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「うわっ……ごめん日吉!」 電車が大きく揺れた。日吉に庇って貰っていたおかげで、なんとか転ぶことはなかった。 けれど、ふんばりきれなくて、バランスを崩した私は思いっきり日吉の胸に顔をぶつけた。今日、私は色つきのリップクリームをしていた。 すなわち―― ちょっと呆然としてシャツを見る日吉の顔に、彼の鎖骨辺りにぶつかった鼻が痛いことも一瞬で忘れてしまうほど目の前がまっしろになった。血の気が引く。 「いや……いいから、気にするな」 唇のかたちにリップクリームの痕がついたシャツを、困ったように指で軽く撫でる日吉を見て申し訳なさといたたまれなさで涙が出そうだ。 ブレザーやネクタイじゃなくってよかったのかもしれないけど、でも。 「気にするよ! これっ絶対クラスでからかわれるよね……」 「だろうな」 じつにあっさりとした日吉の肯定。 そりゃそうだ。白いシャツの胸元にオレンジがかったピンク色のキスマークなんて、目立たないわけがない。からかわれないわけがない。 急いでハンカチとウェットティッシュを鞄の内ポケットから取り出す。ぶつかった事にもこれからする事にも「ごめん」って言って日吉のネクタイに手を伸ばす。普段自分でやるのとは逆だけど、細い方を軽く上に引っ張ったら私の手の分位はゆるめられた。 「おい……小曾根、何」 焦ったみたいな日吉の声。っていうか焦ってるのは私なんだけど。背中にぶわって冷や汗をかくほど焦ってる。どうしようどうしよう。落ちなかったらどうしよう。 「すぐにやれば多分取れると思う。じっとしてて」 揺れる電車の所為でシャツのボタンが外しにくい。 一つ目のボタンを外したところで、ちょっと落ち着いたっぽい声の日吉に、手で視線を遮られた。 「電車を降りてからにしろ。小曾根、俺は気にしてないから。深呼吸でもして、少しは落ち着け」 困惑気味な日吉に、それでも普段より優しい感じでなだめるようにそう言われた。そうなったらもう、うなずくしかない。 ああ、なんで、私っていつもこうなんだろう。もうやだ。泣きそう。でも今泣いたら絶対に日吉を困らせてしまう。もっと嫌われちゃうかもしれない。 「気にしてないから」 もう一度、日吉が言った。 泣きそうになりながら、うなずく。 学校に着いてから、まずは日吉と一緒に部室棟に向かった。部室棟は運動部の縄張りだから、私はあんまりなじみがない。一応、美術部の部室もあるけど、ほとんど物置状態だから、少しだけ緊張した。 「着替えてくる。シャツ持ってくるから、小曾根は少し待ってろ」 テニス部の部室の前でテキパキと指示されて、中に入っていく日吉の背を自己嫌悪たっぷりに見送る。 (ああ……私……さいあく……ホント最悪……) 溜息を吐いて地面を見詰めた。 自己嫌悪がとまらない。日吉に申し訳なくて仕方ない。泣きたい。 なんで、私ってこんなにダメんだろう……ホント、もーやだ。やだ。最悪だ。でも、何が一番最悪かって、日吉にぶつかったとき、体温に勝手に心臓がときめいてしまったのが一番最悪。日吉に迷惑かけてるのに、触れ合えて嬉しいなんて、きっと意識にはのぼらなかったけどラッキーとさえ思ってたかもしれない。 最悪、だなぁ……。 しかも、今思うとシャツのボタンはずすとか、慌ててたにしろ染みを取ろうと思ったにしろ変態じゃん。ああ、恥ずかしいよ、大声上げたい。 涙が出そうになって、目に力を入れて堪えて学校指定の鞄を強く握る。喉の奥がぐぅ……っと鳴った。風は涼しくて、日光も穏やかな気持ちいい日なのに、私の心は曇り空どころか氷河期だった。 明日から一緒に電車に乗ってくれなくなったらどうしよう。 日吉がみんなにからかわれたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。ああ、もうやだ……やだよ…… 「自分、何してん?」 