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同じ空間にいる。 たったそれだけで、鼓動が速くなる。 彼女が俺を好きじゃないことなんて、知っているけれど。 何の因果か、俺の朝は好きな女――小曾根香奈のことだ――と触れ合うことから始まる。 そう言えば少しは聞こえがいいような気がするが、聞こえを良くしても何の意味もないことはよく解っている。 揺れる電車内で、早くも冷房を施されている暑い人の塊の中で、小曾根が押し潰されないように庇ってやるのが日課だ。 その度に俺は自分達の関係を頭の中で反芻する。 俺たちは、ただ単に登校を共にしているだけの仲の悪くはない級友で、小曾根としては女子がよくやる、家の近い友人と待ち合わせて一緒に登校するとか、たまたま方向が同じクラスメイトと一緒に帰宅するとか、多分そんな軽い気持ちなんだろう。 俺が小曾根の使う路線の電車に乗るようにしていて、小曾根はラッシュのピークになる時間では電車内圧迫死の危険がある為に早めの電車に乗っているので、これもこれできちんとした待ち合わせと言えるのかもしれない。 少なくとも、この電車通学で小曾根が俺を嫌っていないこと、俺を友人だと思っていることだけは、確信できる。それが良いか悪いかは俺には判断できないけれど。 消極的で消去法的なこの待ち合わせに、けれどおそらく小曾根に深い意味はない。俺だけが、この時間でなければ意味がない。この時間だけでも、俺が彼女に何かしてやれる事実が、嬉しい。 自分でも、馬鹿だと思うけれど。 けれど、俺は誰かに“なぜ小曾根が好きなのか”と問われれば“わからない”としか答えようがない。 初めて見た時は、変な女だと思った。次は鬱陶しい女だと思った。苛々して、馬鹿だなと思って、どうして、それが、急に、こんな気持ちに変わったのか。自分でもよくはわからない。 今でも小曾根の事を馬鹿だとか変な奴だとか思うことはよくあるし、その度に“こんな女を好きでいいのか”と自問する。 しいて言えば、出会いの時に、インパクトとまでは言わないけれど少なくとも名前を覚える程度には印象が心に残っていた、という位だ。そのくらいで、こんな恥ずかしい気持ちが心中に芽生えるとは思えないけれど、今の小曾根が好きだと思う俺の気持ちは現実だ。 今までにない感情だからこそ、すぐにわかった。 これが恋情だ、と。 憧れる要素もない、ただの同級生に対して、率先して庇ってやりたいと思うなんて今まではなかった。一応、女子と体育で勝負するときは手加減はしたが、それは“女子”に対する気づかいのようなものだったし、一度球技で女子を泣かせてしまった時に、罪悪感もありはしたがそれ以上に煩わしく不愉快な気持ちになったので、それは自己防衛の為でもある。 気の迷いだろうかと、ゴールデンウィークのついでに少し距離を置いた事もあるが、結局、この気持ちが収まるようなことは決してなかった。 色々と考えているうちに父性本能という言葉が一瞬よぎり、慎重に自分の中の想いを検分してみたけれど、最終的に自分の中ではっきりとした恋情と父性の違いは見つけられなかった。 当たり前だ。 俺は大人に混じって道場で鍛錬していたとは言え、読書が趣味で無駄に物を知っているとは言え、まだ中学生だし、多分これが初めての――(初恋? ――うわ……すげえ恥ずかしい言葉だ……本気か? )――とにかく、これは今までにない感情の動きだし、他に比べられるものがない。 ただ、思いがけなく触れ合う時に鼓動が小曾根に聞こえてしまうのではないかと思うほど強く心臓が脈打つから、そんな父性などあるまいと判断した。 小曾根が辛そうなら庇ってやりたいと思うし、彼女と言葉を交わす事は好ましく、遠目でも俺は何故か彼女だけは必ず見つける事が出来て、触れ合えば心臓が高鳴る。より側にいたいと思うし、なるべく同じ空間にいられるようにどうすればいいかと小ざかしく考える。くだらない事でも、小曾根のことならば脳の要領を割いて記憶してしまう。 これ以上ないと言うほど、ありがちでわかりやすい恋情の発露。 恥ずかしすぎて情けない。 それでも。 疑っても、悩んでも、考えても、信じられなくても彼女を好きだと、どうしても思ってしまう。 ◇◆◇ 薄く淡く緑がかった、朱と青とがグラデーションを描く柔らかい夕刻の空の色。それが窓から覗く体育館は、けれど少しも柔らかい雰囲気ではなかった。 原因は小曾根と俺だ。俺の溜息に、体操服姿の小曾根の細い肩が痛々しいくらいびくりと震えた。 「小曾根、お前、ふざけてるのか?」 泣きそうに顔をゆがめた彼女に向って、後には引けない俺の口が想いとは違う言葉を紡ぐ。 俺はどうしてか、クラスメイトの前で小曾根にどう対応していいのかがわからない。普通にすればいいと冷静に思うけれど、普通とは何だと反論するのは恋情とプライドのもつれた、自分でも理解できない感情だった。 「本当に、いいかげんにしろよ」 こんな言葉は、ほとんどが八つ当たりだ。悲しいくらい自分がみっともない。 けれど、悟られたくない。 この気持ちを、この場に居る級友の誰にも気付かれたくない。そう思えば思う程、人の前では特に小曾根に強く当たってしまうし、小曾根とつながりを持ちたいと思ってもぶっきらぼうになってしまう。 それに、小曾根にこの気持ちを悟られた時、彼女がどんな反応をするか。それを考えると、この気持ちを気づかれないようにと接触を極端に避けてしまう。 それでも、さっきのように小曾根が危ない行動に出ると庇ってしまうし、それを庇ってしまってから、庇ったことをなかったことにするために、こうやって強く当たってしまう。自己嫌悪のスパイラル。 小曾根は俯いていたけれど、泣きそうな瞳で俺に視線を合わせると、また反射的に視線を下にした。 