじゃなくて、パパの為に、出来る限りの笑顔を作る。
「どういたしまして」
 パパは決まりが悪そうにはにかんで笑ってくれた。

 ◇◆◇

 パパにエスコートされて、私は、今更ながらに嬉しいやら切ないやら。
 赤也じゃないけれど、今更バージンロードを歩く時、ちょっと泣きそうだった。ヴェールがあって良かったと本当に思う。
 式が始まったばっかりで泣いてしまったら赤也やリョマに絶対からかわれるから。

 壇上で、牧師様が何か色々言っていたけれど、残念ながらその言葉は私の耳には入っても頭の中までは入ってこなかった。
 けれど、パパの言葉とか、双子ちゃんの顔を初めて見た日とか、若との初めてのキスとかが自動的に頭の中で放映されて、私は、本気で泣きそうになった。
 涙を堪えようとして、くすんと鼻を鳴らしてしまって。
 もしかして聞こえたかな、と思って視線だけでそろそろと若を覗うと、若も私を見ていて、少し笑ってた。

 ああ、やっぱり好きだなあ。
 結婚式の最中に、若が好きだと深く強く実感する。
 こんなふうに、ちょっと意地悪な笑顔も好き。
 本当にこの人に会えてよかったとしみじみと感じる。
 世界中にこんなにこんなに沢山の人がいる中で、日本に生まれて、東京に住んで、氷帝学園に進学して、同じクラスになって、お互いに恋をして、子供を授かって、今日結婚する。
 きっと誰もが通るこの軌跡の道を、とても愛しく思う。
 私を産んで愛して育ててくれたパパやママ、若を産んで愛して育ててくれたお義父さんやお義母さん、予想外のことで驚いたけれど健康に生まれてきてくれた若菜ちゃんや龍星くん、その他にも色んな人にありがとうって言いたい。叫びたい。伝えたい。

 讃美歌の三百十二番を聖歌隊の人が歌いだした。本当はみんなで歌うはずなんだけど、誰も歌わなかった。若のご両親は神前式だったらしいし、私も歌詞は暗記していないから、仕方ない。赤也が賛美歌を歌ってても、面白いけど。
 お義母さんは「ドレスもいいわね」と微笑んでくれていたけど、本当はどう思ってるのかな。白無垢の方が、神前式の方がよかったんじゃないかなって、今更だけど思う。龍星くんは今、お義母さんにだっこされてるはず。
 若菜ちゃんはママに抱かれていて、お父さんとママの結婚式ですよーって言っても生まれて四ヶ月くらいしか経ってない双子ちゃんにわかるわけもない。
 けれど、なんとなく雰囲気がわかるのか、はたまたぼーっとしているだけなのか、龍星くんが途中で少しにゃあにゃあ泣いたけれどそれ以外は二人とも大人しくしている。たまにちゅっちゅ、と指をしゃぶる音が聞こえるくらい。今日の二次会は、一応双子ちゃんのお披露目でもあるから、あんまり疲れないで、寝ていてくれるのが一番いいんだけど。
 二人は大きくなったらどんな結婚式をするんだろう。
 私は二人の結婚式をどんな気持ちで見守るんだろう。
 パパやお義父さんや、みんなは私達の結婚式をどんな気持ちで見ているんだろう。

 ああ、そうだ、結婚だ。
 私は今日ここで若への愛を誓うんだ。
 浄土宗のくせに神様に誓うんだ。
 若は神道だから、神社じゃないけど神様に誓うという点では私よりも適正かもしれない。ああ、そういえば神式ではお葬式じゃなくて神葬祭とか葬場祭とか言うんだって言ってたっけ。
 あれ? 若と結婚したら私も神道になるのか。
 そうか。じゃあ、神様に誓ってもそれほどサマにならなくもないのかな。でも、それなら神前式にするべきだったよね。でも、ブーケ投げたかったし……
 それに、キリスト教と神道の神様って絶対違うよね。キリスト教は一神教だし、ヤハヴェだし、神道は八百万の神様だったっけ? わからない。
 むしろ、キリスト教徒でもないのに快く式を受けてくれた牧師様に感謝しないといけなくって……

