| 目の毒といえばいいのか。 目の保養といえばいいのか。 とにかく、目の前の香奈が茹でた海老の如く赤くなっている事だけは確かだ。 そうだな。とりあえず、その格好を見られて恥じるのは普通の事だから安心しろ。 衝撃のようなもので何も発することが出来ない俺の肩を、鳳が叩く。コイツは本当に馴れ馴れしい。俺と親しいと、勝手にこうやってアピールしやがる鳳は、俺が不機嫌なときは“日吉係”などと言われて俺をなだめるように促されている。不快なことだ。ただし、鳳係は存在しないため。鳳が不機嫌になると、場の空気はひたすら凍らされたままになる。 「そんなに眉間に皺寄せたら香奈ちゃん困っちゃうだろ?」 馴れ馴れしい態度はそのままに、鳳は苦笑しつつ俺を窘め「香奈ちゃん、その格好にあってるよ」と、香奈にフォローを入れた。 散々、周りの連中に弄られ、からかわれ、動揺しすぎて混乱しすぎて半分泣き掛けていた香奈は茹でられた上に一味唐辛子を思いっきりぶちまけられたように、更に赤くなった。 ……熟れて重力に引かれる寸前の林檎、とかの表現の方が良かっただろうか。 とにかく“大丈夫かコイツ”と疑うほどには赤い。 理由を知らない輩が見たら取り合えず病院を薦めるだろう。それほど香奈の頬は熱中症の子どものような赤さで、外国製の身体に悪そうな菓子のような強烈な色合いだ。 「私は?」 後ろに立ってにこにこと邪気のない顔で笑んでいた有田が女給服――と言うのか? メイド服とかウェイトレス服とか言うものの類であることは俺にもわかるが種類はいかんせん詳しくない――の端をつまんでくるりと回り、わざとらしくスカートを翻して引き締まった形の良い足首を晒しながら鳳に問う。 頭には三角巾のようなものを乗せ、床につきそうなスカートは緑釉の器のような深い色合いで、無地のあっさりしたエプロンをしている。香奈と美術館で見たニコラス・マースの絵画に出てきそうなシックないでたちだ。なるほど、似合ってはいる。似合ってはいるが。 「うん、まどかもすごく綺麗きれい」 鳳の返答は自然な様子で、なるほど相手を褒め慣れているのだろうと思った。本当に俺とは真逆の男だ。まあ、確かにその服は有田に似合っている。 しかし、香奈の方は、やけにフリルの多い――フリルっていうんだよな? レースか? とにかくそんな形状のものだ――、一言で言うと、西洋人形の着るような白とピンクを主体としたゴテゴテしたドレスのようなものを、男受けするように改悪した服装だった。 どう贔屓目に見たても、その格好は普通じゃない。秋葉原の駅前にいればまだ納得はするが、ここは私立氷帝学園中等部の教室だ。突如、異空間から迷い込んできたベストを着たうさぎ並みに、この空間に似合っていない。もしくは、平和な日常に前振りもなくいきなり現れた巨大怪獣並に異常だ。 俺は眉間に皺を寄せたまま香奈の頭からつま先までを視線で撫でてから、言う。 「すげえ、変」 今にも泣き出しそうになった香奈のクラスメイトの視線が、俺を刺した。どうも、俺の言動は、香奈を低く見ているように捕らえられがちだ。上からの目線だと指摘も受けた。放っておけと思う。香奈が、俺でいいと思っているのだから、他人がとやかく口を挟む話ではない。 けれど、まあ、俺もどちらかといえば確かに可愛いとは思う。こういう服はまったく趣味ではないが、好きな女が着ていればカエルのきぐるみでも可愛いと思うものだろう、男は。食べすぎで腹が出ていても好きな女の腹だったら可愛いと思うのが男だと俺は十三にして悟っている。中には見た目を最重要視する輩もいるようだが、そこまで重視する人間は稀有だろう。見た目と中身のバランスが大事だとは思う。 それに、むしろ腹が出いたほうが浮気しなくていいとか言うヤツもいる――ちなみに今俺の傍にいる銀髪の大男の事だ。彼女の見目が抜きん出ているため、さすが銀髪大男も色々苦労しているようだ。男女比は、どうしても男の方が多い。