怯えたような、その視線の移り変わりに、俺自身ひどく傷ついた。そして苛々として、思い通りに行かない憤りが言葉になる。 「……お前、何もしないほうが邪魔しなくていいんじゃないか?」 なんで、こんな台詞だけは簡単に口から出るのだろう。何で俺はこんなに子供なんだ。八つ当たりなんてみっともない。 泣くまいとしているのか、周りのクラスメイトが静かにしている中で、小曾根の大きな呼吸音が響く。 「ごめん……大会までには、もうちょっとマシになる、から……ごめんね、フォローしてくれたのに」 ぼそぼそと俯いたまま発せられた打ちひしがれたような小曾根の声に、また、不甲斐無い自分に苛々する。 「……中途半端に動かれると邪魔だから」 「うん。気をつける」 俺たちのやりとりを見ていたチームメイトが、一段落ついたことを見て取り、仕切りなおすように練習を再開し始める。小曾根は女子に慰められていて、俺はチームメイトの先輩に、軽くたしなめられた。 五月に行われる球技大会の種目は男女混合のバレーボール。 保健体育の時間が練習時間に当てられる。クラス対抗ではなくチーム対抗のそれは、九人制のノーローテーションルールで行われる。ざっと一二〇のチームの勝ち抜き戦形式で体育館では四試合同時に行われるらしいので、通常の三セットマッチではなく一セットマッチで行われるようだ。 正直バレーボールには詳しくないので大まかなルールだけ頭に叩き込んでプレイしながらバレーボール部員やら教員に訂正してもらっている。 学年ごとに一クラスを九つのグループに割り、そのグループを各学年から一つずつ集めてまとめ、計三グループで一チームとなる。補欠も入れて大体十二〜十五人程度の編成。 何の因果か、小曾根と俺は同じチームだ。 「外部の奴ってホント無駄に熱血だな」 外部入学であることを揶揄して話しかけてきたクラスメイトに苛々しながらも、無視する。 「小曾根、可哀想だろ」 けれど尚も追及してきたそいつに苛々したまま、適当に首を振る。それが肯定なのか否定なのか反省なのかは自分でもわからなかった。 小曾根が可哀想だ、なんて、そんな事、俺が一番わかっている。 わかっていて、でも、あんな態度をとってしまう自分が、幼すぎて情けない。 「あ、でも、三村がフォローにいってるか」 何もかも、気に喰わない。 でも、一番気に食わないのは、自分だ。 翌日、小曾根が、いつもの電車に乗り込んで来なかった事が、俺の不機嫌を増幅させた。 あからさまに避けられた事が精神的に驚くほどきつい。もしかしたら寝坊しただけかもしれないとかそんな事を考えて、とにかく苛々して、ムカついた。 確かに、昨日のやり取りでは、今までにはないほど小曾根が俺に怯えていた。 小曾根も、言いたい事があるなら逃げないで直接言えばいいだろうが。八つ当たり気味にそんな事を思いながら、嫌われたのかと思うと、何だかわからないけど、胸をかきむしりたくなる。 小曾根を好きになってから、俺は自分が嫌いになりそうだ。 自分の事や、小曾根の事や、とにかく苛々して仕方が無い。不安定な心を力尽くで安定させようと部活に没頭して、朝練で汗を吸ったシャツが重たく感じられた頃、突然全てが虚しくなって、休憩のついでにコートの隅に座り込んだ。 酷く自分が情けなくて、悔しくて仕方が無い。今更こんな事を思っても仕方ないけれど、小曾根にあんな事を言いたかったんじゃないんだと弁明したい気持ちに駆られた。言い訳がましい自分に苛々とする。 俺は、こんな風に八つ当たりでテニスをしたいんじゃない。 苦悩をあざ笑うかのように春の日差しを照り付けてきて、自動的に溜息が漏れる。近場に飛んできたボールを掴んで練習中の先輩部員に投げ渡して、ボール拾いに戻らなくてはと重い身体を叱咤した。 「日吉元気ないやんか。どうした?」 頭の上から降ってきた白い物に、思わず顔を上げると、降って来たそれによって覆われた視界が白く光っていた。タオル越しに日差しが目を焼いて、乱暴に柔らかいそれを握って視界から外すと、声をかけてきた忍足先輩を睨みつける。なんだかこの人はいけ好かない。嫌いではないけれど、今は構ってほしくない。 「放って置いて下さい」 「ほって欲しかったらしゃんとせえ」 とがめるようなその口調に“しゃんとしていない”自覚のある俺は、それを指摘されたことにイラついて自動的に言い訳が口をついた。 「休憩していただけです」 「不機嫌オーラまき散らしてか」 馬鹿にしたような調子で言われて、思わず唇を噛む。思ったよりも強く噛んでしまったらしく、じわりと血の味が広がった。それにまた苛立つ。 「放って置いて下さいって言っているでしょう!」 思わず出た声の大きさに、自分で驚いた。 くそ、最低だ。部活に影響するなんて、最悪だ。最悪だ。その上、忍足さんにも八つ当たりか。最悪だ。最低だ。 「――すみません。少し顔を洗ってきます」 立ち上がって忍足さんに頭を下げる。その顔を見たくなくて、すぐさまコートを抜け出して足早に水道まで歩いた。蛇口を捻り、まるで真夏のように頭から水を被る。汗をかいた体が、熱をもった思考が強制的に冷やされていく。 今までは、どうすればいいとか、はっきり解っていた。 自分の中で考えて、信じたことをすればよかった。信じた行動をすればよかった。信じた行動が正しいと知っていた。 けれど、何が正しいか、今の俺には解らなくて、もどかしい。少なくとも小曾根や忍足さんに八つ当たりする事は間違っているとは思うのに――それでも、この感情を隠すためにはそうすることしか思いつかない。 小曾根と登校できていることは嬉しい。 小曾根が笑っていると嬉しい。 けれど、どうしたら、彼女を笑わせられる行動を、自分が出来るようになるのか。 