日吉若の溜息 10
「次は、男子テニス部による公演“ロミオとジュリエット”です。
 チケットはS席から立ち見席まで全種完売しております。
 また、チケットによる収益金は学園基金として使用されます。
 体育館上部、立ち見のお客様はお早めにご移動ください。
 撮影、録音等自由ですが、フラッシュやライト等のご使用はお控えください。
 また、今回公演・次回公演を撮影したDVDを、学園生徒用に予約販売します。
 詳しくは上演後、入り口のテニス部スタッフまでお問い合わせください。
 まもなく始まります。
 お席がわからない方は近くのスタッフまでお声をおかけください。
 まもなく始まります。
 まもなく始まります」


 15:30〜16:30 【プログラム6】

男子テニス部 『ロミオとジュリエット』
原作:シェイクスピア  編修:跡部景吾  音楽編修:榊太郎

 <配役>
ロミオ :
ジュリエット :
ベンヴォーリオ :
マキューシオ :
ティバルト :
パリス :
神父ロレンス :
忍足
跡部
宍戸

日吉
向日
樺地
モンタギュー :
モンタギュー夫人 :
キャピュレット :
キャピュレット夫人 :
ジュリエットの乳母 :
バルサザー :
小川
樫和
芥川

海田
近林    

特別出演 ヴェローナ大公エスカラス : 榊 太郎   


 まだ、幕の上がらぬ暗い舞台上から、剣戟の音が奏でられる。
 香奈はわくわくと舞台に眸を向けて、その幕が幻のように消え去るのを今か今かと、サンタクロースを待つ子供のように見つめていた。
 柔らかい風のようにするすると自然に開いた幕の向こうは、大道具などは何もなく、中世風の街中を描いた絵が奥に一枚吊り下げられているだけだった。

 地味な服装のモンタギュー家の召し使いと、キャピュレット家の召し使いが互いを罵倒しあったかと思うと、キャピュレット家の召し使いが勢い余ってモンタギュー家の召し使いを刺した。
 その落ちる水のような展開に、香奈は思わず息をつめてぎゅっと手を握る。物語りも勿論楽しみだが、想い人の出番を、心待ちにする光のような暖かいものが胸にはあった。
 召し使いが倒れ臥した瞬間、バツンと電源が落ちるように暗くなり、一瞬後ザァっと色のない強い光が舞台を覆う。背景に吊るされていた絵は、どこかの屋敷のダンスホールのようだった。絵に縫いこまれている緻密にカットされたクリスタルがまるで本物のシャンデリアのように、降り注ぐライトと、舞台の照り返しを受けてキラキラと光っていた。
 キャピュレット家の饗宴――この舞台では仮面舞踏会となっていた。舞台の端、幕の手前で、忍足扮したロミオと、宍戸扮するベンヴォーリオが話をしている。忍足はコテでもあてたのか、ふんわりと髪に空気が含ませられ、ゆるりと柔らかくウェーブがかった髪は少年が青年になる狭間のような、このまま成長すれば伊達男になるだろうなといった風情。
 ロミオはキャピュレット一族のロザラインを愛している。ベンヴォーリオはこの饗宴にもぐりこんで、ロザラインと饗宴に参加している美女とを比べてみろと言う。
 宍戸も、毛先を寝かせるようにセットしてあり、普段の少年らしさにプラスして、貴族らしさがほんの少しのエッセンスとして落とされている。

「キャピュレットの舞踏会にはロザラインもいる。
 ヴェローナ中の美女とあいつを比べればわかるさ。
 お前の白鳥がカラスだってさ」

 その言葉にロミオは首を振るけれど、結局はマキューシオも誘い、三人は仮面をつけて、舞台の幕を押しのけ、こっそりとキャピュレット家の饗宴にもぐりこむ。マキューシオに扮した鳳は、髪を逆立ててセットしていて、眉もキリリと引かれているため、男らしさが増して見えた。

 キャピュレットの舞踏会――ロミオは、跡部扮するジュリエットに目を奪われる。
 ロミオとジュリエットの衣装は白を基調とし、縫いこまれたクリスタルのビーズが光を弾き、物語を知らぬ者にも、この二人が主役であると告げていた。
 ジュリエットの纏うドレスそのものの美しさと、跡部の男らしさを綺麗にカバーするデザインの秀逸さに、香奈は魅入る。まるで本物のお姫様のようだと。麦穂のような金の髪をハーフアップにしたジュリエットは、そのはらりと顔にかかった一房でさえ計算され尽くしている。
 美しきジュリエットに、ロミオは一目で恋に落ちる。それが敵対するキャピュレット家の娘であると知らずに。一時間で収めるため、展開はかなり端折ってあるらしく、すでに一幕の第五場。

