クラスのほぼ全員が円陣になった椅子に座っていた。一部の例外は、病欠か、他の作業をやっている者のみだった。強制参加とはいえ、この出席率は大前提に文化祭という言葉があるからこそである。そのことに、何人がしっかりと理解をしていたかは不明だ。 傍目に見ても日吉が縄張りを荒らされた虎のように苛立っている事が容易に理解できた。ある意味で素直で正直と言えよう。 彼は基本的に、目上の者以外には、感情を取り繕うことも、表情を取り繕うこともない。そして、基本的に攻撃的な彼に、いつも不機嫌な男だと思う人間も多く、彼の彼女が真逆にも笑顔の多い、バトルロワイヤルで真っ先に相馬光子に殺されそうなタイプなので、回りの人間からすれば不思議な交際だった。 自称監督鈴木は、他称でも監督、むしろあだ名が監督になり始めた。ヒロインの中野は姫。日吉は、一部で悪意をこめて“キレ男”。もしくは、そう呼ばれはしないけれども憐憫を込めて“苦労人”の形容をされている。どちらかと言うと後者が圧倒的だ。 日吉が居る時点で、ときめきのある撮影現場になるはずもなく。先日は大量に季節はずれで値下がりした花火をカンパで買わされ、今、現状を心から楽しんでいるのは監督となんにでも適応できるカメラマンのみで、大抵の者は不機嫌オーラを結界の如く撒き散らしている日吉の直径五メートル以内には近付けない。今も、日吉の座っている左右隣は妙な空間が鎮座していた。 円陣の中央の席にふんぞり返った監督・鈴木が緊張なのか興奮なのか分からないが鼻の穴を広げて妙に間延びした語尾で話しはじめた。しかし、形だけを見ればクラス全員に吊るし上げられているようにも見える。 「最後の戦闘シーンは派手にやりたいと俺は思ってるワケでぇ……最後は戦闘員増員してぇ……カメラマンとレフ板とヒロインと監督の俺以外はァ……女子も男子も全員操られた生徒として日吉と戦ってくれ!」 教室内の生徒の八割が豆鉄砲を食らった鳩のような顔になった。日吉は不機嫌最高潮でバキバキと地割れの音を立てながら眉間の皺を深くした。ヒロイン役・中野は諦観の表情で苦笑。カメラマンの小林が無駄に笑顔。 最後に戦闘シーンなんてあったのか? 、という教室内の不穏な空気をものともせず監督は言葉を続ける。しかも、操られるって何だ。 「で、ラスボスをさっき決めたんだがなぁ。聞いて驚け。快く忍足先輩が請け負ってくれたんだ!」 ラスボスなんていたのか? 、という皆の視線を一心に受け、無闇にキラキラした表情の監督。カメラマン・小林は「わー」と歓声を上げながら場を盛り上げようとでもしているのか拍手を送っていた。そもそも、クラスの出し物に他のクラスの人間を使ってもいいものなのか。 その空間にいれば、有田は冷たい視線を送り、鳳は困惑の表情を乗せ、香奈は曖昧に引きつった笑みを浮かべただろうが、日吉は殺気の環を広げただけだった。そして、日吉のクラスメイトは、すでにその運命を受け入れてぐったりとした表情である。 「忍足先輩が味方につけばこの映画は成功したも同然だ! クランクアップまでもう少し頑張ってくれ! 細かいところは決まってないからフィーリングとアドリブで頼むぞ!」 諦観もしくは諦念。 クラスのほぼ一〇〇パーセントにその表情が浮かぶまで、そう時間は掛からなかった。 因みに日吉は終始不機嫌だったが、何も口は挟まなかった。口を挟むことすら面倒くさいと思っているような様子であった。 ◇◆◇ 跡部先輩に教室まで送って貰った私は、教室内の騒然とする様子にびっくりした。