Un-birthday party IV
 はたして、若はすぐに見つかった。香奈と若が人目につきたくない逢瀬――と言えば、若は即座に否定するだろう――をする時に使う横庭とでも言うべき生垣と木々の植えられた芝生の気持ちよい場所だ。
 しかし、否定的で消極的で受動的で自己批判気味ネガティヴ・パッシヴ・セルフクリティシズム(注:若の個人的な評価である)なさすがの香奈も別の女性との逢瀬にまで使われているとは思わなかった。
 逢瀬は言いすぎだが、三メートルほどの距離を挟んだ若と少女の雰囲気は和やかとはいえなかった。しかし、喧嘩をしていると言うわけでもなく――香奈は、見てはいけないものを見てしまったような気分にさせられた。
 ドキドキと胸を叩く心臓をなだめながら、香奈は、ゆっくりゆっくりと考えた。また、従姉妹かも知れない。それともただの告白シーンかもしれない。若が告白されることはあまり好ましくはないが、好きになってしまったら心に押し込めて諦めるか、告白してしまうかしか香奈には思いつかないので、仕方ないといえば香奈の中で、若が告白されるのは仕方のないことだ。
 しかし、若がその告白を受けてしまうのは、これは香奈は――とても、切ない。許せないという意味ではない。許すも許さないも、告白を受けようが受けまいが、振ろうが振るまいが、全て若の意思なのだ。
 それにしても、今更ながら盗み見・盗み聞きはよくない。
 とてもとても気になるが――ここは立ち去るのが礼儀と言うもの。それに、私服の少女と会話している若は、少しおもしろくなさそうな表情だ。それは、香奈がなんとなく理解できる程度の表情であり、おそらく他人には無表情に見えるだろう。
 とにかく、テニスコートに戻って、その休憩中に鳳に頼み込んで聞いてみよう。彼が言いづらいといったのはこの事なのだろうから。
 しかし、香奈は、少女が若を“若”と呼んだことがとても切ない。聞く気はなかったけれど“若はどう思ってる? ”という言葉が聞こえてしまった。若は某エリカ様レベルの“別に……”を発動していたけれど、名を呼ばれたことについては指摘しなかった。
 名前で呼ぶこと、呼ばれること、それは若と香奈が付き合い始めて一番最初に現れた変化であり、そして一番身近な愛情表現だった。
 若は、香奈以外の女子に名を呼ばれることを嫌ったし、香奈以外の女子を名前で呼ぶことはなかった。香奈は、どうしても若より社交的なので名を呼ばれることを断りはしなかったが、愛称以外で――鳳のことをチョータと呼ぶように――若以外の男子の名前を呼ぶことはなかった。付き合い始めの頃は人前でだけ苗字でお互いを呼ぶこともあったが、それはもうずっと昔のことである。
 最近は名で呼ぶことも呼ばれることも慣れてしまい、ときめくことも減ったが、それでも、香奈は若の名を呼ぶだけで幸せだし、呼ばれるだけで幸せだった。口付けも抱擁も二人だけの時間もなくとも、若が“香奈”と呼んでくれさえすれば、若を“若”と呼ばせてくれさえすれば幸せなのだ。
 若が名前で呼ばれることを受け入れていた、たったそれだけのことだけれど、香奈はそれが、とても寂しい。

 テニスコートのそばに戻ると、とぼとぼと歩く香奈の様子に鳳が気まずそうな困った顔をした。今更だけれど香奈に聞かれた時、もっと上手に誤魔化せなかっただろうかと鳳は思う。
 そして、とぼとぼと戻ってきた香奈に、やはり男子テニス部ファンクラブの女子が「練習の邪魔をするな」というような言葉をかけ、香奈は泣きそうに凹んだ表情で、またとぼとぼとテニスコートから離れていった。
 鳳はおそらく、香奈は自分に聞きたいことがあるのだろうと察したが、いかんせん練習中である。なので――「香奈ちゃん! タイム入ったらいつものところに行くから!」とコートから声をかけた。
 鳳とラリー中だった相手は「さすが鳳は余裕だねぇ」と厭味を言ったが鳳は気に留めなかった。そもそも、二年でレギュラーになったメンバーは一部の部員からひどく疎まれているので慣れてしまったのだ。
 香奈は鳳の大きな声に驚き、その気遣いに感謝し、気遣いをさせてしまったことに自己嫌悪し、それでも小さく頷いた。
