空の彼方で会いましょう。

 座敷にしかれた布団に、新雪の顔色をした少女が夢見るように眠っていた。日本人形と変わらぬ黒い髪が白い敷布の上で、冬の夜空にも似た艶やかな光を反射している。
 室内の空気は澱みもせず動きもせず、まるで何者かによって世界から切り取られ固定されたように、静寂と静止のみが整然と横たわっていた。
 唯一、障子を通り抜けて室内に降り注ぐ日差しが、窓の向こうの庭先を影絵として浮き上がらせ、風に凪ぐ庭木や飛び立つ雀の陰だけが時が経っていることを証明している。

 襖が引かれ、空気が動いた。死んでいた空間に息が吹き込まれたかのように色を持ち、入室した少年を出迎える。
 襖を引いた少年は半ばまで室内に入ると眠っている少女の隣に腰を下ろした。そうして、眠る少女に「お疲れ様、頑張ったな」と笑いかけた。
 少女の乾いた、けれど柔らかな唇が動き「ありがとう」と答えたように幻聴が少年の鼓膜を振るわせ、少年はまた少しだけ笑った。たちの悪い冗談を耳にしてしまった時のように、苦笑した。

 ***

 彼は、それが渋柿だと知っていた。
 それでも、目の前に赤く色づいた実がたわわとなっていたら手を出さない道理はない。
 つまり、そこに柿がなっていたという理由だけでとりあえずもぎたくて仕方なくなったのだ。
 何とかしてあの赤い実をこの手にしてやろうと上ろうとしても低い場所に枝はなく、全身を使ってよじ上りたくとも、今はよそ行きの服装だ。つまらない話とはいえ勝手に抜け出してしまった上に、服まで汚せば親に怒られる。
 彼の逡巡は五秒ほどだった。
(げこくじょう、だ)
 木に抱きつき木登りを開始した。ざらざらとした木の皮にしっかりと手のひらを乗せ、靴でその表面を蹴る。自分の体が落ちないように力を込めて登る。
「わかちゃん。おばさまに……おこられちゃう、よ」
 かけられた高い声に、彼は伸ばしていた手を止めた。同じく、つまらない大人の会話に飽き飽きして抜け出してきたらしい少女が首が痛くなりそうな程、木を、彼を見上げている。
 彼は登ることを諦めて庭の地面に足を乗せると、木の皮がパラパラとくっ付いた自分の服を小さな手で掃う。
「わかちゃんって言うな」
 不機嫌そうに彼が言うと、少女はきょとんとして、大きな瞳を瞬かせた。
「けいちゃんはけいちゃんなのに……」
 不思議そう跡部の名を口にする少女に、彼は――若は不機嫌そうに口をへの字にする。若は跡部景吾を一番の仮想敵としており、何でも彼に勝ちたかったので、少女の言葉にカチンと来たのだ。
「うるさい。おれは男だから“ちゃん”なんてつけない」
 彼は反論し「でも……でも……」と少女もそれに反論し、口論の最中に少女が大声で泣き出し、柿の木の下での大喧嘩はすぐさま両者の親に知られることとなり、幼子二人はこってりと絞られたのだった。

「会ったその日に大喧嘩なんて……」
 若い女性の呆れた声を若と瑞希は寝た振りをして聞いていた。
 先ほどたっぷりと絞り上げられ、昼寝の時間だからと布団に横にさせられた二人は、頭から毛布をかぶって潜り込み、小さな声で内緒話を始める。
「わかくんはねむらないの?」
みずきは?」
 こそこそと、もぞもぞと、毛布の下で動く二つのふくらみ。
 微笑ましげに見つめられている事など知らない二人は毛布の中で秘密の会話を続ける。
みずきね、みっつになったから寝ないよ」
 瑞希はうまく指を三本立てる事が出来ずに、けれど機転をきかせて右手の人差し指を立て、左手では人差し指と中指を立てて三本の指を若に示す。
「おれは四歳だ」
 陽光の香りのする布団の気持ちよい肌触りに、少しうとうとしながらも、若は勝ち誇ったように右手の親指だけを折って、四本の指を立てた。
 二人のやり取りをばっちり耳にしていた両家の親は微笑ましげに歓談し、仲良く眠り込んでしまった二人を見て、話がまとまった。

 ***

 目に痛いほど潔癖に白い室内は、安心感や優しさや温かみといった要素が完璧に近いほど排除され、カーテンを透かして侵入してくる陽光さえ、どこか冷たい印象がある。室内のイスやチェストが硬質なスチールで出来ており、有機物の匂いが全くしないのも、その一因のように思われた。
 白く塗装されたスチールパイプのベッドの上で夕焼けに顔を淡く染めながら、人形のように目を閉じている瑞希は、寝ているのか、ただ目をつむっているだけなのか、若には判別がつかない。生きているのか死んでいるのかさえ曖昧に感じて、ぞわりと肌が粟立った。その不安を払うために、ゆっくりと呼びかける。
瑞希
 瑞希は、若の声で起きたらしく寝ぼけまなこを若へと向けて、しぱしぱと瞬いたかと思うといきなり起き上がった。同時に点滴台が瑞希の唐突な行動に不満を示すかのように音を立てる。
 若は瑞希が横になっているベッド横に置かれた椅子に、わざと乱暴にどっかりと腰を下ろしてビニール袋を差し出す。瑞希は慌てた様子でビニール袋を受け取って枕もとへ置いた。そうして 瑞希は、くるくる動く仔リスのように慌てたせわしない様子で、手櫛で髪を梳き始めた。その姿に、若は安堵して息をつく。
「来る前には連絡して下さい……」
 今更であるのに恥ずかしそうに文句をいいながら俯いた瑞希に、若はどうでも良さそうにして、あえて言葉を返さなかった。
 しばらく後、満足行くまで髪を梳いたらしい瑞希は「顔、洗ってきますね」と若に告げて、立ち上がろうとする。その行動は、若が瑞希の手を掴み阻んだ。
「買ってきたの、アイスなんだよ。さっさと食え」
「若さん、私のこと小さな子ども扱いしてますよね」
 呆れた笑いを浮かべながらも、言われたとおりにビニール袋へと手を伸ばした瑞希は中身を見て嬉しそうに口元を綻ばせた。瑞希の表情を見た若は取り繕うように、照れ隠しのように口早に言う。
「前にそれ食べてるの見たことがあったから」
「嬉し……ありがとうございます」
 カップを両手で抱いて嬉しそうに笑う 瑞希につられて若も少しばかり表情を緩めた。
 わくわくとした様子で瑞希はカップの蓋を開ける。けれど力ない細い指では、その下に貼り付けられたビニールを上手く剥がせない。苦闘している瑞希の手中にあるカップを若が奪った。ピリ、と音を立てて丁寧にアイスのカップを覆うビニールを剥がすと、白い冷気とともに薄桃のアイスクリームが甘い香りをさせてあらわれる。若はそれを瑞希に手渡した。そうして若はコンビニの店員がご丁寧に入れてくれたスプーンの袋も開封して甲斐甲斐しい様子で瑞希に差し向ける。
「許可、貰ってある」
 まだ小学生だった頃、瑞希が食事を制限していると知らずに手土産でぬれせんべいを持って行き、母に叱られたことのある若は、それからきちんと看護婦や医師に聞くようになった。やわらかく、あまり味の濃くないものを少量であれば許可をもらえることが多かった。
「寝起きにいきなりアイスなんて太りそうです」
 そんな事を言いながらも幸せそうにスプーンを運ぶ瑞希の様子に若は満足して、その顔を眺める。瑞希の白い顔は、まるで日差しを知らない産まれたての赤ん坊の、無垢な瞳の白い部分のように透明で青味がかっている。薄い手の甲には青い血管が見え隠れして浮いていて、嬉しそうにアイスを食べる姿は、瑞希の表情がなければとても寒々しい。
 若と出会った頃の瑞希は、はしゃぎまわる仔犬のように元気で、夏にもなれば頭からかかとまでクロワッサンのように香ばしく日焼けをし、赤い頬にキラキラと光る汗の雫を滲ませていた。今、若の目の前にいる瑞希は、そのどの姿とも結びつかない。瑞希と出会ってから、彼女が飛び跳ねて元気だった時間と、病に臥している時間は、ほとんど同じだけの割合であるのに、どうしても、若の中の 瑞希は一緒に遊んだ頃のままで笑っている。
  瑞希の黒髪が、下を向いてアイスを口に運んでいる所為で、はらりと揺れた。若は、さらさらと零れている瑞希の黒髪を手で梳いて、彼女の耳にかけてやる。若が頭に手を触れるたび、力が全く込められていない頭をぐらぐら揺らし、されるがままになりながら、瑞希はアイスを口に運んだ。
「むしろ、少し太れよ。胸とか」
 揶揄した若の言葉に、瑞希はびくっと肩を震わせ、おもむろに小袖の襟を引いて、その撫子色の間から自分の胸元を見下ろした。そして、かなり真剣な、悲痛といっても良い顔で若に尋ねる。
「大きい方が好きですか?」
「いや」
 興味がなさそうに、そして面倒臭そうに若は緩く首を横に振り、瑞希は軽く拳を握って自分の胸に添えて首をかしげた。
「さ、触ります?」「遠慮する」
 瑞希の問いに、改行も許さぬほどの素早さで若は即答した。
「でも……私……そんなには小さくないです」
「はいはい」
「ほ、本当です!」
「はいはい」
 なにやら必死で自分の胸は小さくないと説明する瑞希を右手を軽く振って黙らせた若は、人差指をアイスのカップへ向けて早く食えと示す。実際、十二歳の許婚の胸があろうが無かろうが、テニスに夢中な中学二年生の少年である若にとっては大した問題ではない。
 アイスを食べ終えた瑞希の手から若が中身の無くなったカップを奪うと、空のコンビニ袋に入れる。そうしてから、若は懐かしむように目を細めた。
「髪、伸びたな」
「――短い方が好きですか?」
 射干玉(ぬばたま)の、ゆるく白熱灯の光りを反射する 瑞希の髪を、若は撫でながら、その問いに「別に」と答える。一時期、治療のために瑞希の髪はなくなっていた。若はそれを思い出すたびに、瑞希の髪に触れるのだった。
「じゃあ、もうちょっと伸ばします」
 若の思いを知らぬ瑞希は、自分の髪を白い手のひらと細い指先で弄びながら頷いた。
「若さん、それよりも今日の話が聞きたいです。今日は、宿題はありますか」
 白い頬を期待で紅潮させて話をねだる瑞希に、若はゆるく頷いてやった。若の話が、印刷物や通信機器で手に入れられる以外の瑞希の唯一知る事の出来る外界の出来事だと承知している。
 瑞希は若がくる事を楽しみにしていたし、だから若は、なるべく瑞希に会いにきた。瑞希が喜ぶのは若にとっても喜ばしいことだった。