どら焼きを咥えたまま目をまんまるにしてる子や、黒板にメニューを書き出して、そのデザインに試行錯誤してた子の手がチョークを握ったまま空中で固まってたり、ベニヤ板をどら焼き形にのこぎりで切り出してた男子が、ベニヤ板を支えていた男子にひそひそ耳打ちしたりしてた。いまだに、跡部先輩の人気は凄まじい。 そりゃ、テニス部レギュラーは、それだけで注目されるのだけど、やっぱり跡部先輩は別格。他の学校にまで名前が知れてる人なんて跡部先輩くらいだと思う。 「送っていただいてありがとうございました」 教室の入り口で、跡部先輩に九十度の最敬礼をすると、髪の毛がほっぺたを撫でていってくすぐったかった。頭を上げると跡部先輩が、無表情とは違うけど、別に何の感情も浮かんでない顔で、軽く首を動かした。うなづいたのか、首を振ったのか、よくわからなかった。 「かまわねえよ。じゃあな」 平然と去っていく跡部先輩は貫禄充分で、こんなふうに、ちょっと遠巻きに黄色い声を浴びせられる状況に慣れていんだなぁって簡単に想像できる。さすが、氷帝のマイケル・ジャクソン。(て、忍足先輩が言ってた。忍足先輩はジョニー・デップらしい。なんでだろう。じゃあ、若は誰ですか? って聞いたら、それは無視されて、チョータがオーランド・ブルームだって言ってた。結局、若は一般人なのかもしれない) けれど、私は慣れていないので。 周りのざわめきに挙動不審になりつつ、わたわたと困惑しつつ、看板製作隊の輪に戻った。 「え、えー?! 香奈って跡部先輩と仲いいの?」 クラスメイトの上擦った声に、跡部先輩はかっこいい人だけど、そこまでかなぁ? 、とか、色々思う。 「んー……普通だよ?」 答えながらパステルとフィキサチーフの缶を看板製作隊の傍に置いた。 どっちかと言うと跡部先輩は私よりまどかちゃんと仲が良いし。本当に、顔を合わせたら挨拶をする程度の、友達にもなれない、顔見知り程度の関係。跡部先輩の、クラスメイトの方が、もっと親しい関係だと思う。跡部先輩は、面倒見がいいから、たまに助けてくれるけど。 そんなことを、ぽやって考えてたら、何故か火花が散るみたいに三村と目が合ってしまった。思わず反射的にバッてすぐ視線を外したけど、でも思考はすぐには外せなかった。 三村は私に何をしたいんだろうとか何をさせたいんだろうとか若が嫌いなのかなとか私が嫌いなのかなとか、逆に私が好きなのかなとか若が好きなのかなとか、何を考えてるのかなって――ああ、もうっ! とりあえず今は模擬店の事だけ考えよう。 そうだそれがいいそうしよう。うん、そうしよう。触ったら熱いって痛いってわかってるものにわざわざ触りに行く必要なんてないんだから、逃げちゃおう。回避だ。全速前進面舵いっぱいで回避。模擬店のこと考えてるほうが断然楽しいもん。 看板の端っこに飾るススキを誰が採りに行くかって話しをみんなでしてたら、ベランダでスプレーを使っていたコたちが、急に騒がしくなった。 必然的に教室内のコ(勿論私も含む)は窓際へと集まる。なんだろう、って。よいしょって背伸びして見えたのは。 他のクラスや先生方が文化祭の準備をしているのにも拘らず、校庭全てを使って殺陣シーンを迷惑承知で敢行している若のクラスの撮影だった。 何と言うか、某漫画の死神のような黒い着物を着せられている若が二階の教室から見ても、目から破壊光線が出る程に不機嫌なのが分かった。眉間の皺増量中。いつもより多めに顔を顰めております。実際にはそんなの見えないけど、でも、とにかく、若がすっごく嫌がってるのが、なんでだか空気をこれだけ隔てていてもよくわかる。 不機嫌と言うか、不愉快というかんじ。しかも自暴自棄っぽい。