もう一度ため息をついたところでポンっと肩を叩かれてびくっと身体が勝手に反応してしまった。いきなりで心臓がドキドキしてる。このイントネーション、あんまり関東っぽく、ない、よね? おそるおそるながら振り向くと眼鏡の人がいた。 「え、と……あの……?」 困惑する私に、その人は唇の端を少し上げた。笑っているというよりも、ちょっとだけ口角を持ち上げたという感じだった。 「俺はテニス部でレギュラーやってんやけど……で、自分何しとんの?」 眼鏡の長髪で長身の人だった。少し尋問調の言葉に、身構えてしまう。テニス部のレギュラーってことは、この人は先輩で、そして強いんだろうな。そういえば、テニスラケットが六本は入りそうな黒いウイルソンのロゴがはいったラケットバッグを持っている。日吉の下剋上目標の人なのかな。 「知人……を、待ってます」 日吉を、じゃなくて知人を、と答えたのは無意識で、言った後に気づいた。誤魔化す必要なんてないけど、でも言う必要もないかなと逃げ腰になってるのが自分でわかる。 「そない警戒せんでええよ。誰のストーカーやろって思っただけや」 先輩は、私の警戒を解くように少し笑って、冗談を言った。私はちょっとだけ愛想笑いを浮かべる。今は心から笑える気持ちじゃなかった。 「あの……」 でも、それよりも。 「ん? なん?」 ちらりと、声をかけられたときからずっと肩に置かれている先輩の手を見る。 私の視線に気づいた先輩は、ぱっと手を離してひらひら振って見せた。 「ごめんな。気づかんかった」 「いえ……」 あんまり男の子に触れられた事のない私は、ちょっとした接触でも少し怖くなってしまう。仲のいい子とか、遊んでる最中とかなら気にならないんだけど。名前も知らない人に触られると、特に男の子だと、何か緊張してしまう。 人懐こい先輩だなあ、なんてぼんやりと見上げると、先輩は笑顔を返してくれた。 「小曾根。悪い、待たせた――、っと。おはようございます。忍足さん」 ジャージに着替えた日吉が、テニスラケットを片手に、制服の白いシャツを持って部室棟から出てくる。私は、なんだか助けられた気分で、ほっとして日吉に向って笑う。 自分が笑えたってその時に気がついて、とても緊張してたことも気づいた。日吉が来たことに安心した自分が、すこしだけ気恥ずかしかった。 日吉は、笑顔こそ向けてくれなかったけれど「宜しく」と白いシャツを私に差し向けてくる。まだ微かに体温の残るそれを受け取っていると、眼鏡の先輩がからかうような声音で言った。 「なんや日吉の彼女か」 その言葉のあまりの的外れっぷりに、驚いた。ものすごく驚いた。 もしかして、日吉にはもう彼女がいて、その子と勘違いされてる? とか? 血の気が引いて悪寒と一緒に冷や汗が溢れる。目は開けているのに視点が結べない。たしかに日吉は、わかり辛いけど優しいし、好きになる子だって沢山じゃなくたって絶対いるもん。今は彼女がいたっておかしくない。 「なっ! に、言ってるんですか忍足さん……!」 反応できない私のかわりに日吉がすぐに反論した。思わず日吉に視線を向けると、すごく慌てていて目を瞠っていた。それから、日吉は睨むように、おしたに? 先輩を見た。 「違うん?」 押谷先輩は笑いながら首を傾げて私と日吉を交互に見る。その視線に居心地が悪くなって、どうしよう、と泣きそうになって日吉を見ると、日吉は私のことなんか見ていなかった。そして更に強い口調で先輩に言う。 「違います! アンタなに妄言吐いてんですか!」 うわ、すごく耳に痛い。日吉の声が耳に痛いって初めてだ。こんなに大きな声、初めて聴いた。 お……怒ってるの、か、な? 怖い。 日吉って、こんなふうに怒鳴るんだ。ちょっと、怖い。心臓の近くの血管がヒクってなった感じがした。 「照れるなや」 押谷先輩は声を張る日吉のことを可笑しそうに微笑んで見てた。先輩はなんでこんなに余裕があるんだろう。年上だから? 私だけ日吉にびっくりして怖がってしまっている。 