 四歳と三歳の時に言い名付けられた二人は、さほどその関係を気にすることなく、両家の親に連れられ、春になれば苺狩りに行き、牧場に行き、潮干狩りをし、夏になれば両家でキャンプに行き、プールで遊び、海で泳いでバーベキューをし、秋になれば紅葉狩りに行き、釣りを楽しみ、冬になれば星を観に山へ登り、雪遊びをし、ライトアップされた遊園地で遊んだ。
 時折、瑞希の姉やその許嫁も交えて遊びはしたが、歳が離れていることもあって二人がちまちまと彼らにくっついていると、彼らは上手に逃げてしまい、結局二人で遊ぶことが多かった。
 瑞希が寝込み始めたのは小学校のニ年生の初秋あたりからだった。今までのように遊べなくなると聞いたときに若は盛大に嫌がり、抵抗した。「やだ」と「なんで」とを繰り返して親たちを困らせた。その時の若にとって、瑞希は誰よりも大事な一番の友人だった。
 実はその時に婚約も解消しようという話だったのだが、若のあまりの反逆暴動に、その辺りはうやむやのまま、今に至る。
 最初は頻繁に見舞いに来ていた瑞希の友人らの足が遠のいても、若は頑なとも言える一途さで瑞希の病室を訪れた。一カ月以上の間が開くこともあったけれど、それでも、平時は必ず週に一度、瑞希を見舞っていた。まだ小学生だった頃は二人で病院内の探検をしたりもしたが、年々、瑞希の身体は目に見えて衰えていき、最近では瑞希がベッドを下りる姿さえ、若は見ていない。
 瑞希の病状の悪化を目の当たりにすることが辛く、足が遠のいては、また瑞希に会いたくなって病室に通う、五年間、その、くり返し。

「今日は――いつも通りだ。学校行って、歴史の授業だったんだけど「何習ったんです?」……江戸幕府の成立と鎖国」
 若の言葉に瑞希はまるで呪文を聞いたかのように「エドバクフノセーリツトサコク」と繰り返した。異国人のような瑞希の発音であったが、若はそれを無視して話を続ける。
「同じ部活の鳳が……歴史って女の先生なんだけど、その先生を呼ぶときに『お母さん』って間違えて呼びかけて、すげぇ笑われてた」
 思い出して少し笑いながら若が言うと、瑞希もつられて笑う。笑顔だけは、昔の瑞希と同じく快活な印象があって、若は瑞希が笑ってくれる事に安堵する。話すことはさほど得意ではないけれど、それでも、瑞希が笑うのなら、得意ではないそれも苦痛ではない。
「え、あれ、なんでここがxなんですか?」「さっきここの(a−b)に代入しただろ」「あ、そうでした。急に出てきたから……」「ちゃんと見てろ」「はい」
 若の宿題を真剣に解き、若の説明に熱心に耳を傾ける瑞希は、治ったら学校に通いたいと、よく若にこぼしていた。勉強をただの義務としか思っていない若のクラスメイトの誰よりも、学校へ通えない瑞希の方が純粋に勉強を面白がり、求めた。その事実が、若をやるせない気持ちにさせもしたけれど、問題が解けたとき、一つ新しい知識を手に入れたとき、瑞希がとても嬉しそうに笑うから、若は見舞いの際には教科書を必ず一冊持って行った。
 特に若が得意とする数学と歴史は、若の熱の入った教え方に、瑞希も興味津々といった様子で教わった。それが若は少し嬉しかった。
 そうして二人で宿題を終え「さようなら」と言った瑞希の言葉にうなずいてから、病院を出ると、蜜柑色の太陽が建造物の中に沈むギリギリのラインで若を迎えた。多分に湿度を含んだ風が髪を弄り、少しの不快感に目を細めながら、それでも病室とは比べ物にならない外気の新鮮さに、若は大きく呼吸した。瑞希にもこの空気を感じさせてやりたいと思った。
 その時、病院に併設してある駐車場に、どこかで見たことのある車が入っていくのを、若は何の気もなしに眺めたが、黒塗りのロールスロイスから降りた跡部に、意外さと共にどこか納得した。
 跡部は若には一瞥もくれずに病院へと足を進めていく。その隣を、跡部と同年代の少女がついていて、若は病院の門を出てから、二人を振り返った。
 どちらも知った顔だったけれど、若は声をかけることはせずに、ただ、ブラッドオレンジのような濃い橙を覗かせる地平が、闇に犯されていくのを見てから、小さく、舌打ちをした。

