きみに至る病

 ご飯を食べ終わって、リビングでお兄ちゃんとお勉強タイム。
 レッツ・スタディ・イングリッシュ!
 カタカナなのは綴りがきちんとわからないから……や、わかるんだけど……もしかして間違ってたら恥ずかしいなぁって。一応、いつでもおさがりの英和と和英の辞書は置いて勉強してるんだけど、ポケット版なので少し見づらい。溜息を一つ吐くと、さっきまで「俺もこんな教科書だったよ懐かしい」とか言ってた資格勉強中のお兄ちゃんが話しかけてきた。
香奈
「んー?」
 視線を向けている英語の教科書の紙面上で会話しているのは、ボブと……誰。誰だろ……読めない……何て読むの? すし、え? どうみたって金髪だし、寿司恵じゃないよねぇ……こっちはミチェ……ミシェ……みしぇーる? いやいや、でも、男の人、だよね。
「お兄ちゃん、これ誰?」
 筆記用具の先で、二つの人名を指すとお兄ちゃんは教科書を上から覗き込んだ。それから眉尻を下げて困ったように笑う。お兄ちゃんはあんまり無表情でいることはなくて、日吉とは違うなあって少し思った。
「そこからかよ……このニキビだかソバカスだかの金髪の女がスージィ。で、作画崩壊してるあからさまに性格悪そうなのがマイケル。――で、お前、好きなヤツいるだろ?」
 人名とイラストを交互に指差しながら、可笑しそうな声で聞いてくる。なるほど、人の名前は辞書に載ってないから、あんまりなじみがなくてわからなかったんだ。もう全員ボブでいい気がする。うそ、全員ボブだったらどういう会話かわからなくなって余計混乱しそうだ。
 最後にかけられた言葉の方は、言われた意味がよく分からなかったので、首をかしげてお兄ちゃんを見上げた。
「好きなヤツがいる、って」
 どういう意味? と続けようとして、口に出した瞬間に理解してしまった。勉強モードだった所に、急にそんなことを聞かれて、何だか顔が熱くなる。
 お兄ちゃんって昔からちょっと不思議だよね。マイペースと言うか、思い立ったら吉日というか。歯に衣を着せないというか。好奇心が旺盛というか。いえいえ私にはお兄ちゃんだって言われたくないかもしれないけど。
 兄妹なのに、私とは性格的にあんまり似ていないお兄ちゃんは可笑しそうに笑う。可笑しそうに笑われても……困って睨むと、お兄ちゃんは楽しそうに笑う。
「中学上がってからこの一ヶ月、楽しそうに学校行ってるじゃん。帰りとかまだ展覧会も文化祭も美術展もないのに、毎日遅いし」
 そんなことを言われても、特に青春めいたことのない中等部生活なので、首をひねってしまう。多分、痴漢とか遭ってしまったのに、その割には平気に学校に行ってるって意味もあるんだろうけど。帰りが遅いのも、美術部とか図書館にいるだけで、彼氏と一緒に帰るとか、そんなことも全然ないし、告白とかをされたわけでもない。もちろんしてもいないし。私は中等部に入ってから初めて絵を描くから、技術もつたないし、ほかの人よりたくさん勉強しなきゃいけないことが多いだけで。点描画なんて、いきなり描いたら腱鞘炎になるしなにを描いているかもわからなくなるらしいし、本格的な制作に入る前に知ることがたくさんあるだけで。小学校から氷帝の幼稚舎に転入した時は知り合いも少なくて、また嫌われないかってびくびくしてたけど、今はさすがに慣れてきたから、そんなに怖くないだけで、そこまでは楽しそうってわけじゃないと思うんだけど。
 そうやって説明する私を、お兄ちゃんは面白そうに見ていた。あ、これは全然私のいうことを信じてない時の顔だ。
「なんでもいいけど、気付いたら教えて。っていうか紹介しろ」
 いないのに?
 不服そうな私の顔を見て、お兄ちゃんはクアッカワラビーみたいにまた笑った。それからノートの罫線に文字を書き連ねていく。
 もう一度きちんと否定するタイミングを失ってしまった。

