入学式

 木蓮の瑞々しく白い花弁が落ちた四月。
 中学からは本気でテニスに力を入れるべく、敗者切り捨てという監督の方針が気に入った氷帝学園を受験し、当たり前のように合格したそこへ向って走る電車の中で揺られていた。
 小学校は徒歩数分の公立校だったので、初めての電車通学はなかなか新鮮な体験だった。気温も心地良く、わずかではあるけれど新しい中学校生活と言う物への期待感が高まる。
 縫製を頼む以来の、袖を通すのは二度目になる制服のブレザーの厚い布地を指先で一度だけ撫でてみた。
 意味は、ない。
 流れるように変わって行く窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、軽く踵を浮かせたのは無意識だった。
 こういう時にでも自然と鍛錬に気が行ってしまうのはどうしようもない性なので、最近は特に治そうとも思わない。姿勢をしっかりと保ち、身体の軸をしっかりと意識してバランスを取る事も、最近では強く意識せずにできる。古武術を叩き込んでくれた父と祖父のおかけだ。

 車内の、俺の周りには同じく氷帝学園の妙に高級そうな制服に着られている奴らがいて、間違えようもなく同じ氷帝の新入生だと確信できた。
 ラッシュよりも遅い時間帯の為か、さほど混んでいない車内では入学に浮き立つ奴らの声が耳障りなとほどに聞こえてきた。
 氷帝は幼稚舎からエスカレーターで上がる生徒が大半らしく、おそらくは顔見知り同士で会話でもしているのだろう。うるさいとは感じたが、それでも不機嫌にならないのは、俺も新生活へ、何がしかの期待を持っているからだ。児童から生徒へ。その変化がどんなものかはまだ解らないけれど。
 みんな、想像と予想と妄想と期待と野望とで、平静ではいられないのかもしれない。

 校門を潜り、桜色の落ちてくる校庭を歩いた。
 本当に、まるで冗談のように式に示し合わせたように満開だった。
 風に攫われ、飛べなくなった桜色の塊が、まるで毛足の長い絨毯のように靴底を包む。
 悪くない、と思う。少なくとも、咲き誇った桜は嫌いではない。柔らかい感触の桜の絨毯も、嫌いではない。

 受験の時に訪れた氷帝の校舎に今更なんの感慨も浮かばなかったが、昇降口に貼り出されたクラス分けを見た時は、何かがじわりと広がった。
(ああ、俺は今日から中学生なのか)
 というような奇妙な現実感だったのかもしれない。
 俺はこれから氷帝で三年間を過ごすのだと改めて理解したような気が、した。

 ◇◆◇

「日吉若です。区立小学校から来ました。趣味は……読書です。宜しくお願いします」
 当たり障りなく、面白くもない、判で押したような自己紹介をした。
 この時間だけで全員の名前と顔を一致させる気などなかった。きっとほとんどの奴は興味のわいた人以外の自己紹介なんて聞き流すのだろう。時折、ふざけた男子が笑いを取ったりもしたが、おおむねは俺のようなぞんざいな自己紹介だった。持ち上がり組は、逆に俺のような外部生のみ、聞いていればいいのだろう。だらけた雰囲気とまでは行かないが、空気はけだるげだった。

 暇だと感じている間もどんどんと自己紹介は進む。
 俺もそうだが、聞いている方もさほど興味がなさそうに耳に入るままにして、脳への記憶はしていないようだった。興味なさそうに自分の爪を見ている奴もいる。
 何の為の時間なのだろうか。顔写真付きのリストでも配ってくれた方がまだマシだろう。
 頬杖をつきそうになる腕を我慢して机の上に置いたままにして、この後、部活に仮入部届になるのか、入部届になるのかを提出しに行かなければと、ぼんやり考えていた。仮入部期間は、どこまで部活に参加できるのだろうか。
小曾根香奈です」
 耳に入ってきた声に、机の光沢のある表面を眺めていた視線を義務的に持ち上げた。その行動に、意味はなかった。