 帰宅すると、居間でテレビを見ていた兄に「病院行った?」と聞かれ、何故そう思うのか問うと「薬品っぽい匂いがする」と返された。
 最近は、病室の匂いにも半ば慣れてしまって、入室した瞬間はそれらの匂いを感じることもあったけれど、数分もすれば気がつかなくなってしまっていた。制服の袖を鼻に近づけてから、言われれば科学薬品のような工業用品のような匂いがしているような気がしないでもなかった。
瑞希さん、最近どう?」
「それなりに元気そうです」
 若の言葉に、兄は「ならいいんだけど」と、呟いた。その態度を訝しく思っていると、仏壇に線香を焚き終えて居間にやって来た母が兄と若の会話が聞こえていたらしく、つましい口調で語りだす。若が遮れば簡単に口を閉ざすだろうということはすぐに予測がついた。
 母は、瑞希のことについて、若の顔色を覗いながら訥々と喋った。
 瑞希に、DNAタイピングやHLA型とやらを再確認した結果ドナーが見つかったこと。近いうちに移植手術をすること。移植された健康なそれが瑞希自身の身体の拒絶反応で負けないように瑞希の細胞を弱らせること。
 母は、前向きに説明したのだろうなと、若は思いながらうなずいた。成功率を告げられなかったことに、もしかしたら母も成功率は知らないのかもしれないが、不安を感じた。
 移植手術――物々しい響きに若は漠然と不安を抱く。けれど、それは上手くいくだろうと、半ば弾むような気持ちで祈った。瑞希が元気になったら、何をしてやろうかと考えるだけで自然と若は機嫌が良くなって、小さかった頃、瑞希が好きだったテーマパークや海に連れて行ってやりたいと思った。きっと、そうなると思った。食事の制限で好きな物も好きなように食べられない瑞希だけれど、きっと手術が上手くいけば今よりは色々な物を食べさせてやれるだろう。復学するだろう彼女に蔵書の多い図書館で勉強を教えてやるのもいい。きっと瑞希は一所懸命に問題を解くだろう。
 手術前はとにかく瑞希自身の細胞を弱らせる必要があるらしかった。手術自体はそう大げさなものではないが、それに耐えられる程度の体力を残して投薬で細胞を弱らせるらしく、その間、家族以外の面会は謝絶された。瑞希の母から若の母に伝わってくる、瑞希の容態を聞くと、投薬の影響でひどい吐き気がするらしく、けれど、瑞希は十二の少女とは思えないほど気丈に頑張っていると聞かされた。
 唐突に、若は、何故あの日跡部が病院にいたのか、その理由に思い至った。

 手術後、一カ月以上してから、若は許可を貰って瑞希を見舞った。クリーンルームは本来家族しか入れないらしいが、許嫁という立場で瑞希の家族と瑞希自身の要望によって入室ができた。
 口伝えに、瑞希の容態聞いたが、手術後の拒絶反応と合併症に苦しんでおり、食事の出来ない状態であるとも聞いていた。
 クリーンルームの入り口にはまるで家屋の玄関についているようなインターフォンがあり、看護師につながる。荷物を指定のロッカーにしまい靴を履き替え、手を消毒し――若には、それらがまるで儀式のように思われた。本当に瑞希に会うのか、会う勇気があるのかを試されているような気さえした。
 若は正直に、瑞希を見舞いたくない気持ちも強かった。瑞希の衰えている姿を見ると、若は辛かったし、だから、見舞う勇気が、なかなか持てなかった。けれど、一カ月も経つ頃には瑞希のことが気になりそわそわと落ち着かない気持ちで瑞希は大丈夫だろうかと気になって仕方なく、だから、連絡を入れて、瑞希の家族に頼み、訪れた。
 感染症の危険がある瑞希に、まだ“子供”に分類される若は会うことすら難しくなったことを痛感した。面会前には連絡を入れ、面会時に必ずマスクを着用し、白衣のような服を着るように指示された。
 面会人の欄に自身の名前を記入して、やっと、瑞希に会う決意を、若はした。

 呼吸を阻むマスクを、若は不愉快に思いながら、瑞希に会う。
 若を見た瑞希は、嬉しそうに微笑み「若さん」と手を伸ばしてくる。ベッド脇の椅子に腰を下ろしてからそれを握り返して「具合は?」と、聞く。
「若さんが来てくれたから、とってもいい気分です」
「そうか」
 チューブの繋がった鼻が恥ずかしいらしく、外そうとする瑞希を、若が制止する。
 瑞希の手を握ったまま、ベッドに手を置くと、清潔な病院のシーツは、どこか固い手触りで、こんなものの上に瑞希が寝ているということが若には少なからず不快になる。
 他愛ない話を若がして、瑞希はうなずいて、笑う。若が聞いた所によると、最近瑞希はあまり笑わなくなったのだそうだった。投薬による副作用と、拒絶反応の酷い出血と、合併症の強い痛みと、食事を摂れないことに瑞希は追い詰められ、笑顔が格段に減ったと。
 それでも、瑞希は若の前ではなるべく陽気に振舞っていた。
「最近は、お薬打ってもらってるから、痛くないんです。元気ー」
 瑞希の体調を心配する若に、彼女は笑って言う。鎮痛剤をコデインからモルヒネに変えた事は母伝いに若も聞いていた。若はそれを聞いてから忍足に医学書を借りてモルヒネとは何かを調べた。
 神経線維を通じて脳にまで達する痛みの信号を止めるオピオイドと呼ばれる薬があり、弱オピオイドと強オピオイドに分類されるが、モルヒネは強オピオイドの代表であることなどを調べ上げた。
 つまり、瑞希はそうまでしなければいけないほどの痛みと闘っているのだと、若は初めて知った。
 それでも、瑞希は若の前ではできるだけ明るく振舞い、いつものように学校の話をねだってくる。習った歴史の話や、学校で流行っているものの話、テニス部のことなど、若は少しでも面白おかしくなるように声に緩急をつけ、間をとり、故意に順序をずらして話した。瑞希は空元気とも思える陽気さで笑う。
 一頻り会話が終わると、瑞希は若の手を握り、呟いた。

「若さんは、どんなお父さんになるのかな」

 その言葉。
 若は、瑞希が、すでにもう自分は若の許嫁ではないと思っていることに気づく。それに気づくまでのあまりの遅さに、若は眩暈がした。若が父親になる頃に、自分はこの世にいないとでも、瑞希は思っているのだろうか。本来ならば、若が父親になるのならば、瑞希は母親になるはずなのに。
 許婚とは、そういうものであるはずなのに。
 若はわけもわからなく泣きそうになりながら「知るか」と小さく切って捨てる。
 もっと早く、会いにくればよかったと若は強く後悔した。握っている瑞希の手を自身の両手で護るように包む。瑞希はその若の手へ視線を向けてから、若を顔を見、視線が合うと眉を少し寄せながら笑った。
 きちんとした手順を踏んでも、家族ではない子供の若が瑞希の病室に足を踏み入れることは簡単には叶わない。その日、病室を出る若に瑞希が声をかけた。
「また来てくださいね」
 そう言わないと“また”が来ないのではないかと言うような、震える瑞希の声に、若は「当たり前だろ」と意地の悪そうに言って、悪戯っぽくマスクの紐を引っ張って見せた。瑞希は笑った。

 翌日、若は部活を終え、制服のネクタイをきっちりとしめてから学校指定のバッグとテニスバッグとを手にすると、病院の面会時間ギリギリには、なんとか間に合うと時計を見て確めた。向かいがてら連絡して、瑞希と面会ができるかどうかを聞けばいい。体調がよければ、きっと会える。昨日の瑞希の震える声を思い出せば、もしかしたら無駄足を踏むかもしれないなどということはどうでも良かった。
 部室の鍵を取り出し、最後の一人であることを確認してから、若が蛍光燈の電源を落とそうとパネルへと手を伸ばすと同時に、部室のドアが開いた。それに驚いて、若は思わず電源を落としてしまう。
 夏虫の羽音が自然と耳を打つ部室の中で、入室した跡部は若にただ一言告げた。

高村瑞希ともう会うな」

 唐突な命令。若はその言葉に酷く不愉快になって、理由を問うより先に「嫌です」とはっきりと拒否した。跡部の溜息に、若は酷く不機嫌になる。きっと、跡部は一ヶ月前に瑞希を見舞った時、その病状を聞いたんだろう。きっと、若よりも詳しく。
 もともと、瑞希の姉の高村優希は跡部の許嫁候補であり、このあたりに古くから根付いている高村家は、それなりに名士だ。だから、跡部も若と瑞希の関係を知っているのだろう。若も瑞希の姉が跡部の許嫁候補の一人であることも、近くの有名な女子中に通っていることも知っていた。
 けれど、こんなふうに跡部が瑞希のことを若に言ってくるのは初めてだった。
「最後、辛いのはお前だろ」
 自分を気遣う言葉に、先ほどの憤慨を拭われて、若は軽く唇を噛む。窓からそそがれる綺麗な羽音が場違いなくらいだった。
 最後、が、瑞希の死を意味していると気づいた時、跡部を殴ってしまいたいほどの兇暴な感情が生まれたが、それでも気づかいの言葉を無下に断れるほど冷淡には育てられていない若は、けれどやはり自分の問題なのだからと首を横に振って返す。
優希の母親も、優希も、お前に悪いって言ってる。それに瑞希はてめぇが来るとテンションが上がって翌日に疲れが出る――日吉もずっとこうしていられないだろ」
 跡部の重ねる言葉に、若は舌打ちを堪えた。それは若も思っていることに似ていたので、即座に反論は出来なかった。おそらく若は、瑞希にばかりかまけていては多分いけないのだろう。若には未来があるし、学校も古武術もテニスもあり、いつかは結婚もしなければならない。それらの、瑞希は枷になるだろう。
 また、いくら瑞希が喜ぶとはいえ、若の来訪は、彼女の身体をかんがみれば迷惑なのかもしれない。それでも。
「それでも俺は、出来るだけ瑞希の傍に居たいんです」 
「んな事はわかってんだよ。だから俺様が言ってるんだ。最後に辛い思いをするのは、てめぇだ」
 心配のされ方が不愉快で、若は小さく舌打った。
「俺は、そのくらいの責任、自分で持ちます」
 それに、と若は思う。
 瑞希の側にいなくとも、彼女に会わなくとも、自分はきっと辛いと、若は思う。同じ辛いなら、瑞希の側で辛いほうがいい。
 若の頑なな言葉に、跡部は「馬鹿が」と呟くと若の頭を軽く殴って「無理すんなよ」と添えて部室を出て行った。
 その瞬間、自分は部活中によほど酷い顔をしていたのだと、若は気づく。

