Un-birthday party XI               ※地味に日吉が痛いです
 帰路についた香奈は、もう、とにかく、自分でも驚くほど落ち込んでいた。
 一人で帰りたい、というようなことを若に告げてよかったと思うほど、本当にみるみるうちに涙が出てきてしまったのだ。若はクリスマスは家の雑務を手伝うのだと知っているのに――彼の家は道場やら母屋やら離れやら庭やら中庭やら駐車場やら蔵やらを入れると、一般家屋に比べるべくもなく広い。のねずみのチュウチュウおくさんでさえ自宅の掃除に二週間かかるのだから、若の家ならば家族総出で掃除やら何やらをせねばなるまいというのは、香奈にもきちんとわかる。
 わかるけれど、なぜか香奈はとても悲しい。寂しい。辛い。
 若は香奈を気遣って、たった一日――否、時間にすれば数時間ではあるけれど――でも、連れ出してくれて、とても嬉しかった。とても嬉しい。それなのに、たったあれだけのことで彼の行為を無にしてしまった。
 電車の一番隅の座席で、寝たふりをしながら、どうしても熱くなってしまう目頭を、そしてそこから零れ落ちる涙を他の乗客に観られないように隠す。
 若はあんなにも優しくしてくれるのに、どうして自分はこんなにも些細なことで泣けてしまうのだろうか。こんなにも些細なことで、胸が苦しいほど傷ついてしまうのだろうか。
 わかっている。
 若が、イツミを選ばないことはわかっている。けれど、もしかしたら、ドイツの宝くじで七十億あたってしまうかもしれないほどのありえない確率で、何かが起こってしまうかもしれないと思うと、怖い。
 その何かを具体的に考えることさえ、香奈は怖い。
 本当に辛いのは、自分ではなく、自分の為に幼馴染を邪険に扱わねばならない若と、彼を好きなのに邪険に扱われてしまう彼女なのだから、自分がこの程度のことで悲しむのはおこがましいと、香奈は必死に己の心に言い聞かせる。
 それに、イツミの言う通りなのだ。
 ミサの終わった後、誰もいない家に一人でいて、冬休みの宿題をやるなど、確かに寂しい。有田は鳳と出かけるようだし、香奈のあまり人数の多くない友人らも家族で食事だの彼氏と出かけるだの予定があるのだから。
 帰宅して、声を上げて泣いた。
 悲しい思いを発散させねば、明日、電車で会った時に、若に何と言ってしまうかわからない。せめて、若の側にいるときは少しでも機嫌の良い自分でいたい。彼に笑いかけていたい。今日のような自分は最悪だ。
 その、上げた声の中に、若は自分と付き合っているのだから誰も近付かないで、というものが混じっていた時、香奈は驚いた。自分の独占欲と支配欲の強さに。
 けれど、実はそれが普通なのだと、それを知るほどの経験と知識は香奈になかった。
 一通り泣き終わった後、家族が帰ってくるまでの間に早めの風呂に入り、リビンクや自室の掃除をし、腕によりをかけて――と言っても高が知れているが――夕食を作ることに専念し、それが終われば作りかけのカード類の作成に入る。
 少々遅くはなってしまったが、家族が全員そろうと夕食に入り、それが終わった香奈は、少しは落ち着いた自分の気持ちに安堵して「大丈夫」と呟いた。
 大丈夫、明日は笑える。若に、今日のことを謝らなければ。
 けれど、謝らなければならないのは、若だけではない。そして香奈は、今日の無作法な退席の謝罪と、パーティ参加を希望する旨のメールを、観月に送った。

 ◇◆◇

 香奈がいなくなった直後、溜息をついた若は「じゃあ、俺も失礼します」と告げてきびすを返したが、その腕はイツミに盗られた。彼女は半ば泣きそうな顔で若に訴えた。
「ごめん若! 違うの!」
「わかってる」