日吉は、多分押谷先輩が笑ってたからだと思う。さっきより深く眉間に皺を作って、それからラケットを強く握った。 「違います。照れていません。小曾根は俺の何でも――」「日吉!」 これ以上会話が続かないように大きな声で遮ったのは、今日何度目かの無意識で、反射だった。 日吉が次の言葉を紡ぐはずだった唇を閉じて、ゆっくり私を見た。でも、目を合わせたくなかったから、その視線から逃げる。 「……部活、終わるくらいに染み抜きしたシャツ持ってくるから。ごめんね」 もう、力いっぱい否定されるところを聞きたくなくて、そう言って逃げた。 日吉にとって、私はなんでもないなんて、わかってたけど、それでもその事実を日吉自身に、あんな声で口にされると追い打ちで泣きそうになった。 いつも宿題とか見せてくれるし、相槌打ってくれるし、心配してくれているし、二人の時なら追い払ったりとかあんまりしないし、嫌われてはないかなって思ってたけど、でも、あんなに否定されるなんて。そりゃ、付き合えなくてもいいって思ってたけど。それでも。 全く未来がない。 少しも希望がない。 日吉の体温のなくなった冷たいシャツを胸に抱いて、いつも陣取っている美術室まで逃亡した。 美術準備室は鍵が閉まっているのだけど、こちらは常時開放されている美術室に入る。指定席に腰を下ろして、独特の、油絵の具やシンナーや古い木の香りのする机に突っ伏す。 あそこまで力いっぱい否定しなくても! 声を荒げた日吉なんて初めて見た。怒鳴るほど勘違いされるのが嫌だったってことですか。そんなに嫌ですか。 いつもみたいな“馬鹿だろ”って呆れて馬鹿にする感じの否定だったらよかったのに、あんなに怒るなんて……今にも噛み付きそうな、日吉の怖い顔を思い出して、また眼球が塩水の膜に覆われる。零れないように、目をいっぱいにひらいた。 鼻を啜ってから、リップのついた部分にハンカチを当てて、シャツを裏返してウェットティッシュでとんとん叩く。 リップの染みは油分のせいで少し手強かったけれど、根気強くたたいていたら、一目見ただけならわからないほど落ちていく。 私の気持も、こんな風にハンカチに移せないだろうか。 だって、今朝の、絶望的だよ。 日吉のシャツに、リップクリームでもウェットティッシュの物でもない染みが、ぽつりと出来た。思わず皺にならないようにシャツを抱きしめて声を押し殺す。しゃっくりみたいな音が出てしまわないように頑張る。ああ、もう、ホントやだ。 ホントに、やだ。 ◇◆◇ 「忍足さん……」 「なん?」 「あまりちょっかいださないで下さい」 「 「……っ、俺、もう、練習行きますから!」 「頑張りー。俺も後から行くしな」 ◇◆◇ 自己嫌悪を引きずったまま、朝練が終わった頃にテニスコートを覗くと、バラバラと部員達が散っていくところだった。日吉が出てくるのをテニスコートの外、観客席の外で待つ。テニス部の一部の人たちは練習後のストレッチや補強運動に精を出していた。 本当は、会いたくない気持ちもあるけど、でも、シャツなかったら、日吉は困るし。困らせてやれ、という気持ちもなくはないけど、やっぱり、嫌われるのは怖い。 今朝の事を思い出して、また目が潤んできて、きつく空を睨む。悔しいくらい晴天だった。 「ああ、朝のコやん。小曾根ちゃん? 日吉はちょっと遅れると思うで」 汗をかいた黒髪長髪の眼鏡の先輩が、私の視線の先の空を遮ってにこやかに声をかけてくる。いきなりで、またびっくりした。えっと、確か日吉は朝、この先輩を おしたに? 先輩とか呼んでたよーな……と記憶を探る。 「おっ侑士、新しい彼女かよ?」 テニス部の赤い髪の人が押谷先輩に声をかけた。ユーシという名前だということを知ったけど、漢字は思い浮かばなかった。 「ちゃうわ。日吉に用があるんやて」 「へー。ま、いーや、じゃあ、また部活でな」 気軽な感じの会話で、たぶん赤い髪のひとも先輩なんだなって予想した。 「おう。