俺の父のように“女に学は必要ない”と思っている親が多いのかもしれないし、単純に共学よりも女子校の方が安全だと思っている所為なのかもしれない。 まあ、とにかく、香奈には、その服装は、それなりに似合っていると思う。薄化粧も、なにやらごちゃごちゃ弄られた髪も、その服装に合うようにされているのだろう。 けれど、俺以外がその格好を見るのならただのいやらしい服装としか思えない。 器の小さい男だと思いたい奴は思えばいい。俺には独占欲もあるし嫉妬もする。それに、こんな格好を曝け出せる香奈の神経も疑いたい。 鳳の咎めるような視線と、有田の困ったような半笑いと、俯いて泣きそうになる香奈と、心底、不機嫌な俺。場の空気は最悪だ。 「日吉ひどーい」 香奈の肩に手を置いた、名前も知らない女子が俺を責める。 「超似合ってるよー」 別に似合っていないとは言っていない。むしろ、香奈は何を着ても、大抵のものは似合うと、俺は感じるだろう。そもそも、そういったファッションセンスなど、俺にはないのだから。だから、酷いといわれても納得できない。 そういう基準ならば彼氏以外の男にそんな破廉恥な格好を見せる香奈の方が酷くないだろうか。いや、俺の前でだけでもそんな格好をされたら困惑するが。誰に何を吹き込まれたのかと考えることになるだろうが。 恥ずかしいのか俺の嫌悪感を察知したのか本気で泣きそうになっている香奈を見て、俺は溜息を漏らす。 それに気付いた香奈が、熱い湯に触ったように身を跳ねさせた。水揚げされた海老かお前は。 ああ、もう、仕方ない。 「服が変だって言っただけだ。香奈も有田と同じヤツにした方がいいと思う」 香奈の今の服装は、下着が見えないのが不思議なほど太股がかなり露わになっているけれど、有田の服装はほとんど露出がない。胸も特に強調していないし――そもそも、強調されたところで香奈の胸は樺地の胸筋ほどもないので、むなしいだけだ。 俺は眉間の皺を意識して減らすと、自分のものではない教室内を見渡す。そうして出来るだけ柔らかい声を出すようにする。ここで俺の心象を悪くしすぎて香奈の心象まで悪くしたくない。俺自身が嫌われるのはどうでもいいが、香奈に飛び火するのは頂けない。レギュラーになったことで俺は前と変わりないのに、注目度だけが上がって今やこんな心配までする始末だ。 テニス部のしごきに耐えられず辞めて行った大馬鹿な奴は“殴ってきたらすぐに警察に駆け込んでやるよ”などとにやにや笑いながら、こちらに危害を加えようとしてくるのだから全く面倒くさい。俺の公式戦出場を邪魔するよりも、もっと他の事に意欲を燃やせ。 「こいつの着れるサイズの、有田と同じヤツないか?」 俺と目が合い、妙に頬を赤らめた女子が「少し待って」と俺につげ、ロッカーを漁りはじめた。レギュラーになってから、部長になってから、こういう無駄な反応をされることが多くなった。氷帝テニス部レギュラーという肩書きは、幼い中学生の俺たちには絶大なようだ。高校くらいまでは通じるかもしれないが、大学以降社会人にはきっと生ぬるい目で見られるだろう。 女子は、ロッカーから出てきたそれを俺に渡してきたので、軽く頭を下げて返し、衣装を香奈に差し出す。それを受け取り、教室内に臨時でつけられたカーテンの向こうで着替えを終えた香奈が、少し安堵したらしき顔で出てきた。 そりゃそうだよな、あの格好は恥ずかしいよな。 「香奈、こっち」 「ん?」 軽く首を傾げて手招きする俺の方へ来た香奈の髪を軽く手で梳き、頭に乗っている調理実習で身につける三角巾みたいなヤツの位置を少し後頭部に傾けて髪をまとめるように止めてやる。これは、他の男共への牽制の意味が強かった。普段は人前でこんなことはしないが、人の彼女に、あんな男に媚びを売るような格好をさせる馬鹿共へ、多少は釘を刺せるだろう。 香奈は、普段と違う俺の行動に少し照れたような様子だったが、素直に大人しくしている。