絶対、普通に「死ね」とか素でつぶやいてるよ、若…… 若のクラスのコ達も、やっぱりみんな若と同じくヤケっぱちな感じがする。 最初は居合いで、若は、きちんと攻撃を受け流してから二太刀目で止めを刺す感じにしてたけど――若ってこういうとこ、ちょっと真面目だなぁって思う。きっと足の運びとかもきちんと考えてたんだろうなぁ――その後は、あれよあれよと言う間に若が逆刀で刀を振るたびに、ぱたぱたとドミノみたいに人が倒れて、ちょっとした パッと見て重要人物っぽい綺麗な服装をした中野さんが若に守られるような位置で立っていて、素直にいいなあいいなあって思ったりもした。 「日吉、キレちゃってるよ」 溜息と共に呟かれたチョータの言葉に、私はこくこく頷く。その声には悲壮な感じも含まれている。このあと演劇部が体育館を使い終えたら、テニス部が体育館のステージを使って劇の練習をするんだったっけ。あの若と剣戟かぁ……悲壮にもなるよね。 チョータは私とは違う意味で若の扱いが上手いけど、私でも不機嫌な若は扱いかねるし、きっとチョータだってそうだろうし。 校庭で花火が上がった。 勿論、跡部先輩がやるような三尺玉とかの打ち上げじゃなくて、火柱が吹き上げるタイプのやつだったけど。普通に売ってる花火の最大規模なんじゃないかなって程には大きな火柱だった。あんなの、校庭で使っていいのかなあ? 「あれって忍足先輩じゃない?」 私の隣のまどかちゃんが訝しげな声を出す。言われて視線を向けてみると、うん、あの少し長めの髪形には見覚えがある。今夏、氷帝を全国大会ベストエイトまで導いた氷帝学園男子テニス部が誇る三年レギュラー陣。最後の青学戦でもシングルス・スリーで勝利を挙げた氷帝の千の技を持つ天才。 若いわく“眼鏡の付属品” (言いすぎだと思う。でも忍足先輩は若をからかいすぎだと思う。その所為で部活の後、若がむすっとしてたりするから、あんまりからかわないであげてほしいなって思う。私のこともからかうし、いまだに若に告白しちゃったときのことを思い出すと、忍足先輩のばかって言いたくなる) なんで二年の出し物に三年の忍足先輩が? そう思ってみていると、忍足先輩の登場で、校庭での撮影は終了したらしい。 忍足先輩が親しげに若の肩に手を置いていた。若は不機嫌そうに〇.二秒くらいでその手を払って校内に消えていく。 他の子たちも「やってらんねー」的な表情で(女の子達だけはちらちらと忍足先輩を見ているけれど)校舎へ消えていった。 でも、文化祭と言う言葉の魔力で、やっちゃうんだよね、みんな。嫌々やりつつも家に帰ったら「最悪!」とか楽しそうに家族に愚痴を言ったりとかしてるんじゃないかな。 若だけは本気で嫌がってるっぽいけど、でも、諾々と演技している辺り、文化祭パワーだなー、と思ったり。 よくやるよね、と言う感じの感想を漏らしつつベランダから教室に戻っていく。私もみんなに習って室内へ戻った。 明日、朝電車であったら昨日、わがままを言ったことを若にちゃんと謝ろう。 それで、潔く諦めて一緒にコンテストに出てもらおう。 きっと、そういうのもいい思い出になるのさ。なんて、笑っちゃいながら作業に戻る。 ◇◆◇ 最後は忍足さんと俺の一騎打ちらしい。 秋風が暴れ狂う屋上に二人で立たされ、適当に戦えと言う、解り易くも曖昧すぎる指示を受け取った。 忍足さんは武器らしい武器を持っていなかったが、俺から離れた超能力者と言う肩書きは忍足さんへ移動していたらしい。忍足さんが腕を振ったら倒れろ、という指示を受けた。 やってられるかそんなこと。 