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しとしととアスファルトの色が染め替えられていく。 (油絵の具で言えばニュートラルグレイからペインズグレイ、っかなー。チャコール?) 靴の裏を押し付けるように、足裏に力を入れて香奈は一歩一歩いやにゆっくりとしっかりと踏みしめて歩く。その理由を、香奈は考えなかった。 持参していた折り畳み傘のおかげで雨に濡れることは無かったけれど、一人で帰らなければならないことを、香奈は無意識に寂しく感じた。自覚はしていないので、湿度の所為で軽い頭痛をもよおしているという自己判断で終わってしまったけれど。 どこか粘性のある靴底にへばりつくようなアスファルトの感触は、雨に濡れると靴底に噛み付いているかのようなる。ザリ、と香奈の靴裏で小石と砂とがアスファルトと喧嘩をした。 ため息が出そうになって、それに気づいた香奈は何とかそれを辛抱する。ため息を吐くと運が逃げていくと言うのを、何となく信じているからだった。 雨は嫌いではないが、朝からこの暗さであるのは少し気が滅入る。折角の弁当も、半分以下しか食べられず、放課後、美術室に行ったはいいものの、アクリラガッシュの乾きも悪く、メディウムなど混ぜれば絶望的な乾かなさだったし、鉛筆で下書きをしようにも最近は着色作業ばかりだったので木製パネルにキャンバスを張っていない。スケッチブックの上のパステルも、いつもの柔らかな色味が出なかったし、粘土をこねる気合も持っていない。 図書室に寄ろうかとも考えたが、何故そこまでして学校に残ろうとしているのか、ふと自身で疑問に思い、何だかすっきりとしない気持ちで、香奈は何かを諦めて帰路についた。 これが塾のある日であれば、学校で時間を潰し、塾に間に合うよう学校を出たのだが、何も無い日というのは手持ち無沙汰で困る。 (のんびりするのは、好きだけど――、日吉は、テニス部、体育館借りられたのかなぁ) そんな事を考えながら、香奈はいつの間にか自分の足先を眺めていた視線をゆっくりゆっくりと上へ向ける。 一軒家の駐車場で、雨宿りしている猫を見つけた。 普段ならば猫を連呼して、鳴き声を真似て突貫するのだが、今日はそんな気分ではなかった。けれど、猫がそこにいれば構いたくなる。 鞄の中から、おにぎりが一つと鶏団子の残っている弁当箱を取り出し、串に刺さった鶏団子を取り出して、しゃがみながら、スカートの裾が地面につかないように注意を払って、左手で傘の柄を持ち、右手で鶏団子を差し出した。 猫は、少し顔を出した。 首輪がないのできっと野良猫だろうと、香奈はあたりをつける。猫からのアクションを待っていると、猫が前脚で香奈の手の中の鶏団子の串を叩き落とした。 「ねこぱんち!」 思わず笑った香奈に声に驚いた猫がびくっと覗うような視線を向けてきた。けれど、猫は地面に落ちた鶏団子をはぐっと咥えると、香奈の手の届かない車の下の奥まで退避してから、それを食べ始めた。 「ねこーねこー。おいし?」 猫が鶏団子を食べながらもぼろぼろこぼし、その欠片を探してはまた食べ、食べてはこぼし、またこぼした欠片を探して食べているのを眺めていると、段々と香奈は楽しくなってきた。 おにぎりは食べるだろうか、かばんの中にお菓子が入っているけれどそれは食べるだろうか、と考えているとワクワクとしてくる。猫の体毛には汚れが目立ったが、彼女はそんな事など全く気にせず、餌付けしたら触れないだろうかとまで考えていた。 鶏団子を食べ終えた猫が、さらに食事をねだるように視線を向けてくるのに、香奈は慌てておにぎりを指でほぐし、中の焼き鮭を取り出すと、決して一定の距離からは近付いてこない猫に向って差し出した。 猫は恐る恐る車の下から這い出て、バシっと焼き鮭を香奈の手から叩き落とし、落ちたそれを咥えると、また奥まで引っ込んでしまった。