Un-birthday party VII
 香奈は、ジャージに着替えるためにコートを出た若に駆け寄り、預かっていたブレザーと鞄とを甲斐甲斐しい様子で渡しながら跡部の言葉をそのまま伝えた。しかし若は嫌そうな顔をしただけで、何も言わずにそのまま部室へ向ってしまった。
 そんな若を、香奈は立ち尽くして見送る。他人が見れば喧嘩でもしているのかと間違われそうだが、少なくとも香奈にも若にも喧嘩をしているつもりも自覚もない。
 そして、一球勝負の終わった観月は、そんな香奈ににこやかに微笑みかけた。思った以上の収入があったのだろう。あれだけの打ち合いで若の何がわかったのだろうかと、香奈は理解できずに、やはり彼のコートとブレザーと鞄とを手渡し、まじまじと観月の顔を眺める。
 それからも、色々とあった。
 色々というのは、観月の言葉に温和な鳳が怒ったり、一部部員達が観月との一球勝負に不満を述べたり、観月に大学ノート丸々一冊分情報収集されてしまったりと、そんなことだ。
 跡部が思ったようにたった一日程度で全ての情報を盗まれるような氷帝ではないが、けれど、例えば準レギュラーであった若が、越前戦まで公式試合に出なかったように、それなりに情報の流出には気を使っていたものだから、特に若は苛ついていた。
 そして、香奈はこっぴどく若に叱られた。
 それは八つ当たりにも近かったが、普通の女子ならば“怒られた”と受け取るところを香奈は“叱られた”と取る。たとえばイツミならば“若の馬鹿ー! 女の子には優しくするって法律で決まってるんだよ! イツミ悪くないもん! ”と、どんなに自分が悪くとも正拳突きだのハイキックだのかかと落としネリチャギだのかましてくる所だ。そこで、若は“決まってねぇよ。どこの空想世界の法律だ”と突っ込みつつ張り倒すわけだが、香奈は“ごめんね”としょんぼりするのだ。若が間違っていても、若を不愉快にさせたことに、謝る。それは、少々鬱陶しくもあるけれど、若はその鬱陶しささえ、可愛いなと思えてしまう。
 何にせよ、どう考えても、若にとってイツミは幼(以下略)馴染なので、どうしても女ではない。大事な友人ではある。イツミが泣いていれば、若は居心地が悪いし、だから、蹴り飛ばして、さっさと回復しやがれと、いい加減にしろ、と言うだろう。まあ、言わなくともイツミは自動修復するが。
 その点は香奈と似ていると若は気付く。香奈は凹みやすいが、その分、必死に自分を励まして回復する前向きさが多少だが、ある。イツミの場合は、思い通りに行かないとすぐに喚くが時間が経てばケロっと忘れる美点が働いているのだろう。結果は同じでも過程が違う。
 けれど、イツミが泣いている時に抱きしめてやりたいと思いはしない。いや、他の女子に比べれば抱きしめてやっても別に構わないが、香奈に対する時のような幸せを腕に包み込むような感覚はないとはっきり断言できる。むしろ、逆に言えば抱きしめようが口付けようが、イツミに対しての感情は幼馴染のまま変わらないことがはっきり理解できる。
 そもそも、イツミを女として見ろということは母親に恋をしろと言うような難攻不落で、生涯解きたくない難題なのだ。
 もちろん、先日、本気で告白されたときは、驚きと動揺で困惑した。イツミを振るときに、胸が痛まなかったといえば嘘だ。けれど、やはり、振ると決めたのならばその態度を、若は貫き通したい。変に慰めたり今までと違う態度にでるのも、若は嫌なのだ。だから、いつかイツミが“あーそんなこともあったね! ”と笑って言えるようになってくれれば良いと思う。
 お礼参りに行くのなら付き合ってやるし、イツミが何かで誰かに責められているのならば一緒に謝って泥をかぶることも厭わないが、やはりどうしても感情の質が違う。イツミには多少申し訳ないと思うが、下手に哀れむつもりは、若には毛頭ない。イツミに対しては、鳳に対するような気持ちすら若は持っている。