刀を持ち、古武術の構えをした俺に「牙突やー」とか嬉しそうな顔をした忍足さんは普通にムカついて仕方ない。しかも、さっきから訳の解らない事ばかり言っている。 学術的に高度な事を言っているわけではなく、また、己の人生には欠片も関係ないものと判断した。刃の潰された、それでも重い模造の長刀を、死なない程度に一閃させる。 「日吉が牙突やったら俺は飛天みつ……っぶないやんか!」 腐っても氷帝テニス部二〇〇人の中からレギュラーを勝ち取り、天才とまで言われた男。ひらり、と身を寝かせて剣撃を避けた。避けられた事がまたムカツク。風上側はあの長い髪が死角を作るだろう。狙って斬るか。 「おっしゃっている事が支離滅裂でしたので、ショック療法を施してみようかと思ったんです。 ですから、 避 け な い で 下 さ い 」 怒気を伴った俺の主張に忍足さんはじりじりと後ろに下がる。 すり足で追い詰めていると“そんな感じそんな感じ! ”とかいう鈴木の声が耳に入った。 どうでもいいが、音声はどうなってるんだこれ。普通に私語入りまくりのはずだろう。 まあ、どうなっても俺の知った事ではないが。 「模造刀やってかなり破壊力あるんやで?!」 「 いつの間にか、以前俺が使っていたトンファーが忍足さんの手にあった。 忍足さんは格闘技経験は無いものの体格的に俺を上回っている。 単純な身体能力にはさほどの差は無いと思うが、確かに長刀はかなり重い為、どうしても動きに間が出来、さらに間合いも広いためにトンファーで懐に潜られるとやりづらいことこの上ない。突きは本当に演技ではなく殺してしまうし――この歳で、過失致死で少年院など行きたくない――峰打ちも程度が過ぎれば死に至る。その上、案外日本刀は脆いものなので上手く力を抜かねば刀が折れる。素手のほうがやりやすい。せめて 剣扇舞やら居合いやらをやらされているので、全く日本刀に触れていないわけではないが、先日の巻き藁斬りでは駄目だしをされた程度に得意すぎるわけでもない。 懐に潜り込まれる前に間合いを取る。突けないのは本当にきつい。円を描くように下がって、隙を見て刀で殴打する。さすがに肝臓に一発いれると、忍足さんは本気で痛そうだった。それでも、気持ち悪くならない程度に力を抜いたのだが、反撃され胸元に喰らった一発の所為で呼吸が乱れた。首であれば呼吸が困難になっていただろう。とある格闘技はローを蹴って相手の攻撃にさえ耐えていればいいらしいが、さすがにそんな地味な戦闘ではいけないだろう。かといって、大きく動けば大きな隙が出来る。 振り下ろした刀を、トンファーで弾かれて懐にもぐりこまれ、咄嗟に腕を引いて、跳ぶようにバックスッテップで距離をとる。忍足さんは足が速いので、油断ならない。直線で後退すると次の技に繋げられなくなるので、円を描くように退る。けれど忍足さんは距離をつめなければならない武器の為、お互いの利害は反して、なかなか踏み込むタイミングがつかめない。 思ったよりいい勝負を繰り広げてしまっている。大体、どっちが勝つかとか、どのように勝つかの指示がなされていない。 俺と忍足さんは半ば本気に近い勝負をし始め、忍足さんよりも格闘経験が長く、比較的に長期で武器を使って、弱い力でも痛みを感じる臓器部分を重点的に攻撃していた俺が辛勝した。 一応ヒロインを守る役の俺が勝ったのだから問題ないはずだ。シナリオには俺が勝つと言う表記は無かったが。そう、シナリオとも言いがたいそれには“がんばって日吉と忍足せんばいバトって”と書いてあっただけだ。指示と言うよりお願いにような書き方だ。頑張ったのだからいいだろう。戦ったしな。