 そうして結局、その日は瑞希が面会できる状態ではなく、面会はかなわなかった。
 面会すらも出来ない状態など、若には予想もつかない。ただ、それを想像するだけで心臓が痛んだ。幼かった瑞希は、転んで膝から血が流れても、真珠のような小さな白い歯を食いしばって、目に水晶のような大粒の涙を溜めて、痛みを耐える子供だった。若はそんな瑞希を口では馬鹿にしながら、大人が治療している間、瑞希の側を離れなかった。治療が終わると、瑞希の手を引いて、一緒に遊んだ。
 今、瑞希はあんな顔をしているのだろうか。そう考えた瞬間、心臓が、実際に、痛くなる。胸が痛くなるなどと言う気持ちや感情の問題ではない。実際に存在する若の臓器が、実際に軋む。脳よりも素直にそれらが反応する。
 若はもう、瑞希の隣にいることすら出来ない。
 それが辛いと同時に、衰えた瑞希を見ずにすむことに安堵した自分に、若は吐き気を覚える。
 母親の作った夕食に、食事すら出来ない瑞希を思うと、食べることに苦痛さえ感じた。けれど、自身の体調の管理も出来なくて何が次期部長だと自分を叱咤して、味も噛み応えもある、母の料理を飲み込んだ。
「若? 気分が悪いなら、無理をして食べなくていいのよ」
 心配そうな母の声に、若は「大丈夫です」と答えて黙々と箸を進める。米粒を噛んで、舌で押し潰し喉を通るその感触をしっかりと確める。そうしなければならないような気がした。どうしてかは、わからないけれど。

 次に瑞希の病室へ足を運べたのは二週間後だった。
 病室のドアを開けた瞬間に、若は瑞希の顔やら指先やらがむくんでいることに気づいた。確実に衰えていく瑞希の姿。室内に入ろうとしたところで、足が動かないことに、若は気づいた。無意識に、ドアを開けたところで足が止まったのだ。
 ――恐怖。
 どうしてかはわからないけれど、今、若は瑞希に近付く事に恐怖に近いものを、はっきりと感じた。弱った彼女を見て辛いと思うことはあっても、瑞希を見て恐怖したことなど初めてで、困惑さえした。この恐怖が、どこから来るものかはわからないけれど、ただ、恐怖を押し殺して病室に怖気づく足を叱咤して若は病室に踏み入る。
 今、若は確実に瑞希に恐怖している。
 その事実が、若の歩む速度をより一層遅らせる。そんな自分が苛立たしく、けれど、怖気づくことを、止められない。
 そんな若を見て、瑞希の瞳が揺れる。射干玉の瞳が白熱灯を反射して光りながら、若の姿を映し、真冬の真夜中に月の光しか映すもののない湖面のように冷やされ、ゆら、と揺れる。瑞希は、ゆっくりと目蓋を閉じてから、またゆっくりと若へ視線を向けた。
瑞希
 呼びかけて、もう一つの瑞希の異変に若はすぐに気づいた。
 瑞希はもう、うまく笑えないようだった。
 投薬の辛さもそうだろうが、食事を摂れないことが彼女にとって本当に酷くつらいことのようだった。潤いの無い唇と口内に、若はそうあたりをつける。点滴のみで、瑞希はもうずっと何も口にしていないと、重湯すらも、今の彼女の身体には負担になると聞いていたが、まるで瑞々しい果物のようだった唇は色を失い、声を出すだけで、瑞希の唇は血を流してしまいそうにさえ見えた。
 こんなことを思ってもどうしようもないと感じながら、瑞希が痛々しくて可哀想で、若は何もできない自分がもどかしい。そして、やはり衰えてゆく瑞希に、腹を開かれて他人に直接心臓を撫でられているような、今にもその手に心臓を潰されそうな恐怖を感じる。
瑞希
 もう一度、呼びかけてやると、瑞希は笑顔を作ろうとしたが、それは酷くぎこちないものにしかならない。その笑顔に、打ちひしがれたような気持ちになりながら、その感情がどこから来るのか若にはわからない。瑞希がかわいそうだからなのか、それとも、他に何か、今の若には理解できない何かがあるのだろうか。若は後者のような気がした。
 ベッドの横の椅子に腰掛け、若は瑞希の手を、握る。表面がかさりとしている。これに似た手触りを、若は知っている。それは秋の落ち葉で、瑞希と二人で、山のように集めて、それを撒き散らして遊んだことを思い出す。
 落ち葉まみれになった瑞希がはしゃいで笑う声も、ついさっきの事のように思い出せた。
「そうやって瑞希が笑ってる顔が一番好きだ」
 急に、若の口は、勝手にそんな言葉を紡いだ。瑞希は表情こそ変わらなかったが、おそらく若の言葉に驚いたのだろう。視線をわずかに若から外した瑞希は、それから、彼女の浮かべえる最高の笑顔を作った。
 その悲しい笑顔に、瑞希をどうにかして白い病室から、出してやりたいと、若は思う。そして、自分にできることは何もないのだとも、思う。
「若さん。わたし、がんばる……がんばる、から……」
 瑞希は、笑顔を崩すと、小さな子供のように泣いた。
 こんなにも頑張っている瑞希が、これ以上なにを頑張ろうというのか。それでも、頑張るなと言えるはずもなく「応援してる」と小さく返すことしかできなかった。
 若は生まれてきて初めて感じる、恐ろしい無力感に歯を食いしばる。
 ベッドから起き上がることも、満足にできない瑞希に、身体を寄せて、若は抱き寄せるようにする。瑞希からは消毒液と薬品と病の匂いがした。昔のような太陽のにおいも汗のにおいも、今の瑞希からはしない。瑞希の身体は細くて細くて、幼い頃の彼女の、健康な細胞の張り詰めた感じは一切なかった。そのままボロボロとグズグズと崩れてしまいそうな、脆さと柔らかさ。若はたまらずに瑞希の名前を呼んだ。
「……が、がんばる〜……わ、わたし、がんばる……っ がんばる……がんばって、げんきになる……がんばるー……がんばる……っ いたいの、もぉやだっから……ごはんたべたいからっがんばる……がんばる……若さんとっ……あそびたいからっ、がっこう……かよいたいからっ、がんばるっ……いっぱい……いっぱいっ、がんばる……がんばるー……がんばる〜っ」
 しゃくりあげながら瑞希は若のシャツを握って、何度も何度も何度も何度も“頑張る”と繰り返した。呪文のように。
 瑞希の頬に、それだけは昔と変わらない水晶のような、けれどずっと悲しい粒が落ちる。
 若には、瑞希が壊れないように抱きしめることしかできない。孤独にも似た絶望にも似た無力感。ああ、自分は何も出来ないのだと、若は知る。
 瑞希の頑張るという言葉が、死にたくないと言うようにも聞こえて、若は、余計に何も言えなくなった。きっと痛みに耐えるとき、悲しみに耐えるとき、瑞希は自分に頑張れと言い聞かせて言い聞かせて耐えているんだろう。
 若の前ではいつも笑顔を見せていた。けれど、本来ならこんな苦痛の中で――外出も出来ず食事もできず会える人間すら限られて、笑えるはずがないのだ。幼い身体で、どれだけ泣いていたのだろう。どれだけの苦痛に耐えているのだろう。若には想像すらつかない。
 それでも、生きるためには頑張らなくてはいけないと、瑞希はこうやって、泣きながら自分を励まし、泣きながら苦痛に耐え、今まで若に笑顔を見せていたのだろう。
 どうして、と思う。
 どうして、こんなに幼い瑞希が、どうして、こんなにも頑張らなければならないのだろう。どうして、幸せになれないのだろう。どうしてこんなに、痛くて怖くて辛くて悲しい境遇に落とされるのだろう。
 こんなに幼いのに。こんなに細いのに。あんなに元気だったのに。
瑞希
 若は瑞希を呼ぶ。何を言えばいいのかわからない自分に嫌気が差す。それでも若には名前を呼ぶことしか出来ない。十三歳の若には、一つ年下の許嫁が頑張るといいながら泣きじゃくっているのに、なんと言えば良いか解らない。だから瑞希の嗚咽が止まるまで、若は瑞希の名前を呼んで、泣きそうになるのを必死で堪え、薄いその背を撫で続けた。
 そうして、落ち着いた瑞希は、弱々しい仕草で若からゆっくり離れた。途中で痙攣するようにひくりと喉が鳴って、若は俯いている瑞希の頭を優しく撫でる。
瑞希
 若が呼ぶと、瑞希は、ベッドに沈み込むようにしながら満足に動かない筋肉でぎこちなくこわばった笑顔を作った。
「若さん、私、治ったら、海に行きたいです」
 その言葉に、若は「ああ」と答えて、笑顔を返す。瑞希は、疲労から、ほとんど無表情になってしまったけれど、声だけは弾んだ様子で、喋る。それが若にはとても辛い。けれど、若も出来るだけ明るい声で返す。握った瑞希の手は細く、白熱灯の光を浴びて目に痛いくらいに白い。その冷たい手を温めるように、若は両手で包む。こんなに細い手で、けれど瑞希はこんなにも強い。若の為に、ぎこちなく笑顔を浮かべるほどに。
「連れてってやる。好きなところに」
「一緒にお泊りに行った海に行きたいです」
「今度は浮き輪を忘れないようにしないとな」
「浮き輪よりも、泳ぎ方、教えてください」
「俺は厳しいから、覚悟しろよ」
 そんな、他愛無い会話で、若は笑う。瑞希も明るい、どこかおどけたような声を出す。わざとらしいほどの明るさは、それでも、今を少しでも楽しみたいという気持ちが、そうさせているのだと、若は思う。
 泣いても、笑っても、同じ時間が過ぎるのならば、笑顔を選ぶ。幼い瑞希の、それが精一杯で、やはり幼い若の、これが精一杯だった。出来ることなんて何もない二人の、悪あがきでしかない時間は、それでもとても短く感じるほどに、楽しかった。
 面会時間を少し過ぎて、看護師に声をかけられた若は「また」と告げて立ち上がる。その背中に、瑞希が「若さん」と声をかける。振り向いた若と、瑞希の視線が絡んだ瞬間、瑞希は目蓋を下ろした。それからゆっくりと
 愛しています、と、言った。

