日吉若の溜息 9
 結論から言うと、ベストカップルコンテストの一次予選は突破しました。
 明日の本戦出場決定です。
 チョータも忍足先輩も順当に勝ちあがりました。
 私は、若に「絶対に動くな。俺の動きを阻害するな」ときつく言い含められ――若は、“彼女背負って二十六秒で百メートル走りきりやがった”という、なんだかなぁ……な伝説を築いていました。でも、私の五十メートル走のタイムが十二秒なことを考えると、かなりすごいって言うのはわかる。さすがテニス部新部長! みたいな揶揄もあったけど……
 でも、人前でぎゅって出来たので、この人は私の彼氏なんだぞ! って主張できたみたいで、恥ずかしいけど、嬉しかった。学校で、人前でこんなに密着したのは――お化け屋敷はノーカウントにして――初めてだし。
 ちなみに一位はまどかちゃんとチョータ。長身カップルで、二人とも運動得意だから――まどかちゃんなんか浴衣にスニーカーで、しかも浴衣の袖にはタスキまでかけてた。若とは違うけどまどかちゃんも結構負けず嫌いだよなあって思う――十六秒という、素晴らしい記録を打ち立てて、忍足先輩と彼女さんは二十一秒で、それでも余裕の分類だった。
 四十秒くらいかかってる人たちもいて、途中で「日吉みたいに背負った方が速いんじゃねぇの?」とか野次が飛んだりしてた。
 というか、本気で荷物扱いされるとちょっと凹む。いいけど。だって、私の百メートル走のタイム、二十二秒だし。二人三脚になったりしたら倍くらいかかりそうだし。

 でも、さすがに無理しちゃったみたいで、会場の端の簡素なコンテストの本部のパイプ椅子に腰を下ろして、若はコールドスプレーでアイシングしてる。その間に周りの人にからかわれても「うるさいな」って機嫌悪そうに応じただけで、あとは完全無視。本当に若はつっけんどんでマイペースで攻撃的だ。でも、みんな――特に先輩方は――そんな若をよく知ってるから、少しにやにやしただけだった。
 座ってる若に視線を合わせるために、少しかがんで、薄い茶色の前髪がスプレーの風圧でさらさら揺れるのを眺めながら、若に「無理させてごめんね」って言うと「別に」って言われた。それから「痩せろ」とも。
 あれ? こないだはもっと筋肉つけろって言ってなかったっけ? 決まりが悪いだけなのかもしれないけど、そういう女の子のコンプレックスをずどんと射抜く言葉は、ホント、やめて欲しい。これ、別れるほどの喧嘩に発展してもおかしくないほどの暴言だよ。若さん、ひどいこと言ってるって自覚ありますか? 許しちゃうけど。
 チョータと忍足先輩が、そんな不機嫌な若を楽しそうにからかう。当たり前に、若がかーなーり不機嫌になってしまって、二人にやめてってお願いする。
 それから、会場の備品の救急箱に入ってるエアサロンパスを渡したら「それは嫌いだ」って若がちっちゃな子みたいな我が侭を言う。私もあんまり好きじゃないけど、冷やすだけじゃ駄目でしょ、ってとりあえず若のシャツの袖を捲ろうとしたら「自分でできる」と怒り気味に言われてしまった。
 私がやりたかったけど、自分でもちゃんとやってくれるならいいかな――って思ってたら、やっぱりエアサロンパスはイヤだったみたいで、本日二度目の保健室訪問。
 養護の先生に塗るタイプの薬を貰って、自分で塗った若は、劇の準備の為に忍足先輩とチョータと一緒に、半分くらい私の存在を無視してさっさと体育館へ向かってしまった。