 好きな人?
 いない。はず。たぶん。思い当たる人いないし。
 幼稚舎から一緒の三村君とかはいじめてくるし。田中君は小さいから親近感湧くけど、それだけだし。井上先輩は野球部のエースだから顔は知ってるけど、うーん。跡部先輩はかっこいいって思う、でも何だろう、芸能人的に好きというか。日吉は……日吉も、かっこいいけど、でも、好きなのとは……だって、好きだって、普通はわかるんだよね? 好きな人だって、自分でわからなきゃ、たぶん好きじゃないんだろうし……とか悩んでいると、電車がホームに着いた。
 強い風に髪とスカートがぶわっと舞うから、鞄でスカートを押さえる。いつも、この瞬間だけは何となく、目を閉じちゃったりする。身体が勝手にギュってなる感じ。
 ドアが開いて後ろの人に押されながら車内に入ると、いつも通りに日吉がいた。
「おはよー日吉。今日も混ん、でる……ね」
「ああ」
 人に押される勢いを利用して日吉の傍まで辿り着くと、それ以上流されないように日吉が庇ってくれる。まるで、川に流れる木の葉になったみたい。日吉は川の表面に出てる岩とか、木とかかな。
 やっぱり人が多くて、密着は避けられない。それでも、日吉が庇ってくれるから、一人で通っていた頃の足がつかない程の苦しさではないし、呼吸はちゃんとできる。命の危険を感じるほどじゃないありがたみと、一人で乗る不安から、いつも日吉が守ってくれている。
 ちょっと怖いけど、なんだか怒ってたりするけど、たまに冷たい口調だけど、人のことを拒絶してそうな感じもするけど、基本的にはいい人だなって思う。
 そう、いい人。日吉はいい人だ。いい人の定義がわからないけど、ええと、じんどうにもとることはしなさそう? というか。実は優しいし。優しいの定義もちょっと曖昧だけども……うーんと考えて日吉の顔を見て、そこで、はたと気付く。
 ど、どうしよう……このままじゃ胸が日吉にあたる、よね?
 なきに等しい成長途上のささやかな胸でも、押し付けるみたいになるのはかなり恥ずかしい……!
 身体を少しひねって、なるべく日吉に胸が当たらないように調整しようとするけど、全然当たらない位置なんかなくて。そういえば、今までどうだったっけ? 私の胸、日吉に当たってたっけ?
 なんでいきなり、こんなことが気になり始めてるんだろう。
 こんなの、いつものことじゃん。
 そうだよ、いつものことだよ。
小曾根?」
 身体をよじよじねじねじしてる私に、日吉が訝しげな声で私を呼ぶ。
 あ、これは痴漢とかの心配をしてくれてるかもしれないって気づいて慌てて、日吉を見上げる。
 なんでもないよって答える前に、見上げた日吉の顔が思ったよりも、さっきよりもとてもとても近くて、びっくりして視線を下げた。
 胸は、やっぱり避けようもなく当たっているし、日吉の脚を私の脚が挟んでいて、サラサラとゴワゴワの中間をした固くて丈夫そうな制服の生地越しに日吉の体温が伝わってくる。
 頭の中で、面白そうなお兄ちゃんの言葉がリフレインした。
 急に心臓がドキドキする。
「おい、小曾根、どうかしたか?」
 なにかしゃべらなくちゃって思うのに、不自然に黙り込んだままになってしまって、声も出せない。いま声を出したらひっくり返っちゃう気がした。それに、今まで何を話していたかも思い出せなくて。
 どうしよう、顔が熱い。
 今更、私と日吉って毎朝いつもこんなに近かったんだって、くっついてたんだって、気付いて。ああ……!
 大丈夫、日吉はなんとも思ってない。だから、この距離でもなんでもないし、意識してる私が変なだけで、意識してる私が……意識、してる。意識しちゃってる。日吉のこと。どうしよう。だって、すごく、すごく恥ずかしいけど、恥ずかしいけど、逃げ出したいけど、くっついてごめんねて気持ちだけど、だけど、でも、ああ、私。
 私、こんなに日吉とくっついてるのに、吐息だって、脚だって、胸だって、体温がわかるくらい、触れ合う距離なのに。
 いま私、恥ずかしいし、心臓も頭も破裂しそうなのに、身体が熱い気さえするのに、
 いやじゃ、ない。
小曾根?」
 日吉の顔を、恥ずかしくて見上げられない。
 にじんだ涙の、この感情はなんなんだろう。
 わからない。
 何にもわからない。