「氷帝の幼稚舎から来ました。
 趣味は料理と読書です。海外の児童書が特に好きです。料理は洋食のほう少しだけ得意です。
 好きな音楽は何でも聴きますけど、最近は歌詞のない曲や日本語以外の曲をよく聴いてます。
 展示会で点描画に感動したので、絵は得意ではないですが美術部に入りたいと思ってます。
 中学校三年間、みんなと仲良くしたいので、どうぞよろしくお願いします」

 新しいクラスにか、中学へあがった事にか、少し緊張気味に笑っている小曾根と言う女子は、調子の良い男子の受け狙いとも違う、ムードメイカーの女子の良く考えられた言葉とも違う、それでいて平々凡々な普通の生徒とも違う、妙に長い自己紹介をした。
 自己顕示欲旺盛だなと、ぼんやり思ったけれど、それ以上の興味も湧かなかった。ただ、言葉にまとまりがないと感想が一つ浮かんだだけだ。ああ、それと、このクラスで三年間過ごすわけではないだろうという訂正も。
 全員の自己紹介が終わり担任に出席番号順に並ばされて、入学式の運びとなった。良家子息子女の集まる名門氷帝学園だが、あまり突飛なことはないようだ。

 入学式には母と、意外な事に父と祖母も来ていた。
 兄は学校があり、祖父は道場を空ける訳にはいかないから来ないとは思っていたし、来てくれなくて何の問題もないが、祖母と父が来るとは思っていなかった。
 式では、新入生代表の言葉を聞き流し、跡部と言う在校生代表の言葉も聞き流し、理事長の無駄に個性的な熱弁も聞き流し、入学式が終わったらテニス部へ入部届を出しに行こうと考えていた。

 無事に入学式が終わり、教室で教師から新入生への激励のような言葉を聞いていると、両親らが入ってくる。担任と副担任の紹介の後、授業に必要な品々の購入手配の流れとなった。
 それは両親に任せ、仮入部届を職員室へと請いに行く。特に人気の部活は入学式初日から仮入部の受付を行っている事は既に調べてあった。テニス部への入部は決めていたので、明日予定されている部活動見学の日取りを待つつもりはない。
 職員室へ向う途中の廊下で、偶然にもやけに長い自己紹介をしたクラスメイトに会った。
「あ、日吉くんも仮入部届もらいに? それとも落とし物とか?」
 意外な事に小曾根は俺の顔を覚えていたらしく気軽に声をかけてくる。俺も小曾根の顔を覚えていたので、そんなものかもしれない。逆に時間が開けばお互い覚えていなかった可能性も高い気もした。
 屈託なく話しかけてくる小曾根を鬱陶しいと思いながらも、軽く顎を引いて「部活の方だ」と返す。小曾根は笑顔で何度もうなずいた。変なやつだ。
「そっか。お互い頑張ろうね」
 何部に入るのかを尋ねられると思っていたのだが、小曾根は俺に対して全く興味がなかったらしい。問いかける事もなく、何故だか俺の歩調にあわせてついてくる。
 進行方向が同じなのだから変に避ける必要も無いけれど、なんで、ほぼ初対面の女と一緒に廊下を歩いているのだろうか。

 俺が何も言わずにいると、沈黙を無視するように小曾根が能天気な声で話しかけてきた。
「日吉くんは外部組なんだよね? 頭いいんだね。羨ましい」
 小曾根へ視線を向ける気にはならないけれど、無視するのも居心地が悪くて、歩みを進めながら言葉を返す。
「外部だから頭がいいとか関係ないだろ」
「幼稚舎の時は結構いい線いってて氷帝に入学しても、大きくなれば周りの学校のみんなも同じレベルに追いつくわけですよ。受験とかしないでエスカレーターで上がっちゃってるし、外部の方が頭いいって一部では定説なんだよね」
 ただただ単調に、照れるでも恥ずかしがるでもなく笑って言う小曾根の態度に苛々とする。
 何だか、俺の入学の為の努力を馬鹿にされたような気がした。