またな岳人」 押谷先輩は赤い髪のガクト先輩にひらひら手を振って笑みを浮かべている。押谷先輩の笑顔は、日吉の、時々ぽつんと落とすような笑顔とは、やっぱり全然違うなあ、なんて思った。 私の視線に気づいた押谷先輩はゆるく首を傾ける。 「あの、日吉が遅れるって……居残りとか片付けとかですか?」 不躾に先輩の顔を見ていたことに気づいて、ごまかしもかねて慌てて質問をしてみる。 「んー。言ってええのかな……」 押谷先輩は顎に手を当てて空を見上げ、大げさに考えている仕草をして、私を見た。それから肩にかけているタオルで首筋の汗を拭った。 「まあ、小曾根ちゃん、日吉の彼女やないんやし、隠す事ないわな。日吉は女の子に呼び出されて少し前に出てったんや。多分告白タイムやと思うから、時間かかる思うんやけど」 小さな子供みたいに、なぜだかすごく楽しそうに笑ってる押谷先輩は、恐らく日吉が呼び出されたという方向に視線を向けた。 すごい、嬉しそうににこにこしてて、押谷先輩は後輩思いなのかもしれないな、なんて、思う。 「――あー……じゃあ押谷先輩、すみませんけど、これ、日吉に渡してもらえませんか? 日吉のシャツなんですけど」 おずおずと、きちんと畳んだシャツを押谷先輩に差し出す。 押谷先輩はやっぱり笑いながらそれを受け取ってくれた。 「ん、ええよ。ちなみに、俺、押谷ちゃうから。忍足やから。覚えといてな、小曾根ちゃん」 失礼なことをしてしまったとはわかるのに、さっきの言葉が頭を占領していてぼんやりとした思考しかできない。 「ああ、おしたり先輩……すみません。あと、お願いします」 綺麗に染みの消え去った白いシャツを忍足先輩に渡して、ぺこりと頭を下げて私はその場を後にする。 歩きながら忍足先輩の言葉をゆっくりと反芻する。 日吉が、告白された? ◇◆◇ ホームルーム前に日吉がクラスに来ても、私はいつもみたいな挨拶もしなかった。無視、とは違うけど、余裕がなかった。日吉になんて声をかければいいのか、わからない。今、日吉と話したらなんて口走ってしまうかわからない。告白されたんだって? とか、からかうみたいに聴ければいいけど、そんなこと、無理。だって、きっと声が震えてしまう。もしくは裏がえる。それか聞きながら泣くかもしれない。 私は日吉にとってなんでもないクラスメイトで、気軽に恋愛のこととか聞ける関係じゃなくて、それにもし聞いてしまったらその結果にすごく傷つくかもしれなくて、そんなの怖くて、日吉に嫌われるかもしれなくて、でも、だからって今は授業のこととかを話せる気分でもなくて、だから黙ってるしかなかった。話しかけられないように逃げるしかなかった。 そんなことしなくったって、日吉は滅多に学校で私に話し掛けたりはしないのに、自意識過剰で恥ずかしいのに、避けてしまう。 とにかく、早く日吉のことは諦めて、日吉を好きなこの気持ちをなくして、早く普通に日吉と話せるようにならないと。 告白された日吉には、私のこんな気持ちは迷惑なはず。気づかれる前に何とかしないと。好きだってばれて、引かれて、距離を置かれるまえに、はやく。 自分の考えている事が何だか支離滅裂だと感じながら、急かされるように“諦めないと”と思う。 まるで、諦めるしか選択肢が存在しないみたい。なんでこんなに、私の心はすぐにぐちゃぐちゃになってしまうんだろう。 誰からも、何からも、逃げるように来てしまった美術室の隅っこで、スカートに埃がつくのもどうでもよくて、体育座りをする。ぎゅうっと膝を抱いて、その膝の上におでこを乗せて、今日、二十回以上は吐いた溜息を、またついた。 「日吉の、馬鹿」 八つ当たりの言葉を吐く。日吉は何も一つも悪くないのに。 昼休みなのに全く食欲も湧かなくて、私って繊細じゃん乙女じゃん、とか思ってみる。私は、何でこんなに日吉を好きなんだろ。 日吉がぶっきらぼうだけど実は優しいって知ったから? 電車で毎日一緒に登校する内に? 練習試合のかっこいい日吉にノックアウトされたのかな。 