 ◇◆◇

「どーしよう……」
「私に聞かれても?」
 何を言えばいいのかもわからないけど、一人で秘めておくには胸が痛すぎてそわそわして、まどかちゃんに相談を持ち掛けてしまった。
 日吉を意識した瞬間、何をどうして良いのかわからなくなって、自分が何をどうしたいのかも分からなくなって、それは今も延長中だ。
 あのあと電車の中で、何も応えられなくてずっと黙っちゃってて、もしかしたら日吉はむかついたかもしれない、とか今更思った。あの時は、日吉を意識しちゃって、頭が真っ白になっちゃってたんだなんて、言い訳をしに行くのも変な人すぎてできない。私、日吉に変だって思われたくないんだっていうのにも今気づいた。
 まどかちゃんが、二人で買ったお昼のサンドイッチを私より二つも多く食べたけど、そんなことにつっこみを入れられるほど余裕はなかった。
 お腹がなかなか減らないのもあるけど……自分のほっぺたに両手を添えてみる。熱が出たみたいにあったかい。
 うー、こんな顔で日吉の前にいたら、気づかれちゃうかもしれない。あ、私、日吉を意識しちゃったこと日吉に気づかれたくないのかな? もう、何にもわからない。
 一人でもにゃもにゃしている私を横目にまどかちゃんは立ち上がると、自販機でイチゴオレを買って「香奈、投げるからキャッチして」投げてきた。
 おろおろと手を伸ばすけど、あまり運動神経の良くない私の手は何もつかめないまま、イチゴオレは床とキスしてしまった。
 まどかちゃんは自分のカフェラテを買ってて、イチゴオレの落下に気づかなかったみたいなので、急いで拾って手で掃ってお礼を言いながら、何もなかったかのように付属のストローをさす。
「でも、なんで日吉君なの? あの人って何だか目つきとか怖くない? 愛想もないし、性格悪そう」
 席に戻ってきたまどかちゃんは、カフェラテをテーブルに置きながら、控えめな声で私に尋ねてくる。たぶん、悪口のつもりはなくってまどかちゃんの中の日吉の評価を口にしただけなんだろうな。
 それがわかってるのに、反射的に「怖くないよ」って即答しちゃって、それで、ああ、私は日吉に好意的な感情を持ってるんだなって実感してしまった。
 それからイチゴオレを、ちゅる、と一口飲んで、ちょっと考えて、答えた。
「日吉は……優しいよ。私が死にそうになってると助けてくれるし……私のこと待っててくれるし……宿題見せてくれるし……雨の時とか、傘貸してくれたし……話してると一応聞いてくれるし……多分、心配とかもしてくれてるっぽいし……えと……」
 しどろもどろになりながら言ってみたら、まどかちゃんはちょっと笑った。お兄ちゃんの、面白そうな笑い方に近かった。でもクアッカワラビーよりは、いつか図鑑で見た書記官鳥の雰囲気。うーん、本当に美人。ちょっと拝みたくなってしまった。
「それって、ただ日吉君が香奈にとって都合がいい人ってだけじゃない?」
「そ、そうなの?」
 都合がいいから、ドキドキするの?
 自分の気持ちがわからなくて、答えが欲しくてすがる想いでまどかちゃんを見ると、まどかちゃんは、今度はちょっと意地悪な笑い方をした。
「ううん。好きなんだと思うけど。顔真っ赤だし、香奈
 あ、あー! からかわれた……!
 まどかちゃんが綺麗な顔に、にやにやと楽しそうな笑顔を浮かべている。
 綺麗な顔だからか、なんだか余計に意地悪そうに見えた。いま、私いっぱいいっぱいなのに……酷い。わざとムッとしてすねて見せたけど、全然気にしてもらえなかった。あれこれ昨日お兄ちゃんにやられたやつだ。みんな私の扱いが似てる。
 うぅ〜……もー、わかんないよ。だって、そんな、急に……。
 私がうぅううぅ〜ってしているとまどかちゃんが掌を持ち上げて自分の顔の前に持ってきた。
 そして、親指を折って「告白する」と言い、
 人差し指を折って「告白させる」と言い、
 中指を折って「現状維持」と言い、
 薬指を折って「諦める」と言い、
 小指を折って「その他」と言いながらその小指をぴこぴこ動かした。
 そういえば、まどかちゃんも、今彼氏はいないんだった。氷帝の幼稚舎には何人か仲のいい子達がいたし、駅のアクセサリー店で見かけるような指輪を貰っているのを見たことがある。あの後どうしたんだろう。
 私の回想なんて知るはずもないまどかちゃんは、私の話をグイっと進めている。
「折角だし、告白してみるのもいいだろうけど、まずは日吉君と仲よくなってみれば?」
 まどかちゃんの言葉の後半は全然聞いてなかった。最初の“告白してみる”という言葉を聞いただけで胸がバクバクする。
「無理! 無茶! ありえない! だっ……て、」
 だって、もしフラれたら?! うわわわわ、怖い恐いこわい! 嫌われるの、本当に苦手なのに、本当に苦手なのに、告白して嫌われちゃったらって想像するだけで無理だ! ってなる。
 泣きそうになってる私を見てまどかちゃんは、さっきの指たちをわきわきさせてから、イチゴオレを握りつぶしかけてた私の手をポンポンと撫でた。
 少なくとも、今は告白する勇気なんてない。告白なんて、これから努力したってしてもらえる気がしない。もしかして、明日世界が滅ぶとか、明日日吉が引っ越しちゃうとか、明日が卒業式とか、そういうのでもない限りは、考えられない。嫌われたくない。嫌われたくないよ。
「どうするにしても、今の状態はなんとかしないとね。香奈、泣きそうだし、顔真っ赤だし、挙動不審だし」
 そう言われて、慌てて目元にイチゴオレをくっつけて冷やす。
 今だって、私にとっては、日吉とは十分仲がいい、と思う。なのに、告白して避けられたりとか、そんなの本当にやだ。