「俺は……俺は今まで恋をしたことがあったのか?
 俺の目よ、誓え! 今まで恋をしたことはなかったと!
  今宵、初めて、俺は、真実、美しさを知った」

 ロミオの口から、ジュリエットを讃える言葉が溢れる。
 ジュリエットの元へ向かったロミオは、彼女の手をとりダンスに誘う。戸惑っているジュリエット。彼女の手を“聖堂”と喩え、ロミオとジュリエットはロマンティックなやりとりののちに口付けあった――ここで客席からキャー! という黄色い声が響き、ざわついた――普段ならばロマンティックな情緒豊かな言葉のやりとりを羨むところだった香奈は、胸がしくしくと痛んだので驚いた。けれど、その原因は香奈にはわかっていたし、それは、今更どうすることも出来ないと理解していたので、それは無視した。
 ロミオの声を耳にしたジュリエットの従兄であるティバルトが、いきなりロミオの仮面を剥ぐ――それにしても、声だけでロミオとわかるティバルトはすごいなぁ、と香奈は思う。
 仮面を剥がれたロミオの顔を見、ティバルトのロミオをなじる怒声を聞き、愕然とするジュリエット。己の手に触れた、一目で恋に落ちた相手がロミオだと知り、顔を覆って彼女はその場から逃げ出す。
 ティバルトに扮している日吉は黒い仮面で顔の半分を覆い、前髪をかっちりと撫で付けていた。普段とは違う日吉に、香奈はによによしながら舞台を眺める。となりに座っていた有田が、頬をとろかしている香奈を横目で見て、くすりと笑ったが、香奈はそれにも気付かなかった。
 憎き敵のモンタギュー家の者が仮面で顔を隠し、一族の祝祭を侮辱することは我慢ならぬと、剣を抜こうとするティバルト。彼は炎だった。短気さ。一途に敵を憎む激情。そういったところがとても日吉とティバルトは似ていると、香奈は思う。愚直で、融通が利かず、想い込みが激しく、無駄に攻撃的に過ぎるティバルトも、けれど日吉が演じていると思えば、それだけでとても愛しいもののように、香奈には感じられる。
 ジュリエットの婚約者、パリスがティバルトを押し留める。向日は黄を基調とした衣装だったが、オレンジにも近く、どこか愛らしい服装で、パリスらしさというよりも、向日の容姿を惹き立てるようなものだった。まるでケーキに飾られるマジパンと砂糖の人形のような愛らしさであった。パリスは最初から顔を覆うはずの仮面を前髪を上げるヘアバンドのように使用しており、それも愛らしさを増幅させていた。
 祝いの場ではやめるべきだというパリスの言葉に渋々ティバルトは剣をあっさりと納める。公演時間の問題からだろう。

「醜悪なモンタギューが……
 祝宴を穢した償い、いつか必ずさせてやる!」

 ロミオの耳元に噛みつかんばかりに憎憎しげに、低く強く言い捨てて、ティバルトは地面を脚で殴るように身を翻した。不機嫌そうにその場を後にするティバルトをパリスが慌てて追う。香奈は、素直に“負け犬みたいな台詞だなぁ”と思った。この後に下剋上だって言ってくれればよかったのに、とも思った。
 日吉が舞台から消えた瞬間、香奈は少しつまらなくなってしまった。舞台自体は面白いが、そもそも悲恋は好きではない。胸を切なくするのは現実の出来事だけで充分なのだ。物語の中でまで心を痛ませたくはない。

 ロミオはティバルトの台詞と気迫とに押されるようによろめき、彼女が敵対するキャピュレット家の一人娘ジュリエットであることに愕然としながら舞台袖へ消える。
 ロミオが消えると同時に、薄桃がかったライトと共にジュリエットが登場し、バルコニーが描かれた背景の幕がふわりと場面転換させた。ジュリエットはいつの間にか舞台の上段に移動している。

