Babies and fireworks.

「隅田川」
 家庭教師のアルバイトを終え帰宅した若に、おかえりなさいもなく香奈がいきなり放った言葉がそれだった。
 若は“隅田川がどうしたのだ”という思いで、それでも、主語のない香奈の言葉は今更の事と諦観する。そんな女を好きになり、こうして生活を共にするほどのめり込んでしまっているのは自分なのだから。
「隅田川がどうした?」
 ベビーベッドの中ですやすや眠る若菜龍星を覗き込みながら、上着を脱ぎつつ丁寧に若は尋ねた。双子は小さく口を開いたまま、それでも安らかに眠っている。
 そんな若の上着を手早く受け取りながら、香奈はなぜ若が己の言いたいことが分からないのかと不思議そうに、また口を開く。
「おかえり若、隅田川行こうよ。明日」
 今更ながらのおかえりと、先程よりは会話に向いた言葉が若にかけられる。確かに明日は若に予定はない。週に一日は自宅で過ごす日を、二人で決めて作っていた。それがたまたま明日にかぶっている。
 だが、だからと言って何なぜ隅田川に行くのか。あの濁った川に、それを目的としてわざわざ足を運ぶ気には、少なくとも若はなれない。
 香奈がハンガーに上着を掛け、そのハンガーをクローゼットのハンガーパイプに吊るしているのを見ながら、若は彼女の意図をしばし考えていた。
「明日、隅田川の花火大会」
「……ああ。俺が人ごみ嫌いって知ってて言ってるのか? それは」
 突然もたらされた回答に、香奈の言葉に合点がいった若は軽く頷いたが、次の瞬間には溜息を吐いた。
 つまり、香奈は隅田川の花火大会に行きたいのだ。けれど、合点がいったからと言って、若の返答は賛同するようなものではなかった。
 相手に己の言いたい事が伝わったと理解すると、香奈はキッチンへ歩き、夕食を用意しながら――既に料理は出来ており、暖めてよそうだけらしかった――若へ声を掛ける。
「若のおばあちゃんが私と若と龍星くんと若菜ちゃんの浴衣作ってくれたヤツ、まだ一回しか着せてないでしょ。あの子達、今年中に着せなかったら来年は絶対着れないよ」
 楽しそうに言う香奈の言葉は、“拒否と言う選択肢は存在しない”と暗に言っていた。七月中頃、人の少ない小さな規模の地域の夏祭りの為にと、若の祖母が双子に浴衣を縫い、若方の実家の人間と行ったのだ。確かにその一度着ただけで不要品とするのは、若でも勿体無いような気がした。
 若は、仕方なさそうに、また諦めたように溜息を吐く。そして、少し待てと香奈に伝え、洗面所で手洗いとうがいをしてリビングに戻った。
香奈は着付けできたか?」
 リビングに着くと、今度は奥のキッチンへ向い、冷蔵庫から作り置きしてある麦茶を取り出しながら、若は背中越しに香奈へ問いかけた。
 香奈は、本気で若に嫌がられた場合は諦めようと思ってはいたのだが、言外に同意を示す問いをかけられ、嬉しそうに笑う。
「んーん。できないから、若に頼もうと思って。出来るよね?」
「ああ……一応はな。香奈も麦茶でいいだろ?」
「うん、いいよ。でも、それちょっと濃いかも」
 香奈の答えを聞き、若は麦茶のポットと二人分のグラスをテーブルに置く。ことん、とグラスが小さな音を立てた。
 対面キッチンから、麻でできたコースターを差し出す香奈。若はコースターを受け取り、テーブルに並べてその上にグラスを置く。次に差し出されたスープ皿も受け取るとテーブルに置いた。香奈が一昨日大量に作り置きした野菜のスープは、今日はトマトを加えられて皿の中でミネストローネに変身した姿を見せ、食欲のそそる酸味の効いた香りを放っていた。
「若、ローズマリー平気だよね? 今日は鶏肉を香草焼きにしてみました」
 楽しそうにグリルから香ばしい匂いの、綺麗に焼き目のついた鶏肉を取り出し皿に乗せ、甘くグラッセにした野菜類と炭水化物代わりのボイルした根菜を添えて香奈は若に差し出した。若は軽く頷いてそれをテーブルに置くと、テーブルの中央に飾られていた花瓶を、カウンターへと退かした。その様子を見ながら、これで最後と言いながらバルサミコ酢とオリーブオイルのかかったほうれん草のサラダを、花瓶を退かした若に手渡し、香奈はフォークとスプーンを手にキッチンから出た。
 香奈はどちらかと言うと洋食の方が得意らしいが、一緒に暮らしてからはその割合が少しずつ減り、若の好みに合わせて和食を饗することが多くなっていた。久々の洋食は、久々だからか、より旨そうに感じた。
「じゃあ、明日決定ね。七時十分からだから……六時くらいには出てようか。多分それでも場所取り大変だろうけど」
 椅子に腰掛けながら、香奈が言う。
 若はちらりと香奈を見て、そして、二つのグラスに麦茶を注ぎながら答える。
「いや、花火が上がるくらいに着けばいいんじゃないか。ここからだと浅草橋だろ? それに多分、龍星は花火の音で泣くような気がする」
 グラスが麦茶で満たされると、若もゆっくりと椅子を引きテーブルについた。
「ありがと。……でも、確かに龍星くん泣くかも……じゃあ、ちょこっとだけ見て帰ろうか――っと、いただきますっ」
「いただきます。――もし、なんなら、若菜と二人で観に行っても良いぞ」
 丁寧に手を合わせて食事開始した香奈は、小皿にサラダを取り分けながら若の言葉を否定した。
「やだ。若と龍星くんもいなきゃだめ。断固ダメ。家族で行くの」
「そうか……」
 ミネストローネをゆっくり飲み下しながら、若は屹然とした香奈の言葉に小さく笑って頷いた。
 しかし、その直後、若菜が叫ぶように泣き始めたので夫婦の会話はそこで一時中断することになる。

