若が美術室に着いた時、床に座り込み、ガラス窓によりかかった香奈は明らかに(困ったなぁ……)という顔をしていたので、まず彼は彼女に向かって歩きながら「どうした?」とたずねた。 その声に、若の来訪に気づいていなかった香奈の肩が大げさなくらいビクリと動く。それから、若を視線で確認した香奈は眉を八の字にして情けなく彼を見上げ、彼に見せるように両手をおずおずと向けた。若は香奈の華奢な手のひらを覗き込むようにして床に膝をつき、名刺ほどの大きさの冊子が乗っていることに気づく。それに手を伸ばして合皮らしい表紙を軽く撫でてから、表紙をめくる。 「……観月さんの学生手帳か」 思わずため息が漏れた若を見上げて、香奈が「一球勝負のとき、私、観月さんと若のブレザーとか預かってたから、その時だと思う……」と、言いながら曖昧に微笑んで、幼さの残る手のひらを、自分の柔らかな頬にぺたりと当てた。 「返しに行くつもりなのか」 ペラペラと生徒手帳をめくりながら、若はちらりと視線を香奈に投げた。 「うん。だから、今日は若と一緒に帰れないなぁって凹んでたとこですよ」 眉尻を下げたまま微笑んで、香奈は小さくため息を吐いて見せた。それから、頬に当てていた手で、己の髪をゆるゆると梳く。 外はもうすっかり暗く、時間的には完全下校前ではあったが、これからルドルフに行くことを考えると、香奈は少々気がめいる。 「どうしてだ?」 そんな香奈の残念そうな声に、若は紙面から視線を上げて、その手帳を香奈に差し向けながら訊ねる。香奈はそれを受け取りながら、若を見上げた。 「んー、今日、これからルドルフ行こうかなって」 「鬱陶しいな本当に、香奈は」 即座に、若が、そう言った。 香奈はこの話の流れでどうして彼がそんなことを言い出したのかわからず、きょとんとして若を見上げる。瞬きが多くなっている香奈の様子に、若は、軽く彼女の鼻先をつまむ。 「一緒に来てくれって言えばいいだろうが」 溜息とともに、若はそう吐き出して、香奈のつまんでいた手を離す。 「……来てくれるの?」 香奈は観月の生徒手帳で、嬉しさで自然と緩む口元を隠しながら、顎を引いて覗うように若を見つめる。仔リスのようなその仕草に、若は、香奈の額に三発程度ビシビシビシとデコピンを連打してから、痛みで額を押さえた彼女に「行くぞ」とだけ言って歩き出した。 香奈は慌ててコートを羽織り、マフラーを首に引っ掛けただけの姿で急いで若の後を追う。 はたして、ルドルフの男子寮についた時には夜七時に近かった。 香奈も若も、真面目に丁寧に家に帰宅が遅れる旨と、現在お互いと一緒にいることを伝えた。若は母に香奈をきちんと送り届けるように言われ、香奈は若に迷惑をかけないように気をつけて帰って来いと兄に言われた。 「古武術の練習、ごめんね。できなくしちゃって」 携帯電話の通話を終えた若に、香奈が言えば、若は「別に」と返し、寮へすたすたと向う。香奈は小走りに彼を追いかけて、無骨な手を握った。若は、振り払わない。 ルドルフの寮の管理人は今の時期学生は遅くまで教会の飾り付けをしているから、ぜひ行って直接渡したらどうか、と二人に提案した。恐らく、この管理人もクリスチャンなのだろう。 若と香奈は、まあ、そう言うのならそれでもいいかと、寮管理人から、彼の名前と印鑑と入校許可の文面を書いた仮の入校許可証を作ってもらい、聖ルドルフ学院へ向う。寮のすぐ側のそこへ向う。 ざっと校庭を見回して、教会はすぐにわかった。 作業の為にだろう、照明が煌々と灯っており、幾人かの生徒が、外から飾り付けを行っているのが見える。教会の隣には輸送してきたのだろう、大きなモミの木があり、やはり高い脚立に乗った男子生徒が飾り付けを行っている。それでもモミの木の頂上には手が届きそうもないほど大きい。 そんな中、手近にいた生徒に、香奈がおずおずと三年の観月がいないかと聞くと、その少年は「いるよ。おーい観月ー! 誰か来たー!」と、教会の中に向って大声を上げた。そして「すぐ来ると思う。んじゃ」そう言って軽く手を振り、作業に戻った少年に香奈はぺこりと頭を下げた。 香奈は、観月の生徒手帳を用意して両手でしっかりと持つと、後ろにいる若を振り返って「綺麗だね」と微笑んだ。 若は香奈の言葉に、ようやっと教会の飾り付けへ目を向けた。飾り付けがというよりも、それを行っている生徒達の様子が若の目を引く。なんとも楽しそうだ。