一緒にバレーボールの練習をするようになってから、小曾根といる時間が増えてから、小曾根が誰にでも笑顔を振りまいている――という綺麗な表現だけではなく、噴出していたり、笑いすぎて悶絶していたりもしているのだけれど――ことが、どうしてだか悔しい。 小曾根が大抵のクラスメイトと問題なく仲良く、少なくとも目立った対立はなくやっていることが、なんでだかムカつく。 今まで、電車に一緒に乗っているだけの時、小曾根は俺しか見ていなかった。けれど、それは二人しかいないからで、こうやってバレーやらでグループになれば、小曾根は誰にでも笑いかける。 そんな当たり前のことがひどくむかつく。 つい先日まで、男と親しげに話している様子を見てもなんとも思わなかったのに、一緒に練習をするようになってからは、駄目だ。 小曾根は多分、俺ではなく、誰でも、いいのだろう。 そう気づくと、ムカついて、イラついて、不甲斐無い自分が悔しくて、この気持ちを隠すために小曾根に当たる。 きっと、俺が冷たくあしらっても、小曾根は友人に慰めてもらって、俺に冷たくされたことなどきっとあっさりと忘れて、俺のことなど、小曾根の中ではその程度のことで、俺はそれが悔しい。 自分がこんなにも嫉妬深いことを生まれて初めて知った。 一瞬より長い間、友人らに慰められても、小曾根が俺に傷つけられたことを忘れられないようにしてしまいたいと思った自分の思考が恐ろしい。 そうして、それからは極力、小曾根と接触しないようにした。 バレーの練習では小曾根が、気合を空回りさせて顔面やら腹部でボールを受けて、一人でドッヂボールのようになってしまっているのを反射的にカバーしないよう、彼女を視界に入れないようにするのも大変だったが、それでも、ほとんど完全に小曾根を無視した。それをチームメイトに窘められても、喧嘩するよりはましだろうと幼い脅し文句でもって突っぱねた。 運動に対して本気になる事を、妙に馬鹿にする輩もいるけれど、このチームはそういった空気は全くなかった。だから、小曾根も下手なりに頑張りたいのだろうとそんな想像を一つしてから、それを振り払った。 バレーの練習後、使ったボールを体育倉庫へ運びながら、溜息が一つ漏れた。 こんな行事、なんの為にあるのだろうか。早く終わってほしい。うまくボールを受けきれずに膝をすりむいたり、突き指をしてしまう小曾根に、バレー部の男の先輩が――いや男だけではないのだけれど――丁寧に教えてやっているのが苛立たしい。 そうできない自分が、それよりも不愉快だった。 俺にとって苦痛以外の何物でもない練習の時間がやっと終わると、ボールの入ったカートを運ぶ。それをしまうために体育倉庫の扉を開こうとカートから手を離そうとしたとき、ネットをしまっていた小曾根が体育倉庫から出てきた。タイミングを計り誤った自分に舌打ちを贈りたい。 小曾根は俺を視界に入れて一瞬目を瞠ってから、俺が通りやすいようにと扉を開いたままの状態で押さえた。 どうも、と一言こぼしてから、ガラガラとカートを押して、うす暗く、埃とすえた汗の匂いのこもった体育倉庫へと足を運ぶ。所定の位置までカートを運んでいるうちに、この空間の所為か、夕刻と言う精神的に不安定になるらしい時間の所為か、気が滅入ってきた。 それを晴れさせようとでもしたのか、今更に体育倉庫の蛍光灯が点いた。おそらく小曾根が点灯させたんだろう。 ボールの詰まったカートを体育倉庫奥の所定位置に戻し、入り口へと踵と返すと、小曾根が妙におどおどとした態度で俺の様子をうかがっていた。その様子を、もし、他の女子が見せたら、俺は鬱陶しく思うだけだっただろう――そう、想像できる。 それを無視して小曾根を視界から意図的に外して入り口へ足を進める。 「あ。のさ――私、何か日吉に嫌われること、した?」 小曾根を一切視界に入れていなかったので、いきなりかけられた声に、驚くほど動揺した。身体が反応しなかったことが不思議なくらいだったが、それを表に出さないよう、小曾根へ視線を向ける。困ったような声音だったが、けれどはっきりと聞いてきたそれに、珍しいなと感想が一つ浮かんだ。 それから小曾根は落ち着かない様子で自分の髪をいじくりだし「自意識過剰かなー、とは、思うんだけど……」と小さく付け足した。 おそらく、俺が同じ電車に乗らなくなったことに違和感を覚えているんだろうとは思ったが、小曾根の態度になんだかムカムカとしてくる。 「なんでそんなこと気にするんだよ。どうでもいいだろ」 吐き捨てる。 罪悪感は、もちろんある。こんなことをひどく攻撃的な声で言ってしまったという罪悪感はある。けれど、それ以上に苛々していた。急激に腹が立っていた。 それは、俺の気にするべきことで、小曾根は俺のことなど好きではないのだから、好きでもない奴に嫌われようがどうでもいいだろうに。どうして――そんなことを聞かれれば、それが友人への対応だったとしても、何かあるのではないかと揺さぶられてしまう。 ああ、本当に苛々する。 俺はお前が好きで、だから側にいられるとお前が俺を好きではないことを実感してしまう。それが悔しくて辛い。でも、そんな事が言えるはずもない。言えば、更に関係が悪化するとしか、俺には思えないから、口になど出来ない。誰にも、こんな理解できない不快な感情を持ち続けていることを、そんな卑賤な人間であることを知られたくない。 そうして、勝手に苛々しているだけで、悪いのは全て俺だ。 だから、罪悪感がある。 悲しそうな顔を一瞬だけ見せた小曾根は「日吉は私が嫌いなんだね」とぼそりと震える声で確かめた。 「そんな事は言ってない」 むしろ、嫌いなのは自分だ。好意を口にする勇気も、他人に悟られる忍耐もなく、嫌いだと断言してしまえる覚悟もなく、ただ、八つ当たりしか出来ない。最悪だ。 けれど、どうしていいのか、わからないんだ。何が最善なのか、俺にはわからないんだ。小曾根が、バレーをしている時に他人に向ける笑顔を、どうすれば不快に思わなくなるのか。