自覚したのは、初めて同じ電車に乗った日だった。 柔らかい感触で触れてくる髪からは淡い薫りがしていて、それに首筋をくすぐられるたび鼓動が強くなった。俺の肩に顎を置いた小曾根が何か喋るたびに、わずかに肩に振動が走って、自分でも驚くほど動揺した。理性なのか意地なのかわからないものを総動員して平静を装って会話するのにはえらく体力をそがれた。 けれど、駅を降りた時、小曾根が、すぐさま、白杖の女性に駆け寄ったのを見てやはり好きだなと思った。それが当たり前の事だと確信しているような姿が好きだなと、思った。 全くの他人に話し掛けるのだから、緊張はしているような様子だった。でも、 “好きだな”と感じてしまったんだ。 それまでは、少し気になる程度の、ありふれたただのクラスメイト同士だった筈なのに。 いや、気になっていた時点で、俺は小曾根の事が好き、だったのだろう。ただ、その時は、気づいていなかった。小曾根の声に視線を上げた時、もう、きっと。 俺は、自分で言うのもなんだが、こういった方面に酷く疎い。 小学生の頃は女子の話をする奴は軟弱だと思っていたし、そのためにスポーツを頑張ることは不純だと軽蔑している。 誰が好きか、誰を好きか、そんな話題に混ざることも、堕落のように嫌悪していた。 女子なんて、休憩時間には騒がしく喋って、グループを作っては対立している幼稚なイメージしかなかった。 軟弱で、不純で、堕落で、幼稚で、軽蔑と嫌悪の対象であったはずなのに。 小曾根と目が合った時とか、小曾根が馬鹿みたいに嬉しそうな顔で笑った時とか、そういう時に胸の中に発生する羞恥にも似た、焦燥にも似た、窮地に追い込まれる感情に戸惑っている。 疎ましいことこの上ない程に。 こんな感情さえ、情動さえなければ、俺は平静でいられるのに。 それでも、今日も小曾根が乗ってくる車両で、小曾根が乗り込んでくる扉の付近で、小曾根が来るのを待っている。俺が平静を装わなければならないほど追い込まれた心持ちでいる事を、小曾根に悟られないようにしながら。 自分の行動の不甲斐なさに内心で舌打ちしつつも、次は小曾根が乗り込んでくる駅だと思うと、心臓が緊張で跳ねる。もう少しで会えると、期待してしまう。 電車がブレーキをかけて、ゆっくり、ゆっくりと駅へ近付いて行き、遠くのホームに並んでいる小曾根が見えた。俺はおそらく、三階の教室からグラウンドに居る小曾根を見つけられる。 「おはよう、日吉」 今日は普段よりも無駄に元気な挨拶をされた。 うるさいと思いながらも、かけてくれた声が嫌ではなくて、俺は本当に何でこんなにこいつに惚れているのか。 こんな、 「ああ」 こんなに混んでいる電車の中で、小さな体躯の小曾根が押し潰されないように、バリケードになってやって、くだらない会話をしているのにいちいち相槌を打ってやる。 本当にくだらない事をしてくだらない時間を使ってると思うのに、それが不快ではない。会話できることが、それがくだらない内容でも、かけがえのないものだった。 電車が、駅につくまでの時間が、驚くほど短く感じられるほどに。 小曾根は未だにクラスのほとんどの男子のことを呼ぶ時は敬称の“君”をつけて呼ぶのに、毎日会話をしている間に自然と俺のことだけは苗字を呼び捨てにするようになっていて、それが、甘やかな優越感に繋がる。 あまりに混んでいると、電車から降りた時、はぐれないように俺に気づかれないようにとても注意しながら、俺のシャツの裾やらラケットバッグの端やらを、小曾根がそっと掴んでくる行為に、これもやはり驚くほど鼓動が強くなって、気づかない振りをするのに苦労したりもする。 手軽な男だ、俺も。本当に。そして、恥ずかしい男だ。心から、そう思う。 俺たちの登校時間は、少し早いので、いつでも、校門前にちらほら人がいるだけだった。 それでも毎朝、小曾根と俺は一緒に登校しているので朝練の奴らの中では多少目立っているのかもしれない。 一度、小曾根に聞いた事がある。 「一緒に登校したら誤解とかされるんじゃないのか?」 その問いに、小曾根は小さく首を傾げてきょとんとして、不思議そうに俺を見つめてきた。質問の意味を理解できていないその様子に、小曾根が俺を意識していないことがすぐにわかった。 けれど落胆するよりも俺は、小曾根と一緒に登校していたかった。意識していないということは少なくとも嫌な感情も持っていないということだ。だから、その話題を「気にならないならなんでもいい。今日の一限って英語だったよな……」と、不自然に打ち切った。 自分から同じ電車に乗っているのに、俺はいつからこんなに卑怯になったのだろう。 ◇◆◇ 今日の保健体育は、男子がグラウンドで走り幅跳びだった。女子は五十メートル走らしい。競技を男女別にしたところで、同じ校庭で行なうのでは、別けた意味があまりないのではないかと思う。