 若の心臓が、跳ねた。
 初めて告げられたそれに、驚くほど動揺する自分に、若は混乱した。それでも表面上は冷静に「そういうの、恥ずかしいからやめろよ」と言った。瑞希はその返答に、ぎこちなく笑って「また来てくださいね」と言い、若は頷いた。

 病室を後にした瞬間から、若は心臓の動悸を宥めながら自分は瑞希を愛しているのだろうかと、考えた。瑞希は自分を愛していると言った。では、自分はどうだろうか。自分が瑞希に抱く感情は友情なのだろうか。それとも、愛情なのだろうか。恋愛感情なのだろうか。自分の中のこの感情を恐る恐る分析しながら、それでも、嘘でもいいから、愛してると返してやればよかったと、今更の後悔が、胸中を満たした。せめて、好きだと応えてやれればよかった。
 そう思った瞬間、若は、自分が瑞希を好いているのだと知った。瑞希を好きでいることが当たり前で、意識したことも、若はなかった。愛しているかはわからないけれど、瑞希が好きだと、瑞希をかけがえもなく大切に思っていると、応えてやればよかった。
 今度会ったら、必ず、言おう。
 そう、決意して、背後にある病棟の瑞希のいる病室を見上げた。

 翌日は、面会を申し込むべきか、それとも跡部の言ったとおりに見舞いの所為で瑞希が疲労しているのならば、少し間を開けて行かない方がいいのか、教師の英文の説明を聞きながらぼんやりと若は考えていた。
 授業が始まって十分も経った頃、教室のドアの開く音がした。誰か遅刻でもしたかと思いながらも若が黒板の内容を黙々とノートへ書き写していると「日吉」と教師に名を呼ばれた。若が顔を上げると、ドアの一歩手前で学年主任が手招きをしている。いぶかしく思いながら職員室へ連れられると、若宛に電話がきていた。
 話を聞いた若は、早退の手続きをしてから部活を休むと顧問に電話をし、クラスメイトで部活仲間の鳳にもそう伝えた。
 不思議と心は平静だった。来るべきがきたときのためにと覚悟していたのかもしれないが、まだ実感がわいていないのが本当なのかもしれない。
 そう、若の頭はいまだに事態をきちんと飲み込んでいない。それなのに、心臓が、足が、腕が、早くしろと思考の遅い脳を馬鹿にしたように動いた。
 帰宅はせずに学校から直接瑞希の家へと足を運ぶと、涙を浮かべた瑞希の母が良く来てくれたと若を出迎えた。若は無作法な来訪を謝罪し、瑞希の母に勧められるままに襖を引き仏間へと足を踏み入れた。

 白い、顔だった。

 若は一瞬唇を噛んだ。けれど、布団の中で眠る瑞希のそばへと腰を下ろし、この一瞬で湧き上がってきた、何の感情なのかもわからないほど凶暴に、啼泣を促す何かを必死で堪え「お疲れ様、頑張ったな」と五年以上にも及ぶ彼女の頑張りをねぎらった。

「ありがとう」

 まるで耳元で囁かれたかのような瑞希の幻聴に、一瞬背後を振り返りそうになり、けれど強くこぶしを握ってそれを耐えた若は苦笑を浮かべる。
「すみません、触っても……」
 若が問いをすべて発する前に、瑞希の母はハンカチで目元を押さえてそれに答えた。
「ええ、どうぞ。いっぱい撫でてあげてください。――瑞希、ほら、若君が来てくれたのよ。良かったねぇ。いつも若君が来るの、楽しみにしていたのよね」
 その涙声を聞きながら、秀でた白い額に手を触れようとし、反射的に触れることを拒否した指が、浮く。けれど自然に止めてしまった息を、呼吸を再び行うと、ゆっくりとその皮膚を撫でる。
 凍りそうな程、冷たい。

 それから慌しく、通夜と葬儀が行われた。納骨は親類だけだったけれど、納骨後に瑞希の母に呼ばれ、若が瑞希の家へ行くと、彼女の部屋に案内される。まだ整理も何もしていないから欲しいものがあったら持っていってくれと伝えられ、彼は一人残された部屋の中で立ち尽くした。
(欲しいもの……?)
 瑞希の部屋は殺風景とは言わないまでも、どこか寂しげな様子だった。長い間使われなかった勉強机に手のひらを置く。その上の色あせた算数の教科書を手にしてパラパラと捲ると、教師の言った言葉をメモしたらしき端書が若の目に入った。この机の上の教科書は、算数から数学になることはなく五年間この場所で主がそのページをめくる日を待っていたのだろう。
瑞希がいないのに……欲しいもの?)
 引出しを開けてみると、最後の夏に二人で山のように取り集めたセミの抜け殻が透明なプラスチックケースに窮屈そうに詰め込まれていた。若の母だったか、瑞希の母だったかがこれを見て虫がみっちりと入っている様子に悲鳴をあげていたことを思い出して少し笑った。
 部屋の時間は、瑞希が小学ニ年生だった頃の、最後の夏休みで止まっている。
 途中で止めてしまった交換日記を見つけて懐かしく思い、ページを捲ると開始日は六年前の日付だった。若はゆっくりと読み進めていく。所々、一日単位ではなく最長で三ヵ月後に次の日記が書いてあった。まるで事務連絡のような自分の日記と、献立のメニューだけ書き連ねたような瑞希の日記。