小曾根に笑顔を向けられた男に、醜く嫉妬しなくてすむようになるのか。 どうやれば、この感情を隠したまま、攻撃的ではない態度で、小曾根と触れ合えるのだろうか。嘘の笑顔さえ向けることの出来ない自分の不器用さと堪え性のなさに絶望すら感じる。 「っああそーですか! 日吉のバーッカ!」 全身全霊でバーカと言われた。 ……言うや否や小曾根は体育倉庫を駆け出して、果物のような香りのする髪をさらりとなびかせて俺の視界から消えていく。小曾根にこうやって本気で罵倒されたのは、初めてだ。 バーカって……今の俺を的確にあらわしてる言葉だけれども、その表現にむかつくよりも、情けなくなって、溜息が勝手に出た。 ことなかれ主義にも近い一面を持つ小曾根が、わざわざ俺に自分を嫌いかと問いただしたことが、ただそれだけで、俺をわずかなり気にかけていてくれた事実が、ただそれだけで。 俺はこんなに嬉しくて、それにひどく腹が立つ。 今のやりとりで、小曾根は俺を嫌っただろうか。それも仕方のないことだと感じる自分が虚しい。 もう少し、大人になれればいいのに。 嫌われる覚悟も、知られる覚悟も、出来るようになるには、まだもう少し時間が足りない。俺はいまだに、どうして自分が小曾根に対してだけ好意や苛立ちを強く持ってしまうのか、理解できないでいるのだから。 それに、俺ならば、小曾根以外の誰かに、好意を伝えられても、困る。 俺のこの気持ちを知れば、きっと、小曾根も困るだろう。妙に生真面目な彼女は俺に対して申し訳ないと思うだろう。そう、なるくらいなら、距離をとった方がずっといい。彼女の迷惑になるくらいならば、まだ嫌われた方がいい――そこまで、思って、ああ、これが、逃げの思考なのか。自分を正当化する手法さえ、俺はこんなにもつたないのかと情けなくなる。 本当は、優しくしてやりたい。けれど、そんなのは、今の俺には、無理だ。俺はきっと、初めてのことにひどく臆病になっているんだろうと自己判断する。 俺の視線が触れただけで、彼女に傷を残すのではないかと、不安に思うのだから。 ◇◆◇ 私は、日吉に嫌われるようなことをしただろうか。 なんだか、思いつくことがありすぎて、でも、だからって日吉のあの態度は酷いんじゃないだろうか。 久々にものすごく凹んで交友棟の四人掛けの丸テーブルを二人で陣取っているまどかちゃんに、テーブルに突っ伏したまま視線だけを向ける。 垂れた前髪の向こうのまどかちゃんは、ぼやけて見える。 「ねーまどかちゃん」 「なーに、香奈ちゃん」 私の口調を真似してまどかちゃんが首を傾げた。そんな仕草もすごく可愛くて、私もまどかちゃんの半分も可愛ければよかったな、なんて思ったり思わなかったり……やっぱり思ったり。 だって、まず顔のサイズが違う。睫毛の長さが違う。肌の色が違う。羨ましすぎる。なんだか絶望的な気持ちになったりする。――ああ、そういえば、綺麗な友達が多い人は自分も綺麗か、綺麗ではない自分にコンプレックスを持っているか、な人が多いんだっけ? 私は明らかに後者だと思う。 「私も美人に生まれたかったよ……」 「香奈は可愛いよ」 「お世辞アリガト」 なんて、口から出ちゃった卑屈な言葉に情けなくなっちゃったりして、もう一度テーブルの上に組んだ腕へ、顔を押し付ける。 自然と溜息が出て、なんか、涙まで出てきそうになった。こんなに凹んでる自分にビックリする。もうやだ、と呟くとまどかちゃんが私の頭を軽く撫でてくれた。 「香奈さ、どうして日吉君に嫌われるのが嫌なの?」 急にまどかちゃんに聞かれて、なんだか不思議な気分になってしまった。だって、ねえ? 「誰にだって嫌われるのって嫌じゃない?」 何だっけ、万人に好かれようとするのは嫌われたくないと思うのは、他人の嫌う権利を侵害しているって読んだことあるけど。でも、やっぱり、私はできれば、嫌われるより好かれたい。かと言って好かれるために何でも出来るかって聞かれちゃうと、それは出来ないんだけど。 ワガママだなぁ……。 「でも、わざわざ『私のことが嫌いなの?』なんて、フツー聞かないでしょ」 …………――確かに。その通りだ。 でも、私は日吉にどう思われてるのかすごく気になってしまって、ハッキリさせないと気がすまなくなっていて、だから直接日吉に聞いて……聞いて……私変な人じゃん…… ああ、余計日吉に変なヤツだって思われてかな。でも、だって気になったんだもん。電車とか、急に日吉一緒に乗らなくなったし、仕方ないじゃん。なんで? って思っちゃうじゃん。何が原因なのか、気になるし。 「まあ、いいや。で、日吉は香奈が嫌いだって答えたの?」 急に聞かれて、昨日の放課後――練習のあとに、日吉に言われた言葉を思い出す。 「……どうでもいいだろって、言わ、れ、た」 言ったら、ちょっと声が震えててビックリした。 え、あれ、なんで、こんな本気で凹んでるんだろう。 ホントに涙でそうなんですけど……。 「何で泣きそうになるの?」 「わ、かんな、い……」 わかんない。 でも、なんか、日吉には嫌われたくなかったんだなって、それにだけは、気付いた。何か日吉のむかつく事、私したのかな。自意識、過剰なだけなのかな――でも、急に電車変えちゃったのはなんで? 練習の時、前は少しは話してくれたのに、私がまるで存在しないみたいに振舞うのはなんで? やっぱり、勘違いじゃない……と、思う。 「私、日吉に謝る……」 もし、日吉を傷つけるようなことをしたなら、私、日吉に、ちゃんと、謝らないとって、ちょっと滲んだ涙を手のひらで擦ってから顔を上げた。そうしたら、まどかちゃんが首を傾げて、私の目を見た。 「謝るって、何を?」 「まどか、やけにつっかかる、ね?」 私が“ちゃん”って付けなかった事に、ちょっと笑ったまどかちゃんが、人差し指でほっぺたを突いてくる。