そういえば、小学校の頃は体育は男女一緒だった。なぜ、中学では分けられるのだろうか。きっと、大人の目から見ればそれに足りる理由があるのだろうが、まだ児童を卒業したばかりの、生徒になりたての俺にはよくわからない。 俺は三回の計測を終えると、記録を係に告げる。計測が終わった奴らの、雑談渦巻く群れに混じった。 「すげー。日吉って陸上部とか入んないの?」 俺の記録を聞いたクラスメイトが、馴れ馴れしく肩に手をかけて来る。 それを振り払うのも面倒で、返答すべきか否か考え、一応、気乗りしない声で答える。 「興味ない」 自分でも、自分の性格はわかっている。 記録で間接的に他者と競うよりも、直接的に他者と戦うようなスポーツの方が俺には向いている。実力以上のものを発揮できる。そして、自分でもあまり社交的ではないと思う程なので、団体競技には向いていない。 古武術も、テニスも、対戦相手がいる上、一つの試合そのものをバレーやバスケのような多人数で競う訳でもないので、とてもやりやすい。 「陸上部ならテニスよりも、ずっと早くレギュラーになれんだろ」 外部者の俺が、氷帝のテニス部に入っていることを快く思わない奴らがいることを思い出しながら、淡々と言葉を返す。 「興味ない」 そう答えると、相手が俺の肩から手を離して、まるで海外映画のようなオーバーリアクションで不自然にやれやれと肩を竦めた。 そもそも陸上部だって、本気でやっている奴らはきっと俺より速いだろう。 俺は、先ほどからちらちらと見ていた女子の五十メートル走に意識がいっていて、生産性のない会話を長時間続けたくなかったのもある。 脚力を比べずに純粋に計測するためにか、二人ずつ走り、二人の生徒がストップウォッチで計測しているようだった。なんとなく意識せずに眺めているつもりでも、ああ、次は小曾根の番だな、と視線が自然に小曾根を追ってしまう。 小曾根はクラウチングスタートの構えをしていたが、それが不慣れなのは、遠い位置にいる俺にもわかった。無様な格好と言ってしまっても問題なさそうな程、全く似合っていない。スターティングブロックに置かれた足と、地に付いた手とで、生まれたての小鹿もかくやというような、不細工なポーズだった。 運動は得意でないのか、小曾根の手足にしなやかな筋肉は見られず、ちいさな身長と相まって薄くて細く脆そうに見える。それは華奢を通り越していて、運動して欲しいと純粋に思った。もっと綺麗な体になるだろうに。そう思ってしまったことが恥ずかしく悔しく申し訳なさも伴って、瞑目した瞼の上に右手指の爪を置いた。 あまり速くはないけれど――と言うか、遅すぎないか、あれ―― 一所懸命走っている姿を、可愛らしいと思う自分が自分で信じられない。 多分、他の女子だって一所懸命走っている奴はいた筈なのに。俺の目に留まるのは、いつも小曾根ばかりだ。 頬を紅潮させ、いつもは下ろしているのに、この時だけ結ばれた髪をなびかせ、ゴールに辿り着いた小曾根は、大げさなほど肩で息をしている。 体力ないな、と思ってその肩の上下運動を眺めていると「あ、小曾根だ」先ほどとは違うクラスメイトの言葉が聞こえた。それに、また別のクラスメイトが答える。 「うちのクラスでは上位だよな」 あの走りでか? 「結構、顔可愛いし、小曾根、身長低い所がいいよなー。俺より背ぇ高いやつは無理」 「それはお前が低いからだろ。いま身長いくつだよ。俺は背ぇ高いやつ好きだわ。縁はねェけど」 「ま、でも、身長おいといて顔だけで言うなら有田だろ。あの顔はやばい、初めて見た時芸能人かと思った」 「あー、そーいえば三村が小曾根狙いっぽい? かも」 「はぁ? なんでそんな事知ってんの?」 「幼稚舎組と外部組の話してる時になんか、小曾根に彼氏がいるかとか聞かれた」 「でも、解るかも。有田とかは完璧過ぎるけど、小曾根とかはまあまあ手が届きそうな可愛さって感じ」 「学校全体でもうちの学校はレベル高くない?」 「他校とか、スゲーのいるもんな」 「そうそう。スカートも短いしー氷帝でよかったー」 溜息が漏れた。 相手の内面ではなく、外面や容姿や上辺の人当たりだけで他者を判断するのか。多少なら、それはあるだろう。真冬に全裸に近い格好をしていたり、真夏に毛皮のコートを着込んだような格好をした人間は、行動を予測しがたく避けたいものだし、それが何かのきっかけになることは認めるが、けれど、それが本質ではないだろう。 身長が相手より高いとか低いとか、その程度の事を気にするプライドが安っぽいと、俺は思う。その差が自身のマイナスのものならば、努力してプラスに近づけて行けばいいだけだろう。自分を相手のレベルに近づけるのではなく、相手を自分のレベルまで引き下げる、と言っているようにも聞こえてとても不愉快だ。 自分で他人を勝手に順位付けて、手が届くとか届かないとか判別するなんて、俺には意味の無い行為にしか思えない。 