跡部景吾の、小曾根香奈に対する評価は“生態系の底辺にいるような女だな。毒にも薬にもなんねぇよ”だった。しかし、もしかしたら己の彼女並に、 そして、評価しなおされた香奈は、そんなことに気づくわけもなく、ただ、テニスコート脇で見詰め合う跡部と観月をきょとんと、やはり見つめていた。 跡部は本日、部長職の引継ぎの為にたまたま部活に顔を出し、ついでにコートにも顔を出したのだが、まさか関東大会 ただ、会っただけならばともかく、思い切り情報を収集されている。さりげなく練習を携帯写真で撮るほど、がっつりと情報収集されている。跡部とて後輩達の全てのデータがそう簡単に取れるとは思わないし、練習方法についても同じだ。 けれど、不愉快ではある。 そして、今日の引継ぎ業務を終えて跡部と同じくコートに来た隣の日吉が明らかに苛立っているのに気づけば、“ああ、しちめんどくせぇ……”と思わずにはいられなかった。しかし、日吉は普段どおり無表情であるのに、そんなことがわかる自分の 香奈も同じく、若の機嫌が悪いことは瞬時にわかった。彼女の場合は眼力ではなく、若の一挙一動にときめいていた頃に手に入れた能力だったが。 そして、鞭打たれた猫のようにしゅんと眉尻を下げて、香奈はどうして若が怒っているのかを考える。 一、 そこまで考えてから、“四、それら全て。”を付け足す。ちなみに五は“ これが、ウルトラマンビームであったらこの辺り一体が焦土になっていると確信できるほどの浴びせかけようだ。なので、香奈は、軽く若へ向って手を振ってから「学校案内してるの」と言った。 そして、その言葉を聞いた跡部は、小さく溜息をつき、緩く首を振った。そしてきびすを返すと若の肩をぽんと叩き「まぁ、頑張れよ」と面白がっているような、投げ出しているような曖昧な言葉をかけた。 しかして。 「おや、跡部君じゃないですか。関東大会の と敵意たっぷりの笑みで観月は言う。香奈は愛想笑いと古式微笑と優しげな微笑以外に、こんな笑みもできる人なのかと、妙に観月に感心した。 跡部は面倒臭さを隠しもせず観月に視線を向け「ああ、この俺と試合えたことを神に感謝しろよ」と尊大に言ってから、観月が聖ルドルフ学院の生徒であることを揶揄したのか、左手はズボンのポケットに突っ込んだまま、カトリック信者のように、額に右手を置き、そして胸、左肩、右肩と慣れた仕草で十字のしるしをした。それから跡部は溜息を吐いて頭をガシガシと乱暴に掻いた。 (あれ、カツラって噂だけど大丈夫なのかな……) いらぬ心配をした香奈である。 「っつーか、なんでてめぇがいるんだよ」 質問ではなく即行で詰問。なんとなく、香奈は跡部と若がほんの少し似ているような気がしてきた。ただし、やはり元々育った環境が違う所為か年齢が違う所為か、跡部の態度は堂々と感じられるのに、若の態度は不遜に感じられる。と、考えたところで、若の方が 一人で勝手に納得している香奈をよそに、観月は香奈の肩にぽんと手を乗せると「彼女に学校案内をしてもらっているんですよ。許可も貰っています」と許可証――と、言ってもただ書類に捺印しただけのプリントだ――をひらりと見せる観月。 部外者に対して厳しい氷帝も、香奈というジョイントがあった上、正式に丁寧な手続きをしたので比較的簡単に入校できた観月のことを、若も跡部もすぐに理解した。あの許可証さえなければ、不審者として警備員を呼び簡単に出て行けと言えたのだが。 そうなると、疑問は一つだ。 観月に、肩に手を置かれて剣呑になった若の視線に慌てつつも、振り払っては観月に悪いかとパニックになりかけている香奈と観月の関係である。香奈は「あの、ちょっと恥ずかしいんで……」と言って、わたわた肩を落とし、観月の手からするりと逃げた。 観月に悪意がないことは香奈にはわかっていたが、どうにも跡部たちの自分に対する視線が痛すぎる。どうやら、一応、観月と跡部は知り合いであるらしいということは、香奈には理解できたが――グレープフルーツのゼリーが食べたいな、と香奈は唐突に現実逃避した。 「で、観月さんは香奈とどういう知り合いなんですか?」 口火を切ったのは若。