なんだか子ども扱いされてるみたいで、悔しくてそれを手で払った。 「学年主席が教えたげるけど、何を謝るか、わかってなきゃ意味なーいよ」 まどかちゃんは時々こうやってお姉さんぶる感じで、でも、言い返せなくて、私、何がいけなかったんだろう。 電車が混んでるからって日吉を利用したこと? それとも――でも、日吉は、球技大会の練習が始まったくらいから、なんだか、すごく、私に苛々してるみたいで、私が目障りみたいだった。 運動が下手だから、とか? でも、そんな理由で嫌われても、困るよ。私の運動神経が思ってたより低くて呆れちゃったのかな……日吉は、テニス部の一、二年でも強いみたいだし……日吉と同じチームにならなければ良かった。そうしたら、あんまり運動が得意じゃないこととかばれなかったのに。 ――……でも、もし、これが原因じゃなかったらなんなんだろう。 日吉に直接聞くしかないのかな――でも、それって自分の失敗を自分でわかってないって事で……自分で気づかなきゃいけないことのような、気もする……――でも、私、嫌われるほど、日吉に何かしたりとか、するほど、親しくもない……気がする――って、そう思ったら、またなんか凹んできた。 どうすればいいのか、全然わかんない。どうしたいのかは、わかるんだけど。 ◆◇◆ テニス部で数日にわたり、他校との練習試合が行われ、その数日間、俺は球技大会の練習を休んだ。 これが、思いのほか俺の精神衛生上宜しかったらしい。小曾根に対する感情を思い出すこともあったが、彼女と触れ合う時間が減っていた所為か、それは、クラスの男子へ向けていた嫉妬とは違う感情だった。 あの場にいた時の自分を、少し離れた位置で思い返す余裕が出来たのだろう。そのことに安堵する。 そして数日間、テニスのみに真剣に打ち込めて、変なストレスも解消できたようだった。 バレーの練習に戻ったとき、普段と変わりなく笑う小曾根に、どこか悔しいような思いが浮かんだが、それは即座に無視した。 考えすぎると、また数日前のように、色々とよくない感情が俺を侵食するだろうと簡単に想像できたから、俺はそれから逃げたのだ。 しかしまだ、普通に小曾根と対する心構えはなく、彼女を視界に入れないこと、彼女を遮断することは変えられなかった。どうしても、そこまでの余裕が自分にないことが明白で、だから――まるでネズミの警戒心で猫を避けるように小曾根を避けた。 小曾根の方でも俺を避けていたのかもしれないが、視界にいれていなかったので、想像でそんなことを考える必要はないと、また思考を遮断した。 思考停止と言うと馬鹿か臆病者のように思われるだろう。そして俺は実際自分をそう判じていたが、もう、嫉妬などしたくないし、小曾根に八つ当たりをしたくもない。 避けるしか出来ない――ああ、今、俺は少し感心してしまうほどに自分が子供であると強く実感した。 俺は本当に子供で、幼くふざけあって、幼くはしゃいでいるクラスメイトと百歩分どころか、五十歩分も違わないのだ。どうやって接すればいいのか俺にはわからない。注意を引くために嫌がらせをする小さな子供と、変わらない。 もう少し。あと、少しだけ、余裕が欲しい。 余裕の作り方は、なんとなく、わかる。 けれど、その余裕を作れるほどの、余裕が俺にはないのだ。 俺の心には、まだ。 その、“まだ”が、いつか命取りになるかもしれないと、そう急いても。 考えすぎだと、普通にすればいいと、自分をたしなめる意味でこぼせば、応えるように溜息が漏れた。 その日は雨だった。 球技大会の練習は体育館であるし、テニス部の練習は特殊教室棟の屋内コートでと昼休み、自動販売機帰りの廊下で鳳から伝えられた。鳳はよく跡部さんからの伝言を携えてやってくる。きっと、鳳は、俺よりも期待されているのだろう。 厭味を含めて返事をしてやると、鳳は困った表情で無理に笑い「日吉は考えすぎだよ」と言った。しかし、次いで「何かあったら言ってくれていいから。仲間だしね」と言われた。 その言葉の真意を測りかねて、廊下の柱に寄りかかったまま鳳の顔を目を細めて眺めると、雨の湿気のせいか、よどんだ空のせいか、鳳の顔色は悪く見えた。 「色々言う人もいるけど、俺は日吉はすごいと思ってるし」 これはどういう状況なのか。普段もそうだが、鳳は本当に俺の予想のななめ右上をいく男だ。 昼休みの校舎内で、湿気でねばつくゴム底の上履きが不愉快だ。雨がしたたかに窓ガラスを打ち、余計に気を滅入らせる。 「俺は日吉の味方だから」 どうするべきなのだろう。 どうすればいいのか。話の内容が全く見えない。何だこれは。励まされているのか? だとしたら、それは何でだ。そもそも、鳳は俺の何に対してそう言っているんだ。鳳は俺の何かを知っているのか? (例えば小曾根への気持ちに気づかれているとかか? ――それは絶対に嫌だ) 「何のことだ?」 聞いた声は、思ったよりも刺々しいものだった。鳳は一瞬それに怯んだようだったが、もう一度、口を開いて「日吉も跡部さんに期待されてると思うよ。じゃあ、また部活で」と口早に言ってからすぐ横のクラスに入っていった。 それから、自動販売機で購入した緑茶のペットボトルを手に教室に入り自席へ戻り、弁当を平らげながら、鳳の言いたいことにぼんやりと気づいた。おそらく、二年の先輩らに外部入学で目をつけられている俺が、小学生男子が小学生女子にやるような、不愉快な悪戯やら罵詈やら露骨な差別やらで嫌がらせをされていることを、鳳は気にしていたのだろう。 それは仕方がないと思う。つまり俺は異物なのだから。むしろ氷帝ほどの学校が、外部と持ち上がりの校舎を別にしていないことのほうが驚きだ。外部入学者と、幼稚舎からの人間の軋轢はいたるところで見るし、また、氷帝だけではなく別の学校でもよくあることなのだから。 