日吉若は氷帝学園一年の、男子テニス部員だ。
 入部した新入生の中でも、良くも悪くも存在感があり、初日に跡部からポイント取った事で注目されている。
 けれど彼についての印象を部員に聞いてみると
「朝練が終わったら即行で着替えて即行で部室を出る。早い」
 である。


 とどきそうでとどかない
 上履きのゴム底が、廊下のタイルと擦れてキュと高い音を上げた。
 知らず知らず足早になっていることに気付いて、それでも歩調を緩めようと思えない所が何だか苛つく。
 ほとんど駆け上がるようにして階段を往き、息を落ち着けながら廊下を進み、美術部の教師の計らいで登校時間になれば解放されている美術室の扉の前に立つ。
 小曾根は、大抵ここで予鈴が響くまで、借りたノートを写していたり、その小さな手には大きすぎる画集を開いていたり、スケッチブックに模写をしていたりする。
 部活が早く終わった時は、自分を迎えに来る俺を小曾根はどう思っているのだろうか。
 きっと、小曾根のことだから、階段を登る前についでに寄っているとでも思っているのだろうと予測はつく。
 美術室でうとうとと寝過ごしてホームルームに出てこなかったことのある小曾根が、そう考えても仕方ない。そして卑怯な俺としてもそう思っていてもらった方が都合はよかった。
 扉の前で息が整ったことを確認し、最後に深呼吸してから、扉を引いた。美術室特有のシンナーめいた刺激臭と古く埃っぽい木の香り、そして最近気づいた古紙の粉っぽい香りのその向こうで、なぜか隅の床に縮こまって座っている小曾根が見えた。そろそろ予鈴が鳴ると告げようと思い傍に行くと小曾根がボロボロ泣いていた。
 瞬間。血の気の引く音が、聞こえた。
「――どうした?」
 俺の声に弾かれたように顔を上げて、手の甲で目元を手のひらで乱暴に擦る小曾根に、恐る恐る近付き、聞く。
 ひく、と喉を震わせ、どこか恥ずかしそうにしながら小曾根はしゃくりあげながら、一冊の本を俺に見せてきた。

 生きている心地がしなかった俺の時間を返せ。

 いや、言わないけれど。言いたくなった。言わないけどな。
「とりあえず、立てよ。制服が汚れるだろ」
 言いながら、差し出された小曾根の手のひらを掴んでやり、立たせる。
 これだけの接触で心臓がいつもより早く鼓動しているのがわかってしまう。それがなんだか悔しい。
 小さく唸りながら鼻を啜る小曾根の様子に、何で俺はこいつが好きなのかと自分に問いたくなるものの、同時に、初めて見たその泣き顔に、ただただうろたえる。いまだに物語の余韻に浸っているのか、小曾根の頬を濡らすこぼれる涙にどうしていいのかわからない。
 どうやれば、これを止められるのかがわからない。
 ああ動揺しているなと脳のどこかが冷静に判断する。
 ほろほろと零れる雫に誘われるように。
 手を伸ばして。

 俺の指先が濡れた頬に触れる

「っ……くしゅっ」
 その直前に、小曾根がくしゃみをしやがった。
 法の番人に己の罪を見とがめられた咎人反射的に手がびくりと自分の身体の傍に戻る。
 瞬間、自分が何をしようとしていたのかを悟って、触れなくて良かったと心底安堵する。
 けれど、触れられなかったことに不満みたいなものも沸いて、そのことに混乱する。
 自分の無意識の行動にどくどくと脈打つ心臓を落ち着かせようと息を吐く。無駄に速い鼓動に己の不甲斐無さを感じつつ、俯き加減で小さく鼻を啜る小曾根に、目にとまった棚に置いてあったボックスティッシュを掴んで差し出してやる。
「ありあと……」
 ずる、と鼻を啜ってから礼を言われたが、返事はできなかった。
 控えめな鼻をかむ音が聞こえて、そのまま俯き加減で小曾根がゴミ箱に不要になったティッシュを捨てている少し情けない姿を眺める。それを可愛く思う辺り、俺はどこかおかしいんじゃないだろうか。この感情は時間を経れば落ち着き、いずれは思い出として無くなってくれるのだろうか。
 先程、小曾根へ、その濡れた頬へ、伸ばした手を、ぐっと握りこんだ。
 立たせようとか、庇おうとか、そういう気持ちではなく、意思ではなく。ただ、小曾根に触れて、触れたい、と。無意識に近かったからこそ、己の行動が汚いもののように感じられる。
 感情をもてあます、って、こういうことなのか?