 緊張してる所為で、なんだか訳の解らない事を考えてしまっているなぁ、なんて。牧師様の声が鼓膜を撫でただけで頭には入らないで外へ出て行く。
 ああ何だっけこれ。新約聖書コリント前書の第十三章だっけ。式の前に流れを書いたものを読んだけれど忘れてしまった。うん、確か十三章だったはず。
 でも、これが終わったら説教で、誓約だ……
 誓約が終わったら指輪を交換して結婚証明書――本当はここで結婚届を書いたりするんだよね。でも、子供達が産まれる前にということでもう籍は入れてしまったし――に署名をして、祈祷が終わったら人前でキスしなきゃいけない。ああ、それは恥ずかしい。今更だけど、恥ずかしい。つまり重要なのはキスではなく若が私のヴェールを上げることな訳だから、キスはおでこにちゅーとかで誤魔化せないものだろうか。
 ああ、でも、事前にそんな打ち合わせしてない。しておけばよかった。私じゃ、屈んでもらわないと若のおでこにちゅーできない。
 そんな、恥ずかしくて内心慌てまくって心臓バクバクの私とは正反対の、牧師様の平静な声の説教がとうとうと、何かの音楽のように紡がれていく。
 その内容は私には少し聞きなれたものだけれど、神道の若には珍しいのかもしれない。現代ではあまり意識されない、そういったものを牧師様が私達に説いていく。
 そして、それが終わる。
 次は、誓約。
『汝、此の女子を娶り、神の定めに従いて夫婦とならんとす。汝、その健やかなる時も、病める時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、固く節操を守らんことを誓うか』
 牧師様が、テレビとかでたまに聞く、その言葉を口にして。
「はい、誓います」
 若が静かに答えた。
 誓わなきゃ式が進まないけど。
 誓うから結婚するんだけど。
 若の誓いの言葉に本気で嬉しいとか思ってる場合じゃないってば……

 今度は、牧師様が私へ言葉をかけている。
 この牧師様の言葉が終わったら、私も若を愛していくことを誓わなきゃいけない。
 誓うのがいやとかじゃない。
 でも。 ああ、なんか、もう……
「誓います」
 淀みなく自分の口から紡がれた言葉に泣きそうになる。
 私、本当に若が好きだ。
 神様なんか、そんなに信じてないけど。
 誓うとかよくわかんないけど。

 若は、いつも通りの無表情で、でも、少し緊張してるのが隣にいる私にはわかる。
 指輪の交換をするときに手が震えてしまったこと、若にだけはわかっちゃっただろうな。
 結婚証明書にサインするときには、力を入れて震えを押さえて、なるべく綺麗な文字を意識して、ゆっくり書いた。
 そして祈祷。
 ああ、もうちょっとで結婚宣言だ……
 人前でキスするのって実は人生初なんですけど。え、ちょっと、意識し始めたら本気で恥ずかしくなってきたんですけど。
 あああ、牧師様、結婚宣言もっとゆっくり……!
 プリーズ スピィク スローリー!
 ええ、と……丁寧な言い方だとウッジュー……ああ、わかんない! いいよ別にもうプリーズつければ丁寧でしょ。ってそんなこと思ってる間に牧師様が、アーメンって言っちゃったよ……!
 どうしよう、どうしよう。キスするしかないの?!