 職員室へ行くと書類入れを示され、俺も小曾根も一枚ずつ仮入部届を手にする。
 他にも何人もの生徒が長机で入部届を書いていた。なかなか、氷帝には意欲のある生徒が多いようだ。入学式当日だというのに。自分を棚に上げて思う。
 希望の部活動の記入見本表を見て、間違えの無いように記入し、貰った校内地図を頼りに仮入部受付を行うテニス部部室へと向う事にした。本入部の正式受付開始までは仮入部という扱いになるらしい。その間は基本的に普通の部員扱いはされず、体験のようなものになるようだった。ただ、体験の内容は、部活によってかなりの差がありそうだとあたりをつける。  氷帝幼稚舎からテニス部に入っていた奴は、幼稚舎卒業前の冬休みから体験入部をしていたと聞く。スタートが幼稚舎上がりの奴らより少々出遅れている事に少しだけ焦りはあった。
 運動部の部室棟が外である為に、必然的に昇降口で小曾根とは別れる事になった。その事に、安堵する。初対面の人間と長時間会話を交わしたいと思えるほど俺は社交的ではない。
 男子テニス部部室へ辿り着くと、先輩部員に案内され、今度はテニスコートへ向う。
 そして、入部をやめようかと思う長蛇の列に圧倒されたのだった。

 なるほど、この人数では部室内で受け付ける事など出来はしないだろう。
 よくよく見ると、入学式で挨拶をしていた跡部という上級生が、眼鏡の上級生と入部届を受け取ってクラスと名前を表に書き込んでいるらしい事がわかった。
 ようやく順番が来れば「見た事ない顔やな」と眼鏡の上級生に言われた。「外部です」と、外部だろうと持ち上がり組だろうと関係ない筈だと意思を込めて素っ気なく返した。それを聞いた眼鏡の上級生は何やらおかしそうに笑んだ。癇に障る笑い方だ。端的に言えば、いけ好かない。本能で自分とは合わない人間だと感じる。
「何や外部なんか。氷帝テニス部がどんな所か知ってるん?」
 むしろ、知らない訳がないだろう。他の学校では、年功序列が当たり前だけれど、ここは違う。
「実力次第で一年でもトップに立てると聞いています」
 言い切った俺に、入部届を眺めていた跡部さんが笑うというよりは口の端を上げただけというような表情で言ってきた。
「裏を返せば実力がねえヤツは三年になっても試合すらできねえんだぞ?」
 そんな事は百も承知だ。敗者切り捨ての、監督の方針が気に入って、氷帝へ来たのだ。
 跡部さんの言葉に一瞬、意図せずに右目を眇めてしまったけれど、無表情を意識して、なんでもない事のように簡単に返す事にする。
「俺、強いですから」
 周りにいた奴らが一瞬、沈黙する。実力が伴わなければ、ただの勘違いした馬鹿だと思われているだろう。
 しん、となった空気の中でくっくっく、と小さな音だけが響いた。跡部さんが心底面白そうに笑っている。
「こいつ身の程を知らねぇな、忍足」
「そやなあ……まあ、頑張り。明日ホームルーム終わったらコート来てな。――じゃ、次」
 受付を終え、先輩達に一礼すると俺は受付から離「おい日吉。今度俺が相手してやるよ」れようとした俺に、跡部さんがニヤリと笑って、楽しそうに言ってきた。
「宜しくお願い致します。跡部さん」
 わざとらしく唇を吊り、不遜だと評される笑顔で、俺も返した。

 入部の手続きが終了したと携帯で両親に連絡をとると、両親は道場があるので一足先に帰宅したと返答があった。昇降口で祖母が待っているから一緒に、関東にいる親戚への挨拶回りをするようにと指示された。
 なるほど、制服姿は新入学の挨拶に回るにはうってつけなのか。変に納得しつつ、そしてわざわざ挨拶をする必要があるのかと疑問に思いながらも祖母と合流し最寄駅へ向かった。
 電車は、昼時だというのに座席が全て埋まっており、ちらほら立ったままの乗客がいるような状態だった。矍鑠とはしているけれど、歳が歳な祖母を庇いながら電車に揺られる。