「おお、ロミオ、ロミオ……
 どうして貴方はロミオなの?」

 ジュリエットがバルコニーにて、一目で愛してしまった男への愛の言葉を呟く。彼がモンタギュー家のロミオでさえなければ……。少女の胸に敵の男への愛という矛盾が渦巻く。その様子を跡部は見事に表現していた。声は男のものだが、だからこそ危うさがあった。歌舞伎の女形や、宝塚の男役のような。
 一方ロミオはティバルトの剣幕に圧され、ふらふらと歩いていたところで、ジュリエットの声を聞き、そのまま自分への愛を紡ぐそれを盗み聞きする。
 このあたりで、香奈は(若、早くでないかなぁ……)と、ぼんやりと舞台を眺めていた。赤褐色と言うのか赤銅色と言うのか、赤をメインにした服を着た日吉は、驚くほどそれが似合っていた。赤などまったく似合わないだろうと香奈は思っていたのに、跡部の見立ては、やはり素晴らしい。
 突然ロミオに声をかけられたジュリエットが、自分のことを軽い女だと、はしたないと思わないでほしいと言い、二人で愛を囁きあう。
(そうそう、そういうとこがすごく気になったりするんだよね。嫌われちゃったかなとか)
 ジュリエットは、その年の八月に十四歳になる予定の十三歳。そのことに思い至った香奈は現在中学二年。つまり、ジュリエットは時代は違えど、家は違えど同年代なのだった。
 しかし、正直に言えば、香奈はロミオとジュリエットは好きではなかった。よくこんなに上手にすれ違えるものだと、悲劇自体を嫌ってもいた。
 二人の結婚を見ても、“勝手にそーゆーことするから大変になっちゃうんだよ! ”と自分をチョモランマの天辺に上げて偉そうに思っていた。香奈の個人的思想から言えば、結婚と言うものは全ての人に納得してもらい、祝福してもらってからするものだった。香奈には時代での、地域での、物語での、結婚の違いなどよくわからなかったし、十三歳で結婚していいの? と、基本的なことから疑問だらけだった。香奈は、もともとシェイクスピアは好きではない。教養の為に、無理やりに読んだ所為で、余計にそう思っているのかもしれなかった。
 美しく慎ましい二人だけの結婚式が終わる瞬間に舞台は真っ暗になり、また光が灯った時には、街中の垂れ幕が降りていた。ベンヴォーリオとマキューシオが舞台袖から登場し、話しながら歩いていると、逆側からティバルトが現われ、舞台中央で三人は出会う。ティバルトの毒舌。マキューシオもそれを返す。抜かれる剣。
 その時、結婚をおえたロミオが偶然通りがかる。ロミオは自分の親戚となるティバルトと争いたくはなく「キャピュレットさん」などと声をかけたものだから、マキューシオはティバルトに屈したのかと怒り、剣を繰り出す手を、より猛々しくした。ティバルトもそれに応じた。剣戟――それは本物志向の跡部の所為か、半端が嫌いな青竜刀使い(日吉)の所為か、下手なテレビドラマの殺陣よりも臨場感があり、強制的に集中させられる緊迫感があった。

 激しい剣戟。しかし、音楽が、音が、絶える。
 ゆっくりと、ティバルトの剣が、マキューシオを切り伏せた。スローモーションのように、倒れ臥す、マキューシオ。
 立ち尽くす、ロミオ。
 眸がこぼれそうに、瞼を開き、倒れたマキューシオを、ゆっくりゆっくり、首をめぐらせて、見、がくがくと、手を震わせ、そして、ロミオは、剣を、取った。
 その剣は、抜きざまティバルトを、ゆっくりと貫いていく。ティバルトは、膝を着き、地に引き寄せられるように、ぐらりと揺れ。彼もまた絶命した。
 その瞬間、音が、息を吹き返す。

 彼らを隠すように照明が落ち、次に光がともったときにはベンヴォーリオが事件のあらましを話し、モンタギュー夫人とキャピュレット夫人がお互いにヴェローナ大公に感情的に言い募っていた。滝の演技はすばらしく、声は男のものであるのに台詞の調子、仕草など、愛する甥を失った怒りを大公にヒステリックに訴える叔母という役を演じきっていた。話を聞いた大公は、親族であるマキューシオの死を悼みながら、すべてを踏まえてロミオをヴェローナから追放すると宣言する。
 香奈は演技であるのに、ただの役であるのに、日吉が死んでしまったことが悲しく、泣く場面でもないのに涙腺が活発に活動をはじめそうだった。内心、ロミオの馬鹿、とすら思っていた。しかし、隣席の有田は、己の彼氏の見事なかませ役っぷりに微笑ましげに口の端を緩めていた。

