来年から就職先のスポーツジムのフィットネスクラスを受け持つために必要な技術を、教わることになっている私は自室で、研究の為にビリーを行っていた。 途中で三歳年下の彼氏が、そろそろ構ってほしそうな視線を向けてきていたけれど、今はテンション的にもいい感じなので、あえて無視させていただいくことにする。 振動が響かないようにとピンク地にホットピンクのハイビスカス模様のヨガマットを引いた上で動きながら、近場のキャスターの上に置いたプリントの確認。 プリントアウトされた紙にはマッスル・チャート【フロント】とタイトルされ、人体模型のような絵と共に 今の運動はどこに筋肉に効いているのかを自分で意識しながら、 真剣にやっているのに、さすがに凝視されていると動きづらい――集中しづらい。あまり堂々と他人に見せたい姿でもない。 「なに? 見られてるとやりにくいんだけど」 ビリーを見つめながら、そのパソコンの画面に映ってしまっている彼氏の顔に問いかける。 「暇」 ふてくされた声と一緒にベッドの上の忍足君が溜息をついた。 「だから、今はかまえないって言った。それなのに来たのは忍足君」 「普通はほんまにほったらかしにはしぃひんと思うんやけど……」 同学年の子にはきっと大人びていると評されていそうな身長と顔と立ち振る舞いだけれど、私の前では、おそらくわざと子供っぽく振舞っている。 自分の立場や相手の考えを敏感に感じ取るところが、家庭環境が複雑そうな印象を受ける。それでも、だからと言って甘やかす気は一切ない。ただ、切り捨てられるほどには私も強くない。 忍足君は本当に迷惑かどうか、私が揺らぐかどうかを理解していて、揺らぐときには決まって甘えてくるし、私が本気で、真剣にやっているときは声をかけたりはしてこない。 そんな忍足君は、今やすっかり私の部屋にも慣れたようで、私の背後のパウダービーズのピンクファーソファに腰を沈めている。 「お茶とお菓子とテレビとDVDまで、出した。ほっといてない」 これは、ちょっと言いすぎかとも思ったけれど、最初にトレーニングでかまえないと伝えてあったわけだし、この場合、忍足君がワガママだ。あの時、電話で「家で」と答えた私も、このトレーニングが一通り終わったら、彼の為に時間を割く予定だったので、その予定がちょっと早まるだけではあるけれど、それでも……と考えながらプリントに目を落とす。今の運動で効いているのは長内転筋のあたりかもしれない。 「ゆかりさん、それネグレクトや」 「ネグレクトって……」 思わずビリーから視線を外して、溜息と一緒に忍足君を振り向くと、彼は親の注意を引けた子供のように、嬉しそうな顔で笑った。ああ、それ、反則、だ。 「……ちょっと待って。シャワー浴びてくる」 「おr「中学生が調子に乗らない」――はーい……」 忍足君は私の声に眉を下げてしゅんとして見せた。ああ、もう、本当に調子が良いと言うか要領がいいと言うか――巧い子だなぁ、と思う。自分の顔が大人びていることを巧く利用して、とても上手にギャップを作り出している。ただ、さっき発言しようとしたことはオヤジな感じだったけど。 きっと、私が彼より年下なら、忍足君はまったく別の対応と表情だったんだろう。それが当たり前だけれど、それはそれで何か嫌だと思う。 シャワーを浴びて戻ると、忍足君はテレビ画面に向けていた視線を、私の方へと向ける。もちろん、私を篭絡するための笑顔つきで。本当に巧い子だと思う。 私は、この忍足君の器用さが、たまに嫌になる。彼の後ろに、無数の女の影とか、家族の影とかが見えそうな気がするからだ。 「せっかくだから、テニスでもしようか?」 けれど私の言葉に不意を打たれたのか、忍足君は笑顔を崩して「え?」みたいな顔をする。 笑顔よりも、こういう不意打ちで見られる彼の素の顔の方が私は好きだ。彼は本気で私に怒ったこともない。 「天気もいいし、部屋の中にいたら腐るから」 言いながらクロゼットを開けて立てかけてあるラケットを二本、ひっぱり出す。基本的に私は運動が好きで、忍足君に影響されてテニスを始めたのが一年前。もちろん趣味の域を出ないし、出す気もない。 一度だけ、忍足君に言われて全国大会を観に行ったけれど、あれもきっと忍足君の計算だったと思う。信念のこもった目をして頂点に行かれへんわとか言ったときは、本気で、私のことなど頭になかっただろう。 