日吉若の溜息 3
「今の若なら睨んだだけで猫くらい即死させそうだ」
 俺が帰宅して、顔を見た瞬間、可笑しそうに言った兄を睨みつけると「おお恐い」と茶化して肩を竦めた。
 自室へと向う俺の背中に「あれは香奈ちゃんがらみだ。五百円賭ける」と、可笑しそうに父母へ報告する兄の声が聞こえた。

 不機嫌という言葉を十乗し、更に十乗したような、見事とも言えるほどの、つまり考えられないほどの異様な異常な不愉快さ。そう、不機嫌と言うよりも不愉快なのだ。
 暗い室内へ足を踏み込むと電灯の電源を手探りで見つけ、それを点ける。暗い窓ガラスに、不機嫌そうな自分の顔が映った。他人のそんな顔ですら見たくないのだから自分のそんな顔も見たい訳がなく、見るに耐えずにカーテンを閉める。
 今の俺の気分を一番、それに近く表現するなら“ムカツク”。語彙が貧弱だと思われそうだが、咄嗟にでたのはそれだった。不愉快でむかついて、胸糞が悪い。苛々とは少々違うような気がした。悶々でもない。ムカムカが、一番近い。擬音的には、とても子どもらしいが、俺はまだ十三なのだ。子どもらしくて何が悪い。

 香奈は、俺と付き合っているのに、何故あの男は――ああ、思い出した。一年の頃に牽制してきた……三村だったか――あんなことをするのか。俺と香奈との縁を切れさせようとしているのか。それは、つまり、香奈を不実な、俺を裏切る女にしたいと言うわけか。違う思惑があるとして、それは、俺をどうにかしたいのだろうか。ふざけるな、と思った。
 くそくだらない自主作成の映画の戦闘シーンは“迫真の演技だったぞ日吉! 悪を憎む気持ちがよく出てる! ”とか鈴木が監督ぶって偉そうに批評してやがった。そもそも、戦闘シーンが多すぎる。絶対に尺が足りない。
 その後のテニス部の演劇の練習でも、鳳はやけに怯えていた。俺は、からかってきた忍足さんに『眼鏡の付属品のくせに五月蝿いですよ』と言ってしまい、その場にいた先輩達を固まらせてしまったしな。あれでも一応先輩であるし、明日、謝らなければ。八つ当たりを含めて、すべて三村のせいだ。

 不愉快なまま思考をめぐらせ、鞄の中の勉強道具を本来の場所へしまっていると、電源を切っていた携帯が、ことりと出てきた。左手で電源を入れつつ右手で鞄の中身を、机に本棚にと仕舞い続ける。
 電源が入ったと同時にバイブレーションの震えを感じ、再び携帯に目を落とす。発信者は小曾根香奈。メールを開くとストレートな好意を伝える言葉が綴ってあった。
「――本当に、馬鹿な奴」
 悪態が口をついて出る。他にもっと書く事が無かったのだろうか。意味不明な一文だけ。俺が国語教師だったら遠慮なく通知表に一をつける。そもそも、誤解などしていない。香奈があの男とどうにかなっているわけではないことなど、きちんと理解している。
 それでも、無意識に、口元が綻んでいることに気付き、俺も馬鹿だな、と、そう思う。
 でも、
 まあ、
 それは仕方ない。

 好きなのだから。
 俺は好きな人に好きと言われて猜疑心に駆られるような性格ではなかったので、だから、香奈に負けず劣らず頭の悪そうなメールを送った。

 ◇◆◇

 昼食が終わり、午後の授業が文化祭に当てられる今日この頃。皆様どうお過ごしでしょうか。
 私、小曾根香奈は、無理矢理着替えさせられた洋服を着て、まどかちゃんの背中にへばりついています。クラスメイトは、しいて言うならまどかちゃんはバービーちゃんで私はブライスかな、と言っていた。ブライスほど可愛かったらよかったんだけどね、なんて溜息をついたりして。
 ちなみにまどかちゃんは、今は下妻物語とかに出てた甘ロリっていうらしい服を着ていて、海外製のお人形みたいだった。可愛いなあ、いいなあ。
 更にちなみに、今日の私は普通のウェイトレスさんと普通のサブカルチャー的メイドさんを足して割った感じの服に、新田さんが前々日につけていた猫耳カチューシャと尻尾という格好。ディズニーランド以外で耳を付けるなんて初めてだ……じゃ、なくって。
小曾根、お前、避けすぎ」
「うるさいせくはらおとこ」
 三村が半径二メートル以内に来ると、すぐにまどかちゃんの背中にへばりつく私に呆れた声で言う。
 あの時私がどれだけ驚いて、どれだけ……ごめん、こういう表現しか浮かばないんだけど……気持ち悪かったか、三村には分からないみたい。好きじゃない男の人に肩を抱かれて、耳元で囁かれて、それが好きな人に見られていて、どれだけ悲しいかとか、わからないみたい。
 素敵で可愛い優しい子なら、こんなふうには感じないのかもしれない。そう思うと少し悲しいけど、でも、あの時は、やっぱり気持ち悪くて怖かった。だって、普通のクラスメイトで、仲は良くも悪くもなかったし、むしろ三村は私の嫌だなって思うことをする方が多かったし――なんで、あんな、急に。悪ふざけにしても、程があると思う。三村は、たぶん私のことが好きだからって、あんなことをしたんじゃないと思う。若にいやがらせするため……なんて、悪い方悪い方には考えたくないけど。