「あの、よろしければ座りませんか? 私、すぐに降りるので……」

 背後から、祖母へと掛けられた、声。
 祖母も俺も一瞬、声をかけられた事に気付かなかったが、一拍間を置いて、そちらへと振り向く。
 氷帝中等部の制服を着た女子が、入学式であるのに両親の姿もなくただ一人で、空けた座席を示して微笑んでいた。
「また、お前か」
 また、と面倒そうな、鬱陶しそうな声が出たと自分で理解していたけれど、今更口から出た言葉を戻す事も不可能なので気にしない事にする。
「日吉くん。奇遇だね」
 小曾根は、流石に驚いたらしく瞠目していたが、再び祖母に座席を勧めて、俺達に気を使わせないように車両を移動していった。その後姿を一瞥する。祖母が座席に腰を下ろしながら「お友達?」と聞いてきたので「クラスメイトです」とだけ答えた。
 勿論、他のクラスメイトや教師とも話したのだが、跡部さんと眼鏡の胡散臭い先輩と小曾根の印象が異常に強い一日だった。

 ◇◆◇

 翌日、学園前駅へ降りると、小曾根が迷子らしき子供の手を引いて歩いていた。違う路線で来たらしく、俺より少し早かった。
 声をかける用事もないので、無視した。
 教室に着くと、教科書などを配られ、委員会を決め、クラス役員を決め、係を決めた。授業とも言えないそれが全てが終わるとコートへ向った。
 レギュラー、準レギュラー、監督の紹介、氷帝テニス部の方針と週間スケジュールが説明された。
 その日はただそれだけだった。時間が余ったので、帰宅後はいつもより多めにランニングをした。

 さらに翌日、小曾根は遅刻をしてきたが、俺はいつもと同じ時間に小曾根が駅へ降りていたのを見ている。
 初老の女性が小曾根に声を掛けているのも見た。小曾根が、区役所の方へその人と歩いていくのも、見た。場所だけ言えば良いのに。一緒に行く必要なんてどこにもないはずだ。それは自分が気持ちがいいだけで、全くもって善行でも何でもない。偽善者、という単語が頭に浮かぶ。気持ち悪い。
 今日から授業開始だった。内容はこんなものかという感想以外は浮かばなかった。慢心しなければ問題なく授業について行く事が出来るだろう。音楽だけは少し心配だが、仕方ない。授業が終われば、部活に出る。
 意外な事にレギュラーの跡部さんとコートで打ち合う事を許された。
 どうやら、入部時の会話をしっかり覚えていたらしい。期待はしていなかったので初日からラケットを握れる事に不覚にも心が弾む。
「一〇分だ」
 跡部さんが片手でラケットを肩に乗せながら、片手で俺にボールを放る。
 遠慮なくサーブ権を貰う事にして黄色いボールをキャッチし、鸚鵡返しに尋ねた。
「一〇分?」
 その問いに答えたのは準レギュラーの忍足さんだった。
「ワンセットマッチっちゅうこっちゃ。ま、頑張ってな」
「……なるほど」
 俺は静かに頷いて返した。
 氷帝のレギュラーは、彼らは、二百人の頂点なのだ。ワンセットマッチを一〇分と言う、自信を持つのはわかる。
 そして、その頂点は今後は俺の立つべき場所だ。
 胸が沸き立つ、というのはこういう気持ちか。氷帝のレベルは小学校とは比べ物にならないだろう。