 そもそも、香奈を好きになったことは幸福なことであり、それに付随する何がしかの問題が起きたとしても、それはそれ。仕方ないことだと割り切れる。
 究極、自分が幸せなら若はそれでいいのだ。イツミは、まあ、運がなかったとでも思って放置するつもりの若だが、しかし香奈は違う。
 香奈は基本的に馬鹿なので、他人に悪いことをしたと思うのである。そんなことを一々感じていれば、香奈は心から幸福を感じられる瞬間がなくなってしまうではないか、と、若が隣にいるとイツミを思い出して苦しくなるのでは、イコール若と一緒にいるのが苦しい、ということになるではないか、と、彼は思いはするが、それは性格の差異なのでとりあえずは放置するつもりだった。
 悩みたいのなら結論が出るまで悩めばいいと若は思う。青少年は大いに悩めと言われていることであるし、付き合いだす前の若にしろ、あの時は懊悩おうのうが人の形をとって動いていたようなものである。
 香奈が好きだけれど優しくできない、という、子供らしい悩みであったが、香奈を好きになれたことは幸福であるのに、同時に若を苦しませもしたのだから、香奈も悩みたければ悩めばいいと若は思う。
 正直に言うと、若が他人を慰め、アドバイスし、励まし、何てことをしてやるのが上手くない所為もあるが、とにかく、出来る限りは香奈が悩みを見守るつもりではある。
 ただ、許せないのは香奈がイツミと若の関係を変に妄想して、若から離れていくことだ。
 それだけは絶対に許せない。だから、先日、若は少々イツミには酷いことをしたが、それでも香奈に誤解だけはさせたくなかったのだ。誰も彼もに優しくして、何もかもを上手く纏める能力など、若にはありはしないのだから、どうしたいかを念頭において、それを守りきるだけで精一杯だ。
 悪いとは思うがイツミの涙まで若は背負えないし背負う気もない。
 部活を終えてから、香奈の待つ美術室まで歩いている間に、若はそんなことを一気に考え上げた。
 結論。 【今まで以上に香奈を、大事に大切にしてやろう。】  以上。

 ◇◆◇

 香奈は、観月の案内を終えると、にこやかに、油性マジックで書かれたような“ああ、すっきりした! 情報収集も思ったより出来ました。”という文字を顔に浮かべて、香奈にサブダの本を渡して聖ルドルフの寮に帰っていった。
 香奈の中で観月はイコール台風のような人だと認識された。あんなにも綺麗な男の子が、若と厭味で張り合い、試合に負けつつ勝負に勝つ強かさを持ち合わせていたのだ。香奈は人は見かけによらないものだと、しみじみ思いながら、特別教室棟の美術室の床に足を投げ出し、窓ガラスに背を寄りかからせた。背に当たる窓ガラスはひやりとしたが、床についている部分は先ほどまで部員が絵を描いていた為、フロア・ヒーティングの熱がやわらかく気持ち良い。
 投げ出された足の上には学生鞄とコート、マフラー、そして紙の魔術師ロバート=サブダの不思議の国のアリスが千枚の葉ミルフイユのように順番に重なっていた。
 ゆっくりと、香奈は、その一番上の層である、不思議の国のアリスのページを開いていく。
 ポップアップされる緻密な計算の上で奇跡のように楽しい紙細工。二次元であるはずの紙面からせり上がり、広がり、重なっていくそれは、まるで魔法のように自分がその世界に吸い込まれる感覚すらする。
「ホントに行けたらいいのにな……」
 誰も苦しめないですむ世界。白ウサギを追いかけてゆっくりゆっくり地球の奥深くへ落ちて、バタートーストのバタフライに、言葉を喋る花々、三月ウサギとマッドハッターが“何でもない日バンザイベリィ・メリィ・アンバースディ! ”と歌い、たっぷりのコショウでくしゃみがとまらなくなって、トランプの兵隊がバラをペンキで乱暴に染めていく――そんな。
