翌日、観月は一年中願書の並んでいる氷帝学園中等部の事務室前に居た。 香奈の名前を出すと、観月の顔を思い出したらしい事務員が、初日とは比べ物にならないほど楽に入校許可書を彼に渡し、訪問客用紙に記入させた。最後に時計を確認し、入校時間を記入すると「お帰りの際は、再度こちらにお越し願います」と事務員は教練された礼を観月に見せた。 悪びれずに再び、澄んだ冬空を乗せた紫色のテニスコートに現れた観月に鳳は顔をこわばらせ、若はわかりやすく渋面を作る。他の部員は観月に文句をつけようとしたが、それぞれの反応を「んふっ」と笑い流して、堂々と、けれど練習の邪魔にならぬように、観月は若に向かい足を運ぶ。 「今日は何の用ですか」 刺々しい様子で聞いてきた若に、観月は「今日はちょっとスクルージに会いにきたんですよ」と可笑しげに答える。若は、観月のこの愛想笑いが、とても嫌いだ。 そしてふざけた観月の態度に、若が冷淡な言葉を紡ぐ前に、観月は綺麗に四つに畳んだルーズリーフの一枚を差し出した。訝しげな日吉に、観月は余裕の表情のまま「あなたの幼馴染は、仮病で今日は休んでいますよ」と告げた。 一気に眉間の皺を深め、悪相とも兇相とも言える顔で観月を睨む。睨まれた観月は、一瞬、彼も眉を寄せたが、けれどすぐに余裕を取り戻した。 観月は精神的に若やイツミのように逼迫していないし、する気もないのだ。こと、他人の恋愛事情など、観月にはどうでもいい。キリストが泥と己の唾液を混ぜて盲人を癒したという与太話くらい観月にとってはどうでもいい。 けれど、不本意ではあるものの、観月は、クリスマスは好きなので、おせっかいを焼きたくなっただけだ。また、ミッション系のルドルフでさえ宗教科を疎ましく思い、教会などイベント時の体育館やパーティルームとしか思っていない人間が多数いるというのに、ただの私立中学生の香奈が教会に来ていたことに、なんとなく感心したからだ。そして、香奈を氷帝の情報を収集する為に利用してしまったし、ご丁寧にも本を譲ってきた彼女に、そしてその後の偶然の重なりにも、不思議な感覚を得ていたのだ。 色々と言い訳がましい理由付けだが、ただ単に、端的に、簡潔に言えば“なんとなく気が向いたから”だ。だから、ここで若がルーズリーフを受け取らないようであれば、これ以上、余計な世話を焼く気は、観月にはない。 マーレイも、スクルージに助言をし、彼を諌めようとはしたが、それ以降の行動はスクルージが自分で決めたのだ。観月は渇いた羊を泉に連れて行くことは出来るが、水を強引に飲ませることまではしない。 しばらく、観月を睨んでいた若は、けれど、そのルーズリーフを受け取った。 ◇◆◇ 美術室に立てこもり、ブックカバーをぐいぐいと縫っていた香奈は、今朝のことを思い出す。香奈は、通学の電車で若に会ったときに、昨日のことを彼に謝ろうとしたのだが、彼は電車で香奈を見つけた瞬間に彼女を抱きしめたのだ。その雰囲気は、会話もしづらい状態だった。 そしてそのまま、会話もなく、謝罪も出来ず、放課後になってしまった。 混んでいる電車内では、確かに、抱きあっているような状態に見えるようなこともよくあったが、しかし、それとは全く違う。 (若、あの後何かあったのかな……) 何よりも心配が先に立つ。それから、毛皮を逆向きに撫でるような不安があった。丁度、胸の中心の肋骨の内側に、テニスボールくらいの鉄球が内臓を圧迫しながら入っているような、ともかく酷い異物感のようなそれが香奈を重い気持ちにさせる。 最悪のことを考えそうになる頭を、首が抜けるのではないかというほど勢いよく、ぶんぶんと左右に振る。そんなことを考えればまた泣いてしまいそうだ。部活が終わった若と一緒に帰るのに、泣き顔など見せたくない。 泣くなら家で泣けばいいのだ。胸の中の鉄球から液体窒素でも滲み出しているのではないかというような寒気が、暖かい室内にいる香奈の肌を粟立たせたが、それにも気付かないふりをする。 けれど、ブックカバーを縫いすすめているうちに、若と一緒にいられるのが、彼に触れられるのが、その時間が、あと残りどれくらいなのかと、考えてしまった。考えてしまった。 その発想自体が恐ろしいことだ。永遠に一緒にいられるなど香奈は思ってはいないけれど――けれど。