 とにかく、今の私の敵は目の前の三村。

 今朝、電車で昨日の事を説明しようとしたら若は「気にしてないから別に良い」と軽く言ってくれた。
 でも、若は私と違って“若はモテるんだから仕方ないよね”なんて、好きな気持ちを伝えられてるだけだし我慢しなきゃって思うタイプではない。絶対にない。好意でも悪意でも、私の肩を他の男子が抱いたこと自体に、すごく――それ自体がすごく嫌だったはず。
 天地天明に誓うけど、あの時の若は三村を憎んだのに違いない。若はすごく――私に執着してくれてるから(好きでいてくれてるって言うのは、ちょっと図々しい気がしたので、執着、で。でも、実は執着もしっくりしない。若はやきもち妬きだから)、きっと、昨日のこと、すごく嫌だったはず。
 若が誰かを憎むなんて嫌な私は、だから、なるべく三村との接触を避けています。まどかちゃんは後ろにへばりつく私を護ってくれたり面倒そうに逃げたりするけど、でも怒られないから、身の危険を感じると張り付かせてもらってる。
 とにかく、近寄るな! って、キッ、と睨みつける私に、三村は肩を落とした。
 何のために、三村は若にあんなのを見せたんだろう。若のことが嫌いなのかもしれない。でも、だからって私をダシに使わないで欲しい。若が嫌いなら、正々堂々と、言えばいいのに。そうしたら、若も正々堂々と応えるのに。
「ちょっと来い。小曾根
 なのに、三村にむんず、と首根っこを掴まれて、未開の地の探検隊に捕獲された珍しいネズミみたいにヒィィィィと泣きそうになってしまう。やだ、やだ、怖い。今度は何されるんだろう。やだ。若以外の人は私に触らないで。
「みーむらー? 日吉の機嫌悪くなるから、香奈ちゃんにちょっかい出すのやめてくれない?」
 チョータの、少し怯えたような声に、私はチョータの方を身をよじって見る。そういえば、背の高い彼の額に、昨日にはなかった傷が付いている。
 テニス部での演劇はロミオとジュリエットで、若はティバルトでチョータ演ずるマキューシオを殺す役……と思い出せば全て合点しました。若、八つ当たりはだめだよ……
 けど、私の内心も、チョータの説得も無視した三村に引きずられ……私はそれでもまどかちゃんから手を離さなかったのでまどかちゃんの衣装が伸びる。周りのコ達は私と三村のじゃれあいを、まどかちゃんとチョータが窘めてる位に思ってるみたいだ。しかも、準備に忙しいので、みんなこっちを注目なんてしてない。むしろ遊んでるなよって思われてる。酷い……、けど、変な噂が立つよりは全然いい。だけどでも、引っ張ってくる手が、本当に嫌なんです……!
 そんなふうに思っちゃうなんて、嫌な子かもしれないけどでも、でも……!
 半分廊下に引っ張り出されてる私に、衣装が伸びたままドラ焼きの試食をしているまどかちゃんに、教室で文化祭の準備に一所懸命なクラスメイトに、私を引っ張り出そうとしてる三村に、チョータが廊下と教室の境界線上でおろおろしてる。
 泣いてやる、と思った瞬間、私の首根っこを猫みたいに引っつかんでいた手が離れた。ほっとしたのもつかの間、若が三村の手を、掴んで睨みつけていた。ああ、だから、三村は私から手を離したんだぁ、ってぼーっと思ってしまった。
 けれど、遠くから自分を呼ぶ中野さんの声に、若は「すぐ行く」と返して、三村に何かぼそりと言ってから若はいなくなってしまった。
 あっという間のことで、まどかちゃんは、ぽかんとしてる私とチョータに「どうしたの?」って不思議そうに聞いてきた。
 私は、何かよくわからないけど、泣きそうでした。