 そして「小曾根って遠慮なさすぎ。有田さん可哀想だよね。アヤみたい」と聞こえる程度の内緒話をされて、ヤンキーに金属バットでボンネットをベコベコにへこまされ、フロントガラスを粉みじんにされ、スプレーで落書までされて、とどめにタイヤを盗まれてしまった新車のような凹み具合でしょんぼりとぼとぼ校庭の、花壇脇のベンチまで歩いた。
 香奈は自分の性格を把握していた。精神が貧困なせいか小さなことでも幸せを感じられることに気づいていたし、同じく、小心者で小さなことでどん底まで凹んでしまうことにも気づいていた。そんなところを若が“お前、鬱陶しい”と批判気味なことも、香奈は理解していた。
 ベンチに腰かけ、膝に小さく握った手を乗せる。溜息を噛み殺して、夜になっていく空を見上げた。
 自分は他人に名前で呼ばせているくせに、若が他人に名前で呼ばれているのが嫌などと、我がままにも程が過ぎると香奈はとうとう溜息を漏らした。まさしく「どんだけぇ〜……だよね」。
 しかし、若は神経質であり、親しくもない他人が自分の名を呼ぶのを嫌っている。馴れ馴れしく、そして礼儀がないと言うのだ。
 神経質な若は香奈には理解できないことに執着したりもする。たとえば、男が落としたものを拾うな、だとかである。香奈が一年の頃、隣の席の男子生徒が落とした消しゴムを拾って手渡しただけのことだったが、若はそれを嫌がった。
 執着心の強さに香奈は驚いたものだけれど、若は滅多に名を呼ぶ以外の愛情表現をしないため、自分に執着してくれることが嬉しく、思わず笑ってしまったのだった。
 ただ、申し訳ないけれど、目の前で落ちたものを無視するのはとても心苦しいので、自分の傍に落ちたものくらいは拾わせて欲しいと言うと、若も自分の無体な要求に気づき「変なこと言って悪かった。気にしなくていい」と言ったけれど、香奈はそれ以来、多少、物を拾う時に注意するようになった。
 鳳が香奈の名を呼ぶようになった時には「呼び捨てにするのだけは許さない」と変な啖呵を切った。鳳はそれを律儀に守って香奈“ちゃん”と呼ぶ。

 その若が名で呼ぶことを許していた。

「気にしすぎ、かな……」
 かな、どころではなく気にしすぎなのだ、と香奈は自分に言い聞かせる。こんなにも自分は独占欲が強かっただろうかと思う。嫉妬することは今まで少なかったけれど、それは若が女性に対して潔癖で、さほど社交的ではないために嫉妬する機会がなかったのだろう、と香奈は考えた。
 実際には悲しいだの寂しいだの思うことが香奈にとっては他人の嫉妬と同じようなものだったのだけれど、本人はその辺りは意識していない。
 膝の上の両手でスカートの端を掴む。
 若が好きだから、香奈は彼のちょっとした言葉や態度でとても幸せになれる。けれど、若が好きだから、香奈は彼のちょっとした言葉や態度でとても寂しくなる。
 出そうになった溜息を噛み殺していると「お待たせ」とタオルをかぶった鳳が香奈の前で息を切らせてやってきた。その姿に香奈は申し訳なく思う。
「ごめんね。でね、あのね、あの子」「日吉の幼馴染だよ。赤ん坊の頃からの。で、日吉の道場の道場生なんだって――日吉がいないところで勝手に言っていいのかわからなかったんだけど、まだ一緒にいたんだ?」
 香奈の言葉をみなまで言わせず鳳はばつが悪そうに口早に言った。時間が惜しいのではなく少し前の自分の判断が適切ではなかったことをフォローしようという気持ちが強く前に出たせいだ。たいした話ではないだろうからと、鳳は香奈を引きとめはしなかったし、幼馴染であることを自分が勝手に言っていいものか判断しかねたのだが、香奈の顔を見れば説明しておけばよかったと後悔した。
 鳳の言葉に、香奈は、プツンと椿の頭が茎から落ちるように項垂れ――もとい、頷いた。
「うん。何の話かはわからなかったけど……そっか、幼馴染なんだ……」
 ならば、若が名前を呼び捨てることを許容していた理由も分かる。しかし、若にそんなに付き合いの長い女性がいるとは知らなかったので、香奈は驚きと共に、何故か負けたような、何故か若を取られたような、変な焦燥感が胸に灯った。
 それが恐怖と独占欲から来ていることには気づかなかったが、香奈は小さく頷く。
「うん、そっか。わかった。それだけだったの。わざわざ来てくれてアリガト」