どれもそれっぽいけど、どれも断言できるほどの理由ではない気がする。 そういえば、クラスメイトで、名前をすぐに覚えられたのは五人だけだった気がする。 その内一人は幼稚舎の頃から顔だけは知っていて、一人は席が近くで気があってよく話して、一人は一番小さい人で、もう一人は同じ委員会で、もう一人が日吉だった。 ヒヨシ ワカシ ああ、そうだ、詩みたいな、昔の文章みたいな韻の踏み方が耳に残ったんだった。 タナカ ワカシとかヒヨシ ハルトとかだったらすぐには覚えなかっただろうな。 「ヒヨシ ゴエモンザブロウとかでも、きっと印象には残ったよね。ワカシ=スフォルツァとかさ」 自分の言葉に少しだけ笑ってから、足を抱いている手に力を入れた。 好きなことに、たぶん、理由とかないんだと思う。すくなくとも私はそうなんだ。 理由があったら、説明できるよ。だって私は今、説明できないのに、だって、もう、すごくすごく好きなんだもん。好きなところなら、あるけど、でも、本物の本当の最初の一番は、だってわからない。それでも、好きだっていう、今があって、どうしようもなくて。 どこが好きかって言われたら、ちょっと怖い所以外全部好きだし、どうして好きになったのかって聞かれたら日吉だったからとしか答えようがない。 日吉は、テニスをしてる時かっこいいし、勉強を教えてくれて優しいし、ちょっと下手な事するとすぐフォローしてくれて頼もしいし、少し意地悪だけどそれだって理由がないわけじゃなくって私を心配してくれてたからだと思う。なんて、都合の良い妄想かもだけど、そうじゃなくても、日吉のなんでも一生懸命で頑張ってる所は憧れる。 どれが理由と聞かれれば、きっとどれもが理由。 もう、仕方ない。好きになっちゃって、好きだって自覚しちゃってて。 好きで。 好きだから。 私は日吉が好きだ。 「私は日吉の事が好き。じゃあ、どうするか」 もう何度も、何度も、何度も何度も何度も自分に問いかけた難問をもう一度口に出してみる。 結論が出ないまま、現状に甘んじてきたけど。日吉が告白されたなら、私も、きっと気持ちを決めた方がいい、気がする。 告白しても、上手く行かなかったらぎくしゃくしたまま同じ電車にも乗りづらいし、上手くいくはずないような気がする。だって、私が男の子なら、きっと私は私みたいな、特にいいところのない可愛くもないウジウジした女の子を好きになったりはしない。 振られてからも、普通にふるまえるか、私の方が自信ない。 でも、告白しなくても、日吉に……もしくは日吉の好きな人に、恋の相談とか持ち掛けられて辛い思いをするかもしれない。そんなの耐えられない。今だって死んじゃいそうなのに。泣きそうなのに。日吉が本当に誰かと付き合ったらどうしよう……絶対泣いちゃう。 日吉は、氷帝にじゃなくたって、他校にだって、道場にだって色んな人間関係があるはず。私は、だって、通学路と学校での日吉しか知らない。私の知らない所で、彼女がいなくたって好きな人はいるかもしれない。 やっぱり、諦めるしかないような気がする。けど。 諦められるかな。 それが、問題……というか日吉の事を、ただ「諦める!」って考えて諦められるの? 電車を変えて必要最低限の会話だけで、遠くから日吉とその彼女を眺めて、そうしたら、諦められるの? あーもう。 ああ、もう、恋愛の駆け引きなんか私には解らない。 ってゆーか、もう考えるの面倒になってきた。気合を入れるためにぺちん、っとほっぺたを両手で叩く。いいよもう。いいよもう。どっちに転んでも。 私は日吉が好きだ。 もう、どれを選んだってどれもデメリットしかない。 デメリットだらけのなかで、少なくとも自己満足くらいはできそうなの――日吉を諦める踏ん切りくらいつきそうなの――気合を入れてすっくと立ち上がる。少しだけ膝が震えた。そんな足を叱るみたいに踏み出して美術室を出た。 「小曾根?」 おそらく、たまたま前を通ったらしき日吉が勢いよく出てきた私に面食らっている。