 いつもなら、こういうとき、ちょっとだけ、寂しいんだけど、今日に限ってはにやにやしてしまった。
 一緒に三人を見送っていたまどかちゃんと忍足先輩の彼女さんがいぶかしそうに私を見たけど、自分の顔が溶けたみたいににやにやしてるのがわかる。
 二人三脚のときのことを思い出すと、なんかうれしいような恥ずかしいような、きゃー! って気持ちになる。どんな気持ちか上手く言えないけど……ぎゅうってしてたときの若の体温とか、うっすらと汗ばんでいく肌の感じとか、いつものお香のような香りが 高くなっていく若の体温によって……なんか男の子っぽい香りに変わっていくのとか、力強い脈の拍動とか、鋭い呼吸の音とか、はらはら揺れて私のほっぺたをくすぐった髪の感触とか、ああ、もう、なんか、照れるし嬉しい……ほっぺたに手を当てると赤くなってて、ほんと、溶けそう。足が引っ張られて痛かったことなんか、どうでもいいくらい。
 最初は、びっくりして、ちょっと怖かったけど。だって、若、変な風に足結ぶし。二人三脚の結び方じゃなかったし……でも、きっと若が背中に乗せて走った人なんて、私だけだ。私が彼女、だから。
 そう思うと、心臓がきゅーんってするっていうか、きゃーってなるっていうか、うわー! ともなるっていうか。

「その顔見てると、いらっとするわ」

「……いらって、する?」
 まどかちゃんの呆れたような言葉にも、もう、にやってしてしまう。もーやだ、ほんと、溶ける。幸せで、好きで、溶けちゃう。だって、私は走ってないのにこんなに身体があったかい。今なら生キャラメルにだってなれそう、なんて、馬鹿なこと考えたりして。
「いらって、する」私の口調を、まどかちゃんが真似た。「そんな顔見てたら。私たちが一位だったのに、私より幸せそうな顔だし」
「好き度では、私が一番だもーん」
 なんて、ちょっとふざけたやりとり。
 忍足先輩の彼女さんがくすくす笑って「仲いいんだ」って私の頭を軽くぽんってした。そのさりげない仕草がちょっと忍足先輩に似てるなって思ったり。付き合ってると、似るのかな。じゃあ、私と若も、少しは似てるのかな、なんて。

 ねえ、若。私は本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に若が大大大好きだよ。
 言葉をくれなくても、そっけない態度でも、一緒にいる時間がなくても、大好きだよ。だから、言葉をくれなくても、そっけない態度でも、一緒にいる時間がなくても、若のこと、許しちゃう。いじわるされても、さっきみたいにひどい態度でも、惚れた人の負けってやつだ、ほんと。
 若も、こうやって、コンテストとか嫌なのに、私の為に許してくれてるんだよね。それって嫌なことがないのよりも、好きあってるような気がするよね。
 えへへー、って笑ったら、まどかちゃんにほっぺたひっぱられた。でも、くふふー、って笑いにかわっただけで、まどかちゃんと忍足先輩の彼女が、そんな私を見て、噴き出すみたいに笑った。周りの人たちが、何だこの三人? ていう顔をしてて、他校生なんか、ちょっとぎょっとしてて、あ、青学の人だ、とか思っても、もう、にやにやしてどきどきしてしまう。
 文化祭が去年よりも好きになりそうかも。

 ◆◇◆

 先刻、三村と話している香奈を見て、イラついた。
 けれど、香奈は俺と歩いているだけで、まるで遊園地を目指している幼児のように、興奮気味といっても差し支えないほど沸き立つように幸せそうにしていたので、まだ我慢できた。文化祭の出し物もあるのだから、全く会話をしないわけにはいかないだろう。香奈は、俺のように“そういう人間だ”と定着していないのだから。
 俺は香奈いわく、嫉妬深いらしいが、それでも、それを継続させることはあまり得意ではないらしい。長くて、三日程度だ。
 ただ、その代わりとでも言うのか、むかついた瞬間は、感情を御せないほど、腹が立つ。不安そうにしている香奈に“大丈夫だ”と言ってやる余裕もなくなるほどに。