そして、試合中は私のことすら忘れて、とても真剣で、とてもストイックで、とても情熱的であるということを、もちろん忍足君は自分で知っていたはずだ。そして、私がそんなに真剣な忍足君を初めて見たらどんな気持ちになるかも、計算の上で私を誘った。 「プリンスの03スピードポートと、この間買ったバボラのアエロプロドライブとどっちがいい? ストリングスはどっちもバボラのインターナショナルツアーでテンション55。パワージーが合わないから最近変えてみたんだけど試打もかねて、やりたい」 せっせと準備を始めると、忍足君の溜息が後ろから聞こえたけれど「アエロプロ」と、しっかりと答えた。 まるで、遊びたがりの子供に仕方なく付き合っている親ような印象を受けて、いつもと違う立場が少しおかしかった。 「ナダルが全仏三連覇した曰く付きのラケットだって知ってる?」 「それ、イワク付きとは言わんと思います」 忍足君はソファから立ち上がって私の手の中のラケットを一本奪うと、軽くストリングスを撫でた。 「忍足君はブリヂストンのウィングビームS65だっけ? あれって女子のダブルスプレーヤーに高評価なんだって?」 「そう……親にねだって買うてもらったんです。ほんま、たっかいなぁ……ラケットて」 「たっかいねぇ……三本も買ったらPS3が買える」 私の言葉に、忍足君は子供っぽく笑う。おそらく、その表情が私に与える影響と、普段の自分とのギャップを本当に良く理解しているからだ。本当に頭が良くてずるい子だ。 そして、意気揚々と近場のテニスコートへ行った。野外の、グリーンのネットに囲まれた四面のコートは、ちょうどピッタリ埋まっていて、私達が余るような状態だった。 他の練習の方と順番で使わせてもらい、何度か打ち合う。途中でラケットを変えたりして、感想を言い合う。やっぱり忍足君には03スピードポートは軽くて、思い切り振ったら腕が抜けそうになった、と言っていた。重心がもっとトップに近ければ良いのに、とも言っていたけれど、私にはスウィートスポットが広くて打ちやすいラケットだ。 逆に忍足君はアエロプロドライブはトップスピンがとても打ちやすいと評していた。アエロプロドライブに関してはオールラウンダーかアグレッシブベースライナーにいいラケットだと彼は感想を言っていたけれど、楽しむためのテニスをするには、私にはちょっと扱い辛かった。 試打会としては、まずまず。けれども―― 「やっぱり体力だと男女で差が出る」 ベンチに座って、忍足君が奢ってくれたドリンクを飲みながら、くやしさに溜息をつくと、忍足君は私の前に立ったまま困った表情で笑う。 「それは……仕方ないんちゃいます?」 「しかし、悔しいなぁ……また負けた。まだ義務教育の癖に生意気ー」 私はそれなりに自分の運動能力と体力と筋力と柔軟性と――とにかくそういうものに自信を持っているので、正直に悔しい。とても。 平日は部活・部活後にスポーツジムの受付のバイト、休日の部活後にスポーツジムで筋力トレーニング。練習後は、バナナとミルクでプロテインをシェイクして飲むほどで、一部筋肉マニアなところがあるのは自覚してる。そもそも、運動しないと不健康に痩せる体質で、子供の頃身体が弱かったのをなんとかしようとして親が剣道の道場に通わせ、スイミングスクールに通わせしたのが、今の私の基盤になったと思う。 そういえば、忍足君は医者の息子なのになんでテニスなんてし始めたんだろう。彼には確かにテニスは似合うけれど。しかし、はまりすぎている感じもする。 青学(あおがく)・慶應・上智あたりのハイソサエティで軽めの大学生がテニスサークルに入ってるってくらいのはまりっぷりだ。セオリー通りな感じさえする。 そんな事を考えながらまじまじと彼の顔を見つめていると忍足君は少し唇の端を上げた。 「――今度、俺のラケットコレクションもってきますよって」 この言葉遣いは、アレだ。エセ関西弁だ。そういえば、彼は、自分で喋ってても関西の発音じゃない、と思うことがあるらしい。東京に毒されているのか。 忍足君の黒い髪は黒すぎて青のようにも見える。それにしても整った顔だ。きっと女子が放っておかない。そして、その経験値が彼の表情や所作に表れて、私は(ああ、巧いな)と思うんだろう。 「じゃラケットの試打会、またしよう」 言いながら、見つめている忍足君は、それなりに汗をかいていて、そこに変な満足感が生まれた。