生徒会長室に入ると、いつもの豪奢なワインレッドの会長椅子に深く腰掛けた跡部くんがいた。 窓から入る夕方の光が、緻密な意匠の金の窓枠に反射して、光がきらきらと跡部くんに降り注いでいるようだった。 言葉を出してしまったら、この絵画みたいに綺麗な風景が消えてしまいそうで、頼まれた書類を胸に抱いたまま、声はかけないで跡部くんの所まで歩く。柔らかい絨毯が足音を消してくれた。 跡部くんはなんて綺麗なんだろう。 私が一番好きなのは跡部くんの肌だ。白くてつるつるしている。お化粧させたらメイク用品のCMモデルになれるんじゃないかって思うくらい、すべすべそうな肌をしている。 見ているだけで撫でたくなる。いい子いい子ってしてみたくなる。 ちょっとうつむき加減の跡部くんは手に書類を持って、それを読んでいるようだった。 声を掛けないまま、運んできた書類をデスクに置いた。 そのまま一分たった。 跡部くん、なぜか動かない。 そろーっと無駄に大きなデスクから回り込んで跡部くんの隣に移動する。 跡部くん、やっぱり動かない。 ゆっくりしゃがんでみる。 跡部くんは目を閉じていた。 耳を澄ますと呼吸音が聞こえてきたのでどうやら生きているようだ。 声をかけて起こすのが一番だとわかっているけれど、伏せられた睫毛が綺麗で長くて、寝ている跡部くんを初めて見て、胸がドキドキしていた。 私は跡部くんのファンで、だからおっかけて生徒会に入ったし、いつも無記名で手紙やプレゼントを送っていた。教室も離れないように勉強だって一所懸命してたし。スポーツはそこそこだけど。 別に跡部くんと付き合いたいわけではない。 手紙とか贈り物とかが跡部くんのやる気に繋がればいいなとは思っているけれど。そういうので跡部くんがまた素晴らしい試合をしてくれればいいなって、その素晴らしい試合を観れたらいいなって思っているだけで。 ときめくし、ドキドキするけど、これはファン心理だから、別に好きなわけじゃない。恋しているわけじゃない。 跡部くんはもっと綺麗で可愛くてスポーツ万能な子と付き合って、家柄も対等な子と結婚すればいい。跡部くんが幸せだといい。 夕日ときらきらの光に照らされた跡部くんを、しゃがみ込んだ斜め四十五度下から見上げている。 お肌がつるつるの跡部くんの首とかは高級な磁器みたいだった。 ずーっとしゃがんで見つめていたら室内に薄黒いもやがどんどん降り積もってくる。夕方から夜になっているんだなと思った。 きらきらの光のなかで天使みたいだった跡部くんは、今はもう青白い肌の月の神様みたいになっていた。校舎の外の街灯の光が、跡部くんの髪の毛を透かしている。光る糸みたいだった。 跡部くん、跡部くん、私は跡部くんに恋はしていないけれど大好きです。 跡部くんはすごく綺麗で、今は触ったら冷たそうに見えた。耳を澄ましてもう一度呼吸の音を確認する。 跡部くんは本当に綺麗だなぁ…… 跡部くんの睫毛が震えて、高級な磁器よりもっと白い眼と薄青い瞳が現れた。虚をつかれた私は、少し呆然としながら、何度も瞬きして、欠伸して、滲んだ涙を睫毛につけている跡部くんを眺めていた。 軽く伸びをした跡部くんが軽く首を動かして、私を見つけた。目があった。私は驚いて尻もちをついてしまった。跡部くんの瞳は、物音に驚いた猫みたいに見開いて爛々としていた。 「……跡部。これはどういう状況なわけ?」 会長机の下で、二人で丸まっている。流石の跡部くんもなんだか少し可愛く見えた。顔が近くて、跡部くんの香水の匂いがした。どきどきしている。 跡部くんは何も答えなかった。ただ、会長室に入ってきた先生がどこかへ行くのを待っているみたいで、野生の動物が耳をそばだてているようだった。 気づくと、私と跡部くんの手は触れていた。握っているわけでも、触っているわけでもない。狭くて、ただ触れてしまった。不可抗力の事故。 でも、ずっと夢見ていた跡部くんの手は、すべすべしていたけれど、それよりずっと固くて、ごつごつしていた。 一〇センチメートル先に跡部君の顔がある。 跡部くんは何を考えているかわからない、表情がないみたいだけど、無表情ではない顔をしていた。 跡部くんの肩に手を置く。跡部くんはゆっくりそちらを向いて、私の伸ばしていた人差し指に頬を押された。跡部くんは明らかに変な顔になり、私の鼻を指でつまんでグーッと力を入れた。痛い。 私は今跡部くんに触れているという興奮で、触られているという感動でじんわりと涙が滲んできた。 私は跡部くんに恋していない。 でも、大好き。 毎日普通に喋るし、委員会でも一番私と喋ってくれる。でも、何かを約束したり、触れ合ったりする関係ではない。 ああ、跡部くん跡部くん跡部くん。なんで跡部くんはそんなに綺麗なの。跡部くんはなんでそんなにかっこいいの。 跡部くんの指が私から離れて、ああ、ああ。 そして跡部くんは ◆◇◆ 跡部景吾が滝見姫子にキスをしたのは、その場の雰囲気だった。 ここでしてやらなくては男ではないな、と思い、深く考えずに口付けた。もともと、滝見の顔のつくりと、生徒会での有能さは買っていたし、跡部はキスがしたくなった時に、してもいいなと思える相手ならば男とでもキスをするタイプだった。 しかしまさか滝見が鼻血を垂らして倒れるとは跡部も予想だにしていなかった。教師が生徒会室から出て行った後だったことだけは僥倖だったが、生徒会の仕事も進まず、跡部の部屋で目覚めた滝見は何故かすみませんを連呼して泣き出してしまって、しかも「私別に跡部に恋してない!!」と叫ばれた時はショックだった。 「悪いな。嫌われてたとは知らなかった」 そう言うと、しかし滝見は「跡部のことは世界で一番大好きだけど、恋はしてない!」と訂正してきた。 意味が解らなかった。 訳が分からなかった。 「じゃあ、何がそんなにいやなんだよ」 「す、好きだけど、でも、恋はしてないって言ってんの!!」 めんどくせえやつだな、と跡部は思う。 そもそも、跡部も滝見のことは好きだが、恋をしているわけではない。 ベッドの上で泣いていた滝見は、突然、ベッド脇の椅子に腰かけていた跡部に殴りかかった。 「跡部にはもっと高級で高価でなんていうかかっこよくて、私みたいなんじゃなくて綺麗なお姫様とキスしてほしかったのに! 幻滅した!!」 跡部は、なんだこの突き抜ける馬鹿は、と思った。 「姫子」 跡部は、滝見を落ち着かせるために彼女の名前を呼んでみた。 滝見は泣き崩れてから「ごめん、やっぱ私跡部に恋してるかもしれないけど跡部のこと好きだから、こういう勢いでキスとかされんのすごく辛い」とベッドに倒れ込みながら、言った。 「なら、付き合えばいいだろ。俺様と」 跡部はあっさりと言う。どうせ、結婚するわけではない。 そう思って言った言葉の重みを、跡部が実感するのは一〇年後だった。 |