「牽制にしてもなぁ――彼女おぶって走るって、日吉もよぉやるわ」
「煩いです。あいつは足遅いんで普通に走ったら確実に負けます」
 呆れたような、面白がるような忍足さんの言葉に、吐き捨てるように言葉をぶつける。
「変な使い方したから、明日は筋肉痛だろうね」
 苦笑気味の鳳の言葉には、溜息を返す。チビの所為か、まだ身体に女性らしい脂肪がついていない所為か、運動嫌いのため筋肉がついていない所為か、とにかく、2−Dのお化け屋敷で背負った時に、香奈がかなり軽いことがわかったが、さすがにパワーアンクルやパワーリストではないので、全力で走ると筋肉が軋んだ。確かに明日は普段使わない筋肉が痛みそうだった。

 香奈は、今まで誰にも告白をされたことがないと言っていたし、見目も、確かにあどけなく愛らしくはあるが、それも、有田のように神が全身全霊を込めて気合をいれて造形した――というほどではなく、“一般人という層の中では十人並みなりに”可愛らしい方である、という程度の見目だ。
 だが。
 それでも、心配になる権利が、俺にはあると思っている。
 過保護になる。そして、これは俺のものだから手を出すなという、幼稚な主張と、牽制。
 恋は盲目とよく言ったものだ。浴衣姿の香奈は何かの人形のように似合っていて、愛らしかった。子供っぽく、まるで幼児の浴衣のように結ばれた金魚のような絞りの帯がひらひらして、単純な花火の柄の浴衣が、逆に香奈のいとけなさと上手く調和していて、けれど纏められた髪が少し大人っぽく――とにかく、似合っていた。
 今でも、首にまとわりついた香奈の腕の柔らかく温かい感触と、走っている最中に、驚いて縋りながらも「がんばって」と小さな囁きと共にうなじに落とされた口づけの感触が、消えない。走っていた所為だと、顔の赤みを誤魔化すのは簡単だった。
 鳳もきっと、有田に対して、俺が持つような感情を持っているのだろう。
「あとは演劇をやって、最後に演奏会でしたっけ?」
 鳳が、思い出すように顔を上げて、隣の忍足さんに問う。
 どうでもいいが、この三人の中で俺が一番身長の低いことが気に食わない。
「今日はそうやな。明日は模擬店と、もっかい演劇と、エキシビジョンか……あーめんど……」
 はあ、と大袈裟なため息をついた忍足さんに、少し呆れる。この人はエキシビジョンマッチには、何も参加しないのに。
 時間の問題で、エキシビジョンマッチはミニテニスを少し行うだけなのだ。バスケ部、サッカー部ならばドリブルとパスの応酬。その程度だ。模擬店とコンテストが、ほとんど二日目のメインになっている。
「面倒なのはむしろ俺と跡部さんでしょう」
「新旧氷帝男子テニス部部長のエキシビジョンマッチやもんな。日吉ん彼女は文化部やから、なんか発表すんやろ」
「美術部は体育館用に贈り幕を描いたらしいんで、それを見せるだけみたいですよ」
 忍足さんは、どうも俺と香奈のことを……何と言うか、ちょっかいを出す、とでもいうのか。話題を出すとでも言うのか。余計なお世話というか。面倒な人だ。
 そんな会話をしながら、裏から体育館に据えられている放送室脇の用具室に入ると、すでに衣装を身につけはじめている跡部さんらと目が合った。
「遅ぇじゃねぇか。ロミオさんよ。ジュリエットを何回殺す気だ?」
「ティバルトとマキューシオに合わせてん。許してな、マイ・ラブ」
 ここまで言って、忍足さんは、このやりとりが可笑しかったのか、ぶくくくく、みたいな笑声を上げた。自分で、きもっ! と突っ込んでいる。気持ち悪いのがわかっているならやめて欲しい。