 ◇◆◇

 昔、三村に絡まれた事がある。絡まれたと言うよりも、付き合う前に牽制されたことがある。香奈と付き合い始めても、たまにちょっかいを出してきた。
 あれ以来ずっと警戒していたが、文化祭のカップル増量キャンペーンに触発でもされたのか、最近あからさまに香奈に手を出す。香奈自身は三村に怯えているようで、最近は三村が近付くだけでも山ほど数学の宿題を渡されたときのような顔になっている。もしくは、人間に捕獲された野良の仔猫のように、敵意をむき出しにして威嚇しつつ、けれど怯えているような、尻尾を巻きながら吠えている仔犬のような、そんな態度でいる。
 香奈は、三村のことなどなんとも思っていない。それはわかる。
 わかるが、だから、なんだ?
 香奈が俺以外の男に興味がないからと言って、俺以外の男が香奈に触れていいわけがない。付き合うとは、そういうことだ。それは半ば契約のようでもある。結婚が鎖であり束縛と契約であり法的強制力をもつように、個人間の強制力を持たない良識だけの契約が交際であると、俺は思う。
 二股などという言葉があるが、ならば付き合う意味はない。しかし、それでも何人とも付き合う人間は、俺とは価値観が違う。例えばクォリティで商品の値段が決まるが、値段がクォリティを決める場合もある。そのパラドックスにも似た、ものだと思う。付き合いたいから、好きあう。好きあったから付き合う。付き合っているから、相手以外は好きにならない。相手だけが好きだから、付き合っている。
 まあ、そんなことはどうでもよく――つまり俺はムカついているわけだ。
 香奈に手を出していいのは俺だけだ。
 ふざけるなよ。

 今日の撮影は、中野との、似非キスシーンがあったから、イラついてた俺は更に不機嫌になる。小林と鈴木から“愛が感じられない! ”と何度も言われたが、中野は俺が恐いと不平を漏らし、俺があまりにも嫌がるので、仕方がないと、コレで我慢しようと言うことになった。
 そのシーンは俺が見ても、口付けというよりも胸倉を掴んで脅しかけているチンピラのように見えた。せめてヤクザであればよかったのにと思ってしまった。口付けというよりも頭突きに見える。実際はどこも触れていないのだが、これから暴力シーンに入ります――とアナウンスしたくなるような絵面だった。
 本当に俺は香奈の事になると余裕が無くなる。
 最近“心がかき乱される”と言う表現の感触が解ってきてしまった。少しも嬉しくないけれど。
 こんな事で平常心を保てない自分の幼さに、また腹が立つ。そうして、八つ当たりで(ティバルト)(マキューシオ)への剣撃に拍車をかけた。跡部さんは、不機嫌な俺を止めようともせず、ただ鳳へ哀れみの視線を投げつけていた。

