七夕さらさら

「 七夕さらさら のきばにゆれる
   お星さまきらきら きんぎんすなご
    五色のたんざく わたしがかいた
     お星さまきらきら 空からみてる 」
 さっきからエンドレスで繰り返される歌に、俺は突っ込むべきか放っておくべきか、それが繰り返される度に、悩む。
 あまりにも気持ち良さそうに歌っているのに水を挿すのも悪いような気もする。もしかしたらわざと間違えているのかもしれない。そんな訳がないと解っているが。
 結局、楽しそうに七夕飾りを作っている香奈の姿に、それを指摘する事はやめた。
 読み終わった本を本棚へしまうために畳から立ち上がると、卓袱台の上で妙に一生懸命に輪飾りを作っていた香奈が嬉しそうにこちらを向いた。その瞳には“一緒に作ってくれるの? ”と言う期待が満ち満ちていた。
 けれど、香奈の視線を即座に無視して本をしまうと鞄から教科書を取り出す。
 筆箱も取り出して、香奈が卓袱台の上にごちゃごちゃと置いている物を横に退かしてノートを広げる。明日提出の英語の課題を始めた俺に、香奈は溜息を吐いた。
「あ。be動詞だ。be動詞ってよく解らないんだよね」
 ひょい、と俺が開いた教科書を覗き込んで、先の不機嫌を跡形も無く消し去って香奈が言う。
香奈、お前、勉強しろよ」
 ノートから顔を上げずに答えると、何やら唸り声が聞こえる。
「わかんなくって、アイアムイズとか書いたらバツだったよ」
 この、進んでいる氷帝の授業の中で、現在be動詞がわからないなどと言う馬鹿は香奈くらいなんじゃないだろうか。何となく香奈の馬鹿さに危機感と憐れみを覚えて説明してやろうという気分になった。これが普通の中学校ならばまだしも、氷帝は名門の進学校だ。氷帝自体もレベルが高いので、氷帝の大学を出たといえば頭が良いと判断される。のだけれど。現在香奈はbe動詞どころか英文の基礎すらわかっていないようだった。
「amとかareとかisとかがbe動詞だってのは解るだろ?」
「たぶん」
 たぶんかよ。
「基本は一文に動詞一つだけって習っただろ? SVOC。Vが動詞だ。amとisじゃ動詞が二つに……って聞けよ」
 しかし、最初はふんふんと興味深そうに聞いていた香奈は途中から首を捻り、しばらく後に捻った首をそのまま横に振るとまた真剣に七夕飾りを作り始めた。全く聞く気が無いようなので、俺も無視を決め込んで宿題を解いていると、あることに、はたと気付き、香奈に問う。
「これ、明日提出だぞ? やってあるのか?」
「たーなーばーたーさーらさらー♪」
 誤魔化しやがった。
「俺は見せないからな?」
 釘を刺した。
「のーきーばーにーゆーれーるー♪……でーきたっ。笹に飾らせてもらお。若も短冊書いて書いて」
 わざとらしく釘を刺した俺の言葉を香奈は完全に無視し、ペンと、無地の短冊を俺の開いたノートの上に乗せてくる。俺は溜息とともに頭を振った。そして、香奈の置いたペンを握り、短冊へとペン先を向ける。
「書くかわりに、宿題やれよ」
「やる。教えてね」
 譲歩してペンを手にすると、香奈は上機嫌に笑ってくるりと後ろを向いた。それはたぶん俺の書いている願い事を見ないためだろう。どうせ、たいしたことなど書かないのだから見てもらっても困ることはないのだけれど、そうやって気を使われると、気を遣われる程度の願いを書いたほうがいいのかと迷ってしまった。
 結局“下剋上”とだけ書いた短冊と香奈の作った七夕飾りを手にして立ち上がると、畳の上に座っていた香奈が、ぱっと立ち上がる。
 何がそんなに嬉しいのかと思う弾んだ様子で、やはり「七夕さらさら」と言いながら、歩き出した俺の後を香奈は楽しそうについてきた。