大体、まあまあ手が届きそうってなんなんだ。 苛々して、でも、目を細めると只でさえ悪い目つきが更に悪くなるのでまた小さく息を吐いて気持を落ち着かせる。 それでも、胸の奥にざわざわとしたものがあって、それがまた俺をいらつかせる。 「実際、小曾根って彼氏いるの?」 「しらねー。いないっぽいけど」 こいつらの会話を聞いているのも不愉快で、少し移動して幅跳び用の砂場のすぐ横にある鉄棒に寄りかかって校庭をぼんやりと眺める。 小曾根が笑ってクラスメイトの女子を会話している姿が目に入ってきた。 本当に俺は女を好きになるとかはじめての事で。 小学生の頃だって、こいつ可愛いなと思う位はあったけれど、恋愛感情なんて初めてで。 こんなこと誰にも相談できない。 嫌なんだ。 小曾根に近づきたいと思っている自分が。 矮小な存在になった気がした。 ぼんやりと校庭を見る俺に気付いた小曾根が小さくわずかに手を振ってきた。 鉄棒の周囲には俺しかいないので、俺に手を振ったことは間違いない。 手を振り返すような性格でもないので動物を追い払うように手の甲を小曾根に向けて、何度か揺らして返す。 すると、小曾根は笑って、もう一度ほんの少しだけ手を振ってから友達の方へと歩いていった。 男子も女子も談笑と授業に夢中で気付いていなかったと思いたい。 こんな小さなやりとりで、また少しだけ心臓の鼓動が早くなるのを感じる。 こんな自分が大嫌いだ。 ◆◇◆ 「おはよう日吉」 電車に乗り込んできた小曾根が、笑って俺に挨拶する。無駄に元気だ。 「……はよ」 俺はいかにも煩いと言うように、おざなりに挨拶を返す。 昨日の五十メートル走では記録が一秒も縮まって十二秒で走れたとか(遅すぎると思う) 夕飯の試しにビーフシチューにきゅうりを入れてみたら微妙な味だったとか(いれるなよ) いつもと同じくだらない話。 それでも、俺が対応に億劫さを感じない程度に控えられ、なるべく共通の事象をピックアップされているそれ。 学校では、俺があまり話し掛けられることを好まないから、学校に着くまでのこの電車の中でしか行われない小曾根の、俺が拒絶した瞬間に噤まれる会話。 駅で乗り込んできた人波に潰されそうになる小曾根の腕を引き、何とか体勢を整えさせる。 「ありがと」 笑って俺を見上げてくる小曾根に 「しっかり立てよ」 と、一言言うと、任せろとばかりに、小さく頷きを返してきた。 その仕草に、また心臓を揺らされる。 ああ、こんな――こんな自分など知りたくなかったのに。 「そういえばね、私の友達が井上先輩に告白されたんだって」 「井上……?」 幼馴染と同じ苗字だな、と思ったが口には出さなかった。佐藤、鈴木、中村、井上……とにかく、そのあたりの苗字は珍しくない。幼馴染の血縁ではないだろう。 それにしても、小学生だった頃より、こういった話が増えていると感じる。それが氷帝だからなのか、それとも俺たちが男女別で体育を行うようになった理由なのか、判断はつかなかった。 「私も知らないけど、野球部のエースなんだって。すごいよね、スポーツだけで、私ならいっぱいいっぱいになっちゃいそう」 なぜか素直に感心している小曾根を見下ろすと、普段通り儀礼的に目が合う。 「なあ」 「うん?」 「小曾根も彼氏とかいるのか?」 俺からそんな話題が出たことに驚いたように、俺を見詰める小曾根。 身長差の所為でいつも小曾根は俺を上目遣いで見ている。 そんな顔も可愛いと思ってしまう俺は、何か、末期な感じがする。何がかは、わからないけれど、駄目なような気がする。 小曾根は友人の恋愛話つながりで、俺が話題を振ったのだと思ったらしく少し冗談めかして答えた。 「いない。というか、いた事がない。私って別に頭良かったり可愛かったり面白かったりしないし」 「そ、」 んな事ない、なんて言える訳もなく。 “いない”という小曾根の言葉に安心したりもする。 最低だ。 「、うか。俺と一緒だな」 少しだけ慰める意図で言うと、小曾根は少し笑う。 「ありがとう。仲間だね」 「嫌な仲間だな」 「私は日吉と仲間なら結構嬉しいよ?」 わざとらしく、そして普通の中学生の甘えた女らしく、半分演技でむくれて言う小曾根に、ああこんな表情もするのかと新鮮に思う。 俺は、恋愛とか、よくわからないし、恋愛小説だってまともに読んだ事がなくて、こういう時にどうすれば良いのか本当に解らない。 女に好かれるような行動なんて考えたことがない、した事もない、したいと思った事もない。それでも、気を引く為に意地の悪いことをするのだけは間違っているとはわかる。 だから、こうやって、小曾根が誰のものでもない間、誰にも気付かれないように小曾根を思うことを許して欲しい。 ただ、君を想うことを、許して欲しい。 頼むから黙って、ただ愛させてくれ。――ジョン=ダン |