 けれど、香奈はどこにもいけないことを理解していた。永遠に永久に自分は自分のままであり、自分の世界はここなのだ。
 今日もまた、若に迷惑をかけてしまった、と香奈はうつむき、自分の足を抱き寄せる。閉じた本の、その表紙に、額をつけて、ため息を一つ。
 観月にコートに行きたいと言われた時、頷いてはいけなかったのかもしれないと、今更ながらに自分の意思の薄弱さにげんなりとする。
 意思が薄弱だと思っているくせに、どうすれば強固になるかを考えたことすらない。そして、考えても思い浮かばないと甘ったれた答えを出す自分が、香奈は嫌いだ。
 もちろん、いつも嫌いな訳ではない。髪のセットだの、体調の良し悪しだの、若が優しくしてくれただので、自分も捨てたものじゃないと、自信過剰に、にやけることもある。
 デートの前には“よし! 今日の私は今までで一番可愛い! ”というようなことを言いながら鏡の前で支度をして“このコーディネイトだと靴はどっちがいいかな? どっちのが若は好きかな”なんて聞いて、家族に“はいはい、可愛い可愛い”とか“ラウンドトゥの方が香奈に似合うよ”なんて言われて呆れた笑いを向けられることもある。

 けれど、今は、香奈は自分が世界で一番嫌いかもしれなかった。
 誰を嫌うより、自分を嫌うのは、一番辛い。
 けれど、やはり、こんな意思の薄弱な、他人に迷惑しかかけられない自分は、嫌いだ。
 イツミを苦しめて、あんな愛らしい子供を泣かせ、若を苛立たせてばかりいる。自分に役に立つところなど一つもないのだと気付いて、じわりと視界に歪んだ膜を張る涙を、まばたきで叩き落とした。
 泣いてもどうしようもない。
 若に心配をかけてしまう。
 そうだ、若だ。クリスマスは一緒にいることが出来ないけれど、彼へのプレゼントを考えよう。それは香奈にとって素晴らしい時間になる。幸せな時間になる。なかば逃避の意味もあったけれど、凹んでばかりいるよりは建設的だと、若が好きなものを頭の中で数えていく。
 学園七不思議、香港映画、古書、数学、歴史、テニス、古武術、ぬれせんべい、静かな曲、下剋上……最後のは違うな、と香奈は自分の考えに微笑んでしまいながら、色々と考える。
 若はあまり歌詞のある曲は好きでないから、久石譲のアルバムでも贈ろうか。それとも、カーラ=ブルーニであればフランス語の歌詞であるし言葉が理解できない分、純粋に曲を楽しめるかもしれない、メジャーに坂本龍一も良い曲が多いし若もきっと嫌いではないはず。
 鳳のようにショパンが好きだと限定してくれれば楽だが、逆に学園七不思議なんてピンポイント過ぎるのも困るので、静かな曲くらいのほうがまだ良いかもしれない……と考えた香奈は、けれどショパンは幻想即興曲と仔犬のワルツ程度しか出てこないのだから、結局限定されても同じだっただろうと、自分の知識の浅さにわずかに眉を寄せた。
 それから、若は映画を観に行くけれど、家で観ることは少ないからDVDはやめておくことにしよう、と香奈は涙もどこへいったのか、天井を見上げて真剣に悩む。
 小説ならば、学園七不思議……しかし、香奈はあまりそのジャンルに詳しくはない。オカルト雑誌に触れるのも、何かに呪われそうで少し怖い。ネッシーやビッグフットなどの未確認動物ユーマはあまり怖くないのだけれど……と考えて、テニスラケットでも購入してみようかとふと思いついたが、確か若は香奈に自分の使っているラケットは数万円すると言っていたような気がする。安いものも探せばあるだろうが、それでは若の練習にすら使えないだろう。
 ……試合中、越前を酷く睨みつけていた若の顔を、香奈は思い出す。
 若は、香奈に対してあんな表情を見せることがない。それはそれで、少し寂しいなと思いながら、おそらく、あんなにも感情の強く現れた表情を向けられれば、自分は泣くだろうとも、思う。全国大会で奇襲攻撃をかけた時の、負けるものかという若の顔も、テニスをしていなければ見れなかっただろう。あの一所懸命で切実で真剣で恐ろしいけれどかっこいい顔が、香奈は好きだ。