 つい先月は俺の前でぴーぴー泣いていたくせに、と思いたくなるほど屈託のない様子を見ていると、胸に複雑な感慨が湧いた。

 一部が天然の鴬張りになってしまっている木目の廊下を歩き、中庭へ行くと、見事な偉容の笹が風になびいていた。祖父が選んだ笹は今年も立派なもので、それこそ歌のように葉擦れの音がサラサラと耳に心地良かった。
 中庭用の下駄を引っ掛けて、飛び石へ降り立つと、香奈も俺に習って、笹の元まで歩いてくる。
 目をキラキラと輝かせて笹を見上げる香奈は首が痛そうだった。
 香奈に、その場に居るよう言い置いて、中庭の小さな蔵へ行き脚立を持って戻る。香奈の作った輪飾りを笹に飾ろうとして、けれど香奈が、俺の服の裾を軽く引っ張り“自分が飾りたい”と主張した。いびつな輪飾りを渡してやると香奈は嬉しそうに笑って脚立に登り、不安定ながらも丁寧に飾りつけていく。
 その、ふらふらと上体がぐらつきすぎる様子に香奈が落ちるのではないかと、半ば諦観を浮かべてその姿を見守った。
 そんな事を思われているなど露知らず、あらかた飾り終えた香奈が満足そうに笹を見上げた。
「そろそろ短冊飾ろっか」
 香奈は制服のポケットから短冊を取り出し……バランスを崩して脚立が倒れ、落ちた。
 倒れた脚立が地面を叩き、その倒れた脚立に乗っていた香奈は無言で、俺の腕に支えられている。
「やると思った」
 墜落寸前に俺の腕に収まった香奈は、流石に少し驚いたようで固まっている。暗闇の中の猫のように大きく見開いた目を数度瞬いていた。睫毛が長い。
「あー……びっくりした。冷や汗でた……」
 予想していた俺はさほど驚きはしなかったのだが、香奈は本当に驚いたらしく、少し血の気が引いた青い顔をしている。筋肉が強張っているような手ごたえもあった。途中で気をつけろと言わなかった事に、ちらりと罪悪感めいたものが心をよぎったけれど、それよりもずっと抱きとめているのは面倒だった。
 いや、本当は、こうやって抱きとめているだけで身体が緊張してしまうから、それを香奈に気取られたくなかった。
「立て」
 簡潔に、一言だけ。
「ん、うん。ごめん、ありがとう」
 しっかりと地面に足をつけた香奈は、倒してしまった脚立を立て直している。
 そして再度脚立に上り、落下の際に少々皺の寄った短冊を香奈は丁寧に笹へ結ぶ。俺も香奈に習い、適当な位置に短冊を飾った。
「ほら、英語やるぞ」
 これで満足だろうと、踵を返すと、脚立から下りていた香奈がすかさず俺の服の袖を掴んできた。
「ダメ。もうちょっと見るの」
 香奈は即座に言い首を振る。そうして、やはり首が痛そうに笹を見上げ、香奈はまだ幼い門下生達の、飾られている短冊を時折見たりなどしてとても楽しそうにしている。
 そうこうしていると、黄色味がかった橙色だった空が、わずかにわずかに、それでも確かに暗くなっていく。風はぬるくしめっていて、けれど空はわずかに雲を残すばかりに晴れていて、織姫と彦星は会えそうだった。
 手を伸ばしたり、短冊の内容に少し笑ったり、落ちた笹の葉で何かを作ったり、そうやって飽きずに笹を眺めている香奈を目の端で捕らえ、俺は縁側に腰掛けた。
 しばらく笹の周りをぐるぐると回ってから、俺が隣にいない事にやっと気づいた香奈が、俺の座る縁側までやって来た。
 隣に座った香奈に問う。
「満足したか?」
「んー……私の家、みんな忙しいから、短冊書いたのも、学童保育とか公民館とかお店じゃないヤツは初めて。おうちでやったりするんだね。すっごーく新鮮」
 そんな事を楽しそうに言いながら、落ちていた笹の葉で作ったらしい濃い緑色の草舟を手のひらに乗せていた。
「慣れると飽きてくるけどな」
 俺の言葉に、香奈は可笑しそうに笑声をこぼす。
「飽きるくらい毎年きちんとやってるんだね」