 イツミに悪意があったわけではないことは、若も理解していた。けれど、だからどうした、というのが若の正直な気持ちである。全くもって、なんとタイミングの悪い。つい先ほどまで香奈は嬉しそうに笑っていたではないか、と若は思う。最近はタイミングの悪いことが重なりすぎている。
 イツミの腕を払って歩き出した若を、イツミは観月に声をかけることもなく追いかけた。残された観月は、少々思案顔で二人を見送り「さて……」と小さく呟く。
 若を追いかけたイツミはといえば、彼女は弁明したかった。だって、どうしようもないではないか、ああする以外には。幼馴染なのだ。お互いの性格は熟知している。今更、下手な策を弄したところでどれほどの効果があるものか。香奈の悪口など、イツミは若に吹き込みたくなかったし、――イツミは個人的に香奈が嫌いなわけではないのだ――氷帝の友人に頼んで、それを吹き込んだとて、若はがどれほど信じるだろうか。若は絶対に本人に事実を確認するし、どんなにそれらしい他人の言よりも、穴だらけでも本人の言を信用する。イツミは、友人らにゲームを盗んだだのと責められたことがあるが、その時も、若はイツミの言葉を信じて、潔白を信じてくれ、それがとても嬉しかった。
 だから直球に若に好きだと言い、香奈に諦めてもらえるように自分にできること、やれることをしたまでだ。
 だから、自分は悪くない。いや、もしかしたら少しは悪いのかもしれないが、自分にはこうすることしかできなかったのだと伝えたかった。素直に二人を祝福できるほどの、余裕はイツミにはなかったし、どこか、お気に入りのおもちゃを友人に奪われたときや、お気に入りのポーチやハンカチを真似して買われた時のような憤りがあったのだ。
 ただ、イツミは、変化はもっとゆるやかであるはずだと思っていた。もしくは、イツミに香奈がくってかかってくると思っていた。喧嘩するかもしれないと思っていたのだ。けれど、香奈は涙目でいなくなってしまうし、若は、とにかくひどく怒っているようだった。
 邪険にされても、イツミはべそべそ泣きながら若の後をついていった。途中で、イツミは若のシャツの裾を握ったが、それを若は振り払わなかった。それだけで、若がきちんとイツミを幼馴染として扱っていることに、けれどイツミは気付かない。
 結局、家まで泣きべそをかきながらついてきたイツミに、若は茶まで出してやった。
「お前、何がしたいんだよ」
 溜息と共に少しでも怒りが軽減されるように若は願う。このままでは壁を殴りでもしてしまいそうだ。忌々しそうな口調になったのは、それは抑える気がなかった。
「若と付き合いたい……」
 やはり茶には手をつけずに、やはりべそべそ泣きながら、やはりイツミは直球だった。若は再び、九十九パーセントカカオのチョコレート並みに苦い溜息を吐く。
「だから、俺はお前のことをなんとも思ってない。付き合えない。それなのに俺にどうしろって言うんだよ」
 苛立ちの強くにじんだ、きつい声音にイツミは、またわーん、と声を上げた。
「だっ……急に諦め、ら……ない、もっ」
 びーびーと泣くイツミに頭が痛くなった若はこめかみに指を置く。イツミの気持ちはわからないでもないが、若としては他人事だ。香奈ならば、イツミの今の様子に心を痛めるかもしれないが、若は、どうでもいいとまでは言わないものの、自分の今の憤怒の方が問題だった。
 そしてまた、今は泣いているイツミに苛立ちが募ってゆく。もともと彼女の言動によって引き起こされた事態に酷く腹が立っていた上に、要求ばかりされ茹っていた感情が沸点に達してしまいそうだ。
 若は、香奈が好きで、香奈も若が好きだという時点で恋愛関係の発展として他人が入り込む隙間はない。また、強引に隙間を作ることの出来る能力者も稀にいるが、残念ながら若にとってイツミはそれではない。香奈にとっては、どうだか若は知らないが。
