Un-birthday party II
 そもそも、途方にくれる必要などないのだけれど、見知らぬ人間に声をかけられるということ自体、香奈には途方にくれるに充分な理由だった。
 緩くウェーブのかかった黒髪に、どこか神経質そうな細い顎先、そして何よりも肌がとても白い少年は少し困った顔をして、けれどすぐに微笑んだ。
 愛想笑いであることはわかるが、とても綺麗な笑みにほんの少し安堵して、香奈はおどおどと「できれば、買おうと思っているんですが……」と答えた。
「そうですか……まあ、それも運命ですね。お金を使わずに済んだという事でしょう。変なことを聞いてすみませんでした」
 少年は少し寂しそうに微笑んで、香奈に頭を下げた。
 買おうと思っていると反射で答えたものの、しかし香奈は、自分が本を棚に戻すのを待つことなく、直接少年が聞いてきたことに、彼がこの本をとても欲しがっていたのだろうと予測をつける。
 クリスマスまで日はあることだし、自分は別のプレゼントを探せば良い。この少年――と言っても香奈よりは年長そうだ――は昔からこの本に目をつけていたらしいし、譲ってしまおうかとも香奈は思う。そもそも、確かに中学生が中学生に贈るものとしては少々値が張る。
香奈が値段を気にせずとも、若が気にするかもしれない。そう思うと、残念ではあるがこの少年に譲ってしまった方が良いような気がしてきた。
 きびすを返す少年に「あの」と声をかけると、少年はゆっくりと振り返った。柔らかなくせのある髪がふわと揺れ、白雪のような肌を彩るそのコントラストがとても綺麗だと香奈は思った。けれど、小柄で華奢なひとだなと感想が浮かべば、なんとなく若の輪郭だの触れたときの筋肉の硬さだのを思い出して、想像上で若と少年のどちらが逞しいだろうかなどと比べてしまう。
 はしたない、と自分の思考に少々恥ずかしいような気持ちも湧いてきてしまった。
「えっと、やっぱり、やめます」
 さきほどの思考のせいで、自然とおどおどとした態度をしてしまう自分に少々困りながら、布張りの本を少年に差し出す。少年はほんのわずかに目を見開いた。
「買われるんですよね?」
 本を差し出したまま軽く首を傾げて少年を見上げると、少年は「できれば、買いたいと思っています」と答えた。そして「そのためにお金を貯めていたので」と、続ける。
「ただ、それは貴女も欲しいんでしょう? 出遅れた僕が買っては申し訳がありません」
 本当に申し訳なさそうに眉を寄せるので、香奈も同じように困って眉を寄せる。それから視線を本に落とし、うん、と一つ頷いた。少年を見上げて、ふわりと瞳を細めて口の端を上げてみせる。
「私は衝動買いみたいなものですから、気にしないで下さい」
「ですが……」
 躊躇っている少年に、香奈も差し出した手をどうしていいのかわからなくなってしまい、とりあえず本を両手でそっと棚に戻してから、逃げるように少年の脇をすり抜けた。電車で席を譲る時も同じだけれど、目の前に譲った人間がいるのは居心地が悪いらしいし、さっさと立ち去ってしまおう、と香奈は小走りで店を出ると、ぽんっと最後にジャンプして敷居を飛び越した。
 それから一度店内の少年を振り返って微笑んで会釈した。
(うー……なんか、ちょっと、ビックリした……)
 胸に片手を当てながら、香奈は歩き出す。突然のことと、知らない人との会話になんとなく緊張してしまっていた。予想もしていなかったので余計に。
 しかし、これ以上考えていても仕方のないことだし、と気持ちを切り替えて、帰りにもう一度古本屋によって他に良さそうな本を探そうと決めると、足取りも軽く教会へ向った。もしかしたら、若の知らない七不思議の本があるかもしれない。ただ、実録オカルト系だけは避けなければ、と一度痛い目を見た香奈は自分に言い聞かせた。
 駅から教会までの道は少々遠い。香奈の足で二十分強かかってしまう。これが、普段の若であれば十分強だろうななどと想像しながら、黄色く染まった街路樹が敷く黄色の絨毯の小道をふかふかと上機嫌で歩く。近隣住民には、きっと掃除が大変だと思われているであろうこの銀杏並木も、たまに来る程度の香奈にとってはとても素敵な光景だった。