香奈はその口調に、若の苛立ちが自分が想像したものより大きいことに不安になり、観月に対しての質問であったのに慌てて勝手に答えてしまう。 「観月さんは、私の昔通ってた教会にいらっしゃった方で、えっと、昨日、古本屋で会って、それで……」 しかし、説明はあまりにもお粗末だった。ただ、香奈は若に誤解されたくない――そして怒られたくない――思いで拙くも経緯を説明した。説明が終わった瞬間、若は跡部の隣から香奈の側までスタスタと歩き、まず、叱った。 「物につられるな。貢がれるな。知らない人から物を貰うなって教わらなかったのか」 「ごめんなさい……」 香奈は、叱られた犬のようにしょぼーんとして、それを見た跡部が呆れたため息をつき、観月は二人のその様子に「おや」と意味深げに片眉を上げて指先で緩いウェーブを描く自身の髪を弄ぶ。しかし、観月は自分が熱心に言ったから香奈が折れたのだということは言わずにいた。 幼児の躾のようだけれど、若は観月と香奈の関係を確認して、多少不機嫌さが減った。それから、観月に向き直った若が問いただす。 「それで? 今日は偵察ですか?」 軽く顎を上げた若の態度に、香奈は、とても偉そうだなぁ……と感心してしまう。 「んふっ偵察だなんてとんでもない。天下の氷帝の施設を見学させていただこうと思っただけですよ」観月は妖艶に微笑み――それから、柳眉を寄せて笑った。「けれど、まさかテニスコートがパープルとモーヴにホワイトラインだとは思いませんでした……」色彩感覚とデザインセンスについて観月に言われてしまったということが、どういう意味を持つのか、その場で理解できるものはいなかった。 ただ、その言葉に、若は少しばかり視線を地面に落とした。若も思うところがあるのだろう。跡部はそれの何が気に食わないんだといった堂々たる仕草で腕を組んだ。 「あ、あの、でも、すみれ色って昔だと高貴な色ですし、今だとセクシーでいいですよね!」 香奈のフォローに跡部が噴き、観月は困った笑顔を浮かべ、若が思わず芸人のようにその頭をはたいた。テニスコートがセクシーだろうとなんだろうと関係が無いのである。というか、そもそもコートをフォローしてどうしようと言うのか、その思考が若には理解不能だった。 「それで、まさか、天下の氷帝学園が、ただの一見学者に目くじらを立てることもないでしょう?」 香奈の胃が痛んだ。この言い方は、あきらかに喧嘩を売っている。香奈に対してはとても穏やかに対応する観月なので、その温度差に香奈は少し驚いた。 そして、跡部はそれを「ハッ」と鼻で笑って受流すタイプだが、若は「当然でしょう」真っ向から売られた喧嘩を買うタイプだ。 やっぱり、この二人は似ていないかもしれない……と、香奈は肋骨の上辺りに手のひらを置きながら、そんなことを思った。 そして、観月と若はお互い制服のまま打ち合うことになってしまったのは、香奈の誤算どころか、香奈の失態だったが、一番問題があるのは喧嘩を売った本人と買った本人だ。二人の荷物とブレザーを預かった香奈は不安げに成り行きを見守っている。 「サーブは差し上げますよ」 若はやはり不遜な態度でボールをアンダースローでゆるく観月に投げ渡した。観月はそれを受け取ると「氷帝の 鳳だけが、観客席に座ってしょんぼりしている香奈を心配そうに見上げる。跡部が香奈の隣に座っているのも、香奈の心労に一役買っているのだろう。 ただ、跡部は女扱いに慣れていたので、近くにいた見学者の女子を普通にパシリに使い、ホットココアとブラックコーヒーを買ってこさせると、ココアを香奈の手のひらに半ば無理矢理押し込んだ。 そして、パシられた女子生徒と、その友人らに「ありがとよ」と極上の笑顔をくれてやり飲み物を受け取る際に、わざと指が触れるように取ってやったので、女子生徒と友人らはそれに興奮してそれ以上は香奈や跡部に何かアクションを起こすことはなかった。 「飲めよ」 命令である。香奈は、このあたりが跡部と若は似ていると思い、わずかに笑いそうになる。 「はい、ありがとうございます。あの……」 「金を、とか言いやがるつもりなら、覚悟できてんだろうな? アーン」 おずおずと言葉を発した香奈に、そちらを見ることもせずに足を組んだ跡部は少々行儀悪く組んだ足の膝に肘を乗せ、軽い前傾姿勢でその先の手のひらに形の良い顎を乗せた。