もちろん、飾り自体も、飾りつけも素人作業ではあるものの、それが逆にクリスマスの雰囲気を盛り上げている。跡部のしたように本格的に業者に頼むのでは感じられない共同作業の楽しさとでもいうのだろうか。 そう思った若が、ふと香奈へ視線を向ければ、彼女は自分も飾り付けに参加しそうな勢いで瞳に光を溜め、頬を紅潮させている。こういうものが好きなんだろうな、と微笑ましい気持ちで若は照明に照らされた香奈の顔を眺めながら、けれど、自分はそのイベントを一緒に過ごしてやれない罪悪感に、目を細める。前に向き直って、装飾されていく様子を楽しげに見つめている香奈の華奢な背中を、若は眺めた。 「誰かって誰ですか……」「観月ー女だーね?」「クスクス。隅に置けないね」「えっ観月さんって彼女いたんっすか?!」「えーイツミもみーちゃん先ぱ痛ぁッ!」「その呼び方はやめるように言ったでしょう!」 ああ、なんだか騒がしい一団が来るな、と若は教会の入り口へ視線を向ける。しかし、香奈はいまだツリーやらの装飾を眺めていて、何にも全く気付いていなかった。注意力散漫なその様子に、何がしかの事件が起きれば真っ先に犠牲になるタイプだなと若は香奈に対してのデータを一つ増やす。 「ああ。小曾根さんじゃないですか。今日はお世話になりました……どうしてルドルフに?」 観月に気付いていなかった香奈は、声をかけられた瞬間、水から上げられた魚のようにびくっと身体を跳ねさせてから「こんばんは」とおずおず笑った。 「……小曾根?」 観月の後ろから好奇心満々で現れた顔が、きょとんとして香奈を見る。 「あ! 不二君だ。そっか、そういえばルドルフだっけ?」 見知った顔に安堵したのか、香奈は嬉しそうに微笑んだ。若は不二裕太を、関東大会の 「越前とは仲良くしてんのか?」 「だから、リョマは違うって言ったでしょ。不二先輩にも、不二君にも……」 からかう不二の言葉に、おそらくは苦笑しながら、香奈は髪を耳にかけたのだろうが、若の位置からそれは見えない。 「ええええ、小曾根さんがみーちゃnいたぁっ!」 「だから、その呼び方はやめてください」 まるで漫才のようにイツミの脇腹辺りをひじで軽く小突いた。しかし、イツミの反応は過剰で、おもわず、間近でそれを見ていた香奈も笑ってしまう。 それから、香奈は観月に生徒手帳を差し出した。観月は、迂闊な自分を呪う言葉と、香奈に対して礼を言いながらそれを受け取り、教会を振り仰ぐ。 「綺麗でしょう? クリスマス礼拝まで日にちがあるんですが、皆さんが張り切ってしまってこんな遅い時間まで作業してるんです」 そう説明する観月に「観月が一番張り切ってるよね、クスクス」という言葉がかぶさる。香奈はこくこくとうなずいて装飾の美麗さを褒めた。褒められたルドルフの人間はまんざらでもなさそうに、どこそこの飾りに苦労しただの、これから内部も徹底的にやるだのと楽しそうに説明し、香奈もそれを楽しそうに聞いていた。 ただ、クリスマスに興味も関心もない若だけが、少々理解不能な言葉と、多々理解不能な彼らの感情。けして若は愉快な気分ではない。 「ノエルは小曾根さんはミサに行かれるんですか?」 「はい。行く予定です」 和やかに会話する香奈と観月に、若は何となく手持ち無沙汰になり、香奈の側まで歩くと、香奈が若を振り向いて、微笑んだ。その笑みの意味は、若にはよくわからなかったが、香奈は機嫌が良さそうだった。 「あっ! 氷帝のヤツだーね!」 指をさして言われた若は、しかし、相手がテニス部であること、関東大会の おそらく、向こうも同じようなものだろうと若はあたりをつける。 「ああ。では、日吉君と教会でデートですか」 微笑ましげに言う観月は、子供の成長を喜ぶ母親系の笑顔を貼り付け、それが若には何となく気に食わなかった。 そして、そのセリフに香奈よりも早く「なんだ、観月の彼女じゃなかったんだね」クスクスと笑いながら少年が言う。その少年を、観月が「最初からそう言っているでしょう。ちょっとした知り合いですよ」と軽く睨みつけた。 「や、あの、教会でデートしないですよ。牧師さんにからかわれちゃいますし」 香奈としては恥ずかしくて反射で言った言葉だったけれど、それに急に顔を出したイツミが「若はクリスマスは、学校終わったらイツミと一緒に家の掃除してイツミの荷物片付けてくれるんだもんねーおばさん命令だもんね!」