 ◇◆◇

 薄い萌黄色に綺麗な朝顔模様の花芯に絞りの染めが入った女物の浴衣を手に、若は膝を着いた中腰で溜息を吐いた。浴衣の朝顔に合わせた赤紫によく似た帯が畳の上で出番を待っている。
香奈、いい加減覚悟を決めろ」
 呆れたような、うんざりした若の物言いに香奈は、合わせていた視線を外して、今更の言葉を放つ。
「や、うー……でも、恥ずかしいよ」
「昨日からわかってたことだろ」
「そうなんだけど……」
「下着は着てていいんだからさっさと服を脱げ。着せられない」
 香奈は小さく唸ると覚悟を決めたらしく、動きやすさを重視したキャミソールを脱ぎ、デニムを床に落とした。香奈は可愛いらしい下着とやらに妙に拘るくせに見せる時は妙に恥ずかしがる。そんな香奈が、若には理解不能だったが、それもまた香奈らしいと半分納得してもいる。
 浴衣を羽織るように指示し、羽織った浴衣の前を合わせ裾の長さを調節しながら若は、今ここで龍星若菜が泣き出さないことを祈った。
 香奈はと言えば、何だかよくわからないが妙に恥ずかしい気持ちで大人しく指示されたように裾を押さえたり紐を押さえたりしていた。
 膝を付いた若の腕が、香奈の腰を抱くようにした時は少し恥ずかしく、思わず身じろいだ。しかし、すぐに“動くな”と叱られてしまう。
 きつく帯を締められたときは蛙がつぶれたような声が香奈の唇から零れた。
「っ息……くるしっ」
「帯はどうする?」
 即座に香奈の訴えを無視し、ぞんざいに若は尋ねる。
「リボンとかおはなとか……そんな感じで可愛くして……」
 息も絶え絶えとばかりに、それでも反論はせず、香奈は若の問いに答える。
 それを聞いた若は床に膝を付いたまま香奈を見上げ、再度帯に目を向ける。
「片流し……いや、花文庫でいいか」
 いいか、と言われても香奈には片流しも花文庫も理解の及ぶところではなかったが出来上がりの帯は、香奈の望みどおりリボンのように可愛く結ばれていた。
 その後、香奈は、龍星若菜がぐずつく前に手早く浴衣を着せる若を手伝い、若が浴衣を着る時も、勿論それを手伝った。
 因みに、香奈は浴衣を着た若に見惚れたのだが、それは毎年の事である。