私もさすがに心臓がどきっとした。驚いた顔の日吉なんて、すごく貴重で、もう、こんなふうに話せなくなる前にその顔を覚えておこう、と思った。 廊下を見回すと日吉と私以外に人影はない。 なんてあつらえたようなタイミングなんだ。 今決めた決意が鈍らないうちに言ってしまおう。 もう、色々考えて辛い思いをするのも、解らないことを不安に思うのも、ヤだ。 「日吉、好き」 会話も何もなくいきなり告げた私の言葉に、日吉は珍しく惚けたような、ぼうっとしたような表情で私を見る。何言ってるんだこいつ、という、呆気にとられた顔。 「私、小曾根香奈は日吉若が好きです――伝わった?」 よし! 言った! もういいや。コレで満足。 ふられたら、きっと、この恋心もなくなるかな。日吉に避けられたら、きっと、傷ついても、全部なかったことにできるよね。きっと。 いっぱい泣こう。今日はいっぱい泣いてやる。いっぱいいっぱい、日吉を諦められるまで。ふられたことを受け入れられるまで、いっぱい泣いてやる。 電車は、車両を変えよう。学校でも声をかけないようにして。ああ、でも、そんなことしなくったって私はこれから日吉に避けられちゃうんだろうけど、でも、好きだって言えた。 それだけでいい。うん、コレでイイ。もう、他に出来ることなんてないし。 付き合って欲しいとか、好きになって欲しいとか、思ったって、日吉は私を好きじゃないんだし、これから、日吉に私を好きになってもらうことだってできない。コレが最後かもしれないけど。いつか、バレてしまうまえに、最初に、言おう。 最後に、伝えて。 もう、亡くせるように。 日吉に迷惑なだけの恋心なんだから。 最後の我がままだから、聞いてくれてありがとうって、言わ、なきゃ。 「伝えたかったんだ。それだけだから。彼女と仲良くね」 自分で言ってるのに、彼女って単語に泣きそうになる。無理だけど、私がなりたかったな。一緒に、日吉といたかったな。なんで、私はこんなに魅力がないんだろう。きっと、私がまどかちゃんみたいだったら日吉にも、好きになってもらえたかもしれないのに。あんなふうになんでもないって、力説されたりとかしなかったかもしれないのに。 私の言葉に、今まで無反応で、変な生き物を見るように私をじーっと見てた日吉がぴく、と反応した。 「は? 彼女……? 誰が?」 「え? だって、告白されたって……」 え、もしかして、日吉ふってたの? そういえばオーケーしたって聞いてない……うそ。 これって完全に早とちりだよ!!!! 目も前が一瞬で真っ暗になって血の気が引く。 うあぁああ、私の馬鹿……! 「待て、小曾根。俺は告白なんて誰にもされてない。朝、少し女子テニス部の奴と、合同練習とミクスドの試合のことで話しただけだ」 どこか憮然と言う日吉。困まりはてて日吉をちょっとだけ視線でうかがうと、すごく不愉快そうな顔で大きな溜息を吐いていた。 オーケーどころか、告白すら嘘だったようです。 忍足先輩の嘘吐き。 切羽詰って告白した私が馬鹿みたいだ、というか馬鹿だ。みたいじゃなくて馬鹿だ。そもそも、なんで告白されたイコール彼女ができたって思っちゃったんだろう。私の悩んでた泣きそうな時間を返して。うわーーもうこれ、自爆だよ! 本気で逃げたい。 時間を巻き戻したい。 て言うか自分が馬鹿すぎて消えたい。 嫌な感じの沈黙が、真冬のさらさらの粉雪みたいにしんしんと、でもすごい勢いで降り積もる。 ものすごく不機嫌な顔の日吉が怖すぎる。 確かに日吉は女の子になんて興味がなさそうだ……少なくとも今は。そんな感じがする。テニスが一番みたいな。ああ、でも二番目にでもなりたいと、思ってしまう。 ふと気付くと日吉は少しうつむきがちに溜息を吐いて頭を掻いていた。 それから「まったく、どこでそんな話が……」とかぶつぶつ言っている。沈黙じゃなくなったけど、空気が痛いのには変わりがなかった。 あまりの決まりの悪さに、そぉっとその場から離れようとした私に日吉が声をかけてきた。 