それに、それをおこなっているやつらがひどく低レベルなだけで、俺には一筋の傷もつけられない。そもそも、鳳は俺を可哀想だの不憫だのと思っているのだろうか。それはそれで愉快ではないが、それもまあ、鳳の好きに感じるべきことだし、俺自身には、やはり一筋の関係もない。 ……ああ、あの馬鹿な二年がやっていることは俺が小曾根にしていることと、ほとんど同じなのか。 そう気づき、その自分の失態に過去最悪と言っても差し支えないほど落ち込む。 落ち込みついでに弁当を一気にかき込んで強引に自分の気分を変えさせようと試みる。試みの結果、腹が膨れてとりあえず次の授業の教科書でも読むかという気分になったところで「日吉あげる」と声を掛けられた。 机の上に転がった見覚えのある飴玉に「いらない」とそっけなく返すと小曾根は細い指先で机の上に転がった飴をつまみあげた。それを大切なものを手にしたように両手で包んでから、小曾根は更に続けた。 「日吉……あのね。私いつも電車に乗ってるよ」 「だから?」 俺の淡々とした返答に、小曾根が一瞬目を伏せたけれど、すぐにまたしっかりと目を開けて「それだけ! ばいばい!」と大きく言い、いつか俺に向ってバーカと叫んだ時のように逃げて行った。翻った髪からはやはりどこか甘い香りがする。 溜息を一つ吐いて、開きかけた教科書を閉じ、目をつむって、ゆっくりと思考を巡らせる。 どうするべきなのだろう。 ◇◆◇ 信号機トラブルとかで、本数が減ったせいで、驚くほどの満員電車に乗り込んで、今日は日吉いないかなってドキドキというかそわそわしながら周りを探してみる。 昨日、本当は「いつもの電車に乗ってるから、また一緒に学校に行こうよ」って言いたかったんだけど、なんか、怖くなっちゃって最後まで言えなかった。日吉は、頭が良いから、私の言いたいことに気づいてくれたとは思うけど、でも――…… けど、混みすぎててサラリーマンさんとかのグレイやネイビーのスーツが視界を埋めまくってる こんなんじゃ、もし、日吉がいたって私を見つけられっこないなって思って凹んでしまう。 ああ、せめて、あと二十センチ背が高かったらよかったのに――なんて。 それにしても、さっきから、後ろ隣のスーツの人の手の甲の指の付け根か、第二関節が結構思いっきりおしりのとこに当たってて仕方ないことなんだけど、やっぱヤだな……。 きっと混んでるからどうしても当たっちゃうんだろうけど、やっぱりあんまり気分は良くなかった。 今までは電車が遅れてすごく混んでも、こんなことなかったのにって思って、でも、それは日吉がいつも私を庇ってくれてたからなんだって気づいて、なんだか心臓の壁の内側が痛くなったような気がした。 日吉、もしいるなら、早く、私に気づいてくれないかな。もしいるなら。声を、かけてもらえないかな。仲直りしたいのに、なんか、私、ちゃんとできないし。 いつも、日吉に庇ってもらってたのに、私、一度もちゃんとお礼を言ってないし。だから、もし、いるなら早く私に気づいてって、祈る。こんなに混んでると、私は日吉がどこにいるのかもわからない。ああ、もっと身長が高ければよかった。 でも、日吉が乗ってたらきっと日吉は気づいてくれる。きっと。だって、今までも、そうだった、し。 話しかけてくれたらなんて答えようとか、そんな事を考えていると一駅分がすぐに過ぎていってしまった。 ――日吉、やっぱり乗ってないのかな。 そう思ったら悲しくなってくる。仲直りしたいと思っているのに、こんなんじゃいつ仲直りできるかわからない。学校に着いたら、また私から、声をかけてみようかな……鬱陶しいとか、思われないかな。 溜息が出てしまって、ダメだなぁ、なんて思いながら手を口に添える。 それと同時に、胸に何か触れた。 びっくりして見てみると、口に添えている手の、腕の下に隠れるように誰かの手があって、それがしっかり私の胸を抑えてて気持ち悪くて怖くて、反射的にぐいっと押し返してしまう。 それから、なるべく体勢を変えて、手の来た方向から逃げようとしたけど、またしばらくすると今度はおしりの方に伸びてきた。ぐいぐいって何度も押しのけてるのに。すごく嫌で、だから何度もその手を押し退ける。知らない人に触られるって、こんなに気持ちが悪いことなんだ。 小学生の頃にも、隣に座ったおじさんに触られたことがあったけど、すぐに席を立って別の車両に移動できるほど空いてたから、気持ち悪いとか感じる前に本当にビックリしただけなんだけど――……今は、逃げられないし、すごくすごく気持ち悪い。だって、私ヤだからって手を押し退けてるのに、何度も伸ばしてくる――ああ、本当に、気持ち悪い! もうやだ、電車なんか嫌い。痴漢の人なんて嫌い! スカートめくるな! パンツ触るな! ぴったりくっつくな! 気持ち悪い気持ち悪い……! どうしよう。触られないように、ずっとこの人の手を押さえてるのも気持ち悪い。どうしようどうしようどうしよう。とにかく声を出そうと思った瞬間「騒いだら殺す」て言われた。 もうやだ。泣きたい。ていうか、泣く。 「止めてください」 て、声がした。ら、急に私を触ってた手が止まって。私の後ろで「放せ」とか「アンタは大人しくしてて下さい」とか言い合う声が聞こえた。 ああ、日吉の声だなってわかって、そしたら何かよくわかんないけど、急に悲しくなって小さな子供みたいにわんわん泣いてしまった。そしたらその人が痴漢だって周りの人にわかったみたいで、でも、私は、すごく悲しいので次の駅までわーわー泣いてた。 そうしたら、何故かメントール系のミントガムを貰って、でも、そんなの関係ないくらい、泣いてた。痴漢がどうとかじゃなくて、なんか日吉の声聞いたらすごく悲しくなった。 なんでだろう、あの男の人の手を気持ち悪いとか怖いとか思うよりずっと、日吉の声を聴いたときの悲しい気持ちの方が強かった。 