 でも、現実問題として“日吉の前で今まで通りにできるのか”、“諦められる=日吉を好きじゃなくできるのか”っていうのが、あるんですけど。どっちもできるかは、今日この気持ちに気づいた私には全然わからなかった。でも、日吉に私のことを好きになってもらうよりは、一番現実的な気がした。
 そんなことを考えてたら、授業開始五分前のチャイムが鳴ってしまって、歯磨きしてないことに気付いて、一気にイチゴオレを飲んでからマウスウォッシュでうがいして慌てて教室に戻った。
 
 後ろの扉から教室の中に入って、もう席についてた日吉のすっと伸びた後姿を見たら、また心臓がドキドキした。
 ぎゅって、シャツの胸の所を思わず握る。
 少しドキドキが治まった。
 ドアの開く音がしたからか振り向いた日吉がこっちを見て、またドキドキした。日吉が私の心臓のスイッチを持ってるみたい。
 でも、日吉は、すぐにふいと視線を逸らす。
 ちょっと安心しながら、ちょっと残念だった。それで、ちょっと寂しくなった。
 思わず“日吉”って名前を呼びそうになって、ぎゅってほっぺたの内側を噛む。呼んでどうする気なんだろう、私。
 そしたら、まるで私に呼ばれたみたいに、また日吉が私の方を見て、また心臓がきゅうってなる。
「早く席に着けよ小曾根。そろそろ先生来るぞ」
 日吉が素っ気なくそう言って、私はほっぺたが赤いのがばれないように手で押えながら頷く。
 あんまり学校で話しかけてくれない日吉が声をかけてくれて、嬉しかったから、答えたかったけど、変な声が出そうだから、頷くだけ。日吉の視線の呪縛で固まってた足を何とか動かして自分の席へ向かった。