 確かに、付き合っていても気にしないほどの気持ちで強引に愛情表現をして、想い人を奪取する場合も少なからずあることを、若は知っているが、すべて他人事だ。そもそも、奪取するために他人に何と呼ばれようと、他人をどれだけ傷つけようと構わないというほどの熱意と強い意志が、イツミにはない。ただ彼女は、現状を受け入れたくないから駄々をこねているだけなのだろうと、若は思っているけれど。
 ああ、ムカつく、と若は拳を握った。
 もともと、香奈は感動しやすく凹みやすい。だからか、若のほんの少しの行動で、今日は本当にとても香奈は嬉しそうだったではないかと思い出せば、それを略奪したイツミが泣くのは、若にとって大したことではない。むしろ、きっと家で独りで涙を溢しているであろう香奈の方が、若には大したことだ。可哀想に、とさえ思う。そして、女はなぜこうもすぐに泣くのか、と大きく溜息をつく。
 自分の、爪先を始点とし、頭頂部を終点としたリミットゲージが、素晴らしい勢いで埋まっていくのを若は感じた。
 俺にはどうにもできないと言っているだろうとか、少しは我慢しろだとか、香奈香奈ですぐに逃げずにイツミを言い負かすぐらいの気概がほしいだとか、そもそも、イツミは香奈を泣かせるなだとか、俺にこれ以上何をどうしろと言うんだだとか、もう、とにかくとにかく考えれば考えるほど腹が立ってくる。
 まずい、と若は思い、強く目を閉じた。
 けれど。
「な、で……イツミじゃ、ヤなの……?」
 急に握られた手に、急にかけられた言葉に。

 ――頭に、血が上った。

「わかった」
 そう低く呟いた若に、びーびー泣いていたイツミは、ぽかんと彼を見た。
 それと同時に、急にぐっと近付いてきた若の顔に、イツミは思わず反射でのけぞって両腕で顔を隠す。
 若は、そのイツミの腕を、自身の両手で一つに纏め、片手で纏めた両手首を押さえつけ、強引にイツミの顔の上から退かした。真っ赤になった彼女の顔に、更に自身の顔を寄せつつ、片腕で抱き寄せた。
 吐息が触れ合う距離になって、イツミは常日頃のように、急に、鼻をかんだ後のティッシュペーパーのごとく顔をクシャクシャにゆがめると、唇が触れ合う瞬間に「ごめんなさい!」と言って再び泣き出した。
「俺が好きなんだろ?」
 若の、腹の底から出されているような、低く深く空気を振動させる男の声に、イツミは「好きだけど!」と叫んで、またわんわん泣く。けれど、若は纏めた手首を離さなかった。
 冷静に行動していれば、イツミも若の手から逃れることは不可能ではなかっただろう。イツミは香奈のように運動が出来ずに体力がないというわけではなかった。むしろ、ちょっとした力持ちの部類には入ったのだから。けれど、幼い彼女は、パニックになってしまい、どうして良いのか、どうしてこういう状況になっているのか理解できず、抵抗することすら頭の中から、剣を刺されてタルから飛び出した黒ヒゲのように、すっぽ抜けていたのだ。
 唇が、触れ合う。若も、イツミに対して配慮したのだろう。最初の口付けは彼女の下唇を掠める程度。それを何度も繰り返して、衝撃のあまりに唇を引き結び硬直していたイツミの肉体が、それから回復して、震える唇で若の名前を呼ぼうとした瞬間に舌をねじ込んだ。
 イツミは必死で若の舌を自身のそれで押し返そうとし、時に逃げるように口腔の奥に逃げたが、互いの歯が触れ合い痛みを感じるほど乱暴な口付けに、とうとう若の舌に絡め取られて、
「――ッツ……」
 その瞬間、自身の舌もろ共、若の舌に噛みついた。
 遠慮のない痛みに、若は唇を離し、抱き寄せていた腕を離し、けれどイツミの片方の手首は握ったままだった。
 ぼろぼろと泣いているイツミを見つめた若は、口内の血の味と鉄の香りを舌で唾液と混ぜながら喉の奥に流し込む。