後生だから、逃がして……!!! 「――さっきの言葉、本当なんだな?」 困ったような、睨んでいるような表情で問われて、私はこくんとうなずく。というか、怖くてうなずくことしかできない。 「さすがに、冗談で告白は出来ないよ」 日吉の不機嫌な顔を見るのが怖くて、だからうつむいて、でもなんだか自分の馬鹿さに脱力してしまって、開き直って言う。泣き笑いみたいな表情になるのが自分でもわかった。 いいや、もう、ぎくしゃくしちゃったら皆に慰めてもらおう。 ああ、でも、こんなことでもなかったらきっと私は日吉が優しいからってだらだらと好意に甘え続けて、日吉に迷惑ばっかりかけていただろうから、そんな事にならなくて良かったような気もする。 ふられて、この恋心をなくして。 日吉に迷惑ばっかりかけてる私を、卒業しなきゃ。 友達でいてなんて、都合のいいことは言えない。 次に日吉の口から出た言葉は私には理解不能だった。 「そうか。じゃあ……付き合ったほうがいいと思うか?」 いや、そんな…… 「私に、聞かれても……?」 ていうか、何でそんな事を聞くの? 日吉、告白されたら付き合わなくちゃいけないと思ってるとか? でも、だって、私は……だって、日吉は今、テニスに打ち込んでいるのに。好きでもない私に、その気もないのに、そんなことが訊けちゃうの? 「小曾根は、どうしたい?」 尋ねられて、唇を、噛む。 伝わればそれで良かったけれど、それ以上を望んでもいいなら、それが欲しい。 好きだから。 一緒に日吉と登校したいし、話だってしたい。どこかに遊びに行ってみたりとかもしたい。理科で同じ班になって一緒に実験したりしたい。課題図書の中から何を選ぶか相談したいし、どこかにお出かけした時に日吉にお土産をあげたりもしたい。毎日一緒じゃなくてもいいけど、たまには放課後に図書室で一緒に勉強もしたい。 「日吉と、今まで通りに登校したい。出来れば、一緒に下校もしたい。たまにでいいから、お弁当も一緒に食べたいし、勉強したい。少しでも日吉と一緒にいられたら、私はすごくうれしいよ」 そこまで一気に言う。 それでも。 「でも、日吉を無理に私の気持ちにつき合わせるのはいや」 何だか今更色々恥かしくて、泣きそうになる。 日吉は、勉強だって部活だって頑張っていて、私なんか、日吉のそういう対象にだって入ってないのに。 日吉は優しいから、わかり辛いけど実は優しいから、私のこと、そんなには嫌いじゃないみたいだから、日吉の気持ち的に好きかどうかもわからないまま、この告白を受けてしまうかもしれない。 そんなのはやだ。 私を、日吉にふらせるのもやだ。私が勝手に言ったことで、日吉に、そんな言葉言わせたくない。 私が自己満足で言った言葉に、日吉が答えて、それで、本当は優しい日吉が自己嫌悪に陥ったりとか、そんなの、絶対にヤダ。悪いのは馬鹿みたいに告白した私なのに。 ああ、もう、私、最悪だ。 今日の私は本当に最悪。 告白して五分で後悔してる所とか、ホントに最悪すぎる。 何度目かに泣きそうになってるけど、泣いて日吉を困らせるなんてごめんだ。 だから、涙を我慢できなくなる前に日吉の横を通って逃げようとすると腕を掴まれた。 「待て、小曾根。俺の話を何も聞いていないだろ」 話ってそんな…… 「聞かなくてもわかるから――もう、聞かなかった事にして。今まで通りにして。日吉は悪くないから。我がまま言ってごめん」 言いながら、声が、肩が震える。なに言ってるんだろう、喋ってる事、めちゃくちゃだ。 頭の中がグチャグチャで、日吉に迷惑をかけたくないのと日吉に嫌われたくないのとがミキシングされてる。 全部冗談だったんだって、ふざけて言うには、私の声は震えすぎてる。 涙をこらえてうつむいた私に、日吉は大きくため息を吐いた。そのため息に思わず怯えて肩をすくめてしまう。 そんな私を見た所為か、バツが悪そうに、日吉は軽く頭を振った。 