別れるのはきっと、もっとずっとずっと先の未来だと、茫漠と信じていた。 少なくとも明日でも明後日でもない、その先にある、今は見えない、いつかだと。 何もイツミだけのことではない。氷帝学園男子テニス部正レギュラーの若は学園内では、やはりどうしても有名である。また、学園の外に出れば、古武術を教えている彼の実家はとてもオープンで、彼自身、師範も師範代も外せない用事でいない、どうしようもない時は、女性や子供に護身術としての型を教えていることもあるのだから、むしろ彼の生活圏内にいるたくさんの女性の中で香奈が選ばれていることが、逆に不自然に思える。 奇跡などと綺麗な言葉で繕っても、結局は薄弱で根無しの儚い偶然でしかない。 (考えちゃ、ダメだ――) 今はまだ、香奈は自分にそれを考える余裕がないことがわかる。心が、ひどく拒絶し、逃げよう逃げようと必死に胸を打つからだ。 なぜ、自分は若がイツミではなく自分を絶対に選ぶと信じているのだろうと、酷く自身の心を奇異に思う。 否、若は態度で示してくれたではないか、と再び考える。また、若は不純なことが嫌いだから――嫌いだから? 香奈はどれほど若のことを理解できているというのだろうか。十四年間、若が培ってきたものを、どれだけ解かろうとしてきたのか。本当に、解かれているのか。思い込みでないという証拠は? その根本的問題に立ち返って、香奈は、愕然とした。 若が、香奈の、自分の行動を鬱陶しく、不快に思っていない根拠などどこにある? (でも、昨日だって――) 若は、香奈を大事にしてくれている。香奈は少なくともそう信じている。イツミを放ってまで家まで送ってくれた。今朝だって……今朝、どうして若は、あんなに強く香奈を抱きしめたのだろうか。あの時、若が何かを言ったような気がしたが、その後訊ねても何も答えてはくれなかった。聞き間違いかもしれないが、あの時、若は香奈に謝りはしなかっただろうか。 謝る理由が、若にはあるのだろうか。それはどんな理由なのだろうか。 「か、かがり縫い、しないと……!」 余計なことを考えてはならないと、香奈は、自分に言い聞かせるように言葉に出した。 ◇◆◇ 頭まで布団をかぶったイツミは、昨日の出来事に酷くショックを受けていたわけではない。確かにとても驚いたし、初めて見た若が怖かった。けれど、今となってはイツミにはそれは大きな問題ではない。 大きな問題は、失恋という嫌な名前をもっている敵だ。響きだけはどこか可愛らしいのに、そいつはとても嫌なヤツだ。先の日曜にも、イツミは酷く落ち込んだ。若は今まで、仲のいい女子と言えばイツミしかいなかったし、イツミも自分は若の中で一番だとずっと、思っていた。 思っていたのに。 若は勝手にイツミではない女の子を好きになってしまった。 二人で勝手に遠出をして道に迷ったとき、若はおうちに帰りたいと泣くイツミの手を握ってくれたのに。若の中で、それはもうなくなってしまったのだろうか。イツミとの想い出は若にとってなんだったのか。 酷く裏切られた気持ちで、イツミは泣いた。 諦めなければならないのだろうか、小さな頃からずっと好きだったのに。冬休み、半ば強引に、若の家に世話になれるようにイツミは頑張ったが、冬休み中に若の気持ちを、香奈から自分に向けさせることはできるのだろうか。 そのためにはどうしたらいいのだろう。 諦めきれないのではなく、諦めたくない。若がここに来て香奈のことは嘘だと言ってくれないだろうか……そんなことすら考えてしまうと、イツミは、それはもう、大声で泣いた。苦しいとかもうやだとか嫌いとかネガティブな言葉を、イツミは自分の語彙の限り叫びながら泣いた。 泣き叫んで泣き叫んで「うるさいですよ」というツッコミが入るまで泣きじゃくった。 「み、……みっ……」 ツッコミを入れてきた人物の名前を呼ぼうとしても、しゃくりあげた声は言葉を形にすることができず、イツミは名を呼ぶことを諦め、それからどうしてここにいるかと聞くことも諦め、また、わーんと声を上げて泣いた。 「うるさい、と言っているんですよ」 その人物は、アイアンクローの要領で薔薇の模様の可憐なハンカチをイツミの顔に押し付けた。 「女性ならば、もっと綺麗に泣いたらどうですか」 その言葉に、イツミは反論する余裕もなく、泣きながらハンカチを受け取り自分の顔を拭くように押し当てる。