次の駅で、痴漢の人は駅員さんに引き渡された。なんとか泣き止めた私は駅員室に招かれて、鉄道警察隊の人とかも来て、出されたお茶を飲む気にもなれなくて、名前と学校と連絡先を、出された紙に書いたりとかして、話もそこそこに席を立った。きっと、私がすごく怯えてるって事に、気を使ってくれたんだと思う。両親に連絡を取ってからまた私が落ち着いたら、学校が終わったらお話しすることになった。 駅員さんは、学校にも家にも一応連絡を入れてくれて起訴? とか逮捕?? とかの説明もしようとしてくれたけど、そんなの聞けないほど私が本当にショックだったのを、わかってくれたみたいだった。何度か「本当にご家族は呼べないの?」って心配そうに言ってくれたけど、ママもパパも一所懸命お仕事してるのに、こんなので心配かけさせたくない。でも、会社の番号はしらないけど、携帯電話の番号は提出したから、もしかしたら、パパとママが後から気づくかもしれない。けど、でも今は。知られたくない。 部屋を出ると、ドアの隣で日吉が待っててくれてた。なんか、そんなこと全然考えてなかったから、すごくびっくりした。 「家、帰る……待って、てくれたのに、ごめ……」 日吉と話せたら、ちゃんと仲直りしようって思ってたのに、色々考えてたのに、最初はこんな言葉しか言えなかった。 「家族が迎えに来るのか?」 日吉は、聞きながら、ひどい顔の私を見て、せめて少しでも人目のないところって思ったのかエレベーターの裏の方に歩きながら聞いてきた。 「……親、仕事……大丈夫、帰れる」 エレベーターの裏には、なんだか仲のよさそうな男の人と女の人がくっついてたけど、私達が来たらすぐにどこか行ってしまった。 もしかしたら、日吉と私は変なふうに見られたのかもしれないって思った。日吉はあんまりそんなこと気にしてないみたいに、また言った。 「それなら、家まで送る」 「一人で、大丈夫……それに日吉、もう部活に遅こ 「どうせ遅刻なんだ。それに、さっき駅員に電話して貰ったから一応の説明はつく」 ――……やっぱ、ダメ、だよ……学校ちゃんと行かな、と」 「一人で帰れるのか?」 強い口調で言われたら、なんか、ハッキリ答えられなかった。 「かえ、れる……」 「嘘つくなよ」 さっきの事を思い出して、血の気が引く。本当に本当に本当に気持ち悪かった。本当に、怖かった。震えてしまう指をぎゅっと握って、地面を見つめて、涙が零れないように瞬きしないで、目を見開いて、我慢する。唇が勝手に震える。 口に出したくない部分を全然知らない人に触られた所を、日吉に見られたんだ。それに気づいた瞬間、我慢していたはずの涙腺が決壊した。ぼたぼたと涙がアスファルトに点々と落ちる。勝手に涙がボロボロ出てきて、何か、なんかもうホント止まらなくなった。 ああ、きっと、日吉の声を聴いたとき、私はそのことに気づいて、だから悲しかったんだと思った。 「泣くな。俺が泣かしたみたいだろ」 日吉が困ったみたいに言ったけど、でも…… 「……――怖かっ……」 さいあく。サイアク。最悪だ。 悔しい。女だからってこんなことされて。恥ずかしい。日吉にそんなところ見られて。ああ、もう、なんで、私は女なの? 男の子に生まれたかった。そうしたら、こんなことされなくて、こんなとこ、日吉に見られることもなかったのに……! 悲しいのと悔しいのと気持ち悪いのと怖かったので、ああ、なんだろう、もうよくわかんない。 「――頼むから、泣かないでくれ」 日吉が、なんとか私を泣きやませようとして、困ったみたいに手をふらふらさせてから、ポンって頭を撫でてくれて、それがすごく優しくて、そしたら、もう大丈夫なんだって、なんか、確信して。また、勝手に涙がボロボロ出てくる。日吉が嫌がってるのがわかるのに、涙が止められない。日吉がまた「泣くなって……泣くなよ、なあ」って言って、でも、安心したら、ホント、何か、なんかもう止まらなくて、ダメだ……。 「明日からは、同じ電車に乗ろう」 急に言われて、ビックリして涙が引っ込んだ。 だって、私を避けていたのは日吉の方なのに。嬉しいんだから、ありがとうって言えばいいのに、不思議すぎて思わず聞き返してしまった。 「な、んで?」 「一人じゃ不 「そうじゃ、なくて」 ……なんだよ」 ハンカチで目とかぐりぐり拭いてたら、ちょっと落ち着いてきた。びっくりが強かったんだと思う。鼻水も出てきたけど、日吉の前だから、音が出ないようにちょっとだけすすった。音は少し出た。 「日吉、私のこと、怒って……るよね? それなのに……無理に、気、つかって、くれ」 ひっく、としゃっくりが出て言葉が切れてしまうと、日吉がかぶせるように言う。 「俺は怒ってるなんて一言も言ってない」 なんて言っていいのか、わかんなくて、困って日吉を見る。日吉は、真っ直ぐの髪を自分の手で軽くくしゃって握った。 「あれは……俺の問題で、小曾根は何も悪くないし、俺は別に小曾根を怒ってない」 じゃあ、なんで、あんな態度だったんだろう。そう思ったけど、聞いたら日吉は嫌がるかなって本能的に思って、だから、ほとんど反射的で「ほんと?」って聞き返した。 そしたら、日吉が光の速さ並に即答してくれる。 「なんで俺がこんなことで嘘つかなきゃいけないんだ」 ああ、そうだよね、と思ったら、なんか、笑っちゃって、やっぱり、学校行くよって言ったら、無理するなって言われて、日吉と一緒ならきっと大丈夫だよって言ったら、過剰な期待をするな、て言われた。 じゃあ、私はどうしたらいいんだろうと思ったけど、さっきまで泣いてて熱いぶさいくな瞼なのに、なんか、笑ってた。 ◇◆◇ 伝えたいでも伝えたくない。言ってしまいたいでも言いたくない。 どうして、俺はこんなに小曾根が好きなんだろうか。どこが、好きなのだろうか。何が好きなのだろうか。好きでいて良いのだろうか。