 試合はセルフジャッジで進められた。
 跡部さんのドロップボレーがライン上に落ちる。間に合わない――と理解した時、舌打ちがでた。
「ゲーム跡部。フォーゲームストゥラブ」
 跡部さんは軽い口調で言い、俺と視線を合わせて、笑った。
 ムカつくとか、そんな感情が浮かばないほどに、強い。
 ただ、悔しい。
 もしかしたら勝てるのではないかと思っていたけれど、そんなレベルではない。格が違う。けれど、このまま大人しく負けるつもりも、毛頭ない。
 やれるところまで、喰らいついてやる。
 そう決意して、息をついて額の汗を手の甲で乱暴に拭った。シャツが汗で張り付く。
「やっぱ、ダメやなあ」
 困ったような顔で笑うレギュラーの忍足さん。
「でも、アイツだって全然弱くねーぞ」
 これはの準レギュラーの向日さん。
「ここで潰れなければいいけどねー」
 コートと観客席を隔てる壁の縁に腕を乗せて微笑むのはやはり準レギュラーの滝さん。

 外野が煩い。
 集中しなければ。
 俺は、跡部さんにやけた顔を睨む。

 跡部さんのサーブ。
 威力のあるそれを、後ろに下がって力任せにトップスピンをかけてベースラインへと打ち返した。本当はもっと重いトップスピンをかけたかったのだが、跡部さんのボールは容易にそうはさせてくれなかった。
 もちろん跡部さんはその返球を読んでいたかのように、即座に下がって難なくこれを返してきた。
 それをボレーで何とか返す。
 即座に高くやわらかいロブが返ってきた。
 それが跡部さんに故意に作られたチャンスボールだとわかっていた。
 それでも全力で、オープンスペース目掛けてスマッシュを放つ。
 一球一球が、決め球だ。
 しかし跡部さんはそれら全てを、俺の苦手なコースへと返してくる。
 どうすれば、この人からポイントを取れるのか。
 必死に考え始めると同時に冷静にと自分に言い聞かせる。
 兄と古武術で試合うときはどうだっただろうか。
 父と組み手をするときはどうだったろうか。
『反応が遅い。相手を良く見ていれば次の行動が読めて来る。
 相手の目を見ろとよく言うが、目は人を騙す。相手の全体を見ろ。
 逆に、相手にフェイントをかけるのなら、目と全身を使え』
 兄の言葉を思い出し、見つめないで、ただ、見る。
 全体を把握する。
 黄色い球が弾む。
 跡部さんが俺を見て動く。
 俺は、跡部さんを見て、ボールを見て、コートを見て。
 どれがフェイクなのか、何が正しいのか、めまぐるしく頭を働かせる。

 目で、右へ視線を巡らせる。
 それはフェイクだった。
 跡部さんがひっかかったかどうかは確認しない。
 すぐさまフォアへ回り込む。
 オープンスペースを狙い、跳ねるボールをラケットで打ちぬく。
 ボールコントロールなど無視し、力任せに腕を振りぬく。
 かけられるだけの重いトップスピンをかけたボールの勢いはすさまじい。
 ベースライン上に落ちる深い打球と、その音。
 渾身の、力のある返球。
 自分でも褒めてやりたいほどのショットだった。

 しかしながら、そこは二百人の頂点に立つ氷帝レギュラー。
 すぐさま飛ぶように脚を返し、腕を伸ばし、弾んだ打球に追いついた跡部さんがそれを打ち返す。
 しかし、そのボールは辛くもネットに阻まれる。
 ぱさりと音がし、ネットが揺れた。
 黄色いボールが、跡部さんのコートの上で、てんてんと跳ね、止まる。

 ギャラリーの声が、消えた。

 しかし、そんな事よりも、まさか、追いつかれるとは思わなかった。
 基礎体力、身体能力共に跡部さんと俺に、そんな大きな差はないと思う。俺だって幼い頃から鍛えているのだ。
 けれど、この跡部という先輩はボールが跳ねる位置やラケットの面や入射角度などから、ボールの軌道をほぼ完璧に予測し、同時に相手の癖や苦手なコースなどを見抜く技術が素晴らしい。
 俺が一を予測する材料で、跡部さんは十を予測できているような、感じがした。
 きっと、この人は目がいい。頭がいい。ゲームメイク能力も実力も技術も経験も俺より数段上だ。
 そしてなにより、プレッシャーのかけ方が、巧い。
 下手をすればすぐに跡部さんに呑まれてしまいそうになる。
 やっとの事でもぎ取れたポイントの喜びも、跡部さんの能力の高さへの驚きと、これほどまでに強い人が存在する氷帝学園男子テニス部への期待に埋もれていった。
 俺は、今はこの人に勝てない。
 認める事しか出来ない。

