君が笑う空の下

 時刻は夕刻。
 残念ながら今日は曇りで、焼ける筈の赤くなる予定だった空は、温い風と共に、ただ刻々と暗さを増して行く。
 夜に侵食されるような、夜に戻るような、不思議な感覚。
 風に揺さぶられた木々がざわざわと葉擦れの音をさせ、湿った空気がアスファルトをねちゃりとした感触に変える。
 青臭い香りは夏へ移行する証のような気がしているので嫌いじゃない。
 湿度が高いのはイヤだけれど、そのおかげで紫外線も防げる事だし。
 
 私は小さく溜息を吐く。
 
 おばあちゃんに言われたっけ。
「溜息をしてると幸せが逃げるよ」
 って。
 
 きっと、切原は今もテニス部の練習なんだろう。
 あんなに打ち込めるものがあることが、ちょっと……いや、かなり羨ましい。
 特にテニスにも切原にも興味は無かったけれど、私の持っていないものを彼は持っていて。
 
 とても眩しく映る。
 
 目が開けれてられないくらいに。
 
 
「いいなあ……」
 
 
 私は、何が好きなんだろう。
 何がしたいんだろう。
 両親に言われるままに立海大に入学して。
 特にやりたい事も無く。
 
 祖父母や両親が喉から手を伸ばして欲しがるほどの若い時間を、ただ無駄に諾々と過ごして。
 
 勿体無いと思いながらも、何をしていいのか、わからない。
 わかれない。
 
 だから、切原がクラスで『赤也のヤツ、去年全国ベスト4でエースだったヤツに勝ったんだってさ!』なんて、噂されていると羨ましくて仕方が無い。
 
 でも、テニスには興味が無い。
 
 何でもやってみればいいと思うけれど、我儘で物臭な私はテニスに魅力を感じてくれない。
 
 風が私の髪を嬲る。
 耳の横で一纏めに括られた私の髪は、首筋をくすぐって肩に落ちた。
 
 途端に何だか凄く自分が情けなくなって。
 しゃがみ込んだ。
 
 意味なんて無い。
 
 ただ、ちょっと迷ってるだけ。
 少し泣きたいだけ。
 
 ああ、これが思春期特有の不安定さなのか、なんて、冷静に思う自分もいて。
 ゆっくり呼吸を繰り返して、零れそうになる涙を止める。
 誰もいない夕刻の道は、私には酷く冷たく、とても優しく感じた。
 青臭い匂いは夏の前兆。
 
 夏になったら海に行こう。
 彼氏なんて居ないから、家族で。
 そうしよう。
 
 そろそろ立ち上がろうと、深く長く息を吐くと、
 
丹野?!何してンの?具合悪い?」
 
 背後から、切原の声が聞こえた。
 
 一拍、二拍、三拍、私はしゃがんだままで、その幻聴を聞き流す。
 
丹野!おいってば!シカト?俺シカトされてんの?」
 
 肩に置かれた僅かに湿った切原の掌の熱さに、ビク、と震えた。
 私は、堪えていた涙が零れてしまって。
 嗚咽を漏らす私に、切原は多少面倒そうにしつつも
「どっか痛いんか?」
 と、多少心配そうに聞いてくれる。
 
 テニス以外は微妙な男だ。
 
「――ハァ…ッ……切原、アンタ、バス通じゃ、ないの…?」
 
 嗚咽を堪えて息を吐くと、涙を拭いながら切原に問う。
 夕刻の暗さは夜闇の暗さへと移行し始めていて。
 私は掌でゴシゴシをと頬を擦りながら、痒みに耐えていた。
 ゆっくり立ち上がる私を気遣わしげに見ながら、切原は頭の後ろで手を組んだ。
 
「バス乗り遅れちゃって。待ってる時間が無駄だし、気分的に歩いてみたくなったんだよね。そしたら死んでる 丹野見つけてさ」
 
「それで、声掛けた、わけ?」
 
 少しだけしゃくりあげてしまった。
 ずず、と鼻を啜りつつ腫れた瞼や赤い鼻を見られないために俯いて歩き出す。
 切原は私を追うように付いて来る。
 と、言ってもこの道は一本道で、次の交差点まで住宅街しかないので、進行方向が同じなだけだけれど。
 
「そうそ。んで、その髪のボンボン見覚えがあったからさ。 丹野、それ、よくしてるっしょ?」
 
「うん、これ気に入ってる。」
 
 ここで「似合ってる」とか言ってくれたら、ときめけるのに。
 テニス&ゲーム莫迦の切原にそんな事を期待しても仕方なく。
 いつの間にか隣に並んだ切原が、結ばれている私の髪を引っ張った。
 痛くは無かったけれど、ちょっと睨みつけるとツンツン、と引っ張ってくる。
 