 全ての練習が終り、特殊教室棟の美術室へ足を向ける。そのドアに手をかけたところで能天気な香奈の鼻歌が聞こえてきた。
 その瞬間、俺は馬鹿だと確信した。幼い香奈の鼻歌一つで、ささくれていた心が落ち着いてしまう。機嫌が良さそうだな、とその鼻歌の調子で気づけば、俺の不機嫌は拭われてしまう。ときおり“猫が寝転んだ、にゃー”みたいなわけのわからない自作の歌も混じっていた。
 ああ、本当に、香奈は馬鹿だ。
 そう思う。
 それなのに。
 不思議なものだ。
 思わず頬を緩めてしまいながら扉をノックし、美術室の扉を開ける。ジャージ姿の香奈が、妙に大きな――キャンバス? カンバス? わかんねえ、とにかく絵を描いていた。
 香奈の方も、急に訪れた俺に、落ちていたエサに喜んで食いついたら人間に捕獲されてしまって現状を把握できていない野生カピバラみたいな顔をして俺を見詰めていた。
「あれ? 部活は?」
「文化祭の練習だけして解散した。体育館は他のクラスも使うからな」
 そう説明すると、香奈は、そっか、と嬉しそうに微笑む。香奈のほかには誰もいない美術室。きっと、他の部員はさっさと展示作品を仕上げて、クラスの模擬店の用意を手伝っているんだろう。
 香奈が筆を進める様子を眺めながら、大型の机の横に並んだ椅子を適当にがたがたと引き出し、それに腰掛ける。
「まだ、終わらないのかよ」
「んー、もちょっと。でも、今日中には終わらないね。若、待ってなくていいよ?」
「いや、待つ」
「そか」
 ふう、と汗を拭う仕草をした香奈が笑う。文化祭が迫っているのに全く焦った様子はない。
 むしろ、楽しそうだ。ぺたぺた、と絵の具をほとんど水で溶かずに画面に置いている。筆を洗う動作が、この空間で一番大きな音を立てていた。
 二十分程、そうして絵を描く香奈を眺め、出来上がっていく絵を眺める。色を作るのにも、置くのにも、香奈は迷っていなかった。稀に、香奈は目を閉じて、それから大きく呼吸をしていた。集中するためにだろう。
 香奈の好きな画家のクロード・モネは、当時は稚拙だと技術がないといわれていたらしい。想い人をモデルにした絵は、その後は妻と子供の絵になった。その恋物語は、なるほど、楽しそうに説明してくる香奈の好きそうなものだ。そういったものも含めて香奈はモネが好きなんだろうと思う。けれど香奈の描く絵は、確かにモネを意識してはいたものの、まったく違う空気を描こうとしているように見えた。美術は得意ではないので、聞かれない限りは何も言う気はないけれど。
 香奈は時折、下らない事を口にしながら絵を描いていたが、ふと、美術室の時計を見やり、既に十九時を過ぎている事に気付くと慌てて片付けを始めた。水を流し、筆を洗いしてから、香奈は俺に、妙に偉そうにに命令してきた。
「若! あっち向いてて! 絶対振り返ったらダメだからね!」
 教室の後を指差され、不思議に思いつつ、言われたとおり俺は椅子に腰を下ろしたまま身体だけをひねり、香奈に背を向ける。どうしたのかと思っていると衣擦れの音が聞こえてきた。
 まさか、とは思うが
香奈?」
 声をかけると
「絶対ぜったい、振り向いたらダメだからね!」
 聞き分けのない子供をたしなめるような声で返される。恥かしがっていると言うよりも、叱っているような声。
 チィ、とチャックを下ろす音で確信した。

 思わず反射的に右手で口を覆う。男がいる所で着替えるなよ……!

 やばい、想像しそうだ。そんな品のないことは、したくないのに。心臓が勝手に強く脈打ち、勝手にスカッドサーブ並の速度で血液を押し出す。どっどっと脈動が、全身を叩く。ああ、もう、この馬鹿女が……! 外に出ろって言えよ!
 単純ではあるが奇数を限り無く思い出していく事で想像を阻止する。一、三、五、七、九、十一、十三、十五、十七、十九……

 付き合って一年以上経つが、俺たちにそういう経験は無い。
 それなのに、こうやって、たま不意を突くように罠を仕掛けられているような気がする。
 香奈に、そういうつもりがないのはわかっている。良い意味でも悪い意味でも、香奈は幼い。普通、同学年であれば、女子の方が早熟だと言うが、 香奈は俺よりも幼い気がする。時折は大人びたような仕草や言葉などで、俺をハッとさせることもあるけれど、おおむねは、小学生よりも少し落ち着いた程度だ。
 だから、これは、別に何の意味もないのだと、必死に自分に言い続ける。無頓着で、恥じらいのない振る舞いなのだと、半ば八つ当たりするように香奈を頭の中で責める。

 ◇◆◇

 着替え終えて後ろを振り向くと、若が椅子に座ったまま固まってて、なんだか、待てと言われたわんこみたいだ。ちょっと可愛いな、なんて。若の髪の色って、ちょっとラブラドールレトリーバーに似てるし。チョータのが大型犬って感じだけど。うーん……よしチョータはグレートピレニーズにしておこう。
 固まってる若の肩をぽん、と叩くとビク、と震えるみたいに動いた。驚かせたかな? と思っているとゆっくり振り向いた若と目があった。
 あれ? 若、なんか、ちょっと照れてる?
「終わったよ。待っててくれてありがとう」
「ああ……」
 なんだか、ロボットみたく、座ったままギシギシとぎこちなく振り向く若。たまに、若はこんな風にギコチナクなる。
 まるで付き合い始めの頃のみたいで、ちょっとだけ嬉しい。若は、まだあの時の気持ちを持っててくれるんだなって、思えるから。もう、手が触れただけで泣きそうなほどドキドキしたり、キスしただけで死にそうなほどバクバクしたりはしないけど、でも、たまには、こういうのもいいよね。
 でも、なんで、若は今、こんなになってるんだろう。
「帰ろ? 送ってくれるんだよね?」
 若はそんな事一言も言わなかったけど、十月にもなれば十九時過ぎなんて真っ暗だ。何も言わなくても、若は送ってくれるつもりだったはず。若はそういう人だから。喧嘩とかしてないかぎり、電車では毎日かばってくれるし、ちょっと過保護な若さんです。
 すい、と手を伸ばすと、若はまだぎこちなかったけど、私の手を握って立ち上がる。
 若の手はゴツゴツしてて皮が厚くて、手が硬い感じ。鍛えられてる感じ。この手は、たとえば古武術では相手を叩きのめして、たとえばテニスではチョータのスカッドサーブですら返球するために、こうなってる。でも、ちゃんと暖かくて、握ってるだけでちょっと幸せだったり。
 だって、若の手は、人と手を繋ぐなんてことは想定されてないから、こんなに硬くて強くてごつごつしてて肉刺(まめ)があって胼胝(たこ)があって……でも、だから、こんな、私の手を握るなんてイレギュラーな使用をしてくれるっていうだけで、優越感? みたいな、満足感? みたいな、 幸福感? みたいなので胸がいっぱいになる。
 何となく、落ち着くと言うか。何となく、安心できると言うか。若の手は基本的には攻撃の為のもので、何かをするための道具のようなもので、でも、私にだけこうやって優しい。
 あー、なんだかもうすごく嬉しいなぁ……。