 予鈴の音に、一気に思考を現実に引き戻されて、ぐしぐしと目を擦っていた小曾根も、やっと本の世界から帰ってきたようだった。まだわずかに震える声で「行こっか」と俺を促した。それから、大げさに深呼吸をして見せた。おそらくは大丈夫という意思表示なのだろう。
 それに、顎を引いて肯きを返す。約束をした訳ではないけれど、時間があれば俺は必ず小曾根を迎えに行くし小曾根は俺が来れば一緒に教室へと向う。
 嫌われてはいない、という事実がそこから解って、俺にとっては、登校時の電車と同じく、儀式めいた意味合いさえ、ある。毎朝、毎朝、俺にとってどれだけ特別な事になっているのだろう。ああ、とても悔しく、恥ずかしい。
 こいつ、満員電車で胸とか当たってても気付いてないしな。
 さすがにそれは頑張ってもなかなか避けられない事態なので、気付かれても困るのだが。

 まだ、ぐすぐすと鼻を啜る小曾根の一歩先を歩きながら、後ろに小曾根がいる事実は、間違いようもなく俺にとって嬉しい事で、それがなぜだか悔しい。小曾根は、俺のことなど、クラスメイトとしか思っていないのに。同じ事柄に、安堵して悔しがって、本当に。
 なんで、おれは、こんな。
 俺だけ、こんな。
 こんな、気持ちを。
 理不尽だ。

「日吉ー?」
「何だよ」
 唐突にかけられた言葉に、後ろを振り向かずに淡々と返す。
 頭で何を考えていても、大抵、声を出せば平静なそれで、一瞬にして思考が現実味を帯びる。
 そんな自分の特性に感謝する。
「日吉は本とか映画で泣いたりする?」
 背後からの問い。
「すると思うのか?」
 その疑問には疑問で答える。本当に、本気で俺がそういう事で泣くと思っているのだろうか。「泣かないの?」と更に聞かれて、呆れるような気持ちで階段を下り始めると同時に答えてやる。
「泣くかよ」
「わ、けっこうドライなこと言うね」
 一拍遅れて発された小曾根の言葉に、何とも言えず違和感を覚えて後ろを振り向く。
 小曾根らしくない、というか。変と言うか。
 急に立ち止まられてぶつかりそうになった小曾根は何とか踏みとどまると、俺の訝しげな視線に恥ずかしそうに笑った。
「このお話知ってる? ちょっと怖いお話なんだけど」
 言いながら、小曾根は先ほど読んでいた本の表紙を俺に見せてきた。ピンク色の英文のサブタイトルの中に日本語でタイトルと作者名がデザインされ、民族的な衣装の女性が文字の間、中心に収まっている。
 つまり、引用か。自分の言葉で喋れないのか、などと思いもするけれど、多分、小曾根はその話が好きなのだろう。
「知らない」
 言葉以外のアクションはつけずに応えたが、小曾根は気にせずにそのまま話しかけてきた。大抵、こういう言葉をノーアクションで口にすれば、大抵は会話が断たれるが今日の小曾根はよほど喋りたいのか。
「あのね、私は主人公の相棒のロボットがすきなの。水に入れないのに“主人公を助けるために私は海へはいろう”って言うんだよー。かっこいいよね!」
 それはかっこいいのか? と思いながらも口にはせず。本鈴の前に教室に入らなければならないと解っているのに、小曾根と一緒にいる時間を引き延ばしたくて、気持ちゆっくりと脚を進める。小細工。いや、小賢しい、か?
 こういう事は嫌いだったはずなのに。
 いつだって、小曾根の事で、俺は嫌な自分になっていく。苦しくて悔しくて。でも、小曾根が傍にいる方が大事だ。俺は多分本当に馬鹿になってしまったんじゃないだろうか。
 恋は盲目が嫌いな言葉に分類されているのに。
「そういう関係って羨ましいなぁ」
 ああ、かっこいいというのはロボットの台詞ではなく、二人の関係の事か。
 確かに、自分の身よりも大切にしたい誰かがいるのは、とても詩的で甘美に見える。けれど、それは、思いあっていればこそだということに小曾根は気づいているだろうか。
 今の俺は、そんな風に言えるはずもない。そんなこと、ストーカーみたいじゃないか。言えない。
 でも、言わなくても、多分、俺は小曾根を護ると思う。助けると思う。言えないけれど。言わないけれど。そういう関係ではないけれど、そういう想いがある。小曾根が助けられたいかどうかはともかくとして。そういう気持ちがある。何から守るのか、庇うのか、そんなことすらわからないが。それでも、言い訳じみているけれど、この気持ちを言わないことは俺を守ることと同時に小曾根を傷つけないためでも、恐らくある。
 階段を下りて一階の通路を使い本校舎へ向かいながら俺は小曾根の言葉を聞き、取りとめもなく思考する。教室へ近づくにつれ他の生徒達も増えてくるが、部室からまっすぐ教室へ向かっても、結局目的地が同じ教室なのだから、どこかでルートが被るだけの話なので、小曾根が傍にいてもおかしなことではなく、ただ堂々と歩く。
「あー、あと二分でホームルームだ……」
 携帯を取り出して時刻を確認した小曾根は、それを、氷帝学園特有の少し短いスカートのポケットに突っ込んだ。今日は腕時計を忘れたのだろうか。
 ポケットに携帯を置き去りにして抜き出されたそれが僅かに俺の手を掠め、小曾根の体温を感じれば、一瞬で湯が沸いたような感覚にさえなる。
 小曾根は知らないだろう、俺が、いつもその手を握りたいと思っていることなど。
 いつだって、電車でだって、そんな、欲望みたいなものを、持っているなんて。
 知らないだろう、小曾根
 お前の泣き顔をもっと見たいと思ってしまったことなんて。けれど、その涙を見たくないと、泣き止ませたいと矛盾して、その涙に触れたいと思ったことなんて。