(――うん、プレゼントの一つはテニスに関するものにしよう)
 そう決めて、しかし、香奈はテニスの知識は若がぽつぽつと教えてくれたものしか持たないことを思い出す。誰かに相談しなくてはならないが、香奈が気軽に相談できるのは鳳。けれど、彼は有田と付き合っており、あまり親しくすると、周りの人間がうるさい。自分が言われることも悲しいけれど、鳳や有田にとばっちりがいってしまっては辛く、申し訳ない。樺地は饒舌ではないが、相談してみようか。知らぬ仲でもないし、最悪、顔見知りの――宍戸、滝、向日、忍足、跡部、芥川――先輩にでも聞いてみようか、と香奈は、背後の窓を覗う。そろそろ、若の練習も終わるだろう。
 空は薄墨色で、もう少しで完全に陽が落ちて暗くなるはずだ。とりあえず、明日は学校が終わってすぐに近場の大型書店で最新のテニスの情報を仕入れ、若の部活が終わるころに彼を迎えに行こう、と香奈は決め、そのスケジュールに満足して、こくんと一つ頷いた。
 本つながりで、手作りするプレゼントは文庫本サイズのブックカバーがいいかもしれない、とそこまで考えると、若に似合う色、若が手にとって映える色を想像する。それはとても楽しく幸せな想像だ。
 紺も良いが、少し渋い。若の手は男性らしく節が目立つ上、古武術をやるせいか拳の指の付け根の皮膚は硬く、骨の形はしっかりと分かるのに、皮膚は少し平坦だ。そんな、彼の手に似合う色を考える。
 素材は革もいいが、少し大人っぽすぎはしないだろうか。ベルベットやツイードやコーデュロイでは、冬はいいが年間を通して使うにはふさわしくない気がする。キルティングは若には少々愛らしすぎるかもしれない。綿やポリエステルがスタンダードで良いかもしれない。ちりめんも柄に気をつければいけそうだ。シルクはそもそもブックカバーには合わないだろう。
 アップリケはやめておいて、折り返しの部分に若の名前をこっそり刺繍するのはどうだろうか。しかし、香奈は刺繍が苦手だから、ステッチの本を睨みながらやらなければならない。
 そうだ、作り方も調べなくては、と香奈は小さくうなづく。材料と製作のことを考えれば、少しでも速く行動しなければ、と焦る。けれど同時にワクワクもしていた。少しでも若が喜んでくれればいい。若はブックカバーを普段使いにしているから、きちんと選んで作れば邪魔になることはないだろう。
 ――薄情なことに、この時、香奈の頭にイツミのことは思い浮かんではいなかった。
 否、思い浮かぶ端から頭の隅に追いやり、若へのプレゼントを考えることで、更にそれを無視した。
 模様は和柄が若のイメージに合っていいかもしれない、と香奈は頭の中で色と柄を組み合わせていく。矢鱈縞やたらじまの不規則な縞模様はどうだろうか、縞が湯気のようにふくらんではしぼむ立涌たてわくもシンプルでいいかもしれない、篭目かごめは大きさによってインパクトが出るがあの六芒星ヘキサグラムが組み合わさったような柄は、もしかしたら若の趣味ではないかもしれない。他にも鹿青海波せいがいは市松いちまつ鱗文うろこもん矢羽根やばね――あえて無地も悪くはなさそうだ……ああ、どれが彼に似合うだろうか、と考えているだけで香奈は楽しくなってくる。
 とにかく、一度手芸店に寄らなくては――寄ると、愛らしい柄や気持ちの良い布に心を奪われてしまうので、無駄遣いをしないように気をつけねばならないが。
 考えがまとまったところで、ふと、自分の鞄を見ると、留め金と外ポケットとの間に何かが引っかかっていることに気付いた。
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