 豪奢だが、清楚さを念頭に置いたドレスを纏った跡部さんは、セルゲイ・プロコフィエフのロメオとジュリエットの交響組曲をプロに編曲させるほど、実は今回の劇には気合が入っている。関東合同学園祭でハムレットを選んでもいたし――チビ助のオフィーリアには笑いそうになった。香奈は素直に笑っていたが、オフィーリアの絵を見せたげたのに! と叱ってもいた。押し付けがましい女だが、そこも愛らしく感じるのは、俺の脳が死んでいる所為かもしれない――やはりシェイクスピアは教養の一種だと思っているのだろうか。
 ちなみにプロコフィエフと言っても、今回はバレエではなく演劇なので、別に(ティバルト)も死んだあとに赤い布をまとってぐるぐる踊ったりはしない。衣装もタイツではない。どうしてもバレエでタイツの男を見ると某立ち技総合格闘技団体を思い出す。忍足さんは某お笑い芸人を思い出すと言っていたが。
 どうでもいいけれど、香奈は、ロミオとジュリエットのような口付けがしたいと言った割りには、原作を斜め読みしたのみで、バレエや映画等を見たことはなく、知っている曲もプロコフィエフのモンタギュー家とキャピレット家だけだった上、口ずさませてみれば、途中でマンナンライフのこんにゃく畑のCM曲に変化していたほどだった。もともと、あまり悲恋は好きではないのだろう。
 ……ところで。
「着替えている時に裏声で変な歌を歌わないでもらえますか? 忍足さん」
「AKB48の“僕とジュリエットとジェットコースター”を変て言うなや」
「では、気持ち悪い裏声をやめてもらえますか」
 視線も向けずに忍足さんに言い放つ。それから、ベルベットのような、けれど舞台で目立つようにと少々わざとらしい装飾のなされた赤褐色を基調とした衣装に手を通す。客にわかりやすいように、ロミオとジュリエットの衣装は白を基調とし、それ以外は基本的に原色の彩度を落とし、なるべく色やデザインが被らないように用意させたのも跡部さんだ。マキューシオは緑、パリスは黄、エスカラスは紫、ベンヴォーリオが青、といった感じだ。女性役は桃色や橙など。少々カラフルすぎる気もしたが、たしかに誰が誰だかはわかり易いだろう。
 香奈は、チケットを俺にねだってねだってねだって奪っていったので――滅多にない、香奈からの口付けを対価とした。だが、残念ながら恥じらいの表情は見られず、“え、ちゅーしたらくれるの? 約束だよ”と、瞳をキラキラさせて普通に喜ばれた。下された唇は、仔犬が人の手に鼻面を押し付けるような、何ともいえないものだった。それはそれで、可愛かったのだけれど、少し落胆もした。まあ、変態! と叫ばれなかっただけ、いいか? ――今日は、かならず観に来るだろう。せめてそのときに、格好いいと思ってもらえるように、そして、他の男に俺には適わないと思わせるために、剣技に全霊を込めよう。もともと、ティバルトは、短気で魅力的な人間ではないが、物語を進めるにはなくてはならない役だ。ならば、せめて剣技くらいは。
 好きな女の前では格好良くありたいと言う精神が、昔は惰弱なものに感じられていた。今でも好きではないけれど、それでも、俺はその惰弱な思考を捨てることが出来ないでいる。
 どうして、俺は、あの少女が好きなのだろう。こんなに。どうして。理解できない。理解できないが、“香奈が好きだ”という感情が、胸の中にある。その事実だけは、理解できる。
 不思議なことに、それが全く悔しくはない。むしろ、それがあると、きちんと理解できていることが、誇らしくさえある。
 口に出して好きだと言ったことはないけれど、いつか、言えればいいなと思うくらいに、一緒にいたいと思っている自分が、なさけなくもあったが、仕方がないなと苦笑しそうにも、なる。
前頁HappyDays次頁