くぐもった、けれどやはり耳に痛い幼い泣き声が室内の空気を遠慮なく震わす。 泣きすぎ、声が涸れ、目蓋は動かすことが辛いほど腫れ、疲れきったイツミが、ベッドの上で微動だにもしなくなった時には寮の夕食の時間が始まっていた。 「それだけ泣いたら気も晴れたでしょう」 その間、隣で本を読んでいた彼の言葉に、イツミがまたじわりと涙をにじませる。思い出すたびに、勝手に涙が出てしまう。もともと、イツミは涙腺が緩い。 それを見た彼が、溜息とともに「ちょっと待っていなさい」とイツミに命令した。したが、イツミは待つも何もベッドから移動する気力もない。 若と喧嘩したときだの、若からぬれせんべいを奪ったときだのの事を思い出すと、イツミはまた泣けてしまう。昼寝をしている若の腹を、彼を起こそうとして思い切り踏みつけたらものすごく叱られたことも思い出した。正月に無理矢理羽子板につき合わせて、ルールもしならいままむりやり油性ペンで若の顔に落書したときに、本気の喧嘩になったことも思い出す。油性ペンがとても目に染みたことも思い出した。 再び涙がイツミの目蓋をノックしたころ、彼が戻ってきた。腫れた目蓋を、イツミがなんとか動かすと、なにやらトレイに湯気の立つティーカップと、変な帽子のような布――ティーコゼー――が乗っていた。 「目を冷やしなさい」 アイアンクローで目元にぬらしたタオルを――おそらく、中に保冷剤でも入っているのだろう。ひどく冷たい――押し付けられ、イツミは飽和しそうなほどの熱を奪われる気持ちよさに、素直に従う。 「これを飲みなさい」 次いでそう言われ、片目だけをタオルで冷やしながら、差し出されたカップを受け取る。 「今年のシュープール茶園のセカンドフラッシュのアッサムにパスチャライズドミルクの、クリームラインだけ使いました。とても贅沢なミルクティーですよ。感謝して飲んで欲しいですね。んふっ」 彼の自慢まじりの楽しげな声を無視して、まるでスウィートポテトにも似た甘く優しい香りのするそれに口をつけた。けれど、味はイツミの予想を裏切って苦い。 紅茶通ならば、コクだの苦味だの深みだのを感じ取れるのかもしれないが、イツミは紅茶よりもジュースや清涼飲料水などの甘い飲み物が好きなので、香りに騙された気分だった。二口目をためらっていると、彼がパステルカラーの星型の砂糖をたっぷりと入れてくれたので、今度は疲れた身体に染み渡るように美味しかった。 また、目頭が熱くなって、イツミは目元をタオルでぎゅっと押さえる。 ◇◆◇ 翌日、氷帝は終業式だった。 やはり香奈は、いつも通りに若と一緒に登校したが、どうしても、どこかよそよそしいような態度の若に、何に対してのかはわからないが不安感を拭えなかった。 香奈自身も、若の愛情を疑うような言葉を、口に出したくて、聞きたくて仕方がなかったけれど、聞いてしまうことで嫌われてしまうのではないかと思えば、天気が良いだの、今日も寒いだの、そんな話題しか口にすることができない。 冬休みに入ってからは若に連絡もしないまま、彼からの連絡もないまま、あっという間にクリスマスになってしまった。ほんの数通のメールのやりとりはあったものの、たいした内容ではない。 また、冬休みはテニス部正レギュラーはグァムでの合宿があるはずなので、若はとても忙しいだろうと思えば、無駄に連絡を取って彼の手を煩わせることはしたくなかった――否、連絡を取るのが怖かった。 日本ではイヴの方が有名で、イヴの方が盛り上がるけれど、香奈にとっては、やはりクリスマスの方が想い入れがある。もちろんイヴの夜もリビングに クリスマスプレゼントの、地道に縫い続けていたブックカバーは市販品と見まごう程に出来のよいものが完成し、兄に自分の分も作ってくれと言われるほどだった。ただ、必死で何かに集中していなければ、変なことを考えてしまいそうで、香奈は怖かっただけだけれど。 支度を終え、両親から渡された教会への献金の封筒を鞄にしまうと、 ミサは例年通りに、カトリックほどの見目の美しさはなかったものの、質素で敬虔で、厳かな気分にさせられた。ろうそくの火を隣の女性のそれに移すときに手間取ってしまったのが、香奈は少し恥ずかしかったけれど、気持ちは多少持ち上がってきた。 