 ◇◆◇

 若は若菜龍星の何を言っているのかわからない会話を聞きながら、双子用のベビーカーを押す。若菜龍星の額をべちべち叩きはじめたあたりで駅に着いた。
 電車はやはり混んでおり、ホームでベビーカーを畳むと若は若菜を、香奈は抱っこ紐を使って龍星を抱いた。紐が肩に食い込まないように若がさりげなく整えてやる。
 電車内が物珍しいのか若菜はきょろきょろと興味深そうに辺りを見回していたが龍星香奈の浴衣をぎゅうと握り、指をしゃぶってしがみついていた。
 普段は指をしゃぶったりはしないのだが、特に龍星は眠る前と落ち着かないときはどうしてもしゃぶってしまうようだった。
 最近、首が座った二人は、縦抱きにしても前ほど不安定にはならなくなった。
龍星くんはビビリっこだね」
 しがみついて離れない龍星を抱きなおしながら香奈が笑う。
若菜は図太いけどな」
「おおらかって言わないと」
「じゃあ、龍星は繊細って言い換えろよ」
「日本語って不思議だよね」
 電車内で初老の女性の集団に、双子? 可愛いわねえ。飴食べるかしら? あら、まだダメなの? きっとママに似て可愛くなるわね、などと言われ、若は表面上穏やかに、香奈は嬉しそうににこやかに相槌を打っていた。
 若菜の視線はある程度人の顔をじっと順番に見回した後は、常に着物の女性のキラキラと光る鳥の形の翡翠の帯止めに固定され、龍星は時折女性と視線を合わせるものの、すぐに怯えたように香奈にしがみついた。
 目的の浅草駅に着くと、人の波に揉まれながらホームへと降りる。
 比較的空いている方の階段から降りつつ、既に花火の音は聞こえていた。
 龍星は二人が予想したとおりにびくびくしていたが、若菜はそれは楽しそうに、まるで花火を掴まえようとしているかのように手を上下に動かしている。
 駅を出ても若は若菜を、香奈龍星を抱いたままだった。ベビーカーで移動するには人が多すぎる。
 花火が見え、比較的梳いているところを探したけれど、この人ごみの中では動くのも面倒で、他の鑑賞者と同じく、ガードレールに腰掛けた。
 予想通りに龍星は音と光に怯え小さな声で泣き出し、若菜は口をあけて、花火を凝視したり手を動かしたりしている。
龍星くん? 怖くないよー。ママ一緒にいるでしょ?」
 言いながら、胸に顔をうずめている龍星の頭をなで、背中を叩き、泣き声が弱くなった所で胸から離し、今度は龍星の背が自分の胸に当たるように抱きなおす、香奈
 アナウンスが入り、花火が上がる。残念ながら香奈には説明されても花火の種類もどんな演出なのかも想像がつかず、若もほとんどアナウンスは聞かずに時折大きく体を動かす若菜を抱くことに集中していた。
 龍星は、そのうち、花火に慣れたらしく、きょときょとと周りをうかがい始めた。それでも、香奈の浴衣を離しはしなかったが、花火が自分に殴りかかってくるわけではないと理解したのかもしれない。香奈としては、無理矢理つれてきて少し申し訳ないような気持ちだったけれど、思ったよりも早く花火に慣れてくれたことが少し嬉しかった。周りには泣きじゃくりつづけている赤ん坊の声も聞こえていた分、安堵もした。おもっていたよりも息子はビビりっこではなかったのかもしれない。
「若」
 言いながら、呼びながら、香奈は少し体勢を整えて片手で龍星を抱く。龍星はすかさず離れまいと香奈の浴衣をはっしと握った。その姿に香奈は少し笑ってしまう。
「何だ」
 花火から視線をはずさす――若は何だかんだと意見はしても、季節感のある催しが嫌いではない――香奈の呼びかけに答える。若は片手で若菜を抱き、片手で畳んだベビーカーを支えている。
「昔さー中学生の頃も、こうやって花火観に来たよね。人ごみ嫌がる若に無理矢理頼み込んで」
 若の、ベビーカーを支える手に、そっと自分の手を重ねながら、夜空に散る光の粒を眺めて香奈は言う。言葉にはしんみりとした懐かしさが滲み出ていた。
「ああ」
 若はベビーカーを己の膝とガードレールで支えられるように位置を直し、重ねられた香奈の手を握ってやった。
 香奈は若の手をきゅっと握り返し“ちょっと手、湿ってるかも。ごめんね”と謝罪して言葉を続ける。
「あのね、あの時もそうだったけど、今も若が大好きだよ」
 嬉しそうに、花火を顔を照らされて香奈は言う。
「知ってる」
 若は、やはり香奈と同じく花火へ視線を向けたまま、たった一言、ほんの僅かに声に笑みの色を含ませて、答えた。

 ◇◆◇

 帰りの電車に揺られ、ベビーカー中で龍星若菜もぐっすりと眠っている。早めに切り上げたおかげで、帰りの電車は座れない程度にしか混んでいなかった。ずっと抱きつづけるのは流石に辛いけれど、ホームに下りればベビーカーに寝かせてしまえるので、それまでの辛抱だった。
 結局、花火を見たのは二十分程度だったが、香奈はとても満足していた。
 初めて家族で出かけた事にも、龍星が最後は花火に怯えなくなった事にも、満足していた。
 そして、疲れてはいるようだけれども、若が穏やかな顔をしている事がとても嬉しく、また、そんな表情を浮かべさせられる事が誇らしかった。
 若が、自分を始め、若菜龍星を愛していると充分すぎるくらい理解できる。
 人目を気にして、電車内で手は繋いでいないけれども、帰ったら絶対抱きついてやろうと香奈はこっそり誓う。
 ふと、香奈は車窓へ目を向けた。
 音は大分遠くなったが、それでも窓からは大輪の花火が夜空に咲き誇り散っている様が見える。これから家族で何度花火を観に来ることができるだろうか。それから時が経ち、また二人で観に行くようになった時も、若に穏やかな顔をさせてあげることができればいいな、と香奈は遠い未来に思いを馳せた。