 下剋上を心に決める。

「うっわ。新入生が跡部からポイントとりやがった!」
 向日さんが大声を出して身を乗り出すと同時に、静まっていたギャラリーがざわめきだした。
「マジマジ?! すっげー!」
 金髪の……レギュラーの芥川さんが何故か妙にはしゃいで向日さんの隣に身を乗り出している。
「やるねー」
 微笑ましそうな笑顔の滝さん。この人は驚いているのかいないのかよくわからない。
「まあ、一ゲームはとれへんやろ。――けど、ようやったな。新入生が」
 感心したように言う忍足さん。この人に感心されても嬉しくもなんとも無い。むしろ嫌な気分になる。
「激ダサだな、跡部」
 長髪の……準レギュラーの宍戸さん。あの人は何であんなに髪を長くしているのだろうか。邪魔じゃないのだろうか。

 結局、俺はその後、一ポイントも取れなかったけれど、跡部さんの宣言した十分を数分ほど超えて試合していた。
 試合後の跡部さんの第一声は、かなり失礼だった。
「弱ぇーな」
 入部当日に大口を叩いてしまっていた事も含めて、悔しさや羞恥などもあり、少し苛ついて反射的に言葉を返す。
「俺は弱くありません。アンタが強いんです」
 そう、俺は弱くない。ただ、もっと強い奴がいるだけだ。
 俺はそいつらを倒す為にここに来たのだから、それこそ望むところだ。
 まずはこの人を下剋上してやる。
「でも、強くなりそうな弱ぇヤツは嫌いじゃねぇ」
 俺の言葉にも跡部さんは笑ってそう言った。強者の、年長者の余裕だろう。
 ああ、悔しい。
「次は勝ちます。勝ってあんたからシングルスの座を奪います。下剋上だ」
 俺の下剋上宣言に跡部さんは、くるくるとラケットを回して笑う。さっきからずっと笑いっぱなしだ、この人。どうでもいいけれど、いやどうでもよくはないが。
「アーン? やってみる事だな。 おら一年、ぼーっと見てんじゃねえぞ。こいつより上手いって自信のあるヤツは俺が相手してやる。来い」
 跡部さんはラケットで俺を示し、その後、新入部員の山に向ってラケットヘッドを向ける。
 跡部さんの言葉に前に出てきた幾人かに、早くも順番を振り始めた。
 これでこそ下剋上のし甲斐があると、俺は顔には出さずに、満足した。いきなりトップになれるような弱いテニス部なら興味はない。
 この実力差を、どうやって引っ繰り返してやろう。
「跡部さん。ありがとうございました。楽しかったです。また相手お願いします」
 急に頭を下げた俺に、周りは驚いたようだ。試合後に胸を借りた方が頭を下げるのは当たり前だと思うのだが、どうやら、俺は随分と無作法者に思われていたらしい。
 跡部さんは「なら、強くなれよ」と高慢な笑みを浮かべてて返してきた。
 その後は球拾いと基礎に戻ったけれど途中で色々なヤツに話しかけられた。