私も同じくらい汗をかいているけれど。 知り合って二年数ヶ月。彼の夏休みが終わってから付き合い始めて一ヵ月。告白は、どちらからと判ずるのが難しい。バイト先のスポーツジムで、彼氏欲しい、とみたいなことを女性の会員との会話中に冗談半分で呟いたところ、やっぱりそこの会員で顔見知りだった忍足君がたまたま聞いていて、俺も彼女欲しいんですけど、みたいなコトを言って冗談半分で付き合っちゃう? みたいな感じでホントに付き合うことになった。 よく、受付業務中に『今度デートして下さいね』とか、そんなコトを言われて『はーい』と軽く返していたので、それの延長だった。でも、携帯番号やらを交換したとき、たぶん私もまんざらではなかったのだ。 ヤらはた、という言葉がちらついていた所為もあると思う。高校三年にもなれば、そりゃあ、彼氏のいた過去もあるけれど、どちらかと言うと部活! 運動! だった私は、そういった話題には乗り遅れていて、就職活動が忙しいからとムリヤリ考えないようにしていて、それでも友人らの言葉に焦りもあったと思う。 けれど実際、付き合う段になって私と忍足君はとてもプラトニックだ。キスもしていないし、手も繋いでいないし、ハグもない。どうしてか、私もいざ付き合ったらそんなことはどうでもよくなってしまった。むしろ、こんな軽い気持ちで忍足君に申し訳ない、と思う。けれど、忍足君も軽い気持ちなのだから、そんなことを思う必要はないのだろう。 「ゆかりさん」 声をかけられて「何?」と返す。これからどうします? と尋ねられて、どうしたい? と返す。三年遅く生まれて、もし、私が忍足君と同じクラスだったならば、私はきっと彼に恋をしただろう。 けれど、忍足君はどうだろうか。好みの問題だろうけれど、彼は年上が好きなのではないかと、勝手に予想している。 ◇◆◇ ゆかりさんは、どうも俺の顔をじーっと見てぼーっとしとることが多い。最初は見惚れてくれているのかと思ったりもしたもんやけど、どうも、違うような気ィがしてしゃーない。 探るような視線とでも言えばええんやろか。よく、動物がなんもない場所をじィーっと見てんのに似とる。急な物音とかで、耳をそばだてて動きを止めて、じっと虚空を見とるアレや。 ゆかりさんが俺を、彼氏扱い・男扱いよりも、子ども扱いしてんのはよっっく解っとる。そりゃ、そうやろ。付き合うまでは、別におかしなところもない会員と受付嬢やったんやし、むしろなんであの時にオーケーを出したんかの方が俺にはわかれへん。 あの時は、冗談っぽいノリやったし、ほんまに日曜に二人で映画観に行くまで、オーケーだしたのは冗談かもしれへん思ってたわ。 さしあたり、ゆかりさんの「どうしたい?」がガキに聞くよな言葉で、俺は地味に凹んだ。 よくあることやないかと思うんやけど、受付のカウンターにいたお姉さんやら、行き着けのショップの店員のお姉さんやら、俺らの歳では憧れの象徴みたいな、ある意味ステータスって感じやし。 「腹、減りました」 「そっか、どうする? 家帰る? お母さんご飯作ってるんでしょ」 ……彼女の反応としては、これはエヌジーやろ。それでも、俺が中学生なんを気にして、きっと自分が中学生だった頃のことと照らし合わせてこの言葉がでたんやろうなってのは、わかる。 「や、今日はゆかりさんと食べよ思ってたんで、親は用意してないと思います」 言いながら、しっとりと汗で濡れた髪がゆかりさんの額に張り付いて、それが気になって指を伸ばすと、野生動物みたいに、すごい勢いで避けられた。 「何?」 怪訝そうな顔で俺の触ろうとした額に手を当ててんのが、ほんま、結構傷つくなぁ。 「何でもないです。ただ、髪の毛張りついてんなァと」 「ああ、そうか。シャワー浴びに行こうか、ご飯はその後にしよう。近くにスーパー銭湯あったし」 「や、ゆかりさん家でいいんやないですか、近いし」 それなりに、覚悟して言った言葉だった。 下心よりも、覚悟みたいなもんが必要だった。 ゆかりさんが、答えるまで、俺は無駄に脈を荒らしながら、それでも表面上は無邪気な中学生を、力の限り装う。 十八〜二十五程度の運動好きな、もしくはミーハーな、カウンターにいる女の中で、高校入学と同時に十五でバイトに入ったゆかりさんは、悪い意味で若くて、よぉ目立っとった。 