と甘えた声を出し、若の腕に抱きついたので、どういう関係なんだ、という視線がイツミと若に降り注ぐ。 若は即座にイツミの腕を振りほどいて「ふざけんな」と彼女の肩を軽く殴った。大げさに痛がったイツミは、けれど、お気に入りの玩具を見せびらかすように上機嫌で言葉を続ける。 「冬休みはイツミ、若とずーっと一緒に過ごすんだよ!」 友達の家に遊びに行くのを楽しみにしているような嬉しげな言葉は、けれど香奈の笑顔を奪った。若は、反射でイツミのすねを蹴った。イツミが、痛がってうずくまる。 「お前の家の改装工事中だけ居候させてやるだけだろうが。変な言い方をするな――ただの腐れ縁です」 口早に、慌てた言葉を吐く若に、香奈は彼の制服の裾をつまんで「若」と彼を落ち着かせるように声をかけた。若は、その声に香奈の顔を見る。香奈は、“大丈夫だから。わかってるから”とでも言いたげな、寂しそうな微笑みで、若はイツミを呪う。先に香奈に説明しておけばよかったかと、内心で舌打ちした。 この辺りの遠慮のなさが、若にはイツミと居ると楽だと感じる一因ではあるが、女として見ていない証拠でもあった。 とりあえず若の最後の言葉に納得したメンバーは、けれど語尾がだーねな少年が率先して関係をからかってくるので、若は辟易した。この時ばかりはむしろ不機嫌が顔に表れるようにした。 観月は騒がしい連中は無視し、香奈に向って言葉を紡ぐ。 「そうですか……午後はどうされるんです? ご家族と?」 その言葉はただ単に興味もしくは話の流れだったのだろう。けれど、若は香奈の予定を探っているのではないかと猜疑してしまう。 「や、えっと、あんまり……その……」 適当なことでも言えばいいのだろうが、香奈は上手く言葉に出来なかった。母と父は毎年夜になるまで仕事であるし、兄は彼女のところへ行く上、親友の有田はおそらく鳳と過ごすだろう。クリスマスは一人で居るなどと言うのは若への宛て付けのようで口にしたくはなかった。そして、何かをしてすごすと言う嘘を咄嗟に口に出来るほど世慣れていない。 「ああ、でしたら、 「可愛い女の子が増えるのは嬉しいだーね」 「あ、そっか、小曾根も来いよ。ルドルフって男子の方が生徒多いんだよな」 三人の誘いに、香奈がおかしそうに笑う。香奈は、男だらけのダンスパーティを想像してしまったので、それも仕方のないことだった。 香奈とは逆に、若は男に誘われている状況できっぱりと断らない香奈の態度を不快に思いつつ、けれど、一緒にいてやれない罪悪感も手伝って、無表情での無言を通す。 「でも、部外者の私が行っても悪いですから」 そう、辞退する香奈に、観月は微笑む。それは、随分と親しげな微笑で、やはり若はそれが癇に障った。もちろん、理由はそれだけではないけれど。 「クリスマス・キャロルにもあるでしょう? クリスマスは“全然違う道を歩んでいる人も、墓場まで一緒に旅をする仲間だと知る唯一のとき”だと。せっかくのクリスマスに一人で過ごすなんてもったいないですよ。ミサに行かれるくらいの貴女ですから――まあ、気が向いたらご連絡下さい」 観月はそう言うと、生徒手帳の白紙のページに携帯電話の番号とメールアドレスを書き付けて香奈の手に渡すと、後ろで何やらギャーギャーと喚いている不二たちに「行きますよ」と声をかけて香奈と若に会釈した。 それに、香奈は大げさなくらい丁寧に頭を下げる。 「小曾根ー、来いよなー! でも、兄貴には黙ってろよ!」 そう、最後に後ろ向きに手を振りながら言った不二に、香奈は「考えておくー!」と笑って手を振る。 その様子に、若は苛々とし始め、強引に香奈の手首を掴むと、歩き出した。 香奈は若が不機嫌なことに気付きはしたが、なぜ不機嫌になっているのかがわからず、困って、彼の手から己の手首を逃し、手首を掴まれるのではなく、きちんと彼と手を繋いだ。この方がきっと若の機嫌も治りやすいだろうと思って、だったけれど、実際に効果があるかどうか定かではない。 若には、クリスマスの重要性はわからない。そこに、香奈や常人と認識と意識の差が出来る。その差に、なんとなく若は焦る。 香奈に観月に誘われたパーティに行くのか? と聞こうとした唇を、若は意地で固め、ただ、手を繋いだまま二人で夜道を歩く。 自分には彼女の行動を制限する権利はないのだ、と若は思う。けれど、香奈が観月のアドレスが書かれた紙を捨ててくれないかと、期待していた。 |