 それにしても、次の日には三人のすごい新入生がいる、と噂になるとは思わなかった。
 噂と言うのは随分と脚が速いらしい。
 教室内でたまたま視線が合った小曾根に「日吉くんって強いんだね」と一声かけられたが「別に」と返してその会話は終わった。
 何度もしつこく跡部さんの話を聞いてくるやつが多くて、参った。どうやら跡部さんというのはこの学園では、いわゆる一昔前に流行ったカリスマ的な存在というやつだったらしい。
 質問攻めが鬱陶しく、冷たくあしらっても訊いてくるやつが後を絶えなかったので、昼休みは校内の散策に出かける事にした。
 まだ、各棟の出入り口や内部の構造をきちんと把握できていないし、地図だけではなく、目で見て確かめたかった事もある。
 本校舎から交友棟、大体の場所を回り終え、探検に近い心持ちで部室棟をぶらぶらと歩いていると外へと出るしかない場所に出てしまった。しかも人気もない。上履きで屋外を歩くのにも抵抗はあるし、きびすを返して来た道を戻る。
 その途中で、大きな音が耳に入った。
 反射的に足を止める。
 さてどうしようか、と逡巡する。暫らく迷ったが、変質者云々、警備云々が酷く重視されているご時勢であるし何かあったら教師に知らせなくてはいけないと、結局は音の聞こえた方へ向う事にした。

 少し歩くと十メートルも離れていない所に、小曾根がいた。
 俺と同じく、音に気付いてやってきたのか、それ以前に用事があってここに来ていたのかは解らない。解かるのは、小曾根が暴れ狂う鳩を抱いているという事だけだ。ばたばたと狂ったように動かされる翼からふわふわと羽毛が舞って行く。最初は、雑菌が――と思った。
 けれど、小曾根に抱かれている鳩の首は、それがふくろうであってもありえない方向に捻じ曲がっていた。
 ああ、と思う。
 それは珍しくもない事で、鳥を放し飼いにしているガラスに被われた植物園で、俺もその瞬間を見た事がある。大抵の鳥は透明なガラスと何もないただの空間を見分けられない。打撲ですめばいいが、運が悪ければ、こういう事もありえるのか。

 小曾根はまだ生きている鳩を撫でていた。
 俺は何故だか鳩を抱く小曾根を見ていた。
 声をかけようとか、校内に戻ろうとか、そんな事も思い浮かばなかった。
 ただ、小曾根見ていた。

 そう時間の経たない内に鳩が暴れる事を止め、しばらく後には、その胸すら上下に動かなくなる。僅かに震えた、溜息のような、湿った小曾根の吐息が、俺のところまで聞こえた。
 小曾根は制服の袖で、目を擦っていた。

 それを見て、我に返る。俺は何をしているのだろうと自問したと同時に、午後の授業の予鈴が鳴った。
 よく躾られた犬の、条件反射のように校内へと戻りながら、後ろ髪を引かれる思いという言葉が頭に浮かんだ。
 小曾根は今、どうしているのだろうか。
 小曾根は、どうするのだろうか。

 結局、小曾根は午後の授業に大幅に遅れ、教師に平謝りしていた。

 あの後どうしたのだろうかと、俺の席の側を横切った小曾根を見ると、洗ったらしい手の、小さな爪に、僅かに土が詰まっているのを見止めた。
 小曾根は色々と尋ねてくるクラスメイトに「チャイムに気づかなかったんだよね。ぼーっとしちゃった」と答え、笑っていた。
 馬鹿な奴だと思った。

 翌日、俺は最寄り駅から学園前駅までの乗り換え不要な路線を、途中でわざと乗り換えた。と言っても向かいのホームなので、さほど差はないのだけれど。
 恐らく、小曾根がいつも乗っていると思われる電車。調べたり聞いたりするほど執着がある訳ではなかったので、ただ、何となく。ほんの少し遠回りをして自動車道側の歩道ではなく、公園の並木道を通って駅へ向うような、そんな程度の意識で。
 結局、俺は何となく、朝練が始まってからもその電車を利用するようになった。
 入学して十一日。
 遅延により恐ろしく混んでいる電車にげんなりする。
 けれど、すでに朝練遅刻は確定なのだから、少しでも早く着く為には躊躇っている場合ではないとそれに乗り込んだ。
 二駅が過ぎた後、人ごみに埋まって土のような顔色をした小曾根を発見する。

 特に何も思わなかったけれど、とうとう来たな、というような奇妙な心持ちになった。