そして、肩を押して正面を向かせ、それの位置を軽く直していると、不思議そうな香奈の瞳とかちあった。 「あんまり高い位置だと、頭悪そうにみえるだろ」 ただでさえぼけっとした顔をしていて馬鹿に見えるのに、とは言わなかった。 「うーん? そうかな……よくわかんないけど」 「わからないなら大人しくしてろ」 「してますよーだ」 「ほら」 また、肩を押してクラスメイトのやつらの方を向かせる。 軽く背を押してやると、香奈は居心地悪そうに有田の傍まで歩いていった。 「違う意味で可愛いよ、香奈」 「私はこっちの方が恥ずかしくなくていいなあ」 いつもの調子に戻った香奈が長いスカートをつまんで先の有田のようにくるりと回った。 先ほどと比べればかなり淑やかな女給服で、演技がかりつつも楚々と歩いた香奈は、俺が言うのもなんだが、多分、“愛らしい”という表現がぴったりくると思う。ペンギンを蝶ネクタイで着飾らせたらこんな感じだろう。もしくは犬に眉毛を書いたらこんな感じになるかもしれない。 さきほど服も、可愛いだけは可愛かったけれど。しかし、人に仕える、他人に隷属するスタイルがこれほど良く似合うのは、少し問題だとも、思った。そういう意味では、逆に有田は似合っていなかった。有田は他人に仕える性格ではなさすぎる。 「日吉って結構器用だよね」 鳳が感心したように俺の隣に並ぶ。それから余計なことを言い出した。 「神経質だから?」 煩いと言うかわりに隣に立った鳳の顔を睨む。どうしてこいつはこんなに背が高いんだ。 有田も俺と変わらない位あるから、二人で並んでいると何かの――少なくとも映画っぽくはない――ワンシーンのように様になっているが。 「ちなみに俺は調理の方だから衣装ないんだ。安心していいよ」 何の安心だか、俺は問う気もない。 「お前がどら焼き作るのか?」 「一応」 「……お前、外に出た方がいいんじゃないか? テニス部レギュラーなら集客効果あるだろ」 「この出し物のウリはウェイトレスが可愛いところだからいいんじゃない? でなくて」 どら焼き喫茶とか、訳のわからない出し物のくせにメインはウェイトレスかよ。通りで何人か“それはどうなんだ? ”と思うような衣装のやつがいるのか。 とりあえず、俺のクラスでも可愛いと噂される新田の頭の上に乗っているヘアバンド――カチューシャ? ……名前だけで覚えてるから何ともいえないが――には、恐らく猫を模したのであろう耳が付いている。 それを異常なものを見るような目で見ないように気をつけつつ鳳に問う。 「お前、どら焼きなんて作れるのか?」 そう、それが一番の疑問点だ。 「一応」 はっきりと作れる、と答えなかったところがなんとなくひっかかる。それについては言及せずにいると、携帯にメールが入った。 震えるそれを制服のポケットから取り出せば、“準備完了。即座に教室に来るように”と書いてあった。面倒だと思いつつ、息を吐き、携帯をポケットに押し込む。俺のクラスは映研でもないくせに自主制作の映画を作って視聴覚室で上映するらしい。 他の映画上映するクラスと、どちらの映画を何時に放映するか等の時間調節が終わったので、教室に戻ってくるようにという意味だろう。 「呼び出し喰らったから戻る。鳳、テニス部の方忘れるなよ」 そう、俺は鳳にテニス部の出し物の事で伝言しに来ただけだ。それなのに、このクラスの奴らと来たら無理矢理引き止めた上、香奈を無理に着替えさせて俺の前に差し出したのだ。 香奈にとっても俺にとってもいい迷惑である。教室から出ようとした俺へ、有田と香奈が手を振ってくる。全く同じ服装で、しかも身長差があるために、まるで姉妹のようだった。 自分の教室に着くと一部のクラスメイトの剣呑な瞳にかち合う。反射的に無反応を返す。この忙しいのに何だらだらしてんだ、と言いたいのだろう。ならば言えばいいのにと思ってしまう俺は多分、とても幼い。 