 つい先日は、若と紅葉を見にいったけれど、それとはまた違う街中の落ち葉は香奈を幸せな気分にさせた。てあー、と変な声を上げながらばふっと落ち葉の絨毯を蹴り飛ばせばレモンイエローがひらひらと蝶か雪のように舞う。
 まるで小さな子供のように落ち葉を蹴り上げて少々高い位置にある教会への細い道を歩いていると「そんなに元気があるなら掃除の手伝いでもしてもらおうかな」と穏やかな声が頭上から降ってきた。香奈は気まずく顔を上げる。
「牧師さん……こんにちはー」
 まずいところを見られてしまった、と香奈は視線を地面に逸らす。気付かないうちに教会の所有地である林道に入っていたらしい。公開ミサ用のキャンドルの受け取りに行っていたのだろう、まだ三十代と若く優男と評される牧師はエコバッグにたっぷりとキャンドルを詰めて持っていた。
「こんにちは。久しぶりだね。香奈君がここに来ると言うことはミサの予定表は届いたのかな」
「あ、はい! ありがとうございました――あの、私も持ちます」
香奈がエコバッグに向って手を伸ばすと、牧師は軽く笑い「じゃあ、半分ずつ」と持ち手の一つを香奈に託す。幼い頃から香奈を知っているだけあって、扱いが小さな子供に対するものだが、香奈は全く気にしていない。
 そんなところを見つけると、若は香奈に“自立しろ”だの“プライドを持て”だの言うけれど、香奈は末子でしかも長女であるため、どうしても甘やかされ慣れている。子供扱いはすなわち可愛がられていると香奈の中では同義だったし、可愛がられたり甘やかされたりするのは、場合にもよるけれど香奈にとってはとても嬉しいことだ。
 少なくとも怒られたり怒鳴られたり嫌われたり貶されたり虐められたりするよりはよっぽどいいと考えている。
 若は嫌うけれど、同情されることも香奈は嫌いではなかった。優しくしてもらえることが好きで、優しくすることが好きだった。逆に怒ったりしかったりすることが苦手で、どうしても若とはかみ合わない部分もある。他人を優先しすぎる香奈と、他人など踏み台程度に考えている若がつきあっているのは何ともミスマッチのように他人には感じられるだろう。
 さきほどとは違い、大人しくふわふわとした落ち葉を踏みながら歩く香奈に、牧師は「もう蹴らないんだね」と笑う。香奈はばつが悪そうに、困ったように眉を寄せて笑った。
 教会についてからは牧師が先ほど冗談で言ったように、竹箒で落ち葉を拾い集めた。大分綺麗になったところで、遊びに来ていた子供たちと、教徒の大人とで焼き芋パーティーが始まった。牧師は明日のミサの用意で忙しいらしく、ときおり香奈に声をかけるものの「大きくならないね」だとか「お兄ちゃんって泣いてた頃が懐かしいよ」などとからかうような言葉ばかりだった。香奈もそれは慣れているのでわざと拗ねたりと、反応しては笑う。
 プロテスタントの教会だけあって、カトリックと比べると随分こぢんまりとしているが、小さいものの円形のステンドグラスにいわゆる世俗オルガンがあり、教会としての機能は十分だった。土日は両親が働きに出ている子供たちに牧師がキリスト教のことを教えてはいたが、最近は教徒も減っているらしい。しかし、牧師が「必要とする人が居なくなったらなくすしかないだろうね」とあっけらかんと言ったのには、無宗教者の香奈もぽかんとしてしまった。仮にも布教すべき立場の人間の言葉ではない。まるでノン・クリスチャンのようなセリフだ。
「たまには日曜礼拝にでもおいで。教会税はおまけしてあげよう」
 そう、冗談っぽく言って笑う牧師の作業――幼い子が紙芝居を数枚紛失してしまったので拙いながらも二人で描いていた――を、教会の奥の小部屋兼物置で、香奈は複雑な心境で手伝っていた。
 だけれど、香奈はやはり無神論者だったし、教会と言う場所は好きだったけれど、洗礼を受けるかと言われれば、それはノーだ。説明は受けているけれど、おそらく無神論者だなどと言いながらも香奈は日本人の根底理念に根ざしている仏教徒なのだろう……と自己判断しつつ、香奈は実はあまり宗教には詳しくなかったのでサッパリとそれらを考えないことにした。教会でみんなで歌ってお祈りして焼き芋でも食べられれば、香奈としてはそれで十分なのだ。
(若に言ったら“馬鹿”って突っ込まれそうだけど、難しいことはわかんないしなぁ……仏教って六道輪廻だっけ? わかんないや)