ところでせんばいってなんだ。馬鹿か。本当に馬鹿だろう。漢字で書かない時点で馬鹿だが、平仮名で間違える時点で大馬鹿だ。しかも忍足さんの名前の横につる三八○○ムしが描いてあった。微妙に忍足さんに似せて。そんな努力はいらねぇよ。 とにかく、忍足さんも俺も、お互いかなり疲れて動きを止めた。すでに二の腕の筋肉が震えだしている。腹部への打撃を多くしてしまったため、忍足さんは時間を見なければ食事を戻してしまうだろう。やはり、少しやりすぎたかもしれない。しかし、俺とて、トンファーの打撃痕は数日は消えないだろう。青紫になっていることが容易に想像できる。 「なかなかやるやん」 汗をかいた忍足さんが、寝転がったまま汗で張り付いた前髪を手櫛で書き上げる。 「忍足さんも思ったより手強かったですよ」 周りの撮影部隊の奴らはナイスファイトとか言っているが、今もビデオが回っているはずだ。 本当に音声はどうする気なのか少し気にならないでもなかったが、俺にとってはどうでもいい事なので即行で思考から削除した。 何にせよ、コレで俺の登場するシーンは全工程が終了したはずだ。 シナリオに無い展開、脚本に無い展開、台本に無い展開。それ以外のものはなかったと言ってもいい。 さっさと制服に着替えたい。 それから、先日、喧嘩とも言えない小競り合いをした香奈に会って、それから、嫌々だがコンテストに渋々出場する事に同意して(跡部元部長が余計な命令を下した所為だ)それから、鳳を体育館へ引きずって劇の練習に参加しなければいけない。マキューシオは原作で下ネタばかり言っているから個人的に嫌いだ。切れ易い異常人物だが、ティバルトでまだマシだった。 劇など好きではないしやる気も無いが下手な演技をして恥をかくより、きちんとこなした方がまだいい。だから、この映画もそれなりにやってきている。 棒読みではあるが。 投げやりな雰囲気を消せはしなかったが。 その辺りは編集の奴らが頑張るだろう。 「じゃあ、俺はもう上がりますんで。後で鳳と樺地と一緒に体育館行きますから、跡部さんにそう伝えておいて下さい」 「了解。んじゃ、俺は先にな。お疲れさん、ティバルト君」 「お疲れ様です。また後で。ロミオさん」 俺は嫌味を織り交ぜておざなりに返事をした。 ◇◆◇ 今日は映画も劇も剣戟で大変だった若を宥めて、おっきな本屋へ一緒に足を運んだ。外のエスカレーターを使って地下に下りる。白くコーティングされたコンクリートの床を歩いて、大きなガラス張りの書店へついた。 若は古本屋と図書館専門だから「大きいな」って素直に感心してるみたいだった。絵本作家さんの、まだ流通していない自費出版の本や、日本では売っていない海外の本なんかもあって、美術や芸術関係の本が多いから私はたまにこのウッドブラックと白い壁でコーディネイトされた本屋さんに来る。一度潰れたけど、なぜかまたオープンしてた。大人の事情は良くわからないなぁ。 「えとね、えーっと……フランシス・バーナード・ディックシー……ふー、フー、えふー……えー、びー、しー」 奥の方の海外の美術本を漁りながらローマ字順にならんだ本を上から下に調べていく。 若はそんな私に何も言わないでついてきてくれる。疲れてるのにわがまま言っちゃって駄目だったかな。でも、こうやって、わがままを聞いてもらえると、なんだか好かれてるなって思う。だからって、重荷にはなりたくないんだけど。複雑な乙女心です。 「うー、ないや。えっと、じゃあ……ごめん。ちょっとポスターのとこ行ってもいい?」 若が適当に顎で頷いたので――すっごく偉そうだった。知らない人が見たらびっくりするほど尊大だった。