そしてまた、食べこぼし、欠片を探し出し、食べこぼしを繰り返している。 香奈は頬をゆるませながら、さすがに白飯は食べないだろうかなどと考え始めた。 大分、猫にかまって、猫に熱中していた香奈だが、それはある目的の為の無意識と無自覚な行動だった。学校で諦めようとした何かを、諦めきれずにいる証拠でもある。 それは、香奈本人も気付いてはいないけれど。 「小曾根?」 呼ばれて、香奈は白飯よりはいいだろうと猫におやつの甘栗を差し出したまま、傘の柄をやはり無意識にぎゅっと握って顔を上げた。部活を終えて駅へと向っていた日吉が、住宅の駐車場の前でしゃがみこんでいるクラスメイトを不審そうに見下ろしているのと目が合った。モスグリーンの傘が彼によく似合うと、香奈は思った。 「あれー? 日吉、部活終わったの?」 「ああ。小曾根は?」 確率がある。 例えば、道で猫によく会う確率だとか、雨が降る確率だとか、そんなものだ。そして確率と言うのは自分で変動させる事ができる。それは意識的にでも、無意識的にでも。もちろん運が混じってくると、やはりその確率も曖昧なものになるけれど。 日吉は、放課後、ほぼ毎日テニス部で練習をし、一般的な下校時刻に下校することはない。香奈は、特にそんなに熱心に出る必要のない美術部に出たり、宿題を図書室でやっていったり、あまり意味もなく学校に残っている事が多い。 それは無意識に理由をつけて無自覚に確率を上げている所為だ。 日吉の下校と鉢合わせるために。 無自覚なので、本人は“よく会うなぁ”くらいにしか、思っていない。 「みてみて、ねこがいるの」 日吉の返答がないうちに、香奈は視線を猫へ向ける。慌てたようなそれは、ただ、猫という新しい話題を口にすれば、大抵の人間はこの場で会話を続けてくれると彼女の少ない過去の経験則から勝手に口をついて出たのだ。先に繋がるような話題を、過去のものではない話題を、香奈はいつも無意識に探している。 「へぇ……飼い猫か?」 「首輪ないから野良じゃないかなあ」 栗を食べない猫に、香奈はそれを猫の顔の近くまで軽く投げてやる。 猫は、匂いを嗅いでから、恐る恐るそれを食べ始めた。 「あ、栗食べるんだ。肉食だと思ってた」 「迷惑になるから、あんまりそういう事するなよ」 「めいわく?」 「この家の人と、猫に。飼う気がないなら手は出すなよ」 日吉は言いながら、香奈の横に膝を折って、ぎりぎり車の陰から出るか出ないかの位置で甘栗をむしゃむしゃやっている猫に視線を落とした。 日吉の言葉は強くなかったが、香奈が恐縮するには十分な威力の言葉だった。軽蔑されただろうかとおびえている香奈と、日吉はまるで喋ったら死ぬゲームをしているかのように黙ったまま、二人で猫の動向を観察する。 しかし、猫は小さな栗の粒などあっさりと食べ終えて、口の周りをぺろりと舐めるとまるで飼い主に甘えるように日吉の足に身体を擦り付けて、にゃあ、と鳴いた。 「え、えー? 日吉って動物に好かれるタイプ?」 「さあ……」 日吉は特に意見のない声で答え、擦り寄ってくる猫の頭を人差し指で掻いてやっていた。野良猫など触られるのも嫌がるのではないかと思っていた香奈は、少し意外に感じながらも、そんな日吉の様子に思わず微笑んでしまう。 笑う香奈に気づいた日吉は、少し黙り、それから視線を猫へと移す。彼はもう一度、猫の鼻の頭を指先で掻いてやった。 香奈は、そんな日吉を見ていて、よし自分もと意気揚揚猫を撫でようと手を伸ばしたが、シャーッと威嚇されて思わずその手を引っ込めた。 猫は人間のおもわくなどまったく無視し、日吉の脚に身体を擦り付けるのを止めると、また、にゃあ、と鳴いた。香奈は困ったように視線を彷徨わせてから日吉を見た。 日吉は猫の体を抱え、自分たちとは逆の方向へ向かせそちらに向かって軽く背を押して促した。