 幸せ気分で、もう本当に切羽詰った人たち以外は残っていない学校を歩く、校門を出たのに、若は私の手を離さなくて、アレ? と思っていたら、若がぽつりと言った。
「あんま、三村にさわらせるな」
 ぎゅう、って、若の手を握る。やっぱ、若、すごくすごく嫌だったんだね。
 チョータが、手の置き場に丁度良くて、私の頭を撫でることがある。私とチョータはそれなりに――あくまでも、それなり――仲がいいから、私はそれを嫌がらない。でも、若はそれを嫌がる。私とチョータは、若はやきもち妬きだね、と笑う。若は、フンッて感じでそれに答える。それで終わりだけど。
 まどかちゃんと付き合ってるチョータが私に手を出さないって知っているのに、チョータは別に若への当て付けでそういう事をしてるわけじゃないって知ってるのに、若は、やきもちを妬く。
 それが、三村だったら、やきもちとか、そういうレベルじゃないくらい怒るだろうなって、思ってたけど、嫌だろうなって思ってたけど、こうやって言葉にされると、申し訳ないなって気持ちになる。
「やっぱ、気分よくねぇんだよ」
「ん……気をつけるね」
 でも、申し訳ないのと一緒に、若って可愛いなぁとも嬉しいなぁとも思う。こうやって、私に執着してくれること、それが、私が好きだからなのか私と付き合ってくれてるからなのか、わからないけど、でも、こうやって手を繋いでくれる程度には、私を好いていてくれてるんだし。それでいいや。
「もうちょっとで文化祭だねー」
 明るい声で言うと、若は、そうだなって小さく相槌を打ってくれた。もうこのお話は終わりって二人で確認するためのもの。
「若はなにやるの? 私は一日目と二日目はドラ焼き喫茶に美術部の作品展示でしょ、文化部発表会の作品はもう終わったし、あとは部活対抗コンテストのいろんな国の民族衣装着るやつ」
 みんな大抵、クラスの出し物と部活の出し物だけなんだけど、外交何とかで、三日目に行われる部活対抗コンテストで世界中の民族衣装を着る仮装コンテスト? みたいなのをやることになって、私は、それに出ることになってる。ちょっと恥ずかしいけど、でも滅多にないことだしいいかなって、ちょっと楽しみ。
 それを聞いたときに、私に歩き方を教えてくれてたママが、モデルの歩き方と普段の歩き方は違うというのを、東ユーラシア人(モンゴロイド)西ユーラシア人(コーカソイド)は骨格からして違うというのを、ものすごい勢いで力説してくれて、特訓する羽目になった。ママは、なんか、いつも、なんでも気合はいりすぎだと思う。
 パパとお兄ちゃんは、しごかれてる私をにやにや見てた。あ、なんか思い出したらイラっとしてきた。けれど、私のそんな思いを知らない若は、それがどうしたとでも言いたそうなアッサリした口調で私の質問に答えてくれた。
「演劇と映画上映と二日目の運動部対抗エキシビジョンだけだな。部活対抗コンテストは、俺はかくし芸の方に出る……というか、出させられる」
 かくし芸ってなんだろう? 古武術……とか? うーん、でも、それだけなんだ。
「それだけ?」
 聞くと、ああ、ってうなづく若。それなら少しは、時間が余るはずだよね。
「じゃあ、出たいのがあるんだけど……」
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