ほんと、若ってば、私が若にベタ惚れだから、甘えてるよね! もっと優しく頷いてくれてもいいのに、なんて。でもそれが若らしくて何となく心がとろけたチーズみたいになっちゃう私は、やっぱり若にベタ惚れです――で! 高校生のバイトの顔見知りの店員さんのところに言って聞いてみたら「ああ、フランク・ディクシー? ありますよ。なに?」と、バックヤードへのドアに手をかけながら聞いてくれた。 「ロミジュリです」 「ちょっと待ってて、持ってくるね。ワンサイズしかないけど、いい?」 「うん。全然いいです。高くないですか?」 「安いのだと三千円だけど……今あるのは六千円くらいかな。デカいのだと五万くらいと思うけど、ないから」 「――……見るだけでもいいです?」 店員さんは少し笑って「もちろん」って言ってバックヤード――というか店舗の半分はありそうな大きな倉庫――に探しに行ってくれた。わくわく待ってたら、若に軽く頭を叩かれた。びっくりして真後ろに立ってる若を見上げると「あの人は誰だ?」ってちょっと不機嫌そう。引き摺り回して待たせちゃってるから、怒ってるのかな? って、ちょっとビクビクしてしまう。 「店員さん」 「それはわかってる。親しげだったな」 「絵画教室のお兄さん。すっごい絵ー上手いんだよ。両手で描いちゃうの。でも上手い人グループは両利きの人多いんだ」 シャシャーって両手で空中に絵を描くジェスチャーをすると、溜息が聞こえて、やっぱり怒ってるのかなぁ? ってちょっと不安になった。でも、急に謝るのも変だよね……うぅ、若って難しい。 どうしよう、って思ってたら店員さんが額に入ったポスターを持ってきてくれた。高台にあるモンターギュ家のバルコニーにいるジュリエットと、よじ登ったロミオがちゅーしてる絵。写実的なのに、とっても絵画的で、なんかラブラブなのに禁断の愛というか、なんか辛そうな感じもして、でもうっとりしてる感じもあってすごく好きな絵。 「はい、ここで問題フランク=ディクシーは何派? またこの絵のモチーフを一つ上げて感想を述べよ」 店員さんに聞かれた。 「ラファエル派で、奥にある百合の花がジュリエットの純潔のモチーフで、だから多分ロミジュリの初ちゅーです」 「うわーこの子ものすごくざっくり感想言ったー。しかもラファエル前派ですね。覚えましょうね」 「はーい……っと、ちょっとだけ見せてもらいます」 「うん、平の棚だししてるから、帰る時に声かけてください」 と言う訳で若に見せたかった絵なので、はい、って額ごと手渡して見て貰う。 若がなんだかすごく……困った顔をした。 「これを見せてどうしたかったんだ?」 ……若、ほんとに、絵とか別に好きじゃないんだね。 「素敵な絵だと思わない?」 「思わないし、俺の役はティバルトだぞ?」 「私はティバルト好きだよ?」 怒りっぽいところとか、攻撃的なところが、ちょっと若に似てるから、とは言わないけど、ちょっと恥ずかしくて「名前が猫の王子様と同じところも、可愛くて好きだよ、ティバルト」って、付け足した。若は呆れた顔をした。 「……んとね、好きな絵だからね、若がロミジュリ出るって聞いたとき見せたいなって思ってたの。迷惑だった?」 若はゆっくり首を左右に振って「いい絵だとは思う」とは言ってくれたけど「もういいだろ? 帰るぞ」って、うんざりした調子で言われてしまった。正直へこみます。素敵な絵だから、ロミオとジュリエットに出る若にも見てもらったら、きっと楽しく演じられるんじゃないかと思ったのに…… ポスターをお返しして、なんだか微妙な雰囲気で、二人で夜道を歩く。 