「お前、俺を好きだったのって、小学校くらいの時までだろ? 今はただ、執着してるだけなんじゃないのか」
 そんなこと、イツミにはわからなかった。ただ、若が好きなだけなのに、なぜこんなことをされなければならないのか、イツミには全くわからない。イツミは怖かった。わけがわからなさ過ぎて、若が何を考えているのかがわからなくて、怖かった。
 けれど、若も自分の行動が良くわかってはいなかった。ただ、香奈の去り際の言葉だの、イツミの我が儘な態度だのに、途方もなく胸くそが悪くなり――……アア、と若は気付く。
 これはなかば八つ当たりだ、と。
 可哀想に、イツミは八つ当たりで好きな男にこんなことをされてしまったのだ。怖かっただろうに。
 けれど、若の中のイツミに対する罪悪感は、少ない。
 イツミの発言や行動が、香奈にあんな言葉を吐かせたのだ、と思うと、天真爛漫で無邪気なイツミの美点でさえ、幼稚で無思慮で無遠慮な汚点のように、若には思えた。
 しかし、ここは、乱暴を働いた自身が謝るべきだろうと若は思い、苛立ちを、自分の行動が理解できない混乱に紛らせて「悪かった」と言い、イツミの手首を離す。すると、そこにはハッキリと若が強く握った手の痕が赤く残っていた。
 イツミは、その手首を、もう片手で隠すように押さえると、泣いたまま、訴えた。
「イツミ、若のこと好きだよ。なんで意地悪言うの? イツミ、イツ……っ」
 ぴぎゃー、と表現したくなる鳴き声もとい泣き声に若は溜息をついてその様子を眺めた。
 どうしても、若は、イツミや他の女と接触する時に、香奈と比べてしまう。若の中の女の基準は香奈で、そして、比べた結果が劣っていようと勝っていようと、その度に自分は香奈が好きなのだな、と実感していた。
 香奈は、大抵、泣く時にじっと下を見てポロポロと涙を転がす。流すのではなく、まるで透明なガラス玉を散らばすように、涙をこぼす。
 香奈が若を好きだと言ったとき、それを知った。それでも、涙で、瑞々しく光を弾く瞳で、一所懸命、若を見上げていた。若の言葉を聞き漏らさないようにと。あの時、抱きしめてしまいそうになる腕を、どれほどの理性で押さえ込んだのか、今はもう思い出せないけれど、きっと、今同じ状況になれば、もう、その衝動を押さえ込めるとは思えない。
「鼻水拭け」
 未開封のポケットティッシュをイツミに差し向けながら「俺はお前とは付き合えない。香奈の前で俺に触るな」と告げる。
 途端にイツミは顎が外れるのではないかというくらい大きく口を開いて、わんわん泣きつつ「そんなの、知ってるもん! 若がイツミのこと好きにならないってわかってるもん! でも、やなんだもん!」と唾を飛ばしながら怒鳴った。
 それは確かに嫌だろう、と若は思う。自分だって、香奈が他の誰かに惚れるなどしたら、己はイツミ以上の行動を起こしてしまいそうな気さえ、若はする。
 イツミが、“そういえば、昔は若のことが好きだった”と、笑って過去を話せるようになるまで、さてどうすればいいのか、経験値の少ない若には、予想もつかないけれど。それでも。

 ◇◆◇

 観月はイツミが点呼時間直前になっても帰ってこないと、女子寮の管理人に言われたが、知らぬ存ぜぬで通した。
 しばらく後になってイツミの親から寮の方へ連絡がきたということを知らされ、少々安堵しつつ、携帯電話に入ったメールを眺める。そんな観月に同室の木更津が不思議そうに視線を向けたが、その視線に「僕はクリスマスの時期だけは寛大な男なんですよ」と意味深に、そして余裕が皮膚から揮発されているのではないかという微笑と共に、彼は答えた。
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