そして、それが終わると、香奈はルドルフのクリスマスパーティまでの時間を逆算してから、若の家に向う。プレゼントを渡すならば、この時間が一番都合が良い。 ただ、気鬱なのは、若の家にいるイツミのことだ。イツミのことは嫌いではないが、彼女と会うことを考えると香奈は気が滅入る。敵視される理由も、イツミの行動も理由も、香奈にはわかるけれど、わかるけれど――凹みやすい香奈には、わかったとて、悲しいし、切ない。だが、本当に悲しいのも切ないのもイツミなのだ。凹みそうになる心を、自分にはその資格がないのだからと叱咤した。むしろ、香奈がイツミに会いたくないのではなく、イツミこそ、香奈には会いたくないだろう。 けれど、プレゼントを渡すのは今日でなければならない。緊張の為に動悸すらする心臓をあやしながら、着いた若の家。インターフォンを押したものの、反応はなく、カードを添えてポストに詰め込んでしまおうかと香奈は考える。けれどボールは入りそうもない。 どうしようかと思案しているところに、急に門の先、玄関のドアの開く音がし、次いで門の向こうには、香奈の一番会いたくない人物がいた。 しかし、それを顔に出すわけにも行かない。胸のうちから肋骨を、その向こうの肉を、さらに向こうの皮膚を叩く心臓。それでも香奈は「こんにちは」となんとか搾り出す。 「あの、若、いますか……?」 あまりに年下の女の子相手にびくびくしている自分を、香奈は挙動不審だと判じながらも、どういう態度でいればいいのか、どうしてもわからない。堂々としていればいいのだろうか。けれど、堂々とするとして、それがどうすればいいのかすらよくわからない。 露出した頬の皮膚を刺す冷たい風が目に沁み、香奈は思わず目を細めた。その瞬間。 「イツミ、香奈さん嫌いだから教えない!」 そう叫んで、両手の両人差指で両下まぶたをぐいっと引っ張ったイツミは大きく舌まで出してみせた。そしてぽかんとする香奈をよそに「香奈さんのバーカバーカ!」と言って、一拍後、また「バーカ!」と言ってイツミは玄関に吸い込まれてしまった。 まさにあっという間。 あまりの直球で幼い仕草に香奈は驚きこそすれ嫌悪はしなかった。そんな隙すらなかった。ただ、このプレゼントをどうしよう、と呆然とする。人の家の前で空風に吹かれたまま、立ち尽くして、しばらく考え込んでいた香奈は、夜にもう一度来よう、と結論を出す。夜になれば普段通りに若の母が対応に出るだろう。その時に若を呼んでもらうか、そのまま若の母に預けてしまえばいい。 できれば、直接渡したいけれど。 最後に会った時、よそよそしかった若に会うのは不安だけれど、今日はクリスマスだ。もしかしたら何がしかの奇跡が起こるかもしれないし、それはあまり期待していないが、きちんと話をしなければ、このままお互いにギクシャクしてしまうかもしれないと、そのまま離れてしまうかもしれないと想像して、怖い。 それにしても、イツミには意地悪をされたのだろうか……と、いまだにあの彼女の行動に驚きの冷めやらぬ香奈は、再び開いた玄関扉の音に、僅かにうつむけていた視線を反射で向けると、顔を半分だけ隠したイツミが「今は若いないよ。ホントだよ。おばあちゃんとイツミしかいないよ」とだけ言って、また奥に引っ込んだ。 玄関前で呆然と立っている香奈を、イツミはその様子を、覗っていたのだろうかと気づくと、彼女の目には自分がどう映っていたのだろうかと考えると無性に恥ずかしくなって足早に移動を開始した。 そうして、ルドルフに向かいながら、香奈はイツミのことも若のことも考える脳の隙間がなくなっていた。 イツミに申し訳ないだの、若に申し訳ないだの考える余裕がないほど、自分自身が恥ずかしい。結局、香奈は、香奈の為に若が好きで、香奈が楽しいから若のことを考えて、若に嫌われたくないから自分で言いたいことさえ言わずにいる。香奈が贈りたいからプレゼントをし、香奈がテニスの強い若が好きだから練習の邪魔をしないだけで。香奈は、本当に心から若の為を思って行動したことがあっただろうかと考える。 いつだって、香奈は自分が大事で、イツミを嫌う心を持つ自分が嫌だから彼女を嫌わずに、それなのに、勝手に若やイツミに対して申し訳ないと思うなど、偽善を通り越してただの自己愛だ。 