 日吉、私、日吉のことが好きみたいだよ。

 心の中で言ってみた。
 それだけで体中が熱くなって、まるで頭の中に心臓が移動したみたいだった。
 頭の中でどくんどくんってしてるみたいになる。
 ちょっと頭痛に似てて、なんだか、気持ち悪くなってきて、ああそういえば、悲しいこと苦しいこと辛いこと緊張することだけじゃなくって、嬉しいことも楽しいことも、実はみんなストレスなんだってテレビで見たのを思い出した。
 納得してしまう程の、精神的負荷が表面化されてる私の身体。熱くて、涙が出そうで、頭の中の心臓のせいで何も考えられなくて、胸の中の心臓は痛くて痛くて仕方ない。
 授業が全然聞けなかった。
 先生に差されてもぼーっとしてたらしくて、顔も赤いし熱でもあるんじゃないかって保健室まで保健委員の子に引き摺られてしまった。熱を測っても、意外な事にそんなにはなくて、でも顔も赤いからって保険の先生に冷却シートをおでこに貼ってもらってベッドで寝かされてしまう。

 すごい。
 何がすごいって。
 日吉のことすきだって気付いたとたん、心臓はドキドキするし顔は赤くなるし泣きそうになるし。
 恋ってもしかして病気なのかもしれない。たくさんたくさんの本を読んできたけど、実際に自分がなると思ったことがなかったから、いろんなことが未知の体験すぎて、ああ、もー……もう。

 ……だいじょうぶ。
 うん、だいじょうぶ。
 明日からは普通に出来る。普通にやれる。
 一緒に登校して、いつもみたく日吉と話をして。
 今日は自分の気持ちに気づいたから、あんまりびっくりしただけで、明日はもしかしたらこんなにドキドキしないかもしれない。
 うん、だいじょーぶ!
 自分に言い聞かせて、明日こそは頑張るぞと決意を新たに、ぎゅっと目を瞑ったら、何時の間にか眠ってしまっていて、目を開けると白い天井に反射するオレンジ色の光が見えて、タイムワープしたのかと一瞬思った。
 もそもそと起きると、ぬるくなった冷却シートがぺろんとおでこから落ちた。
 目をこすってから欠伸をして、身体をぐーっと伸ばして、ベッドの上に落ちた冷却シートを拾う。ベッドを区切っていたカーテンを開くと、保健の先生がいて、ちょっと話してから、気をつけて帰ってねって言われた。
 そっか、もう放課後なんだ。午後の授業出られなかったなって思いながら、先生にお礼を言って、鞄の置いてある教室に戻る。

 教室のドアを開くと、日吉がいた。本を読んでた。サラサラの前髪がちょっと長い。横顔が夕陽に照らされてる。日吉の髪の毛は、空と同じオレンジ色に染まってた。睫毛も瞳もオレンジ色に照らされてキラキラしてる。
 それを見たら、また、顔が赤くなる。
 でも、心臓は、頭じゃなくてきちんと胸にあったから、寝る前よりはマシかも。ちょっと口から出そうだけど、頭までは行ってない。
 日吉がお昼の時みたいにドアを開けた音でこっちを向いて、視線があって、またどきどきした。
 教室に二人っきりってシチュエーションは、いま、この気持ちを自覚した私にはかなり厳しいものがあるんですが。日吉の、まどかちゃん曰く怖い目が真っ直ぐ私を見る。
 な、何でこんな時間に一人で教室にいるの?
 なんだか居た堪れない気持ちを押し込めながら、何でもない風に自分のロッカーから鞄をとって、自分の机に入ってたペンケースとかを鞄に詰める。
「朝から変だと思ってたけど、小曾根具合悪かったんだな」
 一瞬誰の声かわからなかった。
 ここには、私と日吉しかいないのに。
 日吉の声だってわかった瞬間、何だかまた涙が出そうになった。
「……ん、そうみたい」
 ひっくり返らないように気を付けたら、勝手に掠れた声が出てビックリした。
 具合なんか悪くないよ。
 けど、じゃあなんでこんなに顔が赤いんだって突っ込まれたら困るから、具合が悪いってことにしちゃおう。ああ、ほんと、恋は病ってやつだ……
 そう言えば、なんで日吉は部活……あ、水曜日か。水曜日ってテニス部ないんだった。でも、日吉はいつも自主練してるのに――あれ、なんで私、テニス部の休みの日とか、日吉が自主練習してること知ってるんだろう。日吉から聞いたこと、なかったと思うんだけど……あれ?