 途中で、牧師に客が来たようで、香奈は一人で紙芝居に色をつけていた。一応は、腐っても美術部員。牧師よりも塗り目も筆づかいも数段綺麗だと出来上がった紙芝居を見て香奈は満足して笑う。しかし、思ったよりも時間がかかってしまった。そろそろ夕方になってしまう――と、戻ってきた牧師が「ああ、できたんだね。ありがとう」と香奈に声をかけながら室内に据え付けられている本棚をガサガサと漁り始めた。
 探し物だろうかと香奈が牧師の姿を眺めていると、いつの間にか、牧師を追ってきていたのだろう「忘れないで下さい……」と困ったような声が扉の方向から聞こえた。牧師は「すまないね。すっかり……っと」とやはり困ったように言いながら数冊の本を抜き出す。
香奈はなんとなく振り返って扉を見た。声は随分と若い。
 どんな人物だろうかと振り向いた香奈は、その瞬間「ぁ……」ともらしてしまった。
 扉の前で室内の様子をうかがっていた少年も驚いたように香奈を見ている。
 気まずいことに、先ほど古本屋で会った少年であった。そろそろ帰り支度をしようとしていた香奈と、立ち尽くす少年がばつが悪そうに無言でいると、牧師は「知り合いだったのかい?」と本の表紙の埃を払いながら気さくに聞いた。
「や、え……さっき本屋であった人です……」
香奈はつっかえつっかえそう言うと、少年は香奈よりも先に驚きから回復したらしく「さきほどはありがとうございました」と微笑んだ。何度見ても、愛想笑いであるとわかるのに、綺麗な笑顔だというのが香奈の感想だった。
「そうかい――さてと、はじめ君。この辺りでいいかな」
 牧師は香奈の驚愕と気まずさの空気におかしそうに笑いながら少年に本を手渡す。少年は表紙を確認し、中身を確認してから「ええ、充分です。ありがとうございました」と頭を下げた。少年に「どういたしまして」と返した牧師は、それから「もういい時間だから、香奈君はそろそろ帰ったほうが良いよ。手伝ってくれてありがとうね」と今度は香奈の頭をぽんと軽く撫でてから微笑んだ。

 さて、その会話を聞いていた少年が香奈を駅まで送ろうと提案し、女の子の一人歩きは危ないからそれがいいね、と牧師がうなずき、香奈は見知らぬ少年と二人で銀杏並木の黄色の絨毯を踏んでいた。
 さてさて、変な縁だと思いながら少年を覗うと、少年はやはり綺麗な愛想笑いをした。それを見るにつけ綺麗だと思うと同時に若の笑顔をとは違うなぁ、と香奈は考えた。
 若の笑顔はチャンスの神様のように一瞬だけのものが多い。普段は鋭い目が、けれど、ふっと細められた瞬間はとても優しくて、香奈はその笑顔が大好きで、見るたびに幸せになる。また、ほんの少し、香奈にギリギリわかる程度に目尻が下がって、ぽつんと落とすような笑顔の時は、今更ながら心臓の鼓動が速くなる。
 そんな若の笑顔を思い出していると顔がにやけてしまって、慌てて香奈は頬を押さえて地面を見つめた。
「よく……教会へはいらっしゃるんですか?」
 無言を気づかってか、少年が香奈に問い掛ける。
「いえ、今はそんなに……たまーに遊びに来るくらいですね。えっと……」
 あなたは? と聞こうとしてなんと呼べばよいのか一瞬迷った香奈に気付いたのだろう、少年はやはり綺麗な愛想笑いをした。何度目だろうか。
「観月です。観月はじめ――僕はミッション系の学校に通っているので、たまにお世話になるんですよ」
 なるほど、と香奈はうなづき、さりとて初めて会った人間とどう会話をふくらましたものかと、幼い頭でフルスロットルに考えていた。
「え、ミッション系ってどこです?」
 とりあえずは、疑問を一つ口にしながら、何と会話しようかと頭を回転させるものの、どうしても回転速度の低い香奈は、まあ、話したいことを話せばいいかー、という結論に達し、一人で小さく顎を引いてから空を見上げ、隣の観月を見た。
「聖ルドルフと言います。わかりますか?」「あ、すごく新しい学校ですよね。観月さんは中学生なんですか?」「ええ。三年です。ええと……」「あ、私は小曾根香奈です。中二です」「学校はどちらなんです?」「氷帝……って知ってますか?」
 どうしても、初めての人との会話は疑問形ばかりになるなぁ、と思っていると、氷帝と聞いた観月が今まで浮かべていた愛想笑いを消した。
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