余計なお世話をした、大きなお世話をした私が悪いのだろうけど、若の態度に私もむくれそうになる。押し付けがましい私が悪い……って思っても、でも、もうちょっと、言い方とか、態度とか、やらかくしてくれてもいいのに、って拗ねたい。でも、拗ねたら怒られそうだから、我慢して、足元を見ながら歩く。 「香奈」 声をかけられて、なに? って聞こうと思ったら、めずらしく若からきゅって手を握ってくれた。嬉しくなってしまって、ああ、もう、駄目だ。拗ねてても。駄目だね、私。手を握られただけで嬉しくなっちゃったよ。 「あの……店員の人とは仲はいいのか?」 ――えぇえ? 「あの人、来年大学生だよ?」 私の言葉に、若はちょっとムッとしたみたいだった。それに焦って、でも、ちょっとだけ若の嫉妬が嬉しくて、顔が笑ってしまった。ただ、握られてただけの手を、私のほうから指を絡めて、幼稚舎の頃に憧れていた、恋人つなぎ、というやつにしてみる。なんだか照れるかも。外は暗いし、私たちみたいな制服の二人がこんなふうに手を繋いでても、きっと大人から見たら悩みのない可愛いカップルになるんだろうな。 「こんなふうに仲がいい人は、若以外にいないし、こんなふうに仲良くなりたいって思ったのも、若しかいないよ。知らないけど、きっと彼女とかいるんじゃないかな――……あのね、フランシス・ディックシーのね、ロミオとジュリエット見てね、若にこんなふうにちゅーしてもらいたいなー、とか思ったりもしたんだ。えっと、私、実はいつも若のこと考えちゃうんだよね、絵とか観てても――……引いた?」 ドキドキしながら聞いてみる。若は握っていた手の力を抜いてしまって、気持ち悪がられたのかもって思うとぞっとした。ああ、言うんじゃなかった。どうしよう。ああ、なんで、私はいつも不必要なことを言ってしまうんだろう。ああ、どうしよう、泣きそうになってきた。泣かないけど、でも、どうしよう……気持ち悪いのかな、私のこと。ああ、ホント、言うんじゃなかった! 「引いた」 酷く冷たい声で若が言う。 うそ、どうしよう。嫌われちゃった。どうしよう。ああ、調子のって変なこというからだ。もうやだ、私の馬鹿。若の手を握っていた力を抜くと、するんと大好きな手は離れていってすたすた歩いていってしまった。どうしよう。 そんな速く歩かないで。どうしよう。ねえ、若、怒ったの? 血が凍って、皮膚の表面に霜が降りたみたいに全身がぞわって冷たくなる。 「へ、へんなこといって、ごめ……おこらないで、若」 一所懸命早足で追いかけて、一所懸命、凍ってしまった舌をもどかしく動かしながら、なんとか言葉を紡ぐ。 「ごめん、そんな、怒ると思わなくて……」 「うるさい。もう喋るな」 なんで私って、いつもこうなんだろう。駄目だ、今一緒にいたら、泣いちゃう。泣いたら、若にもっと鬱陶しがられてしまう。嫌われてしまう。そんなのは嫌だ。 のろのろになってた足を止めて、すたすた遠くに行く若の背中を見る。振り返らない。怒ってる。どうしよう。あやまっても、駄目なの? 何がそんなに嫌だったのかわからなくて、しゃがみこむ。若は、難しいよ。ずるいよ。いつも若ばっかり私の気持ちを引っ張り回して。ずるい。 しゃがみ込んで腕に顔を押し付けるとジワって涙が滲んだ。私には、若は難しすぎる。そりゃ、三村に触られちゃったけど、あれからは必死で逃げてるし、私だって頑張ってるのに。 いいじゃん。付き合ってるんだから、アレくらいのことで怒らなくてもいいじゃん。だって、いいなぁ、って思ったんだもん。すごくうっとりした感じで恋に溺れてる感じのキスが、羨ましいなって。