猫はその場でぐるりと二度三度回ったが、雨の当たらない駐車場へゆっくりと戻っていった。 日吉は猫の動向を見守ったのちに、ゆっくりと立ち上がって、小さく息を吐いた。 「俺はもう帰るけど、小曾根は?」 「あ、じゃあ、私ももう帰ろうっかな」 少し慌てながら、香奈も日吉の後を追って立ち上がった。彼がこんな台詞を言う事がどれだけ珍しいか、香奈は気づかない。 香奈にとっても日吉にとっても、やけに遅い歩調で、二人は歩く。 日吉は、歩調を遅くしている自覚はあるけれど、香奈は自分の普段の歩調よりも遅いことに自覚はない。 なぜ自分が遅く歩きたがっているのか以前に、自分が遅く歩いている自覚がなかった。一度、香奈は猫のいた場所を振り返ったけれど、ただ車が駐車されているだけだった。まだ猫がいるかどうかはわからない。 雨に染め替えられたアスファルトの、もうどこにも乾いたニュートラルグレイは見えなくなり、濡れて光る黒いペインズグレイが道を覆っている。 「猫さ」 「あ?」 急に話し掛けられた日吉が、反射的に返した言葉に、香奈は一瞬言葉を飲む。彼の言葉の端々だとか、選び抜かれる単語だとか、ナイフのような口調だとかは、今でも少し、時々香奈には怖く感じられる事がある。 一瞬、言葉に詰まった香奈に日吉が小さく息を吐いた。 「猫さ、捨てられたのかな?」 思い切って言ってみると、少しばかり沈痛な声が出て、香奈は内心で慌てた。 「さあな」 けれど日吉の我関せずな物言いに――ただ、この話題を続けても香奈にとっては楽しいものではないだろうと彼は思っただけなのだけれど――香奈は話題を続けられずに、少し弱って眉尻を情けなく下げた。討論の授業時間ならば、他では見られないほど饒舌に話す日吉は、それ以外の時間に無駄に話すということは少ない。 それでも、香奈といる時は大分口がなめらかであることを彼女は自覚している。学校での日吉は一部の人間以外に対して無駄に口をきかない。 (でも、日吉のそーゆーとこ、嫌いじゃないなぁ) その感情はどこからきているのかなど、彼女は考えない。 この時間を心地よく感じていることも、彼女は考えない。 なぜ自分が彼と一緒に帰ることを普通にできるかなど、考えない。 香奈はほんの少しだけ傘をゆすり、水滴を飛ばす。 どんな話題を口にしようかと考えていると香奈の身体がずるりと滑った。排水の、道の脇にはめてある格子状の鉄枠を踏んでしまったらしく、スケートやスキーのように、まるで摩擦がないかのように香奈の身体がつるりときれいにバランスを失う。 あ、と言うひまもあらばこそ、日吉が当たり前のように香奈の腕を掴んで転ぶ事を阻止する。 「小曾根、大丈夫か?」 心臓が強く脈打つ理由を香奈は“転びそうになったから”ですんなりと片付けた。 それ以外の可能性は考えない。 「あ、うん。だいじょぶだいじょぶ。あーびっくりした。ありがとね」 誤魔化すように照れ笑いを浮かべて香奈が日吉を見上げる。彼は「ああ」と、何でもないように答えたけれど、香奈を支えていた腕を離して素っ気なく彼女から視線を外した。 (呆れられてる、の、かな?) 香奈は、わからない数学の問題を教師に当てられないように必死に何かに祈るときのような気持ちになりつつ、日吉の顔をうかがったけれど、彼は彼女の方など一ミリも見ていなかった。それが、どうしてこんなに嫌なのかは、気づかない。 出そうになったため息を、香奈は噛殺す。 どうしてため息が出そうになったかなどと、香奈は考えない。 それから二人で無言のままとぼとぼと駅を目指して歩いていたけれど、しばらくして「小曾根は猫、好きなのか?」と日吉が香奈にたずねた。 香奈はその言葉を耳にして、どうして自分がこんなに嬉しいのかわからないまま、笑ってうなずいた。 アスファルトの濡れた匂いの中で、雨に靴を濡らして、二人は途切れがちに会話しながら、ゆっくり駅へと向う。 |