ミスも多かったし、別段明るいわけでも、大人しいわけでもない。それなりの愛想はあったが、それも中年のオヤジにばっか気に入られる変な愛想の振りまき方で、本人も訳がわかってない感じやった。 ガキの頃からそこでトレーニングしとった俺は、また中途半端なヤツが入ったなと中一の分際で高一だったゆかりさんをダメ出ししながら眺めていた。 それから二年半、プロテインの味を間違えたり、俺の名前を一年以上も覚えなかったりしとったゆかりさんが、アンディ=ロディックに惚れたとかで急に俺に積極的に声をかけるようになった。 俺も、自分の得意なモンを興味津々と聞いてもらえるのが嬉しかった……んやろうな。今思えば。どうも、同い年の女は俺らをアイドルかなんかと間違えてるんちゃうかとツッコミいれたなるし――とにかく、ゆかりさんをいいなと思い始めたきっかけは俺に興味のないしかも接点が学校でも家庭でもない、唯一スポーツジムだけってところやと思う。まあ、好きになるとっかかりみたいなもんやったんだろうと思う。 正直よぉわからん。 アンディ=ロディックから始まってリシャール=ガスケだのジュリアン=ベネトーだの(世界ランキング順に強ければいいという訳でもないらしい)言い出したかと思えばいきなりイヴァン=リュビチッチは渋くてカッコイイだの言い出した。あまりのミーハーぶりにげんなりするよりも驚いた。こんな人やったんかと。話を聞けば女子選手を見ていると嫉妬してしまうから、男子の方がいいとかなんとか言っとって、ああ、負けず嫌いなんかと変に納得した。 一番観られないのが日本人の女子、次は外国人女子と日本人男子、外国人男子は自分から遠いから単純に憧れられるんやと言ったゆかりさんの自論は理解できへんかった。 跡部にDVDをわざわざ二枚焼いて貰うってゆかりさんに貢ぐ程度には俺もその時ゆかりさんに惚れてたんやろうな。カウンターごしに「ありがとう」って笑ってくれんのを見るためだけに。 ゆかりさんが「テニスを始めた」って言ったのはすぐやった。カウンターごしにアドバイスするたびに、カウンターごしに感謝された。 ……ほんま、いつ好きになったんか思い出せへん。 冗談めかしてしか言えなかったあの告白にオーケー出された理由も、意味も、もっとわからんけどな。 そんな訳で、心臓の振動に耐えながら、ゆかりさんの反応を待っとる訳や。 いつも、願望の核心部分に触れると冗談っぽくしてもうたり、キャラでもない純真無垢で無邪気っぽい“誰やお前! ”と謙也がツッコミいれそうな態度になってまう。 ゆかりさんは、俺の顔を見てから「最近の中学生って進んでるねぇ〜」とわざとらしく年上を強調した発言をしてから「いいよ。行こうか」と笑った。 いいよってどういう意味や…… 行こうか、と俺の気持ちなんか、まったく考えてもいないような、ゆかりさんのサバサバした態度に、なんや悔しくなって、ベンチから立ち上がって俺の横をすり抜けて歩き出した彼女の手を、かなり強引に掴んだ。 その瞬間ゆかりさんが固まって動かなくなって、今更俺も内心でのた打ち回るほど照れてもうて、ああ、こんなんどないすればええんや……ほんま、ラブロマンスみたいにうまいこといかないもんやなぁ。 しばらく、コート上にギャラリーがいる状態でそんなんなってて、けど。 「行こうか」 ゆかりさんは、俺の手を握り返して、余裕の笑みで言った。歩き出したゆかりさんにガキみたいに手を引かれて歩きながら「子供扱いせんといてもらえます?」て言うと「ただの子供とは付き合いません」て言われる。 全部うまくいかへん。 年の差ァは、最初から理解(わか)ってたんやから、それに対して負い目はない。ゆかりさんがああやって就職だのなんだの言ってんのは、確かに少し寂しい感じもするし、置いてかれるような感じもしないでもない。けど、そんなんは、どうでもいい方の問題やから。 なんて、ゆかりさんが俺の告白にオーケーだしてくれたのかはわからへんけど、なら、今からどうやって好きになってもらうかが、大いなる問題な訳で。 悶々と悩みながらも、とりあえず、こうやってゆかりさんと手を繋いで歩いていられることが、俺にとってめっちゃ幸せなことだと、思えることがなんや嬉しい。 この先の事は、この先、おいおい考えていけばええかと、とりあえず息をついて、触れる手のひらのやわらかい感触だけに集中した。 |