 鳳に微笑んで見せながらも、香奈の心臓は布団圧縮袋に放り込まれたかのように圧迫感にも似た苦しさを味わっていた。
 軽く手をあげて「練習頑張れー。若にコテンパンにされないようにね」と冗談を言う香奈に、鳳は心配げな視線を向けてから「何かあったら言って」と爽やかに軽く言い、コートに戻っていった。
 若に幼馴染がいる。若についての新事実は、今回は珍しく香奈を喜ばせることはなかった。
 おそらくは先ほどの二人の印象が香奈にとってあまりよくないものであったからだろう。
(私も、若と幼馴染だったら良かったのに……)
 自分の知らない若がいることを、香奈は当たり前だと頭では理解していたつもりだが、こうやって幼馴染と言う形で突きつけられてしまうと、そんな浅薄な理解などは意味がなかった。
 若の口から聞きたかったというのが香奈の本音である。
 若が饒舌でないこと、必要最低限しか会話しないことが多いと知りながら、それでもなお、幼馴染のことを隠されていたような気持ちになった。そんな自分の被害妄想に、香奈はげんなりして、ベンチの縁に足を乗せると、顔を隠すように膝に額を押しつける。
 そんな香奈に、すかさず注意が飛んだ。
香奈、お前、恥らえよ……」
 もしかしたら彼のその言葉には、呆れと照れも混じっていたのかもしれない。
 スカートで、しかもベンチの上での三角座りなど、下着を見てほしいと言っているようなものだが、香奈は一応足でガードできているつもりだった。が、できていなかったようだ。
 困ったような怒っているような呆れているような若の顔に慌て、気まずさと、自分を張り倒したいほどの恥ずかしさに、うつむきながら「ごごめん」とどもりつつ足をそっと地面に戻した。ちなみに変なもの見せて、と口にする前に先に若が言葉を発した。
「鳳に言われて来てみれば……」
 溜息を吐いた若は、視線を香奈から少し逸らしてベンチに座る彼女の前に仁王立ちしていた。それから、少々ばつが悪そうに視線を逸らしたまま、言う。
「イツミのことは気にするな」
「いつ……? 幼馴染さん?」
 急に言われた言葉に、香奈はきょとんと若を見上る。
「そう。アイツとはただの腐れ縁だ。今日も、くだらない用事で来ただけだ。変な妄想するなよ」
 視線を逸らしていた若が、そこだけはしっかりと香奈の顔を見て、言い切る。
 涼しげで、少し吊気味の、切れ長の若の瞳を見返して、先ほどの余韻だろうか、頬のごくわずかな赤みに気付いた香奈はスカートの裾を手で押さえてから「うん」と視線を落として若の言葉に答えた。
 悩んでも、寂しがっても、結局は若の言葉が、香奈の不安を全て拭い去ってくれる。自分はどうしようもないほど若が好きなのだと実感するその瞬間、困ったような気持ちと、それを凌駕する幸せな気持ちが溢れ、視線を上げて香奈は微笑む。
 そんな香奈の幸せそうな顔に若は表情を緩めた。その表情を見ただけで、香奈は先ほどの不安も落ち込みも何もかも忘れ、嬉しい気持ちにさえなった。
「今日はイツミも一緒に帰るけど、香奈、それ気になるか?」
 その言葉に香奈はゆっくりと首を横に振って「若の幼馴染さんなら、私も仲良くなりたい」と本心から言えることを誰かに感謝する。
 若は、その返答に安堵して、香奈の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてから練習の遅れを取り戻すためにテニスコートへ戻っていった。がんばって、とジャージを着込んだ若の背中に声をかけた香奈の顔からは、先ほど鳳が心配したような悲しそうな色はない。
 安心して自然と笑みが浮かべば、香奈はそれを隠すように地面へと顔を向ける。
 そうして、安堵の溜息を一つつけば、足を伸ばして手を口元に寄せ、どうしても弛んでしまう表情を隠した。
「えっと、小曾根香奈サン?」
 愛らしい声。顔を上げれば香奈よりも十センチ近く背の高い少女が蛍光燈の光をスポットライトのように浴びながら、ベンチに座っている香奈の前に立っていた。モデルのようなスタイルだなと、香奈は思った。
「あ、はい」
 声をかけてきた少女は、何かの折に香奈が写真で見た、不思議の国のアリスのモデルアリス・プレザンス・リデルに似ていた。それが香奈の彼女に対する第一印象だ。