そんな姿さえ魅惑的な跡部は、とても綺麗なひとだと香奈はどこか感心してしまった。 さて、何を覚悟すべきなのか香奈はよくわからなかったが、跡部がこう言うのなら支払うと強く言っては失礼になるだろうと思い、手のひらの中のココアを強く握り――その熱さに、慌てて、缶を手中で転がす。 氷帝新部長――つい先日まで鳳と若とで、榊も跡部も迷っていたのだが、とうとう決定したようだった。公式戦で二度負けている若への風当たりは強いようだった。鳳は温和すぎ、若は厳しすぎるが、君臨という意味では鳳よりも若だと判断されたという噂がある――と本格的に試合をさせるわけにもいかないため、制服で、しかも一球だけの勝負だったが――榊に見つかってはいけない、ということもある――跡部は、情報収集と部内かく乱が目的だろう観月が、若と真剣に試合をするとは思えなかった。しかし、それなりのデータを集めるために、それでも観月は手を抜きはしないだろう。ただ、本気を出さないと言うだけで。 対戦した感想だが、観月は少々データにこだわりすぎているというのが跡部の評価だ。一六六センチという体格的に不利な観月が勝つには、宍戸のカウンターなり、越前の才能と環境なり、向日の先天的身軽さなり、芥川の神に愛された手首なり、何か突出したものが必要だったのだろう。 それが観月にはデータであっただけだ。己の武器を磨きそれを扱うのは良いが、武器にもレベルがあり、相手のレベルによってはその武器が通じない。酷いたとえにすると、バラモスにひのきのぼうで立ち向かうようなものだ。いくら、ひのきのぼうを鍛えてもルビスのけんには劣る。データはひのきのぼうではないのだから磨きに磨けば立海の三強に匹敵できるかもしれないが、体格の違いはいかんともしがたい。 香奈は、ただはらはらと二人の様子を心配そうに眺めていた。若は、負けず嫌いであり、戦術的敗退すらも好まない。もちろん、大局的に見て、ここで負けなければ勝てない、という状況なら負けることに厭いはないだろうが、負ければ少し勝ちやすくなるという程度であれば、勝ったほうが良いと思うのが若だ。その点、彼はとても子供であると香奈は若を微笑ましく見ているが、場合によっては怖い。 若は、観月のサーブを、彼の返球しやすい場所に返した。 観月は、もちろんそれを簡単に、そしてオープンスペースを狙って返す。 しかし、返球と同時に観月の球筋を予測した若の――予測できるよう打ちやすい場所に打ったのだが――下から掬い上げるようなフォアアングルショット。それだけで、部員が「あの角度はねぇよ……」とか「すげー」と声を上げ、香奈は何だか誇らしいような温かい気分になる。若の努力は実っているのだと思うと、香奈は嬉しくて仕方がない。 舌打ちと共に、さきほどの返球と同時にネット際についた観月が手を伸ばし、辛くも返球した。これにもまた「普通返せないだろ」と言うような声が上がった。観月の返球は勢いがなく、やはり若のコートのネット際に落ちる。 前に出た若が腰を落として球を弾くように返すが、それもやはりギリギリに見えた。 観月は体勢をなんとか整えてそれを返したが、まだ球威がない。それは若にしても同じことだったが、彼は乱暴に、アウトしてもまあいい、物は試しだとでも言うように、バランスを崩した体勢を戻す過程で返球されてしまったボールをぶったたいた。と表現するしかないようなフォーム。 これを、観月は下がって返球しようと腕を伸ばしたものの、途中で諦めた。 そして、二人は握手し、観月は上機嫌に、若は不機嫌にその場を離れた。跡部が「やっぱりな」と軽く笑い、ブラックコーヒーをあおって一気に飲み下す。香奈には何がやっぱりなのかさっぱり理解できなかったが。 その、隣の香奈は、跡部の行動に熱くないのだろうかと不思議がって彼を見たが、跡部はそんな香奈は気にも留めず立ち上がる。 そして、思い出したように香奈を振り返った跡部は「日吉に、最初のアングルショットはかなり良かったって言っとけ。最後は激ダサかったけどな」と宍戸の口調を真似て伝えた。香奈がそれにうなずいたのを見止めると、今度はそのままテニスコートを後にした。 |