 ヴェールが、若の手で上げられる。
 遮蔽物のない状態で、若と私の目が合う。
 どうしよう……若は本気で私にキスをするつもりなんだろうか。
 顔を見ると、若自身が緊張しているのではなく、私の緊張が移ってる感じだということに気づいた。結構あからさまに睨まれたから。
 結婚式で、結婚宣言のキスで、睨まれる新婦って私くらいじゃないですか? 神様。
 緊張するんだから仕方ないじゃん!
 お義母さんとお義父さんお義兄さんとパパとママとお兄ちゃんと顔見知りの親類縁者の前で、若とキスするんですよ。若と!
 本っ気で! 恥ずかしい……っ!  教会式にしてもらったのは私だけど!
 こんなに恥ずかしいものだとは思わなかった。
 なんで、みんなあんなふうにキスできるんだろう。恥ずかしくないのかな。ああ、ドキドキする。心臓の鼓動が早すぎて息が切れそうだ。なんだか、パパとかママとかの前だから余計に緊張する。
 たじろいで視線をさまよわせた私に、若が覚悟を決めろとばかりに睨んでくる。
 新郎が優しくない!  そんなとこも好きだけど!
 私は何かもうファーストキスをした時のように緊張してドキドキして恥ずかしくて、強く強くぎゅっと目を瞑る。覚悟を決めて、ぐっと顎を上げる。

 若が少し屈んだのを、目をつむったままでも、何となく感じた。
 触れるとは言えない、吐息が掠めるような誓いのキスは、ちょっと冷たくてあっという間に終わった。
 ほっとしすぎて、その後の讃美歌とか祝祷とかは、もう覚えていない。

 ◇◆◇

「若ー終わったねー。照れたねー」
 式が終わって、パパやママ達にお別れをしてから、私は式の前はウェディングドレスに着替えた控え室で二次会用の少し大人しいドレスに着替えた。椅子に座って足をパタパタさせると、ドレープのたっぷりしたスカートがひらひら空中を泳ぐ。
 若も、今はラフなスーツに着替えて、オムツを替えたばかりの若菜ちゃんを片腕で抱いている。もう片手で若菜ちゃんの口元をタオルで拭いながら、若は少し眉を顰めた。
「それは香奈が異常に緊張してるから俺に移っただけだ」
 少し嫌そうな感じで、若はそんなことを言って、大げさに溜息をついた。
 確かに、隣の人がものすごく緊張してたら移っちゃうかも。でも、試合以外で緊張する若なんて珍しすぎて、なんだか可笑しくて、思わず笑ってしまう。
 若はそんな私を見て、また溜息を一つ。
「ねえねえ若」
 眠る龍星くんを抱いて、若の顔を下から覗き込む。若が、そんな私を見下ろす。目が合って、私は笑う。
「世界で一番幸せな家族を作ろうね」
 その言葉に、若はタオルをテーブルに置いて、その手を私の頬に伸ばして、ゆっくり撫でる。くすぐったかった。
 細められた若の目の形が、きれいだと思う。

「俺はもう幸せだけどな」
 珍しく若はそんなことを言って、少し笑った。
 そして、腕の中の若菜ちゃんを抱きなおす。
 若が少しだけ屈む。
 ここには誰もいない。
 若の少し色素の薄い、きれいな睫毛が、私の瞳に映る。
 唇が触れる。
 さっきより長い。
 温かい、体温が伝わる。
 柔らかい。
 そんな、幸せなキス。

「私も、幸せだよ」
 唇が離れて、目を開ける。
 若がここにいる。
 すごく幸せで。
 とても嬉しい。
 好きになった人が若でよかった。
 若が私を好きになってくれてよかった。
 若に会えてよかった。
「大好き」
 私の言葉に、若は少し笑った。
 少しだけ目尻が下がって、笑みの形に細められる若の目は、とてもきれい。
香奈
 そんなに優しい声で呼ばれると、私の名前が何か特別ななにかになったような気がしてしまう。
 頬を撫でてくれる若の大きな手のひらに頬を寄せる。お化粧の匂いが、若の手のひらに移ってしまうかなと思ったけれど、気にしないことにして。
「大好きだよ」
 若の手のひらの心地いい温かさに目を瞑る。若が、また「香奈」と私の名前を呼んだ。
 目を開けて、若を見上げると、今度はおでこにキスがふってくる。触れた若の唇が、声にならない言葉を、私の皮膚の上に、そっと、のせた。
 嬉しくて、幸せで、こんなに優しい言葉に触れられるなら、こんなに嬉しい言葉が感じられるなら、どんなに恥ずかしくても、何度だって結婚式がしたいと思ってしまった。
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