 いつだって、俺は小曾根に触れたがっているのに。
 小曾根は気付かない。
 それに安堵しているくせに、それに苛立ちもして、そんな自分の思考がわからなくて。
 小曾根がクラスの男子と話している時、すごく苛々して。これが嫉妬か、なんて知りたくもない事を知る以上に実感してしまって。

 悔しい。
(もしかしたらこれは【切ない】なのかもしれないけれど、認めたくない)

 触れられない小曾根の小さな手を想像して、そんな自分が気持ち悪くて。
 それでも、一緒に歩ける事が幸福だ、なんて。俺は馬鹿か。
 本鈴がなり始めて、遅刻ギリギリの他の奴らと一緒に二人で歩みを早めたりして。
 遅い小曾根の歩みに、手を引きたくなって、伸ばそうとして、でも、耐えて。耐えて。こんなに触れたいのに。触れれば、この関係が壊れてしまいそうで。
 だって、これは小曾根を助けるとか、そういう事ではなくて。
 俺がただ触れたいだけだから。
 手を伸ばせないでいる。

 いつだって、想うだけで。
 いつだって、必死にこの気持ちを押し込めている。

 湿った思考を振り払うようにガラッと少し乱暴に教室の戸を引き、本鈴がなり終わる前に何とか席に着く。他にもギリギリまで運動していた運動部の奴らが教師に怒られそうな速度で駈けてくる。そしてその後に、本鈴がなり終わった頃に小曾根が妙な達成感を滲ませた顔で教室に入ってきた。肩が上下していて、体力がないことが一瞬で見て取れる。
香奈遅い!」
 有田に呼ばれて息を切らせて俺の後から入室して来た小曾根の笑顔に、
 薄い空気を隔てて、
 なお指先に感じた小曾根の涙の熱を、思い出す。

 触れない。

 俺は、こんな欲望みたいな、こんな、もので、小曾根に触れない。触れないから。触れるものか。
 そう、決意して、頬に触れられなかったその手を、握り締めた。
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