 事件を聞いたジュリエットは愛しい従兄を手にかけたロミオに、怒る。天使の姿をした悪魔だと罵り、美しい暴君だと詰る。ロミオの行いに腹を立てていた彼女は、けれど、一歩間違えば喪われていたのはティバルトではなくロミオであることに思い至る。そして、ロミオが生きていて良かったと、喜ぶ。ああ、彼が死ななくて良かった。ティバルトの死は悲しいけれど、けれど、ティバルトが一万人死ぬよりも、たった一人のロミオが喪われる方が彼女には恐ろしい。
 その気持ちは香奈にも想像できたけれど、香奈の心は完全にティバルトに向いている。ティバルトの死は自業自得ではある。マキューシオもだ。けれど、ロミオとジュリエットの所為ではないか、と屁理屈を言う小学生のように思ってしまう。ロミオとジュリエットのメインはロミオとジュリエットだが、ベースはキャピュレット家とモンタギュー家の対立、そして単純な敵はティバルトだ。敵とまでは言わずとも、わかりやすいお邪魔虫ではある。
 香奈有田に“若もチョータも出番なくなっちゃったね”というような意味を込めて視線を向けると、彼女はすでに物語りにのめり込んでおり――内容自体ではなく、演出などだろう――仕方なくまた舞台に視線を向けた。

 好きではない物語を、香奈は淡々と眺める。もう、想い人である日吉の役は死んでしまったし、香奈の記憶ではティバルトの血に濡れた何かがジュリエットの眠る――この時は仮死――霊廟にあったような気もするが、すでに興味は失せていた。
 同年代の少女の恋の模様は、そこそこは面白いし、跡部の演技力によって胸の打たれる場面がないわけではなかったが、物語の上っ面だけをぼんやり眺める。

(若いないから、つまんない)

 けれど、仮死の薬を飲む前に、もしかして本当に死んでしまうのでは、と葛藤するジュリエットに、それでもロミオと幸せになるためにと覚悟するいじらしい気持ちに、少しだけ胸が苦しくなる。ロミオの為に全てを捨てる覚悟が、彼女にはあるのだ。同い年の香奈は、けれど、そんな覚悟はない。
 若は大好きだ。だが、その為に、家族が全て喪われてもいいとは思えない。もし、決断したとて、ジュリエットのように強靭な意志はなく、後悔が自分の心を苛むことが理解できる。
 好きな人間の為に全てを(なげう)たねばならないのだろうか。それが好きだと言うことなのだろうか。香奈にはまだわからない。
 けれど、もし自分が日吉に全てを抛たせたのならば、それはとても嫌なことだ。日吉には楽しいことを沢山やってほしいし、打ち込めることに打ち込んで欲しい。色んなことを経験して、色んなことを知って、人生って楽しいなぁと思って欲しいし、自分も思いたい。
 己は馬鹿だから、日吉に寄り添っていればそれだけで幸せだが、日吉には、きちんと日吉の人生を生きてほしい。日吉が本当に心底自分を好いていてくれるとしても、香奈に与えられるのは恋愛関係の充足のみで、下剋上の達成感や、古武術での悔しさや――上手く言えないが、そういった、己を成長させるもの、を全て与えられるとは思わない。だから、日吉にはたくさんのことを経験して欲しいし、それによって得たものを、日吉の口から聞いてみたい。
 また、生きていくには後ろめたいことはない方がいいし、誰かを騙すことも、何かから逃げることも、負い目を感じることも、なければないほどいい、と、すくなくとも香奈は思う。単純で、幼稚。そしてそれを自分で理解していないところがまた彼女の未熟さだった。
 しかし、香奈自身は理解していなかったが、日吉は充分にそれを理解していたし、だからこそ、日吉本人の気づかぬまま、守ってやりたいと独り善がりな使命感を感じてもいた。

(息子と娘が死なないと仲良く出来ないっておかしいよ。
 あと、ヴェローナじゃ殺人は死刑なのにマキューシオもティバルトも喧嘩しすぎ。
 花のヴェローナじゃなくて血で血を洗う殺伐とした都だ!)

 とりあえず香奈は、ティボルト(日吉)を絶命なさしめたロミオ(忍足)が少し嫌いになった。
前頁HappyDays次頁