落ち込んでいる自分が嫌だから前向きになろうと己を励ますし、泣いている自分を見られるのが嫌だから泣くまいとする。そこに、他人の意思を酌んだことがあっただろうか。 (だめだ、これからルドルフ行くのに。考えちゃダメだ) 無理矢理に、香奈は家に置いてきた、 香奈の作戦は成功し、ルドルフに着くまで、彼女は料理のことで頭が一杯になった。美味しいものを食べると幸せだ。ならば美味しい料理は、そのもの幸せと同じだ。香奈が頑張って作った料理を、家族が美味しいと言ってくれるだけで香奈も幸せだ。だから香奈は幸せだ。 ルドルフに着くと、観月からの待ち合わせ場所と時間のメールを携帯で確認する。先日、若と一緒に来たので大体の場所は予想がついた。でなければ、こんな人目につきづらい校舎の影など、道に迷って仕方がなかっただろう。 けれど。 観月はいなかった。 ◇◆◇ きょとんとした顔で、何もない空中を突然見つめた仔犬のような瞳で、自分を見る香奈に、若は少々居心地の悪い気持ちを味わった。けれど、少しばかりよそ行きの服装が新鮮で可愛いなと思う。 「観月さんに」 若はそれだけ言うと、自分の声が渇いていることに気付いた。自身で思ったよりも、緊張しているのだと気付いた若はその瞬間に鼓動が重くなる。それでも、香奈に言いたいことが、幾つかあった。 自分が香奈を好きだということ。 だから、好かれていることに自信を持って欲しいこと。 だから、イツミが自分に何をしてきても気にしないで欲しいこと。 ただ、香奈以外の女に口付けてしまったことは黙っていようと考えていた。あのあと、イツミに対しても、やはり申し訳ない気持ちがあったが、何より香奈に対してのそれが大きかった。知れば香奈は傷つくだろう。ならば教える必要はない。イツミとて、あんな――あんなこと、口にもしたくないだろう。 あの所為で、香奈にどう対峙していいのか、ここ数日、全くわからなかった。電車で抱きしめてしまった時は、あれは、こんな男を好きだという香奈が憐れで仕方なく、そして自分もまた彼女が好きで仕方なかったからだけれど、数瞬後には自分の行動を恥じた。 香奈はまだ幻の霧にでも包まれているように、若を見ていた。 その視線に、一歩、そっと、野良猫に寄るように慎重に、一歩、若が足を進めると、香奈は「若も、パーティ?」とやはり現状を理解していない顔で若を見つめた。 「いや――観月さんからの伝言で、パーティは参加しなくても結構ですよ、だと」 その伝言に、香奈は小さく首を傾げた。たったそれだけの仕草を若はとても可愛く思う。ゆっくり香奈に向って歩く若から、彼女は視線を外さない。若と観月の真意を測りかねたのだろう。 ただ、幾度かゆっくりと瞬きをした香奈は、目の前まで来た若に、自分から一歩近付くと、彼の胸と腹の間辺りに手を置いて「一緒に帰る?」と、聞いた。 それから、唐突に、ごめんね、と香奈は謝る。 次は若が香奈の真意を測れずに、自分を見上げてくる、そのうるみかけた瞳を見つめた。 「若のこと、好きになっちゃって、ごめん」 その発想に驚くと同時に何を言っているのかと問い詰めたくなった。問い詰めたくなると同時に、そこまで思い詰めさせてしまったことに悲しくなった。悲しくなると同時に、好きだという言葉に嬉しくなる。 「それは、お互い様だ」 今にも涙をこぼしそうな香奈の瞳を、人差し指で目蓋の上から軽く叩く。そしてもう一度「お互い様だ」と繰り返した。 「だから、あまり考えすぎなくていい」 その言葉に、いつも言い惜しみをする若の気持ちを、香奈は上手に汲んでくれる。若は香奈が、彼の気持ちを解かれているのだろうかと疑問を持っていたことを知らない。そしてまた、目の前に若がいて、どうして解かれずにいられるのだ、と目から鱗が落ちるような事実に驚いていることも知らない。 『あなたの幼馴染の良いところは、復活が早いところだと思いますよ』 観月の台詞を香奈に伝えてやるべきか迷いながら、恐らく嬉し泣きだろう涙をこぼしながら抱きついてきた彼女の背中を撫でてやる。そして、寒さで赤く染まってしまっている香奈の耳元に唇を落とせば、今まで言うことのできなかったそれを、吹き込む。 生まれて初めての言葉は、緊張に、わずかに強張り、掠れてしまった。 |