 6月10日(土よう日)
 今日はうんどう会でした
 若さんがかけっこで1位になっていてかっこよかったです
 わたしはおべんとうがおいしいと思いました
 やっぱりわたしはおにぎりがしゃけだといいと思います
 おかあさんがつなひきがんばってました
 5年生と6年生のくみたいそうがかっこよかったです
 ゆうごはんのおうどんがおいしかったです
 おやつはいちごのババロアをたべました

 六月十二日(月曜日)
 この間の算数のテストが百点でした。
 かした本のつづき、いつわたせばいいですか。

 自分の日記の短さに、二人の日記の内容のかみ合わなさに、若は思わず苦笑してしまう。
 交換日記自体は市販のダイアリー用のノートだったが、二人が日付けの印刷を無視して行間を詰めて書いている所為か最後の日記がかかれている日付は五年前の夏休みだった。

 8月25日(きんよう日)
 きのうよりもおおきなびょういんに行かなくちゃいけなくなりました。
 なんだかちょっとこわいです。
 はやく元気になって若さんとあそびたいな。

 この後、瑞希が部屋から出ることは極端に少なくなり、若はいつも瑞希の部屋や病室を訪れた。
 この部屋には、瑞希の痕跡が山のようにあって、けれど全てのそれは五年前の八月二十五日で止まっている。引出しを一つ開けるたび壁に飾ってある賞状を見るたび、本棚を眺めるたび、七歳の瑞希の痕跡があちこちに在った。
 そうして気付く。
 幼い瑞希の痕跡は、大抵は若のものでもあるということに。
 半分ずつ塗って、二人で途中で飽きてしまった塗り絵の本。川で遊んだときに一緒に拾った石。初めて作った押し花。壊されないまま残ったブロックの城。キャンプで見つけた蛇の抜け殻。夏祭りで買ってやったおもちゃの指輪。誕生日に贈ったテディベア。勉強を教えてやっていた若の筆跡の残った算数のノート。瑞希も若もふてくされているような顔で写っている七五三の写真。自分の名前の漢字よりも先に“日吉若”と書けるようになった瑞希が、自慢げに見せてきた落書帳。
 どれもすべて七歳までの瑞希と八歳までの若の痕跡だ。

 若が思い出すのは、まるでチョコレートクッキーのようにこうばしく真っ黒に日焼けをし、自分と一緒に転げまわりながら声を上げて笑う瑞希の姿。
 瑞希はその年六歳になるというのに、七歳の祝いは女子のものだというのに、若と瑞希の年の差が二歳はなれるタイミングを見計らって、異様に寒い時期に親たちが無理矢理に敢行した七五三で、窮屈で苦しい正装姿に不機嫌になる五歳の瑞希
 若のことを、若さん、と呼ぶよう親に言われた瑞希が、じゃあ私のことは瑞希さんって呼んでと言い、若がその通りに呼ぶと、とても照れた小学生の瑞希
 布団の中で、白い手で絵本のページをめくる瑞希が言った「お外で遊びたいなぁ」という寂しそうな言葉。

 唐突に、悔しくなって若は探し始める。
(どこかには、あるはずだ――)
 十二の瑞希の残したものが。
 これではまるで瑞希は七歳までしか生きていなかったようだ。七歳までの思い出なら、若の家にもたくさんある。確かに七歳から十二歳までの瑞希には良い事が無かったのかもしれない。いや、なかったのだろう。それでも
(こんなの、悔しいだろうが……!)
 それでも彼女は十二まで生きていた。
 痛みに耐えて泣きながら“頑張る”と言った瑞希の、何も、痕跡が無いなんて、そんな事があるわけが無い。あってほしくない。衰えた自分を嫌って瑞希は写真を撮らせなかったけれど、それでも、きっとこの部屋には何かあるはずだと必死に探す。
 彼女は、瑞希は、泣きながら、それでも頑張ると、痛みに耐えて、それでも笑って、生きていた。

 若を愛していると言った。それは七歳の瑞希ではない。十二歳の瑞希の言葉。

 落書き帳にクレヨンでかかれた瑞希の絵、入園式・卒園式・入学式の少し済ました瑞希の写真、壊れた仕掛けのトリック付きの絵本、夜店で掬ったスーパーボール、一緒に雪山へ行った時に買ったふわふわしたキツネのキーホルダー、つたない文字と絵で埋まった夏休みの日記。
 探せる場所を探しても探しても、まるで七歳の子供の部屋でしかなく、十二歳の瑞希がいたことなど少しも窺えない。彼女があんなにがんばっていたことが、瑞希があれだけ生き抜こうとしていた事実が、どこにも微かにも痕を残していない。
 愕然とした瞬間、抑えていた涙が零れそうになって、若は唇を噛んで堪えた。
「畜生……」
 悔しい。悔しい。彼女が十二まで生きていた事を証明してくれるものが何も無い事が、若は悔しい。何も残そうとしなかった自分が悔しい。何も残してくれなかった瑞希が。
 すまない、と自分の口から謝罪の言葉が出た瞬間、何も出来なかった自分が悔しくて、生きている瑞希に最後に会ったとき、その衰えに、歩みが一瞬止まったことを、若は思い出す。若は、生と死の狭間で、その死線を乗り越えてしまいそうになっていた瑞希に、その背後にある死に恐怖した。そんな若を見て、光を湛えて揺れた瑞希の瞳。

 絶望と罪悪感が、一瞬にして血液と摩り替わる。
 
 跡部の言っていた意味が理解できた。
 瑞希の側にいなければ、死に怯えて彼女に恐怖して、そしてそれを瑞希に悟られ、絶望させ、そのことを自覚してしまった今のような罪悪感に包まれる事はなかっただろう。
 謝りたいけれど、もう瑞希はいないと、やっとやっと理解して、泣きそうになった。
 まだ、若には、愛などという気持ちはわからなかったけれど、あの時、瑞希に自分も愛していると答えてやればよかった。簡単なことだったのに。なぜそれすら言えなかったのか。叫びたいほどの後悔が、体中を駆け巡る。
 知っていたけれど、理解していなかった。

 瑞希がいなくなるかもしれない、ということを。

 いつか、治ると、思っていた。移植が上手くいかずに面会すらできなかった時も、ぎこちなくても笑顔を見せてくれたから――だから、あの時、瑞希の纏う死の匂いに怯えた。怖かった。
 死が怖かった。瑞希の死が怖かった。
 瑞希がいなくなってから、そんなことに気づいてももう遅いけれど。こぼれそうになった涙を、歯を食いしばり上を向いて目を閉じないことで若はこらえる。泣く資格など、ないと思った。なぜ、自分はもっと、彼女に優しくしてやれなかったのだろう。死への恐怖など、瑞希の笑顔に比べて、何の意味もなかったのに。何故もっと励ましてやらなかったのだろう。いいかげんなことを言いたくないとか、軽率なことを言いたくないとか、そんなことを思う前に、もっと励まして、もっと褒めて、もっと喜んで、もっと嬉しがってやればよかった。それが、作り物でも。嘘でも。言葉にすれば、何かが変わったかもしれないのに。
 啼泣を堪えて、一番身近にあった、大型テーマパークの有名なキャラクターの描いてある薄いアルバムを手にとり、それを貰って、足を引き摺るようにして、帰った。
 力なく、玄関の引き戸を引くと、母がいつもの調子で「下駄箱の上に、若宛の手紙がありますよ」と台所から声をかけてきた。もちろん、若と一緒に葬儀に参加した母は、けれど、不自然なほどいつも通りの態度だった。それから「今日は若の好きな焼き魚だから、ちゃんと食べてね」と付け足された。
 母は母なりに許婚を喪った若干十三歳の息子に、どう対峙しようか考えあぐねているのだろう。それでも、若はそれをありがたいとは思わなかった。ただ、むやみに慰めたり、声をかけて構おうとしないでいてくれることはありがたかった。
 鞄と郵便物とを一緒に床に放り、壁に体を凭れかける。