「何よ」
 
「何もー?」
 
「そういえば、テニス部の練習は?」
 
「副部長が委員会で忙しいみたいで、今日は早上がり」
 
「いいの?練習しないと負けちゃうよ?」
 
 髪を引っ張られながら歩く私と
 私の髪を引っ張りながら歩く切原と、
 夜の闇と街灯の光と。
 変な風景。
 
「毎日の練習量がハンパないから、たまの早上がりくらい平気。 丹野こそ、なんでこんなに遅いの?」
 
「別に……教室でぼーっとしてたら、暗くなってただけ」
 
「うっわ、青春ー。」
 
「は?」
 
「よくわかんないけど、大人になったら暗くなるまでぼーっとしてるとか出来なさそうじゃね?」
 
「出来ないのかな……」
 
「と、思う。」
 
 切原は弄ってた私の髪から手を離し、また、頭の後ろで手を組んで歩き出す。
 ちらりと横目で見た切原は「ハハ」と、何が可笑しいのか笑っていて私と少ししか身長差が無いのに、やけに男っぽく、妙に子供っぽく見えた。
 
丹野。」
「何」
「笑えって。」
 
 むに、と言う擬音がぴったりくる感じで切原に頬をつままれました。
 結構スキンシップ過剰かもしれない、コイツ。
 でも、そう言う切原が楽しそうに微笑んでいたので、私もつられて笑った。
 切原の手はやっぱり熱くて、基礎体温35.0の私より0.5は高い感じ。
 代謝がよさそう。
 
 そういえば、小学校の頃「笑顔がね、みんなを仲良くするんだよ」って言う川柳(?)を書いたら金賞を貰った事を思い出した。
 欠伸と一緒で、笑顔って伝染するのかもしれない。
 あの時は嬉しかったな、誇らしかった。
 小学校で金賞を貰っただけ、だけれども。
 
 頬をつねられて笑っている私は何とも間抜け。
 でも、切原は満足したように私の頬から手を離した。
 
丹野、もう腹痛くないんだろ?ゲーセンよってかねえ?」
 
 十字路を挟んで繁華街方面を指差しながら、切原が人懐こい笑みで提案する。
 私が泣いていた理由をお腹が痛かった所為と決めていたらしい。
 そういう事にしておこう。
 私は思いっきり眉を顰めてやった。
 
「お金ないし、ついでに登下校の途中の寄り道は校則違反だよ。切原不良だね。」
 
「校則なんて破るためにあるっしょ。仁王先輩とかブン太先輩の髪なんてバリバリ校則違反じゃん」
 
「二人とも知らないんだけど。」
 
「は?全国優勝テニス部のレギュラー知らないなんて、 丹野、マジ有得ねえ!」
 
「切原と真田って人しか知らない。」
 
「部長知らねえのかよ」
 
「あれ?真田って人部長じゃないの?凄く偉そうじゃない?老けてるし。怖そう。テニス部の部長ってもっと怖い人?切原大変だね。」
 
 一瞬目を見開いた後、切原はとても面白そうに笑った。
 私は、そんな切原に、少しびっくりして、きょとん、と切原を見た。
 切原はヒーヒー言いながら片手でお腹を抑えて、もう片手で手をひらひら振った。
 ちょっと涙まで滲んでいる。
 
丹野、それは言いすぎだっつの!」
 
「とか言って大笑いしてた切原に言われたくない。」
 
 切原は私の言葉にまた笑って、私もつられて笑ってしまう。
 二人で大笑いする中学生。
 空は暗くて、でも、私はもう泣きたいとは思わなかった。
 これも青春の1ページなんだ。
 
「とにかく、ゲーセンは行きません。ホント今月ピンチなんだから」
 
「ちぇ」
 
 拗ねたように、残念そうに、でも笑って切原は肩を竦める。
 そして、”ウチこっちだから”と手を振って十字路を曲がっていった。
「じゃあね」
 と言って、私は十字路をそのまま真っ直ぐ進もうとし、
 
「また明日な! !」
 
 かけられた声にびっくりして振り返ると驚いた私の顔を見て、切原は猫のように笑った。
 街灯に照らされた切原の顔は悪戯っ子のようで、私は少し笑って
 
「またね!赤也!」
 
 大きく手を振って返した。
 お互い笑い合って暗い夜道を分かれた。
 
 私はまたきっと意味もなく泣きたくなるだろう。
 私はまたきっと意味もなく不安に駆られ、焦るだろう。
 私はまたきっと意味もなく叫びたくなるだろう。
 私はまたきっと意味もなく道路にしゃがみ込んでしまうだろう。
 私はまたきっと意味もなく大笑いするだろう。
 
 それは今しか出来ない事。
 
 そう思えば、帰りの道を歩く私は、どこか颯爽と足を踏み出していた。
 湿った空気も、温い風も、青臭い香りも、世界の全てに祝福されているような、そんな気分で。