日吉は、軽く私の手首を握って、私は皮膚同士が触れ合った体温にドキドキして、そんな自分が嫌になる。ああ、でも緊張で掌に汗をかいてる気がするから、手首で良かったとかそんなことも考えて。 私の手首を引っ張って、日吉は美術室のドアを開けた。引っ張られて、身体が思わず強張ると、私の腕を引っ張る力が強くなった。少し痛い。 怖いのに、もう振り払う力もなくなって、大人しく美術室に入ったついていく。 日吉は、ドアを閉めると私へ向き直った。 日吉の瞳が私を真っ直ぐに見ていて、もう、本当、居た堪れない、というか。 「覚えて欲しい事がある」 私が、言ってしまった言葉の責任を、とる時が来てしまった。日吉の言葉をちゃんと聞か、なきゃ。 せめてもと、日吉の瞳から逃げそうになる瞳を、日吉の目に向ける。さっきからずっと涙の滲んだ瞳は、日吉の輪郭をぼかしてくれて、それだけが唯一の救いだった。 「う、ん」 日吉の言葉に、私は、なんとか頷く。日吉は私の手首をつかんでいた手を離した。 まばたきをすると涙がこぼれそうで、目をあけたまま、日吉をじって見た。 怖い。どうやって私はふられるんだろう。日吉は私になんていうんだろう。覚悟、してたはずなのに、そんなの全然できてなくて、色々かっこつけて思ったくせに、結局ふられるのが怖くて、悲しくて、もうこれで全部終わりなんだって思ったら、寂しくて、つらい。 日吉は、そんな私に「いいか」と、出来の悪い生徒に、道理を言い聞かせるように、今日聞いた中で一番落ち着いたトーンで、言った。 「俺は、好きでもない奴の為に路線を変えて、時間や車両を合わせてまで毎日同じ電車に乗ったりしない。 好きでもない奴を、毎日庇ったりしない。 好きでもない奴の話を延々と聞いて相槌を打ったりしない。 好きでもない奴を、心配して、こんな所に探しに来たりしない」 日吉の言葉に、足の力が抜けて、床に座り込んでしまう。 この人は今何て言った? この人は、日吉は…… 「おい」 膝を着いて、日吉が私の顔を覗き込んでくる。 顔を見られるのが嫌で、反射的に腕で隠した。 ムードもへったくれもない、やけくそのような私の告白に、日吉が遠回しに、彼らしく応えてくれたんだって気づいて。 「ぅー……私の苦悩と涙を返せー……あんなに、否定してた、から……」 嬉しいのか、気が抜けてほっとしてしまったのか、目からボロボロと涙が落ちてしまう。そんな顔を見られたくなくて、腕で隠したままうつむいいた。あっ、鼻水、今は出ないで。 日吉は何も言わなかったけど、でも、いやな沈黙じゃなくって、なんて言っていいかわからない感じなんじゃないかなって思った。そして、所在なさそうに彷徨っていた手を、私の頭の上で落ち着けて。 「あれは……小曾根に迷惑がかかると思ったんだよ。変な噂になったら、困ると思って。忍足さんにからかわれたくなかったしな」 また、涙が出た。 良かった…… 嫌われてなかった。 嫌われなかった。 まだ、日吉と一緒にいられる。 もう、それだけで、この気持ちに気づいてから胸の中にずっとあったちくちくした冷たい氷が溶けていく。 溶けたその氷が目から流れ出ているみたいだった。 不安や、さっきまでの後悔や、色んなものが流れていって。 そうしたら、今度は、嬉しくて涙がこぼれた。 はっきり、好きだと言ってくれなかったけど、でも、伝わったから。 涙が、勝手に粒になってこぼれてく。 「小曾根」 涙を拭う私をじっと見詰めていた日吉が思い出したように呼んできた。 私は、へたり込んだまま日吉を見る。 「な、に……?」 聞き返した声は、しゃくりあげた所為でヘンな所で切れてしまった。 目が合うと、日吉は、少しだけ、視線を横に流した。 日吉の、シャープなラインのその頬が僅かに赤いのは、私の希望的観測が反映されて、私の目にフィルターがかかっている所為なのか。それとも、美術室のシンナーの匂いに酔ったのか。 私の頭に手を置いたまま、視線を合わさずに、ぶっきらぼうに尋ねてくる。 「香奈って呼んでいいか?」 |