ロミオみたいに強く気持ちをぶつけてくれたら嬉しいなって。でも、若は好きって言う気持ちより、嫉妬とかの気持ちばっかりで、それだって好きでいてくれるからなんだって嬉しかったけど……なんだよう。そんなに怒ることないじゃん。 「どうしたの? 気持ち悪い?」 急にかけられた声にずるって鼻を啜ってからゆっくり顔を上げると、同じ学校の人だった。誰、だっけ? 知合いじゃないのかな。ネクタイの色を見ると三年生――「滝さん」若の声だ。戻ってきたの? 「ああ、日吉。どうしたの? 奇遇だね」 「滝さんこそ――香奈、なんで蹲ってるんだ」 ……滝先輩――ああ、テニス部の、レギュラーだった人。綺麗な、でもちょっと勝気な顔の不思議な人。 「おい、香奈、いい加減にしろよ」 滝先輩の前だから、喧嘩したくない。泣きたくない。でも、今立ったら、半泣きの可愛くない顔を見られてしまう。うぇ、って嗚咽が零れた。 「ああ、痴話喧嘩の最中だったんだ?」 滝先輩の声に、私はしゃがんだままこくこくうなずく。若が勝手に怒り出しただけだけど、でも、普段はこんなこと言わないから、どきどきしながら言ったのに「引いた」とか「うるさい」とか、怒った声で返されたら、ヤだよ。普通に好きじゃないって言ってくれればいいのに、ばかし。引いた? って聞いたのは私だけど……乙女心は複雑なんだもん。ばかし。 「日吉、顔真っ赤だよ。そんなに怒ってるの?」 滝先輩の咎めるような、でも面白そうな声に、少しだけ顔を上げて若を見る。本当に真っ赤だった。それから、滝先輩は私を見て、“ね? ”みたいに笑った。 ――照れてた、の? 「滝さんには関係ないでしょう」 きっぱりと部外者だと言い切った、邪魔者はどっかに行けという気持ちがこもりまくった言葉を、若が吐くと、滝先輩は肩を竦めて「じゃあ、大事にしてあげなよ。俺に嘴突っ込まれないように。彼女をこんな所で泣かせてたら駄目だ」って、なんか、忍足先輩とは違う感じで若をからかって、本屋さんのほうへ向かって歩き出した。最後に思い出したように、滝先輩は私に手を振ってくれた。 大きな、若の溜息が聞こえる。 「照れてるなら、照れてるって、ゆってよ。ばかし。きらわれたかと思ったじゃん」 「うるせぇよ。お前があんなこと言うからだろうが」 乱暴な口調。私の彼氏は優しくない。もう一度、大きな溜息。でも、私に手を伸ばしてくれて、その手にそっと自分の手を乗せると、ゆっくり立たせてくれる。 「俺は、ロミオとジュリエットみたいな結末は嫌だ」 まだ照れてるみたいで、つんとそっぽを向いてしまう若に、でも今はそんなに寂しくない。 「私もやだよ。ちゅーだけでいいの、ロミオとジュリエットみたくするのは」 「……もう少し香奈が女らしくなったらな」 それから二人で歩き出す。さっきまでの死んじゃいそうな寒気はなくなって、繋いでる手からぽかぽかしてくるような気がした。好きだなぁ、って思う。なんで、こんなに照れ屋で感情表現が下手な人が好きなんだろう。なんて。でも、いいところもいっぱい知ってるから。やっぱり、好きだなって。 てくてく歩いてたら。 「それから」 急に若が口を開いた。私は「うん?」って首を傾げながら言葉の先を待つ。 「俺だって、結構、香奈のこと考えてる。あのバイトの高校生がむかつくとか、三村がむかつくとか、滝さんに声をかけられる隙だらけの香奈がむかつくとか」 「……若、むかついてばっかりだね」 しばらく、無言だったけど、なんか、私は吹き出してしまった。 私の彼氏は天邪鬼です。 これが、彼の一所懸命な告白みたいです。 |