 不思議なほど、体に力が入らない。

 どれだけ、そうしていたのか。自分が呼吸しているのか、思考しているのか、眠っているのかさえあやふやになり、どうして口内がこんなにも渇いているのか、そう思い、畳に手をつくと、地面に落ちた時のような衝撃が、身体を走った。
 頭で、脳で考える前に、身体が反応する。脳からの命令を実行したがらない。絶望の沼に沈むように、毒に全身を浸したように身体が瑞希がいないこの世界を拒んでいるように、動くことを拒否する。
 なんでこんなに身体に力が入らないのだろうか、と若は不思議に思う。瑞希の白い顔に触れた時さえ、ここまでではなかった。ああ、そういえば、彼女は骨になってしまったのだったか。あの冷たい皮膚すらすでにこの世には存在しない。
 ああ、もう「瑞希はいない」。
 口に出したそれに、自分の中にこんな衝動があったのかと思うほどの感情が身体の中でとぐろをまいて外に出せと身体の内側を激しく叩く。
 感情の元がわからないまま、混乱しながら耐えなければと思う。わからないけれど、この感情はよくないものだ。これほど強い感情は、きっと良くない。だから、わからないけれど、これは隠さなければいけない。これは耐えなければいけない。きっと瑞希はこれ以上のものに耐えていたはずだ。耐えろ。わからないけれど、こんな感情はきっとよくないから。
 叫びたい。どうして。わからない。けれど。こうやって。辛い。辛い。辛い。どうして。どうしてこんなに辛い。悲しみはどこだろう。この凶暴にとぐろを巻く感情はなんだろう。わからない。わからない。瑞希は、死の恐怖や絶望をどうやって耐えていたのだろうか。若には、少なくとも今の若には、ただ目を強くつむって両手を握りしめて、歯を食いしばることしか出来ない。瑞希がいなくなったのに、どうして、こんな凶暴な感情しか生まれないのだろう。
 悲哀、憐憫、嫉妬、憎悪、恋情、愛情、辛酸、絶望、恐怖――絶望……絶望?

 絶望とは、こんなに乱暴で凶暴で醜悪な感情なのか?

 違う。こんなことは考えたくない。冷静でいたい。辛みなど、きちんと受け止めたい。絶望など、きちんと処理したい。こんな自分は嫌だ。瑞希のいない現実など嫌だ。考えたくない。少なくとも今は。何も見たくない何も聞きたくない何も考えたくない、何も――「もう、嫌だ」――ヒリヒリとする声で呟いた瞬間、嫌だと喚きたくなって、けれど、我慢して我慢して堪えて堪えて耐えて耐えて。
瑞希――」
 呟く。
瑞希
 とても大事だった、大切だった、もう呼びかけることのできない名前。
瑞希……っ」
 ああ、ああ、こんなにも自分は瑞希が好きだったのか。これが愛かはわからない。けれど、若はとてもとても瑞希が好きだったのだと、自覚する。とても遅く、自覚した。名前を口にするだけで、こんなにも切ない。亡くしてからしか、気付けない自分の愚かさがひどく悔しく、まるで嗚咽のような溜息が、零れる。

 身体の痛みに、ゆっくりと目蓋を押し上げ、顔を上げると、暗い空が、見えた。寝てしまっていたことに気づき今は何時だろうかと時計を探すが、室内が暗すぎてよく見えなかった。
 のろのろと立ち上がり、カーテンを閉めると室内の電気をつけた。あまりの眩しさに、目だけではなく頭の奥、頭蓋骨の裏の方まで痛みが走る。反射的に目を細め、光源から顔を逸らす。若の眠っていた辺りに、ラップのかかった夕食が置いてあり、ああ、もうそんな時間なのかと気づく。よく見れば毛布も床に落ちていて、家族が眠っている若に気を使ってくれたことがわかる。
 はっきり言ってまったく食欲はなかったけれど、一ヶ月以上食事すらできなかった瑞希のことを思い出して、食器の乗ったその盆を持ち上げ、台所のレンジで温め、誰もいない居間で黙々と食べた。一瞬、吐き気を感じたが、堪える。瑞希が居ようがいまいが、若は食事をとり、学校へ行き、勉強をして、テニスをして、古武術を習い、時折友人と遊ぶ。瑞希がいなくても、世界は不変だ。それをひどく悲しく感じて、けれど、瑞希はどんなに願っても食べられなかったのだから食事を残すことは絶対にできないと強迫観念のようなもので持って完食した。
 眠る支度を整え、自室へ戻ると、床に放られている鞄と郵便物を机に置く。機械のように翌日の時間割を整え、可愛らしい犬の描かれている封筒を指で破りあける。二年になってから、準レギュラーになってから、たまに手紙が届き、大抵、名も知らない女子からだった。道場の住所は調べれば簡単にわかるので、若の携帯電話の連絡アドレスなどよりはよほど入手しやすいのだろう。
 けれど、最初の一行で、目を瞠った。慌てて、送られてきた封筒の裏を見る。住所はなく、名前だけが書かれていた。
 弱々しい筆跡で――高村瑞希、と。

 若さんへ

 この手紙は仲良しの看護師さんにお願いして送ってもらいました。
 若さんがこれを読んでいるということは私はいないんですね。
 書きたいこと、いっぱいありますけど、最近すぐ疲れちゃうので
 一番言いたいことだけ書きますね。

 若さん、私、全部許します。

 きっと、若さんはやさしいから
 私のことでああすればよかったとか、こうすればよかった
 って思ってるかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはありません。
 私がいなくなる前日に、もし私と若さんがケンカしてても
 若さんが私にとても酷いこと言ってたとしても
 私は若さんの全部を許しています。
 若さんの行動にひとつも間違いはありません。
 だから、若さんはなにも悩むことはありません。
 若さんはなにも後悔することはありません。

 若さん、どうかどうか、幸せに生きてください。
 素敵な人を作って素敵なお父さんになってください。
 許婚になってくれてありがとう。
 若さんに会えたこと、幸せでした。

 高村瑞希 ’XX.5.10

 手紙の日付は、若が中学に上がった頃で、二回目の許婚の解消の話が持ち上がった時の時期だった。きっと、病室の瑞希の耳にも、それは届いていたのだろう。
 十一歳の頃から、二年間、瑞希は自分が死ぬかもしれない未来を受け入れて若の全てを許すと誓いながら、それでも自分の死の恐怖すら耐えて笑顔を見せて生きていたのか、と若は愕然とする。
 あの時、瑞希は、若の足が止まったとき、瑞希は、とても傷ついた瞳をしていたのに、それさえも、許すと誓って、だから、この手紙は瑞希の死後に投函されて、若の元へ届いた。
 若に感謝し、若の幸せを願い、若の悩みを解消するためだけに。
 若の性格を熟知した“許す”という、言葉の選び方に、切なさが募る。十一歳の時から、瑞希は自分の死を覚悟していたのか。外で遊ぶことが好きだった瑞希が、病室で、ずっと本だけを読んで、自分の死を意識しながら、それでも辛い闘病生活の中で弱音を吐かずにいた。治療を放棄し鎮痛剤のみの緩やかな死ではなく、辛い闘病を自ら選んでいたと聞いていた。
 きっと、生の希望を失わないように、あの日のように自分に「頑張る」と言い聞かせて泣きながら自らを励ましていたのだろう――幼い子供が、どれだけ辛いことだったろう。あの時の瑞希の、流れる事すら間に合わず透明な宝石のように転がっていった涙の雫を思い出す。
 泣くまいと決めていたのに、目頭が熱くなる。寄りかかった砂壁が、シャツ越しに体温を奪い、若は顔を上げて砂壁に頭を押し付ける。胡座を組んだ足の上で組み合わせた手は痛みを感じるほど強く強く握り合わせる。無意識に、若は瑞希の名を呟いた。
 泣く権利がないと思っていたけれど、今は違う。
 泣いてしまえば、瑞希との出会いを悲しんでいるようで、瑞希は、きっと、若に悩み悲しまれる事を嫌がっていただろうと思うと、前よりもずっと強く泣きたくないと思った。嗚咽がでそうで、必死に唇を噛んで声を耐える。涙が零れないように天井を睨む。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。泣きたくない。瑞希、俺は泣きたくない。瑞希と出会えたことは幸せなことだったんだから。瑞希と遊べたのは嬉しいことだったんだから。俺は泣きたくないんだ、瑞希