それにしても、別にカメラマンでもない、ただの道具持ちの俺がいなくても進めることは出来るだろうと思うのだが、サボられているのが気に食わないというところだろうか。しかし、ほんの少し、その視線に、憐憫と……なんだあれは。面白がってるのか? 「日吉」 呼ばれて、無言で視線だけを向ける。 自称監督、現在では勝手に【 とにかく、ものすごく馬鹿で、覚えたての単語は使いまくりたいタイプだということをこの腕章ひとつで証明している鈴木はある意味で確かに天才かもしれない。こいつに変な言葉を教えたら嬉々として使いそうだ。 そんな俺の哀れみの視線をものともせずに鈴木は言う。 「主演男優の清水が怪我した。代役はお前と満場一致で決てi「断る」……拒否権はない」 「断る」 「日吉が適任なんだ」 「断る」 相手が押し黙ったが、念の為もう一度言うことにした。 「断る」 「このクラスの出し物をダメにする気か」 「断ると言ってるだろう。俺以外のやつに頼め」 「今年こそは跡部先輩のクラスを抜いて出し物で一位になりたいんだ! サッカー部のエースの清水がダメになったらテニス部レギュラーの日吉に頼むしかないっつってんだよ! 少しは協力しろよおまえ! 大体道具係が一番人数いるんだから大道具から選ぶのは当り前だろ。つーか、やれ! バーカバーカ!」 鈴木、おまえ、勢いで馬鹿とか言うなよ、もの凄く頭が悪そうだぞ。 しかも、それ、人に物を頼む態度じゃないだろ。さらに、情けないことだが、こいつは俺より六ヶ月ほど先に生まれている。つまりは六ヶ月、俺よりも人生経験が多いはずなのに、なんという馬鹿だ。しかも、香奈の馬鹿のような愛らしさはどこにもなく、ただたんに苛立たしく憐れだった。 「まあ、いいんじゃんー? 中学二年の文化祭は一度しかなーいし。役者は上映の手伝いなしー、だしさ。客呼びしたら遊べるよん? 荷物運びだったらほとんど視聴覚室に詰めなきゃなんだよぉー?」 のし、と俺の背中に乗ってきたクラス一調子のいい女・小林が後を引き継ぎ、俺を説得しはじめた。一年時には同じクラスだったためか、こいつはやけに馴れ馴れしい。鳳よりも粘着質に人の気持ちを考えずに馴れ馴れしい。声をかけてきたと思ったら跡部さんを紹介しろと屈託なく言うような性格だ。誰がするか。自分で言え。 それにしても、重いから乗るな。十キロ超えた物を理由無く背負いたくない。十キロ未満でもこんな女はごめんだが。……つまり、香奈以外はごめんだ。少々乱暴になりつつ背中から小林を引き剥がしたが、まったく効いている様子はない。 「因みに映画の内容はSF――カッコ 溜息が漏れた。 大体、普通に模擬店をやろうと思うヤツはいなかったのか? 俺は俳句の展示会を推したのに、ものすごい勢いで却下された。それからエスエフは少し不思議ではない。ちなみに、スペース・フューチャーでもサイン・ファンタジーでもない。サイエンス・フィクションだ。しかもサイキックは 今更ながらの俺の深い溜息が観念したと表していることに、小林は気付いたようだ。 俺が嫌だと主張しても鈴木は俺を主演にしたくて仕方ないようだし、クラスの連中もどうやらそうらしい。憐憫の瞳を向けてくるくせに、誰も俺をかばいはしないし、代案すらないようだ。 クラス全員を敵に回して一人ボイコットなんて内申に響くような事は御免被りたい。ここは一時的に泥をかぶって通知表に『文化祭でもクラスの映画の主演に抜擢され、人望厚い〜』とか書かれるかもしれない可能性を取る方がまだいい――と無理矢理自分を納得させた。民主主義は数の暴力だというが、俺の今の現状はその通りだった。理不尽だ。ここで理不尽だと暴れたら確実に俺が空気を読めていない悪者に成り下がってしまう。くそっ。 「当日、俺は絶対何もしないからな。客呼びもしない」 「それで当日は小曾根とイチャイチャするのかい?」 「黙れ」 香奈が同じクラスならば、必死で俺をかばっただろうなと、脳の遠いところで思った。 |