 耳を隠す長さのほんのり黄茶がかかった綺麗な黒髪の前髪部分は眉の数センチ上で切りそろえられている。モード系と言えばそのような感じもしたが、それよりもずっと愛らしい。どこか他国の血が入っているようにさえ見える大きな瞳に秀でた鼻筋。白い肌は滑らかで触れればきっとマシュマロよりも柔らかいだろう。
「若の彼女なの?」
 彼女はその大きな瞳で香奈を覗き込むようにして、じっと見つめた。睫毛が長い。
 直球の質問に、けれど珍しく香奈はたじろがなかった。
「そうです」
 そしてやはり珍しく、堂々と頷いた。
 それを聞いた少女が少しだけ視線を地面におろし、ゆっくりと香奈の横に腰掛けて、やはり香奈の顔を覗き込む。
「そっかぁ……聖ルドルフ学院中学校一年、イノウエイツミです。イツミは若のことが好きなので、小曾根さん、イツミに若をくれませんか?」

 ド直球ストレート。

 会ってから数十秒で暴露大会。正々堂々の勝負すぎる。
 イツミのあまりの言いように、香奈は目を瞠ってから、まじまじとその顔を見詰めてしまった。香奈にはない、若にも似た潔さと堂々とした態度。
「若に、小学生のトキ告ったら、小学生にそんなのは早いって言われて、中学生になったから、また今日告ったの。そうしたら若はイツミのことはなんとも思ってないって。彼女がいるって言われた」
 言いながらしゅんとしてしまったイツミの姿に、その若の彼女である香奈はおろおろしてしまう。慰めるなんておこがましいことをしてもいいものか悩むけれど、励ますなどできるはずもなく、だからと言ってハイそうですかと若と別れる気など毛頭ない。香奈はおろおろと、それでも胸を押さえた。心臓の拍子がおかしい。
「イツミ、若のこと好きなのに……初チューも若にあげたのに……」
「は、初チュー?」
 胸を破ろうとするかのような心臓の鼓動に、呼吸すら辛い。あえぐように口を開けば細い息がなんとか喉を通るか通らないかといった状態だった。絞り出された香奈の声は乾涸びたミイラのそれよりも力が無い。
「うん、三歳くらいのときに……イツミね、あの頃からずーっとずーっと若のこと好きだったんだよ。こんなことならもっと勉強がんばって氷帝に入ればよかった……小曾根さん、なんでイツミから若とっちゃうの? ずるいよ……イツミのが先に若のこと好きだったのに……」
 ポロポロと涙をこぼし始めてしまったイツミに、香奈の方が泣きそうだった。健気でいとけないイツミの姿に、けれど香奈は同情できなかった。
「イツミ、ほんとに、若、の、こと……好き……なの、に……小曾根さ、ひどっ……ず、る……ぃ、」
 とうとう本格的に泣き出したイツミに、香奈は自分が酷い極悪人のように思えてくる。
 膝の上で握った手のひらが滲んだ汗で固まったように動かない。
 心臓が胸の中で破裂しないことが逆に不思議だった。
 どくんどくんと血液が押し出されるたびに耳鳴りがして心臓が痛い。
 今まで香奈を呼び出して因縁をつけてくる人間は、怖いけれど負けるものかと思って耐えてきた。数や嫌がらせに物を言わせる人間を若が好くわけはないし、若と付き合っているのだから、彼を好きな人間が自分をどう思うかはこの一年半の間で理解した。有名税ではないけれど、それと似たようなものだと。そして、若にふられて傷つく彼女たちが痛みを感じるのに、若を手に入れることの出来た自分が傷つかないでいられる訳がないと。
 けれど、イツミは痛々しいまでに切実に泣きじゃくっていた。
 香奈には、何をどうすればいいのか、何をどうしたらいいのか、この状況はどういうことなのか、いまだに完璧に理解できていなかった。
 自分に嫌がらせをされること、若が誰かに告白されること、それは、経験済みだった。
 ただ、自分に、若が好きだと、だからよこせと、本当に好きなのだと、香奈が若をうばったのだと、自分の知らない若を知っている人間に、そんなことを泣きながら訴えられたのはこれが初めてだった。
(でも……一緒にいる時間は短いかもしれないけど……それでも、私だって、若が好きだよ……ズルく、ないよ……)
 唇は乾涸びて貼りつき、言葉にはならなかった。
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