 ***

 跡部の言葉が聞こえなかったように若は、ラケットを握りなおして歩き出した。そうして鳳に声をかけて試合形式のラリーを始めた若は氷帝のハードコートはスピードが出るとは言え、普段以上の速度でもって鳳を追い詰めた。
 勝利した若は、けれど、少しも晴れた顔をしない。
 普段ならば意地悪気に笑って鳳に厭味の一つや二つも言うけれど、それもなく、すぐさま壁打ちを始める。まるで卓球でもやっているかのような激しく速すぎる打ち方に、向日が眉を寄せた。肩、肘、特に手首に負担のかかる連打に忍足は汗を拭くと若に声をかけようとして、しかし、跡部が「おい、いい加減にしろ」と若に向ってテニスボールを軽く投げた。若は恐ろしいほどの研ぎ澄まされた反射神経で、それをラケットで打ち、跳ね返ってきた壁打ちをしていたボールを打ち返し、二つのボールでの壁打ちが始まった。恐ろしいほどの集中力は、けれど、集中していなければ、呼吸さえできないような、張り詰めた空気が若にまとわりついていて、悲壮な感じすらした。
 平部員は、パフォーマンスとも思えるそれに感嘆の声を上げたけれど、跡部は大きく舌打ちをした。
「日吉! 俺が相手してやる!」
 あからさまに苛立たしげな跡部の声に、部員たちが驚き彼を見る。
 若は跡部の声に、帰ってきたボールを、ラケットを上から下へ切るように動かし、ラケットを肩の高さにあげた時にはラケットのストリングスの上に黄色いボールが二つのっていた。
 若はラケット上のボールのひとつを鳳に向って放ると、もうひとつのボールを手にコートに入り、跡部もそれを追った。
 部長と次期部長候補の練習試合に平部員達がざわめきながら彼らの動向を見守る。跡部が宍戸に審判を命じる。始まった試合は、若干跡部に傾いていたが、過去、これ以上ないほど若は跡部に喰らいついていた。
 信者と称される跡部を尊敬している部員たちも、まさか若がここまで跡部を追い詰めるなどとは思わなかっただろう。しかし、レギュラー陣は無理のある若のテニスに目を顰める。これが芥川であればそうも思わなかったが、やはり手首への負荷が、明らかに見て取れる。
 少なくとも少し前の若は、こんな身体に負荷をかけるプレイはしなかった。
 跡部のスマッシュを、足を踏みしめて乱暴に若は返した。部員達はやはり感嘆の声を上げるが、跡部はただ眉をひそめただけだった。
 辛くも若が返したスマッシュは、再び跡部の絶好のチャンスボールとなった。しかし、二度目のスマッシュさえ、若は返した。それと同時に球威に弾かれたラケットが右手から飛んだが、それを予測していた若は左手で右手から逃れたラケットを身体を捻って左手でキャッチしてから右手に持ち替え、跡部のショットを返す。
 その頃、やっと平部員も、若の様子がおかしいことに気づいた。今の動きでは膝と腹部に痛みを感じてもおかしくない。体の動かし方が粗雑で乱暴になっていた。
 跡部は、若がそんな無理な打ち方をしないように苦心してボールを返す。けれど、力を抜けばがむしゃらに動く若には足りない。ラリーが一時間も、二時間も続き、跡部の変わりに宍戸と忍足が部員たちに指示を出す。部活の時間が終わっても、二人はずっとずっと打ち合っていた。とうとう、胸の痛くなった若が倒れるように膝をつくまで。
 跡部は樺地からタオルを受け取ると、呼吸の整わない若に「落ち着いたかよ」と声をかけた。若はその言葉に顔を上げて、跡部を睨む。酷い拷問を受けているような、そんな若の顔に、跡部は舌打ちする。
 しばらく跡部は黙ったまま、うつむいた若を見下ろしていたが、小さく舌打ちをもう一度してから、決まりが悪そうにぼそりと言った。
瑞希は……日吉に会うためだけに生まれてきたんだって言ってた」
 その言葉に、若は何か言い返してやりたかったけれど、口を開くと嗚咽がでそうで、歯を食いしばってコートを睨む。そんなこと、今更言われても、若にはどうすることもできない。痛みが鞭のようにしなって胸を締め付ける。滴った汗が、まるで涙の代わりのようにコートに濃い染みを作る。
 若はお前に何がわかるのだと叫んでしまいたい衝動に駆られた。わかったような口も利いてほしくなければ、わかってほしくもない。近付いてほしくもない放っておいてほしい。それなのに――
「日吉……」
 ひどく気遣わしげな声をかけられるから、だから泣きそうになって、反論も、若はできなかった。
 家族も、跡部も若を心配していることが、若には痛いほどにわかって、弱い自分が悔しい。

 瑞希

 俺はまだ、気持ちの整理ができていない。
 けれど、この手紙を書くことで、少し受け止められるようになると思う。
 瑞希の家族や、俺の家族や、部活の先輩にまで心配されてしまったし
 もう少ししっかりしないといけないと思っている。

 何を書くか決めないで、手紙なんて書くものじゃないな。
 支離滅裂になりそうだ。
 だから、俺も一番言いたいことだけ書くことにする。

 瑞希、多分、俺も瑞希を愛していたと思う。

 日吉若 ’XX年七月七日

 若は、庭に飾られた笹から少しはなれた場所に、灰皿を置いた。
 笹の葉の擦れる音が爽やかで、湿気の強い日本の夏を少しでも風流に過ごしやすくしようとした先達に感謝して、若は空へと視線を向ける。夏場とは言え、夜も八時を回れば、しかも晴天となれば、田舎ほどではないにしろ夏の星座が煌いて、まるで宝石のように空を彩る。――瑞希と、冬に家族ぐるみで山奥のコテージに泊まったとき、二人で寒さに頬を赤くしながら、大地に寝そべって星を眺めたことを、若は思い出す。
 あの時とは少し違う夏の星空をしばらく見上げてから、若は地に置いた灰皿の上に中身の入った茶封筒を置いた。宛名には高村瑞希、と。
 ライターで蝋燭に火をともし、蝋燭の火で線香に火をつけると、若はその煙が天へと昇ってゆく様子を数秒眺めてから、煙をくゆらす線香の先端を灰皿の上の茶封筒にそっと触れさせた。その部分からじわじわと紙の焦げる匂いとともに薄く煙が立ち昇り、封筒が黒く染まっていく。しばらく後には、封筒は炎を上げて燃え始めた。
 この手紙が、空の向こうの、天の川さえ流れて、瑞希に届けばいいと、若は思う。晴天なのだ。織姫と彦星が会えるのなら、死者と生者の境界線くらい曖昧になってもいい。
 いまだに若はコンビニエンスストアで瑞希の好きだったアイスクリームのパッケージを見るだけで心臓が、実際に現実に痛くなる。瑞希を見舞った時の自分の言動に酷く後悔することもある。けれど――思い出の中の瑞希の笑顔に、若は励まされる思いで、生きることをぞんざいにしたくないと思う。瑞希にできなかった分も他人に優しくして、瑞希ができなかった分も後悔しない生き方をしたいと思う。
 瑞希が少しずつ、若にとって過去になっていくことはとても辛い。いつか、こんなにも瑞希が好きなことも、風化してしまうかもしれないことを思うだけで、ひどく恐ろしく辛く悲しく悔しく、背筋があわ立つ。けれど、それでも、もし、人生をやり直せるとしたら、瑞希と出会わずに、こんなにも辛く悲しい思いをしないですむ人生よりも、どんなに辛くとも瑞希と出会えた今を選ぶ。

 屋内から母に夕食を告げられ、灰皿やライターなどを手にすると、屋内に戻る前に、若は空を見上げた。色取り取りの星が、美しく若を見下ろしている。
 自己満足の行動だけれど、本当に、届けばいい。そう思う。こんなにも若が瑞希を好きなことが、届けばいい。

 家の中へ消えた若を見送るように湿気を含んだ風が、地面をやさしく撫で、天の川が白く輝き、大ぶりの見事な笹が、七夕飾りとともにさらさらと揺れた。
 瑞希と若がまるで焼き菓子のように日焼けして遊びまわった頃と、変わらない空が、淡く霞む儚い煙を見下ろしている。