 いいなぁ、と言った香奈のその表情には人生経験の浅い俺でさえはっきり解るほどしっかりと羨望が表れていて、そんなにいいものだろうかと、香奈と同じものを見るために笹へ目を向けた。
 両親が多忙だからと、香奈は学校が終わった後、お兄さんの塾が終わる夜半まで学童保育に預けられていたと聞いた。それ自体は苦でもなんでもないだろうが、家族との時間が俺より少なかった事は確実だ。
 俺は幼い頃から両親は家にいて、稽古も毎日つけてくれたし、自分で玄関を施錠することすら稀なほど、いつも家には誰かが居た。学校が終わってしまえば友達と遊び、家に帰れば必ず誰かが“おかえり”と言ってくれ、父や祖父が手ずから稽古をつけてくれ、稽古が終われば祖母が菓子を出してくれた。
 帰宅して、誰も居ない家の鍵を開け、自らの手で暗い部屋に明かりを点すことが、香奈にとっては当たり前なのだと、気づいた。それは、異常ではなく当たり前のことで、きっと香奈はそのことを辛いとか寂しいとかは思っていないのだろうけれど、俺は、それを寂しいことだと思った。
香奈
「んー? なぁにー?」
 笹に夢中だった香奈が俺のほうへ顔を向けた。夕陽によって朱色に染められた香奈の髪が、さらりと揺れるのを、ごく近くで見た。
「宿題は教えてやるから、好きなだけ見ていけばいい」
 たぶん、香奈は笹自体ではなく、こうやって毎年毎年、変わらずに俺の家でこれが行われていることが珍しく、それに触れられることが面白いのかもしれない。
「ホント? やった」
 俺の言葉に、香奈は両手で小さくガッツポーズして見せた。
「今日だけな」
「七夕って本当に願い事叶うんだね」
 今日だけ、という言葉に素直にうなずきながら、香奈はそんな事を言う。
「こんなこと願ったのか?」
 聞けば、けれど香奈はすぐに首を横に振った。
「違うけど。若の願い事、叶うといいね」
「ああ、そうだな」
 赤い空の中、白い月を見上げて俺は答える。
 そして、
「 笹の葉さらさら 軒端に揺れる
   御星様きらきら 金銀砂子
    五色の短冊 私が書いた
     御星様きらきら 空から見てる 」
 口ずさんでやると、香奈は最初は気付かなかったようだたけれど、しばらくのちに、はっとして俺を見た。
「笹の葉なんだ!」
 やはり、本気で勘違いしていたらしい。きっと、商店などで流れる歌を曖昧に聞き覚えていたんだろう。
「七夕さらさらじゃ、意味がわからないだろ」
「天の川がさらさら流れるイメージだと思ってた……」
「違う」
 即座に否定した俺に、何が可笑しいのか香奈は照れたように、けれど面白そうに顔を明るくした。今日はとても機嫌がいいようだった。
 そして、俺の手に、その小さな手を乗せてきた。
「来年も、見れたらいいね。一緒に」
「馬鹿なんだから倒置法とか使うなよ」
 香奈の言葉に、俺は、自分でも愛想がないと思う声で答えてしまう。
 せめて、“そうだな”くらいは答えてやりたいのだけれど、残念ながら俺はそんな性格ではない。
 香奈はそんな俺の言葉に、声こそ出さないが、可笑しそうに、そしてどこか眩しそうに目を細めた。
 不意に、俺の手に重ねられている香奈の小さな手が、わずかに動き、きゅ、とごく軽く俺の手を握ってきた。
 そちらは見れなかった。俺も、香奈も視線は笹から離さないまま。

「大好き」
「七夕がな」

 とうとう、香奈は、我慢できないとでもいうように声を上げた。俺は思わず舌打ちをしていた。
 きれいに飾りつけられた笹の中に、香奈の作った歪な七夕飾りが輝いていた。
歌詞引用:たなばたさま 作曲:下総皖一
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