これから、俺はどうしたいんだろうか。小曾根とどういう関係を築きたいのか。全てわからないのに、俺は何故小曾根を好きでいるのだろうか。 何でわからないんだ。自分の気持ちなのに。 ただ。 この気持ちは、絶対に口にしないと、あの時思ったことを再び強く誓う。 こんな、利己的で乱暴な、こんな気持ちは、一生誰にも口にしないと、決めた。 少なくとも、その先を見据えて、自分がどうしたいかを見定めるまでは。 もしくは、この好意が時と共に霧散して風化するまでは。 それでも、出来る限り、俺の出来る限り、側にいて、必要最低限でいいから、俺を利用して良いから、繋がりを持つことを許してほしい。最小限でいいから、守らせてほしい。小曾根は嫌かもしれないけれど、これは俺のエゴだけれど、あんな泣き顔を見るのは、もう、嫌だから。 あの日、本当は俺は、彼女を見つけていたのだ。乗り込んできたその時に。けれど、なんと声をかけるべきかと一瞬考えている間に声をかけそびれて、そこで、声をかけることを諦めた。もちろん、あとでそのことを後悔する羽目になったのだが。 電車の扉が開くと流れてくる人波の中に小曾根を見つける。 「小曾根」 昨日の今日で、まだ不安だからだろうか、俺の声に小曾根はまるで坂道をまろぶようにして乗車すると俺の側にやってきた。そんな姿が可愛らしいと同時に、可哀想で「大丈夫か?」と人波から庇ってやりながら聞くと、小曾根は、ほんの僅かにうなずいた。 それから、昨日は登校後に学校からも親に連絡が行き、最終的に早退した後、調書のために警察で五時間近くもあの時の話を繰り返しはなさねばならなかったのだと、報告してきた。おそらく、俺があの後どうしたのか気にしていると思って、気を使って小曾根はそんな話題を口にしたのだろう。 けれど、そんなことよりも、疲労と怯えの色の濃い表情や口調の方が、俺は気になっていた。警察も、調書をとるくらい、小曾根の気持ちを考えてもっと落ち着いてからにしてやればよいものを、と今更に腹立たしく思う。示談にせず被害届を出すのならきちんとやらなければいけないことはわかるが。それでも。 そもそも、あんなに怯えて泣いていたのだから、小曾根も学校を休めばいいだろうに。クラスメイトは何も知らないとはいえ、馬鹿正直に登校する必要なんてないはずだ。ああ、でも昨日でさえ登校すると、小曾根は言い張っていたのだった。 「あのね。みんなに聞いたら、痴漢なんて珍しくないって、みんな嫌な思いしてるって」 俺の心配を理解したのか、小曾根がそんな訳のわからないことを言い出した。なんのフォローにもカバーにもなっていない言葉に「だからなんだ?」と聞き返すと、小曾根は変な笑顔を浮かべて「二度と電車なんて乗りたくないって、思ったけど。みんな、頑張ってるから、私も、頑張ろうって思える――って言ったら、甘えてるって現金だって、日吉には思われるかな?」と、聞いてきた。 答えに窮して「どうだろうな」と曖昧に濁すと、小曾根は苦笑のようなものを浮かべて、顔を伏せた。こういう、女のよくやる回答の難しい遠回しのクイズじみた問いは、正直、とても面倒だし、鬱陶しい。 けれど――小曾根が相手だと不快だとは思えない。 電車を降りて、部室へ向う俺へ、小曾根は「放課後、バレー頑張ろうね」と笑った。 意地っぱりのような、空元気なような、そんな笑顔に、俺も少しだけ表情を緩めて「ああ」と答える。 一拍後、なぜだか、小曾根がとても嬉しそうに笑った。 それに、うろたえてしまう位に心臓が暴れる。 そんなに魅力のある女とは思えないのに、俺は本当にこいつのどこが好きなんだろうか。 ◇◆◇ まだ朝ご飯が完璧に消化されてないんじゃないかなって感じの一時間目から始まった球技大会の第一回戦が終了して、なんとか、私たちのチームは勝った。 嬉しい……と言うよりもとりあえず試合終わったー! って開放感で体育館の床に座り込んでしまった。私はそもそも補欠みたいなポジションで、さっきちょっとだけ試合に出させてもらったから、二回戦以降はたぶん、ほとんど試合に出してもらえないだろうな。でも、勝ち抜き戦に強い人を使うのは当たり前だよね。 さっきは、日吉が勝った時にチームの男子とハイタッチしてて、一匹狼っぽいのに珍しいな、とか、ちょっと貴重なシーンを見れたなって嬉しくなったりして、次に参加するかもしれない試合も頑張ろうって思えたりとか。 更衣室でデオドラントのパウダースプレーをかけてから体育館に戻ると、チームメイトはみんな他の試合を眺めたり、端っこでふざけたり、他のチームの仲のいい子のとこに遊びに行ったり、テンデンバラバラ。 私はどうしようかなって、あたりを見回したら急に背中に冷たい感触がして、変な声を出して飛びのいてしまった。 視線の先にいた日吉が、少し意地悪っぽく笑ってた。 なんか悔しくて、一言言ってやろうって口を開いた。けど、言葉になったのは日吉の声のが先だった。 「おつかれ」 そう言って差し出された紙パックを反射的に受け取る。 手のひらにじんわりと冷たさが伝わってきて、汗ばんでいた肌に気持ちいい。 ちょっとびっくりしたけど、会釈してからありがとうって言おうと思ったら、日吉はもう私に背中を向けて、チームメイトのところに戻っていた。素早い。 手の中のパックを見ると、それは私の好きなイチゴオレで、日吉が知っていたのかそれとも何となく買ったのかはわからないけれど嬉しくなって、体育館の壁と屋根の間にはめ込まれた窓から私たちを見下ろしている青い空を見上げた。 うろこ雲がカーテンの綺麗な模様みたいに空の半分だけを白くふわふわ漂っていて、開け放たれた扉から入ってくる風が気持ちよくて、日吉のくれたイチゴオレは身体に染み渡るほど美味しくて、仲直りできたんだなって、なんか嬉しくて、なんか幸せで、思わず一人で笑っちゃったりした。 |