「送る」
 日吉が言った。

「おくる?」
 言葉の意味が、あまりに理解不能で聞き返すと、日吉は舌打した。
「帰り道、途中まで一緒だから小曾根を家まで送ってやるって言ってるんだよ。ちょうど俺も切りがいいから帰るところだし」
 ああ、どうしよう。日吉は私の心臓を壊す気なのかもしれない。
 私のことを、あの日吉が、私のことを、家まで送ってくれるって。日吉は私のこと、ちゃんと友達だと思ってくれてるんだ。
 嬉しいんだけど、なんか、もう、息も絶え絶えと言うか。いろんな気持ちがワッとなってて、死にそうというか。
「嫌なら、いいけどな」
「嫌じゃない!」
 思ったより大声が出て、私もびっくりしたけど、日吉もびっくりしたみたいに目を細めた。
「い、嫌じゃないよ……」
 もう一度言うと「そうか」って、日吉の口元が少し緩んだ気がした。
 私の見間違いかもしれないし、妄想かもしれない。でも、それだけで、また胸がドキドキして、また胸から頭まで心臓が移動しちゃって、どくんどくんって頭の中に響く。サァサァとした、自分の血の流れが聞こえている気がする。

 ああ、ほんと、私、日吉が好きなんじゃん。
 ああ、ほんと、私、なんで今まで気付かなかったんだろう。
「日吉、優しいよね」
 帰り道、声が掠れないように、すごく意識して頑張って日吉と話す。
「――」
 日吉が何か言ったけど、電車の音で聞こえなくて、聞き返しても答えてくれなかった。
 電車は空いてて、日吉と並んで座って、私はまた眠ってしまった。
 へんな時間に寝たから、まだちょっと身体が眠たがったみたいだった。それに、多分、今日は朝からずっと身体が走り続けてるみたいな状態だったから、普通に疲れたのもありそうだった。
 家の近くの駅に到着する少し前に日吉が起こしてくれて、そこでやっと日吉に凭れてたことに気付いた。
 まるで義務みたいに、また心臓がばくばくいいはじめる。
「家まで送る」
 電車を降りようとして座席を立ったら、日吉も一緒に立って、そんなことを言った。
「えっ?! いいよいいよ! そんな。日吉に迷惑かけられないよ」
 恥ずかしいやら嬉しいやらで慌てて反射的に断ってしまった。電車で私が席を譲ったりする人と同じ反応をしてしまっていることに気づいたけど、止められなかった。
 思いっきり首を横に振ったら、寝起きの所為もあって、頭がぐらってした。
 ちょっとふらついたら、ぐっと腕を掴まれて「病人が気をつかうな。本当に迷惑なら、やめる」って言われた。

 ねえ、日吉、わたしを病人にしてるのは日吉なんですけど?

 言えないけど。
 迷惑な訳がないよって言って首を振ると、日吉が「そうか」って柔らかい雰囲気で言ってくれた。
 ああ、今が夕方でよかった。
 顔が赤いのを、夕陽のせいにできる。
 日吉が家まで送ってくれて、緊張のせいで会話は全然できなかったけど、すごく幸せだなって思った。
「今日はありがとう。またね、日吉」
 玄関の前で手を振ると、日吉も珍しく手を振り返してくれた。
「またな、小曾根
 って、日吉が少しだけ目を細めて、口元を柔らかく緩ませて、夕陽に照らされたキラキラの髪が綺麗で、私の心臓はまた全力疾走した。

 ◇◆◇

(あの馬鹿……)
 駅へ向う途中、日吉はわずかに己の唇を噛んだ。
 緊張からか、少し汗ばんだ己の手を、まるで認めまいとするかのようにぐっと握る。
 “日吉、優しいよね”
 香奈の言葉を思い出して、日吉は大きく息を吐いた。
(俺が優しいのは、小曾根にだけなんだよ。解れ。馬鹿)
 日吉は熱い自分の頬を夕陽の所為と決めつけ、駅へ向ってゆっくりと歩く。
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